5 / 34
5
しおりを挟む
社会人になった僕は池袋にある興信所で働いていた。興信所に勤めたのに、さしたる意味があった訳ではない。敢えて理由を探すとすれば、何かを探究するのに興味があったから、といった所か。哲学科を専攻した時と同じだ。
ある朝、出所すると所長から声がかかった。
「依頼人がずっとお待ちだぞ。おまえ指名だ」
所長は明らかに機嫌が悪かった。
「依頼人…」
今朝は特に約束はなかった筈だが…。
「そうだ。早く行け。接客室だ」
所長の声が怒鳴り声に近くなった。
ドアをノックして接客室に入ると、小柄な女性がソファに座っていた。
「突然に申し訳ありません」
女性は立ちあがると深々と頭を下げた。後ろで髪を束ねた二十代の女性だった。なだらかな撫で肩に涼しげな目もと。薄いブルーのブラウスに、白のスカートが、とても清潔な印象を与えている。
この女性とは何処かで会ったことがある気がした。だけどそんなことはない。彼女とは完全な初対面だ。デジャビュか…。
けれども女性がさしだした写真に僕は息を呑んだ。
「姉を捜して欲しいんです」
間違いない。そこに写っていたのは、麻里さんだった。
「貴女は…」
「申し遅れました。私は観月由里と申します。観月麻里の妹です」
「私は…」
僕の言葉を彼女は柔らかく遮った。
「存じあげております。姉が夏樹さんとおつきあいされていたことも…」
麻里さんと比べれば、地味な印象は拭えなかったが、彼女はとても上品で感じの良い話し方をした。
「実はこの興信所も夏樹さんのお名前を、インターネットを検索してみつけたんです。スタッフ紹介のページに、夏樹さんのお名前と経歴が載っていました」
これではどちらが探偵だかわからなかった。
「詳しいご事情をお聴かせ願えますか」
僕は由里さんに言った。
「はい」
由里さんは頷くと語り始めた。大学を卒業すると直ぐに、麻里さんが結婚したこと。子どもはいなかったが、幸せな結婚生活をおくっていたこと。由里さんの話からするに、結婚相手はロンドンに留学していた、あの彼氏らしかった。
けれども幸せな結婚生活は、一瞬にして打ち砕かれた。
「伊豆に旅行中の事故でした。助手席にはご主人が座っていて、そのとき車を運転していたのは姉でした。きっとハンドル操作を誤ったのだと思います。ガードレールを突き破り、車は崖の下に転落したのです」
由里さんはそこで大きく肩で息をついた。
「姉は助かりましたが、ご主人は亡くなりました」
「お気の毒です…」
そう言いながら、僕は胸の奥に疼くような感覚を覚えた。麻里さんがやはり結婚していたことに、僕は微かに心を乱されていた。嫉妬…か…。いまさらになって…。
「そんな大事故では麻里さんも無事では済まなかったのでしょうね」
「ところが姉は擦り傷ひとつ負わなかったのです」
「どうしてそんなことが…」
「はい。私もとても不思議に思いました。姉が得度したのは、その三か月後です。その写真は姉が得度したときのものなのです」
僕は再び写真を眺めた。剃髪こそしていないものの、麻里さんは黒い衣に身を包み、首に袈裟をかけている。そして手には念珠…。
「しかし得度をしたからといって、まだ正式な僧侶という訳ではなく、そのあと加行という修行期間に入ります。姉はその修行途中に失踪しました」
由里さんは澄んだ眼で、息をつめたように僕を見つめた。
「得度する直前、姉は気になる言葉を口にしたのです」
「何と言ったのですか」
「夏樹くんと離れなければ、私の運命は違っていたかもしれない。姉はそう言いました。だから私はあなたに会いに来たのです」
僕と由里さんは暫く石のように黙りこんだ。由里さんは僕の眼をじっと覗きこんだままだった。
「残念ながら私にはその言葉の意味がわかりません…」
僕は漸く口を開いた。
「麻里さんが得度した寺は何処にあるのですか」
「京都にあります」
由里さんは言った。
「報恩寺という真言宗のお寺です」
ある朝、出所すると所長から声がかかった。
「依頼人がずっとお待ちだぞ。おまえ指名だ」
所長は明らかに機嫌が悪かった。
「依頼人…」
今朝は特に約束はなかった筈だが…。
「そうだ。早く行け。接客室だ」
所長の声が怒鳴り声に近くなった。
ドアをノックして接客室に入ると、小柄な女性がソファに座っていた。
「突然に申し訳ありません」
女性は立ちあがると深々と頭を下げた。後ろで髪を束ねた二十代の女性だった。なだらかな撫で肩に涼しげな目もと。薄いブルーのブラウスに、白のスカートが、とても清潔な印象を与えている。
この女性とは何処かで会ったことがある気がした。だけどそんなことはない。彼女とは完全な初対面だ。デジャビュか…。
けれども女性がさしだした写真に僕は息を呑んだ。
「姉を捜して欲しいんです」
間違いない。そこに写っていたのは、麻里さんだった。
「貴女は…」
「申し遅れました。私は観月由里と申します。観月麻里の妹です」
「私は…」
僕の言葉を彼女は柔らかく遮った。
「存じあげております。姉が夏樹さんとおつきあいされていたことも…」
麻里さんと比べれば、地味な印象は拭えなかったが、彼女はとても上品で感じの良い話し方をした。
「実はこの興信所も夏樹さんのお名前を、インターネットを検索してみつけたんです。スタッフ紹介のページに、夏樹さんのお名前と経歴が載っていました」
これではどちらが探偵だかわからなかった。
「詳しいご事情をお聴かせ願えますか」
僕は由里さんに言った。
「はい」
由里さんは頷くと語り始めた。大学を卒業すると直ぐに、麻里さんが結婚したこと。子どもはいなかったが、幸せな結婚生活をおくっていたこと。由里さんの話からするに、結婚相手はロンドンに留学していた、あの彼氏らしかった。
けれども幸せな結婚生活は、一瞬にして打ち砕かれた。
「伊豆に旅行中の事故でした。助手席にはご主人が座っていて、そのとき車を運転していたのは姉でした。きっとハンドル操作を誤ったのだと思います。ガードレールを突き破り、車は崖の下に転落したのです」
由里さんはそこで大きく肩で息をついた。
「姉は助かりましたが、ご主人は亡くなりました」
「お気の毒です…」
そう言いながら、僕は胸の奥に疼くような感覚を覚えた。麻里さんがやはり結婚していたことに、僕は微かに心を乱されていた。嫉妬…か…。いまさらになって…。
「そんな大事故では麻里さんも無事では済まなかったのでしょうね」
「ところが姉は擦り傷ひとつ負わなかったのです」
「どうしてそんなことが…」
「はい。私もとても不思議に思いました。姉が得度したのは、その三か月後です。その写真は姉が得度したときのものなのです」
僕は再び写真を眺めた。剃髪こそしていないものの、麻里さんは黒い衣に身を包み、首に袈裟をかけている。そして手には念珠…。
「しかし得度をしたからといって、まだ正式な僧侶という訳ではなく、そのあと加行という修行期間に入ります。姉はその修行途中に失踪しました」
由里さんは澄んだ眼で、息をつめたように僕を見つめた。
「得度する直前、姉は気になる言葉を口にしたのです」
「何と言ったのですか」
「夏樹くんと離れなければ、私の運命は違っていたかもしれない。姉はそう言いました。だから私はあなたに会いに来たのです」
僕と由里さんは暫く石のように黙りこんだ。由里さんは僕の眼をじっと覗きこんだままだった。
「残念ながら私にはその言葉の意味がわかりません…」
僕は漸く口を開いた。
「麻里さんが得度した寺は何処にあるのですか」
「京都にあります」
由里さんは言った。
「報恩寺という真言宗のお寺です」
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
ねえ、私の本性を暴いてよ♡ オナニークラブで働く女子大生
花野りら
恋愛
オナニークラブとは、個室で男性客のオナニーを見てあげたり手コキする風俗店のひとつ。
女子大生がエッチなアルバイトをしているという背徳感!
イケナイことをしている羞恥プレイからの過激なセックスシーンは必読♡
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
【R-18】クリしつけ
蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
完結【R―18】様々な情事 短編集
秋刀魚妹子
恋愛
本作品は、過度な性的描写が有ります。 というか、性的描写しか有りません。
タイトルのお品書きにて、シチュエーションとジャンルが分かります。
好みで無いシチュエーションやジャンルを踏まないようご注意下さい。
基本的に、短編集なので登場人物やストーリーは繋がっておりません。
同じ名前、同じ容姿でも関係無い場合があります。
※ このキャラの情事が読みたいと要望の感想を頂いた場合は、同じキャラが登場する可能性があります。
※ 更新は不定期です。
それでは、楽しんで頂けたら幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる