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12.白いネコ

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 放物線を描く、白い体。
 人においては「神聖」と、魔物においては「不吉」とされる、白ネコ。
 ネコならば何でも構わないと魔法をかけた。
 どうせいつかは処分する人間てき。しかも、行く手を阻む勇者とあれば一刻も早く殺してしまうに越したことはない。それはわかっていたが、少しだけ興味が湧いた。
 どうせならネコの姿に。
 そう思って変えただけの、偽物のネコ。
 生かしておく必要などどこにもない。何かの作用で死ぬならそれもいいと。処分する手間が省けると、そう思っていた。

 けれど、咄嗟に体が動いた。

「っ、ゆ……っ、スノウ!」

 反転して、手を伸ばす。
 水盤までの距離は2歩分ほど。
 間に合わないと感じるより先に、背筋が冷えた。
 エルの手が空を切る。
 白い小さな体は、あと数十センチのところで水盤の中に落ちていった。
 高く上がった水しぶきが、エルの髪と服を濡らす。
 慌てて水盤を覗き込むと白い体がどんどん沈んでいく所だった。
 水鏡の奥は城の深部、地底湖と繋がっている。特殊な魔法で管理された水は、自力では浮き上がれない。
 助けなければ、と水盤の縁に手をかけて、はっと動きを止める。

「どうした、エル。何を慌てているんだ?」

 水妖なのだろう、とヴァスーラが笑う。
 落ちていくスノウの姿を見詰めながら、エルはぎり、と歯噛みした。
 水妖。
 言葉の通り、水に属する比較的下等な魔物だ。精神生命体のような存在で、実体を形成できないほどに力が弱い。個体差はあれど、大抵の水妖は水から長く離れることができないとされる。
 だからある意味、ヴァスーラの行動は間違いではない。
 水妖は「水中」を好むのだから。

「――私に、断りもなくとは、あんまりでしょう」

 そう反発するのがエルの精一杯だった。
 水妖と明言した以上、助け出すわけにはいかない。それではスノウの正体に詮索の余地を与えてしまう。付けいる材料を与えてしまう。
 それだけは、避けなければならない。
 水鏡に映り込む己の顔を見つめ、エルは細く息を継ぐ。
 真紅の双眸にはっきりと浮かぶ怒りの色。表情は抑えきれぬ感情に歪み、到底愛想など振りまけそうになかった。
 まだヴァスーラを振り向くわけにはいかない、と自身に言い聞かせる。

「ああ……そうか、悪かったよ。お前の玩具ペットだったね」
「いえ、いいのです、過ぎたことは。それより兄様、火急の用がおありだったのでは」

 問答をしている時間はない。
 早く去って貰わねば、とエルは尋ねる。胸の内の焦燥と苛立ちが声に滲まぬよう、そっと唇に乗せる。

「いいや? 急用ではないよ。言ったろう、早くお前に会いたかっただけさ。何せ数十年ぶりの再会だからね」

 ヴァスーラは機嫌よく言う。

「そうですね、本当に」

 どうやら成功、とエルは静かに深呼吸をする。
 水盤に映った表情は、幾分落ち着いたように見えた。
 青い水の奥に小さくなっていく白い体を努めて見ないようにして、エルはヴァスーラを振り向く。

「私も兄様とお会いできるのを楽しみにしていました。立ち話も何ですし、別室へ行きましょう」

 白々と言って、エルは笑みを浮かべた。それこそ無邪気な「弟」らしく。
 それに、アイシャが目を丸くしているのがエルの視界に入る。
 ヴァスーラは気を良くしたようで、同じくにこやかに笑って、

「ああ、お前はやはり母親似だな。美しい方だったが……お前が女だったら私も放っておかないのに」

 伸びてきた長い指が、エルの髪をひと房掬った。
 アイシャが「変態め」と毒づくのがエルの耳にもはっきりと聞き取れた。すぐさま隣のスイから鋭い肘鉄を食らっているのが視界の端に映る。
 これだけはっきり言われていても、ヴァスーラは涼しい顔だ。
 聞こえていないはずはないだろうが、気にならないらしい。むしろ彼の背後で控えた従者の方が剣呑な空気を放っている。

「それは光栄です。スイ、ここの"後"を頼む」

 ヴァスーラの台詞を軽く流して、エルはスイに視線を送る。
 両者の視線が束の間絡みあって、僅かな沈黙の後スイが首肯した。

「心得ました」

 上手く伝わったことに安堵しつつ、エルはヴァスーラに歩み寄る。
 とにかくヴァスーラには早急にここを去って貰わねばならない。
 そして一刻も早くスノウを水から出さねば。

「行きましょう」

 息が持つだろうか、と内心焦りながらも、ヴァスーラを促して部屋を出ようとする。
 だが、肝心のヴァスーラがなかなか動こうとしない。
 エルの焦りを見透かすように、或いは、エルの動揺を誘うように。

「ところで、あのネコはスノウといったか?」
「え?」
「白ネコに雪の姫君の名前とは、随分と愛らしい。お前の考えそうな名だな」

 思ってもいなかった指摘に、エルは面食らう。
   雪の姫君。それは、人々の間で有名な物語の主人公だ。雪の精霊と人間の恋物語で、どこかの国の民話が元になっていると言われている。その雪の精霊の名前が、スノウ。
 知識としてそれは知っていたが、そもそもエルが付けた名ではないし、考えたこともなかった。
 勇者として乗り込んできた青年。その名前にいちいち興味など湧かない。しかもそんな愛らしい――人間の文化は知らないが、男子に付けるにはいささか不似合いともとれる名などとは。

「どうした? お前がつけたのではないのか?」

 に、と笑ってヴァスーラが問いかける。

「いえ、私が。……ただ、貴方がそんな話をされるとは、意外で」

 言い繕いながら、エルは気が気でない。
 胸の内を探るようなヴァスーラとの会話は骨が折れるし、スノウの様子も気になる。
 そろそろ時間的に危ない。息は保つだろうか。


 そのとき、不意にエルの肌が粟立った。
 恐怖故でも寒さでもない。
「何か」の存在を感じた。
 無意識に水盤を振り返る。
 エルの反応にヴァスーラが眉を顰め、次いで双眸を鋭く眇めた。
 彼らより一瞬遅れて、スイとアイシャが動いた。

「エル様」

 アイシャが咄嗟に主を庇おうと前に出る。
 水盤がぼこぼこと泡を吹き出した。
 逆流する水。水面から球体となった水が幾つも空中に飛び出す。
 そして、ひときわ大きな球体が水面から顔を出し、
 空中でぱちんと弾けた。

 現れたのは白い体。
 雪のように白い体には一滴の水もついてはいない。
 水盤に落ちる前と変わらないふわふわの毛並みのまま、目を閉じて水の球体とともに空中に浮いている。
 半ば呆然と見詰める魔物たちの中で、白いネコはゆっくりと身じろぎし、
 目を開けた。

 深い青に彩られた双眸がエルを射抜く。
 何の感情も浮かんでいない青玉サファイア
 ネコのものとも人のものとも思えない、その深い色。
 よく見ていた筈のその色が、見知らぬものに思えて。

「水妖か……なるほど」

 呪縛を解いたのは、ヴァスーラの低い呟きだった。
 我に返って、エルはヴァスーラを振り向く。

「使い魔にしては少々弱いが、まぁ悪くはないね。水の属性ならばお前に似合いだろうし」

 一体何の話、とエルが見つめていると、ヴァスーラは意地悪く笑う。

「悪く思わないでくれよ、エル。投げる時ヘネスに少し細工をさせた」
「細工?」
「首輪の鈴」

 すっとエルの表情が強張った。

「お前がご丁寧にも鈴にまで魔法をかけていたから少し気になってな。魔法の干渉を遮らせてもらったのさ。もちろんほんの一部だけだ」
「それでは、」
「ああ、そう怖い顔をしないでくれ。水妖の力を見てみたかっただけで、お前のものをどうこうしようなんて気はない。ふふ、悪い癖でね、新顔とみると腕試ししてみたくなるのさ」

 その言葉の真偽はさておき、彼がしたことは「魔法の遮断」だけであろうことは間違いないように思えた。スノウから感じられるエルの魔力はだいぶ目減りしている。
 けれど、それに混ざるようにしてエル以外の魔力を感じるのだ。
 スイやアイシャとは違う、ましてヴァスーラのものでもない、別の魔力。
 微弱なそれは、魔法を発動した確かな証でもある。

「実戦においてはあまり使えそうではないがな」

 幾分つまらなさそうに言って、ヴァスーラは従者に合図を送る。

「さて、案内して貰えるかな」

 空中に浮いたままのスノウを凝視していたアイシャに、ヴァスーラが声をかける。
 アイシャは慌てて居住まいをただし、頭を下げた。

「はい、こちらへ…」

 アイシャの案内に従って、ヴァスーラが背を向ける。それに従者とヘネスが従い、部屋から出て行った。その姿が廊下へと消えたあと、立ち尽くしているエルにスイがそっと近寄る。

「後は私が」

 スイの言葉に、エルは緩く瞬く。

「ああ、頼む」

 言って、エルは踵を返し、後ろも見ずにヴァスーラの後を追った。
 あれは何だ。
 微弱ではあるが魔法としか思えない、あの現象。
 魔法が使えないと言っていたスノウ。
 混乱する脳裏に、一対の青がちらつく。
 よく考えろ、とエルの本能が訴える。だが、今それを考える時間はない。
 これからが本番なのだ。他のことに心囚われている場合ではない。
 己にきつく言い聞かせ、エルは部屋を後にする。
 今は、この厄介な「兄」をどうにかしなければならない、と肝に銘じて。

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