花はももとせ 汝はちよに

藤雪たすく

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記憶の喪失

断罪待ち

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青年に置いていかれまいと必死に走ったけれど、ただ歩いているだけの青年との差は開くばかりだった。
早く走りたいのに足が前に出ない。胸が張り裂けそうに苦しい。

「はぁ~……はぁ~……」

「早く馬車に乗ってください」

青年が立ち止まったので僕もやっと休憩する事が出来ると思ったのに急かされる。馬車だと示された車輪のついた小屋へと乗り込もうとするけれど、段差は高く、ここに来るまで痺れていた足は持ち上がらない、四つん這いでゆっくり一段づつ登っていると舌打ちをされた。

僕の事を『様』付けで呼ぶけれど全く敬っているという感じはしない。僕とこの人はどういう関係なんだろう。

なんとか乗り込むと、外から鍵を掛ける音と『出発いたします』という声が聞こえて、箱が動き出したのか揺れを感じた。
箱の中は全面に柔らかな布団が敷かれていて、横になるとどっと体が重くなった気がする。
ちょっと小走りで走っただけなのに、この疲労感。いったい今までどうやって生活してきたんだろう?自分のことながら心配になってしまった。

寝転んだまま馬車の中を見回したが、灯りになりそうな物は無く、唯一ある小さな木製の小窓の隙間から漏れている光で辛うじて周囲の様子を確認できる。

這いながら小窓に近づき開けてみると御者台なのか座った青年の背中が見えた。

「何か御用ですか?食事なら先程恥ずかしいぐらい食べていらっしゃったでしょう?城へ戻るまでの間ぐらい我慢なさってください」

恥ずかしい程ってどれだけ何を食べたんだろう。
記憶が無いというのは怖い。刺々しい言葉にグサグサと突き刺されながら窓を閉めようとしてある事に気づいた。

馬車って言っていたのに馬がいない……それよりも……地面がない?
窓にしがみ付いて遙か下に見える地面を確認した途端に、足が震え出しよろけた体を支えきれずに尻餅をつくと、馬車が傾き、掴まる所もなく抗う術もないまま体が転がり壁に頭を打ち付けた。

「痛っ……あ!!さっきの人は!?」

御者台に壁は無かった、外にいた彼は投げ出されてしまったかもしれない。
完全に馬車はひっくり返り、布団やクッションが散乱する中を足を取られながら立ち上がったが、馬車は大きく傾き、先ほどの窓は天井に移動していた。

手を伸ばすが到底届かずとぼう飛び跳ねてみようとした時、窓が開いて先程の青年が中へ入ってきた。

「あ、ご無事だったのですね」

「いつも馬車の中では動かないようお願いしているでしょう……大人しくしていてください」

「ごめんなさい」

青年の無事を確認できてホッと胸を撫で下ろしたいところだったが、凍りつきそうな程の声色と見下ろされる目が怖すぎて体が震え出した。

僕とこの人の関係は分からないけど、突然知らない場所にいて知らない人に怒られ知らない馬車に乗せられて……また怒られて。知り合いがいないどころか家族の事すら思い出せない、心細さと不安が蘇り、目の前に直面する恐怖にいつの間にか涙が溢れていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

泣いたら逆に怒られるかもと顔を逸らして涙を隠したけれど震える声と体は隠せなかった。

「はあ……」

僅かな沈黙の後、あからさまな深いため息と共に片手で髪を掻き乱してから、青年は僕に向けて手を差し出してきた。
反射的に体が跳ねると馬車も揺れた。

「随分と演技が上手くなったものですね……ですが、このままだと墜落しますよ。早く魔石を出してください」

「ませき?」

魔石とは文字通り魔力のこもった石、そんな物……僕は持っていないけど、青年の視線を追うと腰に下げた小さな鞄を見ている。開けてみると黒い石がたくさん入っていた。

「これが魔石ですか?」

「それが魔石ですが?」

これであっているらしいので青年に渡すとその長身を器用に小さな窓から潜らせて外に出て行ってしまった。

徐々に馬車の傾きが元に戻って行く。
あの石がこの馬車を動かしているのだろうか?石が物を浮かすなんて聞いた事がない。

やはりさっきまでいた場所は神の国に間違いないだろう。
そしてあの人は神の国の住人に違いない。それならこうして空を飛んでいることも納得できる。今までの会話を思い出して整理すると僕は神の国で賤しく物を食べていた様だ。
それはもしかしたら、神がお召し上がりになるはずの物だったのではないだろうか?

僕はこれから、食事を盗み食いした罪で神罰を与えられる所であの方は刑の執行人……の様な気がしてきた。
そう考えるとこの体型にも納得ができるし、あの方の怒りの原因も納得できる。
記憶が無いのも神罰を受ける恐怖から自分に都合の悪い記憶を全て消し去ったのかもしれない。

神様の名前もお姿も思い出せないけど、神様はとても慈悲深く尊い存在だった……と思う。
そんな神の怒りを買うなんてなんて愚かな人間なんだろう。ちゃんと罪を認め罰を受け入れなければ……。

胸の前で手を組み目を閉じて、天へ向けて静かに懺悔した。

ーーーーーー

「アヴィンディドール様?」
「はい」
馴染みの無い名前を呼ばれて目を開けると馬車の入り口は開けられていて、執行人さんが訝しげな表情でこちらを見ていた。

刑場に着いたのか。
死刑か懲役か禁錮か……どれほどの量刑なのか分からないけれど、ただ全てを受け入れよう。
生に執着が無いと言うよりも執着するほどの生だったのかも思い出せないからか、心はとても落ち着いている。

名前を呼ばれて降り立ったのは石を積み上げて作られた建物の屋上だった。
枯れ果てた大地……朽ちた木々とひび割れた土、街なのに生き物の気配は薄く、見渡す景色はどこも重苦しい空気に包まれている。薄暗いのは時間のせいだけなのだろうか?

刑場らしいといえばらしいけど、花の一つ、草木も無い世界だなんてと心が痛んだ。

「あの、僕はどうしたらいいのでしょうか?」

罰を受け入れる覚悟は出来ているといえど、恐怖がないわけではない。

もしかしたら早く殺してくれと願いたくなる様な処刑内容だという事もある。
それこそ全ての記憶をなくしてしまう程の……想像すると血の気が引くのが分かり、震える指先を隠す様に握り込み、怯える時間を引き伸ばすよりも、早く刑を執行して欲しいと執行人さんに恐る恐る尋ねた。

「あ……?……お食事の前にお風呂になさいますか?それとももうお休みになられますか?」

食事?お風呂?僕が選ぶの?最後の食事と……死ぬ前に身を清めておけという事だろうか?

「では……お風呂で……」
お腹は空いていない。神の食事に手を出したので当然だろう。

「了解いたしました」
そう言い残して執行人さんは中央にある小さな建物の出入り口の奥に消えて行った。

僕は?ついて行くべきだったのだろうか?
置いていかれて何をしていいのか分からず、先ほどと同じ様に両膝を落とすと天へ向けて祈りを捧げた。

ーーーーーー

どれぐらい経っただろう。頬に何かが触れた。雨だ。

一粒、二粒……次第にその間隔は短くなり頬を伝い流れるほどの雨が降り始め、服が水分を吸って重く体に張り付いてくる。
お世辞にも綺麗とは言えなかったあの空気を含んだ雨粒が大地を癒してくれるとは思えないが、花の一輪でも咲いていれば、僕も……これから先、この地で処刑される人間も心に僅かな安らぎを残せるのでは無いだろうか。

神様、どうかこの大地に恵みと潤いをお与えください。
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