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12.月灯りのベランダ

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それから数日たち、何事もなかったかのように日常が戻ってきた。

あのデートから帰ってきた晩、龍平からベッドをすすめられて面食らった以外には何事もなく平和に過ごしている。
龍平はなぜ突然私にベッドを譲ってくれようとしたのだろうか、はじめは一緒に寝ようと言われているのかと思って驚いたがまさかそんなことがあるわけがない。

それから、催促してはいけないと思いつつ密かに楽しみにしている龍平の手料理はまだ食べられていない。
私が家賃代わりに食費を持ち、龍平の帰りを愛情たっぷりの食事を作って待っているから、という理由もあるのだろうが、簡単なものでもいいから早く食べてみたい。
龍平の手料理だなんて胸が踊る、それが私のために作られたものならなおさら嬉しい。想像するだけでニヤニヤして小踊りしてしまう。
ちなみに以前食べそこねたアルバイト先のお弁当は龍平が二人分食べてしまっていたそうだ。

「まあ、なにごとも焦って事を進めてはいけませんね」

私達の交際はまだ始まってもいないし、龍平は以前より私に優しく接してくれるようになった気がする。
いや、もともと龍平さんは優しいですけどね。さすがに得体の知れない私に対してはじめは警戒心がありましたよね。

「すーーっはぁーー、龍平さんのシャツいい匂い」
私は洗濯物を畳みながら龍平のシャツに顔をうずめる。
「そうだ、龍平さんの手料理が食べられないなら自分で買ってくればいいじゃないですか!」
パンがなければお菓子を食べればいいじゃない級の名案を思いつき、悶々としていた気持ちが明るくなる。
そうと決まれば早く洗濯物を片付けて今日のランチを買いに出かけよう。


 ◇ ◇ ◇

「え? 龍平さんいらっしゃらないんですか?」
私は龍平のアルバイト先である弁当屋の店先で素っ頓狂な声を上げてしまった。
店頭に出ていた若い女性に声をかけたところ、今日は休みだと返事が帰ってきたのだ。

「龍平さんに何かあったんですか? 彼は今日アルバイトに行くと行っていましたが?ーーーーまさか事故にでも?!」
「あ、お客さん落ち着いて下さい。事故じゃないですよ、もともと休みなだけです」
「そうですか、それは安心しました……。ですが今日は出勤のはずでは?」
「……あのう、失礼ですが高鷲くんとどういうご関係の方ですか?」
若い女性の不審者を見るような目つきで我に返る。こんな尋ね方をしたら警戒されて当たり前だ。
「失礼しました、私はこういうものです」
私はスーツの内ポケットから名刺を取り出し、丁寧な仕草で彼女に渡す。
「高鷲ホールディングス、高鷲くんのお父さんの会社の?」
彼女が会社と龍平の関係を知っていたのは好都合だ。

だが、私と龍平の関係は何に当たるのだろう。

恋人ではない。残念ながら。交際を前向きに検討してくれるとは言ったが、恋人未満というのもおこがましい。
友人でもない。私はずっと龍平を見てきたが、龍平の方は私を知ってほんの数日だ。

「私は彼の父の秘書で、その関係で龍平くんに用があってうかがいました」
「ああ、そうなんですか」
女性は警戒をといてぱっと明るい表情を浮かべる。
少し嘘をついたが、こういうとき高鷲の名前は効果が抜群だ。
「もともと出勤の予定でしたけど、高鷲くんが人と会う約束があるとかでシフトを交換したんですよ」
「そうでしたか、ちなみのどなたとお会いするかおっしゃっていましたか?」
「いや、そこまではちょっと、わからないです」
「いや、知らなければいいんです、興味本位で聞いただけですから。どうもご親切にありがとうございました」
ほんの少し彼女がまた不審の表情を浮かべたことから、私はさっと引くことにする。ビジネスライクな笑みで会釈をして店をあとにする。

龍平はどこへいって誰と会っているのだろう。
そう言われてみれば私服ではあったが比較的良い服を着て出ていったような気がする。
月曜はいつもアルバイトだから今日もそうだと思いこんでいただけで、龍平がアルバイトに行くと言ったわけではない。

恋人や家族でもあるまいし、わざわざ行き先を私に告げる義務があるわけではないけれど、気になる。


 ◇ ◇ ◇

「あの、龍平さん、今日はどちらにいかれていたんですか?」
いつもと同じくらいの時間に帰ってきて夕食を済ませた龍平に直接聞いてみることにした。
「ん、ふつうにバイトだけど?」
龍平がなんでもないことのように嘘をついた。
ショックだ、私に言いたくない相手と会っていたんだろうか。そこを追求する権利がない以上、口をつぐむしかない。
「そうですよね、いつもお疲れ様です」
「うん、ありがとう。宇佐美さんは今日もパソコンで株とかやってたの?」
「はい、外にも少し出ましたが。家に閉じこもっていると身体がなまってしまいますね」
「今度またデートしようか、どこか行きたい所ある?」
「でっ、 でーとですか?!」
「デートって呼び方嫌だった? それとも俺とデートが嫌だった?」
「まさか! 龍平さんとの……デートが嫌なわけないじゃないですか」
「だよな」
龍平がさわやかな笑顔で私に笑いかけてくる。
眩しい、眩しすぎる。

「ええと、龍平さんは行きたい場所ないんですか?」
「んー、俺の行きたい場所より宇佐美さんのこと知りたいんだけど」
「え、えっと、どこでしょう……デートの経験があまりないもので、定番なのはディナーと夜景からのホテルですか?」
「照れてる割に行き先はホテルなんだ」
龍平がぶっと吹き出す。笑われてしまった。

デートと言われてもどうしたら良いのか。私のデートプランのお手本は不本意ながら社長しかいない。
社長はデートといえば美女と食事をしてホテルへ行くか、美女へブランド品を買い与えてホテルへ行くか、デート仕様のスポーツカーで美女とドライブをしてホテルに行く、だいたいこんなところだろうか。
もっと健全なデートはどうしたらいいのだろう、映画? バッティングセンター? カラオケ? 居酒屋?

「そんなに考え込まないでよ、宇佐美さんの行きたい場所は?」
「ええと、……龍平さんと一緒ならどこでも」
「そう? じゃあ俺が宇佐美さんがよろこんでくれそうなこと考えておくよ」
「はいっ」
「そんなに目をキラキラさせて喜ばないでよ、年上なのに可愛いって思っちゃうじゃん」
そう言って無邪気に笑う龍平の方がよっぽど可愛い。
龍平に可愛いなんて言われたらキュン死してしまう。龍平さんは私を殺す気かもしれない。

「いつデートしていただけますか? 次の日曜日ですか?」
「日曜は、あー……、ごめん予定ある」
「平日だと連日アルバイトですよね? その次の週末はどうですか?」
「その日もちょっと行くところが……」
「…………」

今まではアルバイトのない日は家にいることが多かったのに、やはり最近様子がおかしい。

「俺から言い出したのにごめん! ちょっと色々あって先の予定わからないんだった」
「……そうですか」
さっきまでの大きく膨らんだ期待が急激にしぼんでいく。色々とは何なのか聞いてもいいだろうか。

「お詫び、って訳じゃないけど。宇佐美さんちょっと来て」
申し訳なさそうな龍平が私の手をとって、アパートのベランダに連れて行く。
もうそろそろ寝る時間だというのに、外がほんのり明るい気がする。
「ほら、見て」
龍平が指さした先には満月。しかもいつもより大きくて明るく見える。
「さっき帰って来ながら見えてさ、明るいよね」
「本当ですね、なんとかムーンとか名前があるんでしょうか」
「後で検索してみるか」
アパートの二階ベランダから見る景色。
密集したこの地域のだが、ベランダのすぐ向こう側には用水路があってここだけは空間が開けている。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返って、遠くから電車の音が聞こえる。
見慣れたごちゃついた住宅街の中で、このベランダの周囲だけ特別な場所のように思えた。
「綺麗ですね、空を見上げるなんて久しぶりです」
「だよね、俺も月眺めたりなんかしないよ普段」
月明かりに照らされた龍平さんの横顔が綺麗だ。
いろいろ不安に思うこともあるけれど、こうして龍平の隣にいられてよかった。

「宇佐美さんと見たかったんだ」
横顔を眺めていたら、龍平がそう言って私の方を向く。月明かりで顔の半分が濃い影になって、表情はよく読み取れない。

ゆっくりと龍平の顔が近づいてきて、そっと唇同士が触れ合った。
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