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16.ネコと勇者

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 ふとした拍子に、まるで今までのことが夢だったような錯覚に陥ることがある。
 目の前に広がる光景が、慣れ親しんだありふれたものだった時。
 ここに至るまでの全てが夢の中の出来事で、自分自身はあの時のままなのではないかと。岐路となった時点から実際は一歩たりとも進んでいないのではないか。何もかも良くも悪くもあのときのまま、何も変わっていないのではないか。
 そんな錯覚に束の間陥って、視線を落として気付く。
 視界に飛び込む艶やかな白い毛並み。人間のものではないそれが、確実に自分自身である現実。

「……何だか、へこむ」

 ぽつりと呟いて、その響きに「今」が夢などではないことを思い知る。
 諦めにも似た感情を胸に抱いて、スノウは往来を見遣った。
 綺麗な石を敷き詰めた石畳。中央には石造りの水溜めがあり、水が張られたその中では少女の彫像がネコと戯れていた。勿論、ネコも彫像である。
 街のオブジェとしても十分美しいが、守護としての意味も込められている。
 魔物はネコを嫌う。つくりものとはいえ、苦手なものに躊躇するのは魔物も人も同じだ。例えほんの一瞬だとしても。
 水溜めの周囲では小さい子供がはしゃいで走り回っている。それを諌める母親と思しき娘。行き交う人々は微笑んでその光景を見守る。物売りの声に、誰かを探す声。慌ただしく歩く若い男、店を覗く老女、声高に話す若い女に、水溜めの縁に腰掛ける老人。
 そこにあるのは、日常を懸命に生きる人々の営みであった。穏やかで平和な、ごくありふれた風景。
 スノウは何度目かになるため息をつく。
 こうして眺めていると、自分が何をしているのかわからなくなりそうだった。あれほど焦がれた人間の街。そこに、実際に足をつけているのに。
 自分は一体何をしているんだろう。

「とにかく宿か酒場を探さなきゃ……」

 泣きたい、とごちて、スノウは足を踏み出した。




 ヴァスーラ来訪の一件以来、スノウは居心地の悪さを感じていた。
 特に待遇が変わった訳ではない。相変わらず、虜囚なのか愛玩動物なのかわからない奇妙な立場は続いているし、魔物たちの態度も常と変わらない。
 けれど、ふとした拍子に見えない壁のようなものを感じて、一線を引かれていることを思い知らされる。
 元々そんなに親しい間柄でもない。一線どころか、考え方も何もかも遠いところにある相手だということは分かっている。分かりあうことなど無理だと、散々周囲から聞かされてきたのだ。だから「仲良く」なることなどないとスノウ自身よくわかっているつもりなのだが。
 穏やかな表情から垣間見える硬質な空気。はっきりと敵意を示された方がどれだけ楽だろう、とスノウは思うのだ。
 そんな状況にすっかり疲弊したスノウは、彼らの前ではなるべく目を合わせない手段をとっていた。
 つまるところ、狸寝入りである。
 この日も、食事を用意してくれたアイシャに申し訳ないと思いつつ、熟睡のフリを続けた。
 アイシャから疑いの眼差しを向けられるのも嫌だったし、下手な言動で穿った見方をされるのも嫌だった。それに、アイシャを前にしたらその表情の裏を探してしまうだろう。
 そんな自分が分かるから、尚更顔をあわせたくなかったのだ。
 何度かスノウを呼んでいたアイシャだったが、反応がないことに諦めたらしい。しょうがないなといいたげなため息が聞こえて、アイシャが部屋を出て行く気配がする。
 扉が完全に締まったのを確認して、スノウはのそりと身を起こした。
 スノウが寝そべる窓辺は、今日も麗らかな午後の日差しが心地よい。窓越しに外の風景を一瞥して、床へと視線を移動させる。
 室内のいつもの場所に、見慣れた椀が置いてある。中身は煮干のようだ。
 食事でもするか、とネコらしくのびをしたところで、視線を感じた。
 不思議に思って振り向いて、心臓が口から飛び出さんばかりに驚く。
 いつの間に現れたのか、壁に背を預けた姿勢のエルがいた。

「ふうん、狸寝入りか」

 口元に意地の悪い笑みを浮かべ、硬直したスノウを楽しげに眺めている。
 スノウは意味もなく口を開閉させた。あまりの驚きにどう反応していいかわからない。
 まさしく突然、としか言い様のない登場である。つい先ほどまではアイシャの気配しかしなかったのだ。鈍いと言われれば返す言葉もないが、それにしてもアイシャの無反応は不自然だ。エルが室内にいれば、無言で立ち去るなど部下としてあり得ない行動である。

「ち……違うよ、今、締まる音で目がさめて。あれ? 今日はエルがご飯用意してくれたの?」

 スノウは首を振りながら必死に頭と口を回転させる。食事を用意したのはアイシャだと知っていたが、敢えて知らぬフリをする。

「良い時に目が覚めたみたいだね、ああお腹すいた」
「そうか? 俺の目にはアイシャが出て行くのを待ってたように見えたけどな?」
「そんなことない。気のせい、エルの勘違い」

 エルに図星を指されて、スノウはぷるぷると首を振る。動揺のあまり微妙にカタコトになってしまっていたが、気を回す余裕はない。必死で否定を繰り返す。
 その混乱振りをエルは面白そうに眺めて、にやりと笑う。

「で、何故あいつらを避けてるんだ?」
「さ、」
「避けてないとは言わせねえぞ。ここ最近目を合わせないようにしてたな? しかもここにアイシャとスイが来ている時は、決まって散歩に出てるだろ」

 スノウの反論を封じて突きつけられた言葉に、思わず息を詰める。
 事実、彼らがエルの部屋に集まる時はなるべく席を外すようにしていた。勿論気遣いなどではなく、逃亡だ。そうでなくても居心地が良くないのに、こんな状況下では更に身の置き所がない。
  スノウとしてはさりげなさを装っていたつもりだったのだが、この様子ではバレバレだったようである。

「ええと……そ、そうだった?」

 この期に及んで、白を切ってみる。

「ああ。理由を言え。まさか今更勇者としての矜持がどうとかいう訳じゃあるまい?」

 エルが笑みを深くする。真紅の双眸が穏やかに狭められ、その表情だけみれば爽やかな好青年だ。しかし、向けられたスノウにとっては心臓に悪いことこの上ない。

「そうじゃないけど……ただ、その、ちょっとばつが悪くて。ほら、色々迷惑かけたし」

 まさか魔物エルに「居心地が悪い」と主張するわけにもいかない。主張したところでどうしようもないだろう。
  そう思い、スノウは適当にはぐらかした。ばつが悪いのも事実だし、全くの嘘ではない。本心の全てでないだけで。

「……そうか」

 エルは納得した素振りを見せたが、その双眸は探るような色を漂わせている。あの程度の説明ではエルを納得させることは難しいようだ。

「うん……ええと、あ、そうだ。そろそろ散歩行くから」

 エルの視線から逃れたい一心で、スノウは窓辺から床に飛び降りた。
 散歩はスノウの日課のひとつになっていた。始めは気が向いた時にしていたのだが、スイやアイシャが部屋に来るたびに散歩の名目で逃避している内に、完全に習慣化してしまっていた。今では散歩に出ないと何やら大切なことを忘れている気になる。

「散歩? 空腹なんじゃないのか」

 すかさずエルが声を掛ける。視線で示す先には煮干の入った椀。

「なんか、そんなに空いてない気がして。帰ってきてから食べるよ」

 苦しい弁解だと自覚しながら、スノウは急ぎ足で戸口に向かった。
  エルに捕獲されてしまう前に逃亡しなければならない。今追及されて、白を切りとおせる自信がなかった。

「待て」

 そこにエルの待ったがかかった。
 ぐ、とスノウは息を詰める。できることなら聞こえなかったふりで脱兎のごとく走り出したい。けれど、そんなことができる性格ではないことはよくわかっている。
  そっとため息をついて、諦めのスイッチを入れた。

「何?」
「俺も行く」
「……へ?」

 予想していたものとはかけ離れたエルの発言に、思わず間抜けな声が出る。

「行くって……散歩に出るだけなんだけど」

 勿論城内、しかもこの階層に限られている。このあたりをぐるりと回って終わりだ。ネコの身にはそこそこの散歩になるが、人間、ましてや魔物にとっては運動にも入らないような規模である。

「ああ、たまにはいいだろう。暫くそこで待ってろ、準備するから」

 エルはそう言い捨てて、足早に部屋を出て行った。
 そんなエルを半ば呆然と見送り、スノウは首を傾げる。
 意味がわからない。
 散歩、それも城内をうろつくだけの行動にどんな準備がいるというのか。長らしく豪華で華美な外套コートでも羽織って、視察よろしく歩き回るつもりだろうか。
 想像してあり得ないと首を振る。あのエルが、そんな派手な装飾を好むとは思えなかった。
 釈然としないまま、それでも大人しくスノウは扉の傍に座り込んでいた。
 やがていくらも経たない内に、扉の向こうから足音が近づいて来る。少し急ぎ足だが、エルにしては靴音が――

「よし、行くぞ!」

 勢い良く言って扉を開けたのは、見覚えのある、けれども見たことのない姿だった。


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