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1巻

1-3

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 ミルは言葉が出なかった。目は涙でいっぱいになる。

「お父さんには内緒ね。気を遣わせちゃうから」

 パン屋のおばさんは人差し指を口に持っていき、ウィンクをした。

「見つからないように持って帰るのよ!」

 そう言っておばさんはミルのヨレヨレのシャツをめくり、ワンピースをお腹に隠すように言った。

「あ、ありがとうございます。大事に着ます!」

 本当はもっとお礼を言いたかったが、その言葉しか出なかった。
 そのほかにも下町で情報収集をしていると、仕立て屋の女主人が、「もうこれ、汚れが落ちなくて売れないのよ」と言ってブラウスやスカートを、飯屋の女将おかみさんが「これもう捨てるのよ、いる?」とブーツとカバンを譲ってくれた。なぜ、こんなに親切にしてくれるのかミルにはわからなかった。
 着なくなっても、古着屋に売ればそれなりの値になるはずだ。なぜミルに譲ってくれるのか。たぶん、彼女たちはずっとミルのことを助けたかったに違いない。ずっと働いてばかりでワンピース一着も持っていない、学校にも行かせてもらえない、なんの祭りにも参加していない。さすがにおかしいと下町の人たちも思っていたようだ。ミルはこの街から父から逃れたくてしょうがなかったが、街の人はこんなにもいい人ばかり。なぜジョセフだけああなのか。
 ミルはみんなに涙ながらに感謝する。大人になったら帰ってこよう。子供とか連れて、あのときはありがとうと言いたい。忘れないように頭の中でメモをしよう。


 ワンピースはちょうどいい大きさだった。パン屋のおばさんの身長は、ミルと同じくらいだった。ミルはすでに百六十センチくらいの身長があるようだ。ジョセフも背が高いから、きっとまだまだ伸びるだろう。
 モスグリーンのワンピースに、もらったブラウンのショートブーツを履く。そういう恰好をすると、ミルはれっきとした女の子だった。ミルは髪を短くしていたが無理やり後ろで束ねて紐で結んだ。髪を結ぶとクリクリの天然パーマのミルの髪は毛先が丸まり、お団子を作っているように見える。そうすることで少し大人っぽく見えた。
 ミルはもらった肩かけカバンを持ち、イージュレンの商人ギルドに向かう。ユロランもそうだが、商人ギルドは下町と繁華街のそれぞれにある。質のいいワンピースを普段着にしているから、ギルド職員から見れば、ちょっとお金持ちに見えるかもしれない。ミルは繁華街の方がいいかなと思った。
 ユロランで情報収集しているときに、スズカという言葉が何度も出てきた。どうやら戸籍プレートはスズカというらしい。なんでスズカというのか、恐る恐る聞いてみた。なんでそんな常識を知らないのか、とののしられるかもと怖かったが、普通に答えが返ってきた。なんでも大昔に「すずか」という女性が考案したのだとか。日本人っぽい名前だが、今ではスズカと言えばそのプレートのことなのだ。
 ミルは繁華街を歩く。着なれないマキシ丈ワンピースは歩きにくい。石畳の道の両側には、大きくてきれいな建物が並んでいる。ユロランでは下町と市場しか行ったことがなかったミルにとって、繁華街自体が初だ。商人ギルドは大通りを抜けたところにあった。きれいな建物で門番のような人もいる。商人ギルドの重厚で美しい扉を開けて中に入る。中の天井は高く、きれいな白い床を紳士淑女がお上品に歩いていた。
 ――下町のギルドに行けばよかったかな……。パン屋のおばちゃんには悪いけど、このワンピースでもちょっと場違い。
 そんなことを思っていたら、執事のような人から声をかけられた。

「お嬢様、本日はどのようなご用件で?」

 ひっと声が漏れそうになるのをこらえた。

「えっあの……スズカの再発行を……」

 再発行を頼むか正直に作っていないことを言うか迷っていたのに、急に話しかけられとっさに再発行と言ってしまった。

「そうですか。では、こちらにどうぞ」

 白いシャツに黒のパンツスタイル、髪を清潔にセットしている上品そうなおじさんにうながされ受付に向かう。他の受付の人がいなかったため、そのままそのおじさんが担当してくれることになった。

「スズカをなくされたのですか?」
「……はい」

 おどおどと返事をしてしまう。

「どういった経緯でなくされたかわかりますか? 家ですか? 外ですか?」
「外です。実は森に行って薬草を摘んでいたら、ちょっと結界から外れてしまい、魔獣に出くわしてしまったのです。たぶん、そのときに落としたのかも……」
「森に⁉ 若い女性がいけませんね」
幼馴染おさななじみも一緒です。一人ではなかったのですが、びっくりして慌ててしまって」

 ミルはあらかじめ考えていた設定を言う。

「そうですか。わかりました。再発行の手続きをしますので、こちらを記入してください」

 一枚の銀色のプレートを渡され、そこに名前、出身、生年月日を記入するように言われた。
 ――どうしよう、考えなしだったかな……。名前、出身……

「どうかされましたか?」
「いえ……」

 ミルはつづりが間違っていないように祈りながら渡されたペンでプレートに書き込む。銀のプレートを返すと、男性がそれを魔術具にはめる。

「では、こちらの魔術具に指をのせてください」

 ミルは人差し指を置く。しばらくすると、銀のプレートが光り出した。プレートが、名刺サイズから一センチ×三センチくらいの大きさに変わっていく。ルーイが持っていたものと同じものだ。

「はい、これが再発行されたスズカです。もうなくさないように」
「はい。ありがとうございます」

 スズカには小さな穴があいている。ここに紐を通すのだろう。
 ミルは自分のスズカができたことを喜び、カバンの中をゴソゴソしながら聞いた。

「あの、おいくらになりますか?」
「いえ、代金はけっこうですよ」
「えっ? 再発行にはお金がかかると聞いたのですが……」
「ああ。何度もなくさないように、親は子供にそう言うのでしょうね。基本無料です。まぁ何度も繰り返しなくすと罰金を科されます。でも初めての再発行のようですし、大丈夫ですよ」

 そうやさしく説明をしてくれた。

「そうなのですか。でも初めての再発行ってどうしてわかるのですか?」
「魔力が一人一人違うのはご存じでしょう? さきほどの魔術具であなたの魔力がそのスズカに登録されました。そして、今登録した魔力は、これまで登録されたことのないものでした。元々スズカは満五歳のときに教会で作られますが、教会では魔力の登録はしませんからね。こうして再発行などのときに初めて登録することになります。ちなみに、魔力を登録したスズカは、その魔力の持ち主しか使えません。誰か別の人がそのスズカを使おうとすると、登録された魔力と反発して溶けてなくなります。魔力の登録は名無しなのですが、同じ人が来ればわかります。同じ魔力の人はいませんからね。ということです」
「な、なるほど、知りませんでした。すごいですね」

 ――本当にすごい。魔力だけで個人の識別ができるんだ。なんかDNA的な感じかな、魔力って。

「あまりこんなことまで説明しませんからね。知らなくて当然ですよ」

 紳士はにっこりと笑う。
 ――でも、それだったらなくしたと言って、名前や出身地を変えて何個も作る人が出てきそうな気がするけど、それはいいのかな。

「ちなみに、名前や出身地を変えて色々なところで再発行することはできませんよ。魔力は一緒ですから、名前が違えばスズカが拒否します。二個までなら発行は可能でしょうけど、街に入るときに見せたスズカと宿屋で出したスズカが違うと、不法侵入者になりますから。ふたつ持っていてもあまり意味がないかと思います」

 顔に出ていたのかと思うほどに的確な説明をされてしまった。

「申し訳ございません。さといご婦人のようでしたので余計なことまで申しました」

 またもや顔に出ていたようで詫びられてしまった。

「いえ! きちんと知れてよかったです。ありがとうございます」

 墓穴を掘る前に帰ろうと、お礼を言ってミルは腰を浮かした。

「あっ、教会にも行かれた方がいいですよ、この建物の前ですので。改めて精霊登録をしないと精霊なし扱いになります。精霊と卒業した学校名は商人ギルドでは登録できない仕組みになっていますので」
「あっ、なるほど、それで二個持っていてもダメなのですね」
「そうです。どちらかが精霊なしと学卒なしになりますからね」

 ふたつのスズカを持っていても精霊なしになると仕事が探せない。もちろん学卒も。

「名前の違うスズカに同じ精霊登録をしようものなら精霊が反発すると言われています。そして精霊が離れてしまうとも。さらに精霊は自身の力で人を攻撃することを拒みます。殺しや盗みなどをしたら、やはり精霊が離れていってしまうでしょう。精霊なしをバカにしても離れると聞いていますね」

 ――けっこう色々な誓約があるんだな。
 ミルはブンブン飛び回る精霊たちをそっと見る。

「精霊なしをバカにしても離れるのですか?」
「ええ、そうですよ。親に聞いてはいませんか? 最初に言われることですが」
「あぁ、聞き逃したのかもしれません」
「気をつけられるといいですよ。教会は真正面です。少しお布施ふせが必要かもしれません」
「わかりました。ありがとうございました」

 ――ふぅ、あぶない、あぶない。色々突っ込むと変に思われる。でもよかった、無事にスズカを作れた。それにしてもすごく緊張したよ。あとは精霊登録ね。学校は行ってないから関係ないな。さてと、どの子と契約するかな。
 ミルは、商人ギルドの前にある噴水広場のベンチに座っている。教会に行く前に精霊と契約をしなければならないが、ミルとの契約をめぐって、精霊たちが揉め出した。

『やっぱり、瞳と同じ色の私と契約するでしょう?』

 時ちゃんが自信満々に言う。

「えっ、時ちゃんはムリだよ。貴重だもん。契約したら目立っちゃう。契約は水・火・風の子たちになるよ」

 時ちゃんはガーンと効果音が聞こえてきそうな顔をしてミルの頭の上に落下した。
 言い方は悪いが、水・火・風の三種の属性は、石を投げれば当たるほどいるのだ。また、緑・土の属性の精霊と契約ができた人たちは、教会に登録しなければならない。緑や土が特に珍しい属性というわけではないが、国や地域に災害などがあったときになにかしらの協力を求められるらしい。そして協力する代わりに、お布施ふせは返される。しかし、時・闇・光などの属性は存在自体が珍しいため、契約するとものすごく目立つのは言うまでもない。

「じゃあ、水ちゃんにお願いしようかな」

 そう言うと、一番光の強い水の精霊が喜び、ミルの周りを飛び回った。

「いやいや違うよ。中くらいの子でお願い。大きな光の子と契約なんて目立つじゃない!」

 光の強い水の精霊がミルの頭の上に落下した。時の精霊と並んで不貞腐ふてくされている。
 中くらいの水の精霊たちはいそいそとミルの前に整列する。七体いる。光の大きな水の精霊たちはミルの頭の上を不満げに飛び回る。

「もうみんなごめん! 契約したからってなにも変わらないでしょ? もうその子にしかお願いをしちゃあいけないってことはないんでしょ?」
『『『でも~‼』』』

 精霊たちの不満は止まらない。
 それを無視して中くらいの水の精霊たちに向き直る。七体の水の精霊はそわそわしている。ミルはサッサと決め、人差し指で真ん中の子をさした。
 教会の大きな扉を開けると、一組の契約者がいた。平日は人が少ないようだ。建物内部は吹き抜けになっていて、中央には、精霊王ヒースの像がまつられていた。なかなかのイケメンである。
 その精霊王ヒースの像の下にバスケットボールほどの大きさの透明な石がある。その周りにはたくさんの精霊が飛んでいた。十歳くらいの子供が、その右に向かって手をかざしている。近くで両親と神父さんみたいな人が見守っていた。ミルが教会内に入ると、精霊たちが一斉にこっちに向き直りミルの方向に飛んでこようとしていた。
 ――あっダメ。こっちに来ないように言って! あの子が精霊なしになってしまう!
 小声で精霊たちに言う。ミルの精霊たちは子供の周りにいた精霊たちを説得してくれたようだ。精霊たちは石の周りに戻り、無事にその子供は精霊との契約が成立したようだ。
 ミルがほっとしていたら、別の神父さんから話しかけられた。

「今日はどうされましたか?」
「あっ、精霊の契約に来ました」
「精霊の契約ですか。二回目ですか?」

 神父さんはミルをサッと見たあとに笑顔で聞いてきた。

「いえ、一回目です。精霊の契約は二回もできるんですか?」
「一回目ですか? これは失礼しました。ええ、二回でも三回でもできますよ。契約ができるかはわかりませんが、大人になって魔力が増えるのは不思議なことではありませんから。魔力が増えたあとまた契約に訪れて、二体三体と契約する方は大勢いますよ。それよりおいくつですか? いえ、失礼でしたね。どうぞこちらに。少々お布施ふせが必要になります。大丈夫でしょうか?」
「はい……」

 神父さんは一人で勝手にしゃべって一人で完結している。
 いったい、何歳に見えるのだろう。もうすぐ十一歳とはいえまだ十歳なんだけど。
 お布施ふせは気持ちと言われているが、基本二百ベニー、二万円らしい。そこそこする。ミルは大銀貨二枚を払い、精霊石に手を掲げる。
 さっき噴水広場で指名した水の精霊が出てきて契約してくれた。精霊はにっこり笑って『ありがとう』と言っている。
 精霊石が一瞬大きく青く光った。契約が完了した合図だろうと思ってミルが神父さんに向き直ると、神父さんは目を見開いて驚いた顔をしている。ミルはなにか失敗したのかと思い、神父さんに駆け寄った。

「どうかしましたか?」
「いえ……いえ! あなたはずいぶんと大きな魔力をお持ちなのですね。びっくりしました。力の大きな水の精霊と契約されたようだ。年を重ねると力の強い精霊は寄ってこないと聞いています。現に二回目、三回目以降の契約は一回目より力が小さい精霊が付くのです。成人をずいぶん過ぎてからの一回目の契約であの光! ああ! もったいない。十歳のときに来ていればもっと大きな精霊に当たったかもしれません!」

 なんか、興奮しすぎて失礼なことを言っている。どうやら成人をずいぶん過ぎた女性だと思われているようだ。
 ――だから十歳ですぅ。ん? でも私が指名した子は確か中くらいの子だったはず。それでも力が強いの?

「力の大きな精霊だったのですか?」
「ええ、そうです。契約が終了したときに精霊石が光るのですが、その光で精霊の属性や大きさがわかるのです。あなたの光は、濃い青い色で大きく光りました。貴族並みです。でもあなたは平民でしょう? まぁ、たまにいるのですよ。平民でも力の大きな精霊が付く方が! 先祖返りといいまして、きっと遠いご先祖様はお貴族様だったのでしょうね。いや、うらやましい! あっ失礼しました。手続きをしましょう。スズカを出してもらえますか? 水の精霊、大と登録しましょう」

 ――この神父さんに悪気はないようだけど、なんか色々と失礼なことを言われている気がする。ま、いいけど。でもしまったな。中くらいの子にしたつもりが、平民では大なのか……ああ、やっちゃった? てへっ的な? でもこの神父さんの様子だとちょっとすごいくらいの感覚っぽいな。じゃあ気にすることないかな。
 ミルはスズカを取り出した。

「では、登録をいたしましょう。おや? 卒業した学校が記録されていませんね。再発行されたのですか?」
「はい、そうです」
「ああ、やっぱり。学校も教会でしか登録できないのですよ。そのためよく再発行の際に入れ忘れる人がいます。一応言っていただかないと登録はしませんので。よくあるのです。学校名はどこですか? この地域のご出身でしたらノートンでしょうかね? ちょっと下町の方でしたらキノクスでしょうか? ああ、学校名を忘れる人もよくいるのですよ。学校名を気にするのは貴族ぐらいですからね。で、どちらですか? もっと下町でしたか?」
「い、いえ、キノクスでした」
「わかりました。登録しておきますね」
「はい、ありがとうございます」

 ――よくしゃべる神父さんだな……どうしよう。
 ミルはとっさにうそをついてしまった。この国では二年の学校を出ていないなんてことは考えられないようだ。無料なうえ、昼ご飯付きだ。貧しい家庭の子供はこぞって行くだろう。行かせない親なんていないのだ。

「はい、登録完了しました」

 スズカを渡される。なんの問題もなかったようだ。

「ありがとうございます」

 ミルはスズカを受け取ると教会を出た。
 ――なんだろう。簡単に学卒になってしまった。これは制度の穴だろうな。精霊と契約をさせない親はいない、学校に来させない親はいないと思い込んでいる。でも実際には変な親もいるだろう。私だけではないと思うな。学校を出ていない子とか、もっといると思う。いつか公表できればいいな。その子たちの助けになりたい。でも今はムリ、ごめん。しかし、何歳に見えたのか……十歳に見えない? まぁ動きやすくていいけど……
 ミルの前世は所謂いわゆるおばさんで人生の幕を下ろしている。よって所作や仕草、立ち姿が大人の女性に見えたのだろう。たとえ顔が幼く子供に見えたとしても、背の高い男性などはミルのツヤツヤの肌などは見ていない。そしてミルは短い髪を無理やり束ねるという変な髪型をしている。総合的に子供に見えなかったようだ。
 しかし色々とあったが、ミルはスズカを手に入れた。
 ミルはこれからのことを考える。最終的には王都に行こうと思っている。ルーイがいる王都。ルーイは十一歳になり、一足先に王都に向かった。でもミルは未成年だし、今王都に行っても仕事はないだろう。まず、イージュレンを拠点にしてお金を貯める。そして成人してから王都に向かう。
 ミルはスズカを作ったその日に、イージュレンの冒険者ギルドに登録をしてこっそりと仕事をしてみた。もちろん恰好はワンピースではなく、いつものジョセフのスタイルだ。
 少しの薬草と十歳の子供が仕留められそうな弱い魔獣を持ち込み、冒険者ギルドで精算してみたのだ。魔獣は素材と肉を合わせて二十ベニー、薬草は三束で三十ベニーになった。薬草一束は十本だ。合わせて五十ベニー、五千円だ。一時間も働いていない。初仕事にしては上々なのではないか。
 お金を得られたことにほっとして帰ろうとしたとき、冒険者ギルドの職員に話しかけられた。

「君は冒険者になりたて? 見たところ成人して間もない感じだけど。住むところはあるの?」

 今のミルはジョセフのお下がりの服を着ている。おそらく男だと思われているだろう。男装していると、成人して間もない年齢に見えるらしい。

「宿を……」
「そうか。ギルドでは若い冒険者用に安いアパートを貸し出している。そのアパートが空いているのだが、借りるかい?」

 即、借りた。なんとアパートは最初の一年は一ヶ月五十ベニー、二年目から百ベニー、三年目以降三百ベニーのチョー格安物件だった。そのまま内見を済ませた。外観はボロだが中はまあまあきれいなアパートだ。七階建てで各部屋にベッドとクローゼット、さらにまきストーブもある。一階にはかまどがふたつあり、食堂も、身体が洗える場所もある。シェアハウスのような造りで、トイレは各フロア一ヶ所ずつ、つまり共同になる。現在入居者は全員男性とのことだが、元々若い女性の一人暮らしなど、この世界ではありえないことのようだから当然といえば当然だ。
 現在、七階はすべての部屋が空いているとのことで、下の階が空くまでミルは七階の部屋を使うことになった。ちなみに、下に行くほど先輩冒険者が住んでいるらしい。エレベーターなどないので七階は不人気のようだ。七階にもかまどがひとつあり、なんと一階とは別にシャワールームも狭いが付いている。
 ――よかった。一人でトイレが使える。
 アパートを退去するときに壊れたものがないか確認されるらしい。壊れているものがあれば弁償だ。それはどこの世界も変わらない。七階の一番きれいな部屋を使うことに決める。最近リフォームしたらしくベッドも新しくてきれいだ。鍵をもらい契約完了だ。冒険者ギルドで銀行口座を開設すれば家賃が引き落とされるらしい。すぐに開設し二十ベニーほど入金する。最近この制度が導入されたとか。
 ――ユロランにはなかった制度だな。もう少しすればユロランにも導入されるかもしれないけど、イージュレンにあるということは王都ではもう利用されている制度だろうから開設しても問題ないな。大金を持って歩かないでいいのはありがたいね。私は時ちゃんがいるからいいんだけど。さあ、これで必要な物は揃った。お布施ふせで二百ベニー使ってしまったが、冒険者ギルドで一日五十ベニー稼げるのならどうにかなるだろう。精霊たちもいる。早くあんな家から逃げ出したい。
 というのもミルは、少し前からジョセフの視線を不快に思っていた。たまにジョセフは酔っているのか、少し赤い顔してミルを下から上へとめ回すように見てはニヤニヤしていた。
 ――気持ち悪い……
 そんな視線に気がついてはいるものの、ミルは無視していた。他にも気配を消して急にミルの部屋のドアをノックもせずに乱暴に開けたり、料理をしているときや掃除をしているときにずっとミルを監視するように見たりするのだ。そのため、風の精霊に掃除をお願いすることも水の精霊に水圧で食材を切ってもらうこともできない。
 ――マジでうざい。
 部屋にいても心から休めない。ジョセフが突撃してくる前に精霊たちが教えてくれはするが、いきなり『こっちに来るよ』と言われると焦ってしまう。
 それはミルが着替えるタイミングのときが多かった。寝る前には当然、着替える。身体を拭いて寝間着にしている服に着替えて寝るのだ。時間をずらして着替えても急にミルの部屋に来る。来ることがわかっているので着替えるのをやめて窓の外を見ているフリをする。

「早く寝ろよ」

 父親みたいなことを言う。

「わかってる」
「着替えないのか?」
「お父さんがいたら着替えられないよ」
「子供のくせになにを恥ずかしがっている」
「……」

 そう言ってニヤニヤしながら自分の部屋に戻るのだった。
 ――マジでゾッとする。私はまだ胸もペタンコの子供だ。ロリコンなのだろうか。でも実の子だよ。マジで気持ち悪い。でも、少し胸が出てきたかな。さすが外国人の身体、発育がいい。いや異世界人か。
 ミルは古くなって捨てようと思っていたジョセフの冬のシャツをビリビリと引き裂き、それを胸に当て巻いた。さらし代わりだ。ぎゅうぎゅうにシャツを巻いて胸を抑える。さらしを巻くことで胸板がちょっとたくましくなった。余計に男の子に見えてしまう。
 今までのミルはジョセフのお古を着ており、上半身用の下着など持っていなかった。ミルにとっていい下着ができた。
 そんな日常だったので、ジョセフのいる家に戻るのは苦痛であった。そもそも、ミルには私物というものがほとんどない。だから家に帰らなくても特に問題はない。いつも着ているのはジョセフのお下がりだ。荷造りする必要も大きなカバンも必要ないのだ。八歳を過ぎれば下町の女の子だってワンピースやスカートを着ている。いつまでも男の子の恰好をしているのはミルぐらいだった。
 母の着ていた物があるかもしれないと探したが、一切なかった。普通取っておくものだろうと思うが、父からは母の情報はまったくなかった。以前、ミルは母がどんな人だったのかと聞いたことがある。殴られた。生前の母のことを聞きたかったが、もういい。
 ジョセフの店は下町の大通りにある。一棟一棟がひとつの店で住居だ。一階が店で、二階は居住スペースになっていてキッチンや食堂がある。三階は現代日本でいうリビングがあり、夫婦の寝室がある。そして四階にふたつの部屋がある。ミルはそのひとつを使っている。五階に行くと店側は屋根裏部屋になっており、その反対側は洗濯物が干せる小さな屋上になっている。それはどの住居も一緒だ。出入口はひとつで店のドアしかない。しかしミルには関係ない。時の精霊にお願いしたら、どこにでも行けるのだから。今夜出発しても構わない。
 ――さよなら、ジョセフ。クソオヤジどの。もう会うことはない。

「みんな! 行くよ!」
『『『了解~』』』

 ミルは闇夜に消えた。


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