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第7話
しおりを挟む「……ありがとうございました」
「ふふふっ。いえいえ」
私がお礼を言えば、シリルさんが笑いながら私の体を引き寄せる。今、私の視界に映るのは、お湯に浮かぶハーブの入った袋と二人分の脚。
湯気とハーブの香りに包まれながら、私はシリルさんに背後から抱き込まれるような体勢で浸かっていた。
結局あのあとの私は、シリルさんに支えられながら髪を洗われ、体までをも洗われた。
最初はそんなことさせられないと断ったのだが、恥ずかしいことに、自分が思っていた以上に昨夜のアレは足にきていて、上手く一人で立つことができなかったのである。
クスクスと笑われながら、しがみついてなさいと言われ、その上、石鹸や小物の使い方を教えるからと言われれば反論などできるはずもなく。「あのっ、ちょ、シリルさんっ」などと一人で慌てている間に、あれよあれよと全身くまなく洗われてしまったという訳だ。
(なんか、シリルさん、すごい平然としてない……!? さっきからずっと私だけが焦ってる感じがするんだけど……。これが大人の余裕ってやつなのかな……?)
温かいお湯の中で触れ合う肌の感触にドキドキしながら、私は内心でそんなことを考える。
というのも。
私にとってシリルさんは、セックスまでした相手だとはいえ実質的にはまだ会うのも二度目な男性だ。そんな男性と二人きり、今は湯船に浸かっているのである。
ゆったりとした時間が流れ始め、冷静に今の状況について考える余裕ができてきたのはいいのだが。私がかえって今の自分の状況が恥ずかしくなってきているのに対し、背後から感じるシリルさんの様子は、穏やかに揺れる水面と同じように悠々としているように思えた。
(私が余裕無さすぎなだけなのかな……)
自分だけ内心で慌てふためいているのが、恥ずかしくも、すこし悔しくもある。
(あー、でも、ちょっと、ほんと落ち着こ……)
どうにかして心を落ち着けようと目に付いたハーブの袋を無心で揉んでいれば、不意に背後でパシャリと水音が立った。
「……レナ、お湯は熱くない?」
ほんのすこし低い声でシリルさんが聞いてくる。
「えっ? あっ、えっと。いえ、大丈夫ですっ」
あまりにも近くから聞こえる声に後ろを振り返る勇気は出ず。
背後でする水の滴る音や、髪をかき揚げる音に過剰なくらいドキドキしてしまいつつ、私はそう答えた。
「そお?」
「……ッ、は、はい」
「なら、いいけど」
お湯はホッとできるような、ぬるめのお湯だ。
嘘はついていない。
私の答えを聞くと、シリルさんは再び水音を立て、私のお腹へと軽く腕を回してきて。キュッと抱き込まれたかと思えば、シリルさんが私の肩に顎を乗せ、ホゥっと息を吐いた。
しばらく、時折、ピチョンと水滴の落ちる音がするだけとなった時間が流れる。
「……あ、あの……、シリルさん……」
落ち着いた空気が流れ出したところで、今度は私からシリルさんに声をかけた。
「……なぁに?」
「えーっと、その、……聞かないんですか?」
「んん……? 何を?」
「私のこと、とか?」
「……例えば?」
「え。た、例えば、どこから来たのかとか、何者なのかとか……」
私が切り出したのは、ずっと気になってはいたもののタイミングが見出せずにいた内容。
――それは、シリルさんはおそらく、私のことを何も知らないということ。
先ほど目覚めてから、ずっと不思議に思っていたことだった。
私はシリルさんについてすこしは知っているし、ある程度は状況も把握している。もちろん、まだ多くの部分は不確かだが、それも込みで納得している。
しかし、そんな私とは反対に、シリルさんは私のことは何も知らない筈なのである。
私のちゃんとした名前も。どんな世界から来たのかも。
年齢すら知っているのか怪しい。
まぁ、それも、私がまだ名前しか伝えていないからなのだが。
初めて会った夜はそれが最善だと思ったものだが、あの時と今では状況は大きく異なる。普通なら根掘り葉掘りきいてしまいそうな状況なのに、未だシリルさんは尋ねてこず、ただただ私に優しくしてくれるのだ。
私はそれをただただ不思議に思っていた。
「……あー……、うーん、そうねぇ……」
様子を伺っていると、耳元でシリルさんが呟くようにそう言う。
ドキドキしながらもキュッと口を噤んで次の言葉を待っていれば、シリルさんは私の手に自らの手を添えてきて、一緒にムニムニとハーブの袋を揉みだした。
「もちろん、聞かなきゃいけないなって思ってることは沢山あるのよ?」
シリルさんがそう話す間も、ハーブの入った袋が、私とシリルさんの手の中でぐにぐにと形を変える。
「それこそ、あなたが今言ったように、どこから来たのかとか、本当は何者なのか、とかね。……ただ、その、正直な話、まだ聞く気にはならなくて……」
シリルさんはそこまで言うと、ちゃぷりと音を立て、指が絡まるように手を握り込んできた。
そのまま私の手と共に湯の中へと手を沈め、キュッと私を抱き締める。
「なんて言うか……、レナがいるってことだけでいっぱいいっぱいになっちゃっててね。まだ他のことまで考えられないっていうのが本音なの」
「……シリルさん……」
「もちろんね? 落ち着いたらちゃんと聞くつもりではいたわよ? ワタシから話しておきたいことももちろんいっぱいあるし、レナだってワタシに聞きたいことはいっぱいあるだろうし……」
そしてシリルさんはそこまで言うと、絡ませた指を解き、私の耳に一つだけキスをした。
「ま、とりあえず、今はお腹も空いているし、話はもう少し落ち着いてからでもって思っているわ。食事をしながらでもできるでしょう?」
「ん。そうですね……」
「ふふふ っ。えっと、じゃあ、お湯に浸かるのはこの辺にして上がりましょうか。タオル取ってくるから。ちょっと待ってて」
そして、シリルさんはそう言うと、背後でザバリと音を立てて立ち上がった。
*
(……なんか、ほんと、映画みたいなんですけど……)
シリルさんがバスタブから出たあと、私は、タオルを取りに行くシリルさんの、その後ろ姿を盗み見しながらそんなことを思っていた。
――それは、繰り返し夢を見続けていたが故か。
目の前に広がるのは、自分が住んでいたアパートとは全く違う、どこか異国の空気が漂う空間で。その中心には、私の知る現実では中々お目にかかることのなかった、美しいワインレッドの髪を持つ男性の後ろ姿があるのだ。
お風呂にまで入っているのだから、さすがにもう、「これも夢か?」とまでは思わないが。タオルで髪を乾かす様子すら、シリルさんのいる景色は、映画のワンシーンを見ているような気持ちにさせて。すらりと長い手足も、ほどよく締まった体も、水を弾く滑らかな肌も、全てが見惚れるほどに美しく、つい気を抜くと現実感がどこかへ行ってしまうのである。
(くっついてたらまだ実感があるんだけどな……)
視線の先では、シリルさんが腰にタオルを巻き、新しいタオルを手に持って戻ってくる。
目が合うと優しく美しく微笑むその様に、私の心を占めるのは、早く触れたいという欲求。
早くその体温に触れたい。
早くこの人に触れてほしい。
早く触れて、キスをして、これが現実なんだと何度でも確かめたい。
「……ああ、ねぇ、そういえば、食べ物ってどうなのかしらね? レナが食べられるものがウチにあるといいんだけど……」
そんなシリルさんの呟きを聞きつつ。
私は促される前から手を伸ばし、再びその腕に身を委ねたのだった。
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