愛犬はブルーアイズ

雨夜美月

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5.僕はあなたの犬です

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 ボロい1Kのアパートの二階。玄関を入ってすぐの狭いキッチンで、特売日に買いだめした卵を茹でながら玉ねぎをみじん切りにする。

「モリヤガさん、僕も手伝いますです」

 大きな身体が後ろに来た気配がしたかと思うと、クリスは俺の背中から手元を覗き込むように身をかがめてくる。

「おま、危なっ、いいから隣の部屋で待ってろっていっただろ」

 クリスを犬みたいだと思っていたせいでついエサなんて言ってしまった。クリスはそんな俺の発言に嫌そうな顔ひとつせず、というかエサにつられてご主人にしっぽをふる大型犬みたいに素直に家まで付いてきた。
 ただのバイトにここまでしてやる義理はないのだが、あの顔でくうんと甘えられて同情するなというのは難しい。まあ実際鳴ったのは腹の音だけれど。

 それにこいつ結構仕事も頑張っているし、異国に独りぼっちで飯も食えないなんてかわいそうだと思うだろフツー。
 なんだか他人のためにここまでしている自分に言い訳するようなことを考えていると、ふいに耳元にクリスの髪がふわりと触れる。

「いい匂いです」

「おまっ、近いよ邪魔!」

 手元ではみじん切りした玉ねぎに乾燥バジルを振りかけているところで、独特の食欲をそそる香りが立つ。

 クリスはバジルが好きなのだろうか。バジルがどこの国発祥かは知らないが、少なくとも日本人よりはフランス人の方が慣れ親しんだ香味料だろう。

 自分の後ろから動こうとしないクリスに、玉ねぎで手が濡れていた俺は手で押しやる代わりに背中でどんと押して抗議する。

「危ないっ、大丈夫ですか?」

「違う、邪魔だからどけって言ってんの」 

 それなりの力でどついたつもりが、くやしいことにクリスはよろめきもしなかった。それどころかクリスの胸に自らぶつかっていった背中がいとも簡単に抱き止められる。

 男の自分が野郎の胸に抱かれているこの状況の意味がわからない。決して小柄な方ではない自分の頭にクリスのあごの感触が当たるし、華奢でもない自分の肩がすっぽりとクリスの腕に収まっている。人種差とはいえ男として負けた気がしてなんだか悔しい。

「おい、いつまでそうしてる」

 こんどは肘でクリスのみぞおちを小突く。小さくうめく声がして、さすがにクリスは俺から一歩離れた。

「そっちでテレビ見て待ってろって」

「……はい」

 返事をしたものの、クリスは何か言いたげにじっと隣に立っている。
 まったく、それはやめてほしい。しゅんとうなだれる可哀そうな犬ポーズだ。そんな風に見える俺がどうかしているのかもしれないが、そうされると望みを叶えてやりたくなる。

「ああ、はいはいわかったよ。じゃあそれ卵茹で上がってると思うから殻むいて」

「はいっ」

 やや意気消沈していたクリスがうれしそうに背筋をぴんと伸ばす。はずみで軽く浮き上がった髪がやっぱり犬の垂れ耳のようだ。

「熱いから気をつけろよ」

「はい、気を付けます」

 クリスは思ったよりも手際がよく、鍋の水を切るとそのまま流水で卵を冷やしていく。
 てっきり熱がって上手く殻を剥けないとかまぬけな姿を想像していたのだが、クリスの長い指は卵に傷一つつけずに殻を剥いでいく。

「お前意外と器用なんだな」
「そうですか? モリヤギさんにいいところを見せられてよかったです」

 器用さを褒められたクリスが目線だけでこちらを見たかと思ったら、軽く口角を持ち上げてあの完璧な王子スマイルを浮かべる。

 背景に舞いそうな真紅のバラは、野郎が二人並んで立つのが精いっぱいのボロキッチンには似合わないし、ひもじい犬にエサを施してやろうとわざわざ飯を作ってやっている俺に対して余裕のようなものが感じられてなんだかイラッとする。

「やっぱおまえウザイ」

「えっ……?」

 俺のウザイ発言によって彫刻のように完璧な美麗スマイルが崩れ落ちていく。

 今日はウザイの意味がわかったのだろうか、こんどは泣き出す直前の子供みたいに顔を歪めている。
 これはこれでウザイのだが、整いすぎて嘘くさい笑顔よりはマシな気がする。

「ほら、いいから手を動かせ」

「は、はい」

 クリスはしおしおと背中を丸めて黙々と卵の殻を剥いていく。大きな身体を縮めて小さな作業をする姿はギャップがあってなんだか可愛らしい。
 俺よりデカい男に可愛いなんて思うとか、やっぱ俺って変かもしれない。口元が緩んでしまいそうになるのを堪えながら、黙々と作業を続ける。

「クリス、冷蔵庫からマヨネーズ取ってここに入れてくれ。あと、塩コショウも」

 殻むきの作業を終えていたクリスにそう指示して味つけをしていく。

「うん、こんなもんでいいかな」

 俺はボウルの縁から具を指で掬い取って味見をしてみる。味は悪くない、塩見もちょうどいい。あとは店から拝借してきたバケットを切れば完成だ。

「お前も味見してみるか?」

「え、いいですかっ?」

 よほど腹が減っているのか、クリスは落ち込んでいたのも忘れて目を輝かせる。
 やっぱり今日の俺はどうかしている、クリスの背中に千切れるほど振り回される犬のしっぽが見える気がする。

「手ぇ洗ってから取れよ……、――お?」

 なぜかクリスの手が俺の手を掴む。

 何をするのか状況が飲み込めないうちに俺の指先はボウルから具を掬い取り、クリスの形の良い唇に引き寄せられる。

「うん、おいしいです」

 ご丁寧に指先が唇でちゅっと吸われ、少し照れくさそうな顔をしたクリスを一瞬見たあと、俺の頭の中は真っ白になる。

 いったい何が起こったのか、クリスのアホすぎる行動につっこみも忘れて思考が停止する。怒りなのか恥ずかしいのか分からないまま、心拍数だけがどんどん上がって行く。

「この、バカ! 人の指で味見するやつがあるか!」

 次の瞬間、俺の右手はグーでクリスの頬を殴っていた。
 さすがによろけたクリスに向かって俺は居間を指さし命令を下す。

「いいか、向こうでおとなしくしてろ!」

 そのあと、バケット卵サンドを完成させた俺はテーブルの上に置きっぱなしだった昨日の空のビールとつまみの空袋を片づける。
 その間もクリスは俺に指示された通り床に座って、所在無げに肩を小さく縮めていた。

「あ、あの……」

 俺が皿をドンと音を立ててテーブルに置くと、クリスはびくりと身をすくめた。

「何だ」

 まったく俺も大人気ない。指を舐められたくらい冗談で笑い飛ばすこともできたのに、それが出来なかったのは自分がクリスを意識していたせいだ。
 いくらクリスが男前だからって、男相手に意識するなんて俺はどうかしている。

「その、ふざけて失礼なことしてごめんなさいです」

 クリスだってふざけただけだって言っている。変な意味に受け取っていたのは俺の方だけだ。

 ちらりと確かめるとクリスの左頬が赤くなっている。俺の方こそ手を上げるなんて申し訳ないことをしたのに、なんとなくその場で謝ることができなくて席を立つ。

 無言で席を立った俺を見てクリスがどんな顔をしたかと思うと可哀そうな気がしたが、それでも素直に謝ることが出来ない俺は気まずい雰囲気のなか冷蔵庫から保冷剤を取り出し、俺はそれをタオルで包んでクリスに差し出した。

「これ使え」

 クリスが困った顔をしたまま動かないので、しかたなく保冷剤を頬に当ててやる。

「殴ったりして悪かったよ。ああいう冗談はやめてくれ、男が男になんて気持ち悪いだろ」

 なんだかいたたまれなくて次から次へと言葉が出てくる。
 本当は気持ち悪かったというより恥ずかしかったのだが、そんなことクリスに言えるはずがない。

「アリガトウございます」

 クリスの頬に当てた手に手が重ねられて一瞬ドキリとするが、保冷剤を受け取ろうとしているだけだと気が付いて慌てて手を放す。

「ほら、腹減ってんだろ。食うぞ」

 クリスはすぐにしゅんとなるかわりに立ち直りが早い方だと思っていたのに、今回はなぜかこっちを見上げたまま何か言いたそうにしている。

「なに?」

 一瞬目がそらされて、何もなかったかのようにクリスがバケットサンドを手に取る。

「いただきますっ」

 クリスは左手で頬の保冷剤を押さえながら、よほど腹が減っていたのだろう、大きな口いっぱいにパンを頬張る。

 クリスが何を言いかけたのか気になるが、手を挙げてしまった引け目から強く問い詰められない。
 やっぱり殴るのは良くなかったと思う。でも一応謝ったしこれ以上はなんて声をかけていいか分からない。
 俺は仕方なくクリスの向かいに腰を下ろしてパンを食べることにした。

「――うまいか?」

「うまいですっ」

 クリスはバケットを口に含んだまま目を輝かせて返事をしてきた。俺はすっかりもとに戻ったクリスの反応に内心ほっとする。

「お前大学生なんだよな? 寮とかじゃなく独り暮らし?」

「はい、ひとりでアパート借りています」

 多めに作ったつもりのバケットサンドがみるみるクリスの口の中に飲み込まれていく。
 余ったら明日の朝飯にしようかと思っていたのだか、自分の作ったものを喜んで食べてもらえるのはなかなか気分がいい。

「ああ、本当においしいです。モリナゲさんが居なかったら餓えて死んでしまうところでした、あなたは僕の命の恩人です!」

「はぁ? 大げさだな。俺は野良犬にエサやってるような気分なんだけど」

 犬のナナも俺がエサを持って行くとこんな風に大げさなほど喜んで飛び跳ねていた。
 人と犬では姿形は違うけれど、クリスが大きな口にいっぱいにパンを頬張って更に次を口に入れようとする食べ方がナナにそっくりだった。

 もしナナと出会ったのが高校生のガキの頃なんかじゃなく今だったら一緒に住める家に引っ越して、たらふく好きなものを食べさせてやることができたのに。

「――犬、いいですね! モリナゲさんは僕の飼い主ですね」

「はあ? なんでそうなるんだよ!」

 一瞬俺の考えていたことがわかったんじゃないかとぎくりとする。
 じりじりと膝を擦って四つん這いで距離を詰めてくるクリスに、俺は思わず後ろに身をのけぞらせる。

「な、なんだよ……っ」

「ご主人サマ!」

 わっと身構えた瞬間クリスが飛びかかってくる。抱きつくように腕がまわされたかと思うと、犬がじゃれつくような仕草で顎から頬にかけて顔を擦りつけられる。

「おま、やめ……っ!」

 思わず拳を握りしめたが、先ほど顔を殴ってしまったことを思い出して思いとどまる。

「ご主人サマ大好きです、ワオン」

 体格のいいクリスにのしかかられ、身をよじったくらいでは腕の中から抜け出せない。

「だから、こういう冗談は嫌だって、おま、離せって」

「クゥン、ダメですか?」

 俺が言うと素直に離れたクリスだったが、わざわざうなだれた耳みたいに両手を頭に持っていって、しょんぼりする犬の真似をしてみせる。
 デカくて綺麗な男がするそのまぬけな姿に俺は思わず吹き出してしまった。

「なんだよそれ、いい男が台無しだぞ」

「僕はいい男ですか? モリナゲさんにそう言ってもらえるとうれしいです」

「だから台無しだってば。つーかいい加減お前俺の名前覚えろって、俺はモ、リ、ナ、ガ」

「モリナ、ギ?」

「お前わざとやってないか?」

「日本人の名前は発音が難しいです、ファーストネームなら言えるかも!」

「日本では目上の人間のファーストネームは呼ばないんだよ」

「モリナギさんはイジワルです」

「何とでも言え、つーかそれ食わないなら片づけるぞ」

「わ、あっ、ダメです!」
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