蝶たちがやってきた日

関谷俊博

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蝶たちがやってきた日

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蝶たちが街にやってきた日。
それがはじまりだった。
「あれ、なにかしら?」
が西の空をゆびさした。空が絨毯をしきつめたように染まっている。
「蝶だ! 蝶だよ!」
ちゃんが叫んだ。
 蝶たちは、あっという間にやってきて、校庭で遊んでいたぼくらを、竜巻みたいにとりまいた。
「! 逃げるぞ!」
 弘ちゃんが、ぼくをせかした。
 ジャングルジムの上にいたぼくは、危うく転げ落ちるところだった。
 校舎に逃げ込んだぼくら三人は、やっと一息ついた。何匹かの蝶が、校舎の中にも入り込んできている。
「オオカバマダラだ!」
 弘ちゃんが言った。
「渡り鳥みたいに、渡りをする蝶だよ。日本には来ないはずなのに」
 弘ちゃんこと、山口弘平は昆虫マニアだ。いつもおかしなことを言っては、ぼくらを笑わせている。
 すらすらと蝶の名前を言った、そのマニアっぷりに、ぼくはあらためて感心した。
「すごい数!」
 十六夜が、窓の外を見て、目を丸くした。
 島本十六夜は、なんにつけ控えめで、おとなしい。
 ぼくの家の近所に住んでいて、ぼくと保育園もいっしょ。小学校もいっしょ。ぼくらはおたがい、兄と妹のようにして育った。だから十六夜は「お兄ちゃん」と、ぼくのことを呼ぶ。
「何万匹いるんだろ」と、ぼくは言った・
 ぼくは大井潤。自分のことは良くわからないけれど、十六夜に言わせれば「お兄ちゃんはガンコなんだから」「お兄ちゃんは一度言い出したら、聞かないんだから」だそうだ。
 ぼくら三人はケンカをしたこともない。
 ほかに友だちもいるけれど、この三人でいるのが、いちばん気楽でうまくいく。
「ねぇ、見て、お兄ちゃん。蝶たちが鈴が森の方へ飛んでいくわ」
 十六夜が言った。
「鈴が森に霧がかかってる」 
だけどこのことは、これからこの街に起こることの、ほんのきざしに過ぎなかった。



 その日のことは、夕方のニュースにもなった。

N件K地方で、日本ではめずらしいオオカバマダラの渡りがみられました。
オオカバマダラは、本来、北アメリカに生息する蝶で・・・

「遅くなっちゃったわ」
 母さんがスーパーのパートから帰ってきた。
「あら、このニュース。母さんも見たわよ、あの蝶の大群。すごかったわよねぇ」
「ぼくも見たよ。弘ちゃんと十六夜といっしょだった」
 母さんは、思い出したように、ふともらした。
「島本さんね」
「あそこのうちは、お父さんがかわってから、愛想がよくないのよね」
 もっと小さかったころ、ぼくは十六夜の家に預けられたり、逆に十六夜がぼくの家にやってきたりしていた。
 だけど近ごろ、ぼくも十六夜の家に遊びに行ったことがない。十六夜のお母さんが半年前に再婚してからだ。
 十六夜のお母さんの目が、ぼくを監視しているような気がして、なんとなくいずらいのだ。
「さあ、早く夕飯のしたくをしなくちゃ」
 母さんがあわただしく動きはじめた。



 翌朝、十六夜は、左目のしたに、青あざをつくって登校してきた。
「また、やっちゃった」
 十六夜は笑った。
「階段から落ちちゃったの」
「気をつけなよ」
 十六夜が転びやすいのは、いつものことだ。
 十六夜には足を引きずるように歩く癖がある。いつからそんな癖がついたのか、そばにいるぼくも気づかなかったけれど、そのせいだとぼくは思っている。
「そんなことより私、今朝すごいもの見ちやったの!」
「ふ~ん。なにを見たの?」
 十六夜はいつも物事を大げさに言うから、ぼくは慣れっこだ。
「頭に角がはえた白い馬」
「へ~。すげ~」
 いちおう、驚いたふりをしてみる。
「ねぇ、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ」
「お兄ちゃん、私、本当に見たのよ」
「わかった。信じる」
 もちろんウソだ。そんな馬いるか。
「それも何十頭もよ。たちばな公園の角をまがって、私の前をかけぬけていったの」
「う~ん」
「あの馬。私、なにかの本で見たことあるんだなぁ。ねぇ、お兄ちゃん。昼休みに図書室で調べてみましょうよう」
 十六夜がぼくの服を引っぱった。
「う~ん」



昼休み。
弘ちゃんも誘って、ぼくと十六夜は図書室へ向かった。
 十六夜が立ち止まったのは、神話や伝承の本が並んだ棚だ。
「どの本だったかなぁ?」
 十六夜は、しばらく迷っていたが、やがて一冊の本を手にした。
 題名は、『世界の伝説』。
 ぱらぱらと本をめくっていた十六夜だったが、やがて、あるページに目をとめた。
「あった!」
 ぼくと弘ちゃんは、顔をくっつけあうようにして、本をのぞきこんだ。
 挿絵入りで、説明が書いてある。

一角獣
ユニコーンとも言う伝説の動物。
額に角をはやし姿は馬に似る。
その角は毒を消す力を持っているとされる。

「朝、私が見たのが、これだったわ」と十六夜。
「やっぱり伝説の動物だよ」と、ぼく。
「だけど、昨日からなんかヘンじゃね。オオカバマダラがやってきたりしてさ」と、弘ちゃん。
 ぼくら三人は、本を前に考えこんでしまった。



 その夜。
 ぼくの携帯に電話がかかってきた。弘ちゃんからだ。
「潤! 窓あけてみろ! 潤!」
 なんだかあわてている。
「なんだよ?」
「いいから、外みてみろって!」
 ガラス窓を開けると、まだあたたかい夜の空気が、部屋に流れこんでくる。
「空だよ、空。上見てみ」
「あっ!」
 光のカーテンが夜空にはためいていた。
「オーロラだ!」
 赤と青の光がくるくるとうずをまいたり、滝のように流れ落ちたり、オーロラはさまざまに形を変える。
 この街のたくさんの人が気づいているらしく、同じように窓から空を見あげたり、家の外にまで出て、空を指さしている。
「潤! 聞こえてるか? 潤!」
 携帯電話から、弘ちゃんの声が、ぼくの名前を呼んでいた。



 翌朝、またしてもテレビのニュース。

N件K地方で、極地にあらわれるようなオーロラがみられました。
このようなはっきりとしたオーロラは、日本では非常にめずらしく・・・

「近ごろ、ヘンなことばかり起こるわね」
 トーストにバターをぬりながら、母さんが言った。
「本当だね」
 十六夜が一角獣を見た、とは言わなかった。
 その日、学校へ行くと、昨夜のオーロラの話でクラスはもちきりだった。
「ねえ、ねえ。昨日のあれ、みた?」
「みたみた! すごかったわぁ!」
「キレイだったわよねぇ」
「なんか幻想的って感じ」
 弘ちゃんが、ぼくの席にやってきた。
「潤! すごかったろ」
「うん。すごかった。この街でオーロラが見られるなんてね。だけど最近やっぱりヘンだよ」
「そうだな。一角獣をみたっていう、十六夜の話もウソじゃないのかも」と、そこまで言って、弘ちゃんは、十六夜の席に目をやった。
「なんだ。十六夜は休みか・・・」
 始業のチャイムが鳴って、戸田先生が教室に入ってきた。



 十六夜は学校に来なかった。
 あくる日もその次の日も。
 一週間がたって、ぼくは十六夜のうちへ行ってみることにした。
 十六夜のうちへ行くのは、半年ぶりだ。
 インターフォンを鳴らすと、十六夜のお母さんの声がかえってきた。
「どなたさまですか?」
「あ、ぼくです。大井です。」
「ちょっとお待ちください」
 しばらくして、十六夜のお母さんが玄関のドアから外に出てきた。
 半年前に会ったときより、なんだかやつれて見えた。
「あ、あの十六夜さんに会いにきたんですが・・・」
「十六夜になにか御用ですか?」
 十六夜のお母さんは、ぼくをじろじろとながめまわした。
 前にも言ったとおり、もっと小さかったころ、ぼくはこの家にたびたび遊びにきていた。
 十六夜のお母さんは、もっと気さくで、もっと明るくて、ぼくは本当によく面倒を見てもらったのだ。
「十六夜さんに会いたいんですが・・・」
 ぼくは自然に敬語になっていた。
「それはできません」
 十六夜のお母さんはそっけなく言った。
「少しでいいから会わせてもらえませんか?」
「あの子は病気です」
「インフルエンザかなにかですか?」
「とにかく会うことはできません」
 十六夜のお母さんは、いつからこんな話し方をするようになったんだろう?
 すっかり人が変わってしまったみたいだった。



 携帯電話が鳴った。
 着信アリ。また弘ちゃんからだ。
ぼくが、十六夜のうちから戻り、部屋で一息ついていたときだった。
「潤! 今から出てこれるか!」
 弘ちゃんは、今度もあわてていた。
「どうかした?」
「とにかく来てくれ」
「どこへ行けばいい?」
「西条通りのガード下だ。うちのすぐ近くだからわかるな。とにかくすぐだ」
 電話が切れた。
 ぼくは家をとびだした。
 西条通りが近づいてくるにつれて、ぼくは不思議なことに気がついた。
 風にのって、かすかに波の音がするのだ。ぼくらの街に海はない。
 波の音がいっそう近づいてきた。
「潤!」
 西条通りのガードのたもとで、弘ちゃんが手をふっていた。
「ここだよ! ここ!」
 ぼくは、あっと息をのんだ。
「海! 海だ!」
 西条通りの商店街。その向こう側が海になっていた。
 ガード下がちょうど波打ち際になっていて、さざ波がぼくらの足元まで押し寄せてくる。潮風にのって、ちゃんと海のかおりもする。
「どうなってるんだ?」
「ぜんぜんわからない。母さんに頼まれて、商店街におつかいに着たら、こうなってたのさ」
 ぼくらはしばらくだまって海をながめていた。
「潤! 見ろ!」
「潮が引いてく!」
 ぼくらの目の前で、さざ波が次第に小さくなっていった。
 やがて、かすかな波の音を残して、海は小さな水たまりになり、とうとう消えてしまった。



「海」を見たことは、ぼくと弘ちゃんだけの「秘密」ということにした。「誰も信じちゃくれないだろ。こんなこと」というのが、弘ちゃんの意見だった。
 翌日、最後の授業が終わると、戸田先生がぼくの席までやってきた。
「大井くん。ちょっと」
 戸田先生は小声で言った。
「職員室まで来てくれるかな」
「なんですか?」
「いや。職員室で話すから」
 戸田先生は小声で言ったのだけれど、それでもまわりのみんなには聞こえてしまったらしい。
「呼び出しだ!」
「呼び出しだ! 呼び出しだ!」
「おーい。潤が呼び出しだぞぅ」
「おまえ、何やった?」
「思い当たるふしがありすぎて、よくわからない」
 ぼくはそう言って、戸田先生のあとについていった。
 ぼくが案内されたのは、職員室の中の応接間だった。怒られるわけじゃないらしい。
「あ、紅茶でいいかな?」と戸田先生。
「はい」
 戸田先生は、ぼくに紅茶を入れてくれた。
「実はね」
 戸田先生は切りだした。
「話っていうのは、島本さんのことなんだ」
 十六夜になにかあったんだろうか?
「島本さん。ずっと学校を休んでるだろう?」
「ええ」
「ここだけの話だよ。内緒にしといてくれ。島本さんの捜索願が出されているんだよ」
 戸田先生は、ますます小声になって言った。



「きみは島本さんとずいぶん親しかったから、なにか知っていることはないかと思ってね」
 戸田先生は、身をのりだして、言った。
「本当にここだけの話だよ。ふつう、捜索願ってすぐに出すものだろう? ところが島本さんの捜索願は、先生が島本さんの家を訪問して、はじめて出されてるんだ」
「十六夜の両親は、先生が訪問するまで、十六夜のことを放っておいたってことですか?」
「そうなんだよ。しかも、最初は風邪だから休ませますって電話が、十六夜のお母さんから入ってるんだ。おかしな話だろう?」
「十六夜のお母さんはなんて言ってるんですか?」
「すぐに戻ってくると思っていたとか言ってたけど、親ってそんな冷たいものなのかね。島本さんのお母さんは、なにか知っていて隠している。そんなふうに先生は思うんだけどね。どうかな? なんでもいいんだ。島本さんのことでなにか知っていることはないかな?」
「十六夜は、一角獣を見たって言ってました」
「一角獣? ああ、ユニコーンだね」
「そうです。伝説の動物です。ぼくが知っているのはそれだけです」
ぼくは言った。
「そうか・・・。引き止めて悪かったね」
 戸田先生は言った。

十一

 たくさんのうわさが、学校中をかけめぐっていた。
「二組の斉藤が、一メートルもあるトンボを見たんだって」
「人がのれるくらい大きな蓮が、見沼にあるらしいよ」
「霧に隠された鈴が森には、魔女が住んでいるらしい」
 どれが本当でどれが単なるうわさなのか、ぼくや弘ちゃんには、見わけがつかなかった。
 今も、圭介と誠が、ぼくの席の前でうわさ話をしている。
「知ってる? 鈴が森の魔女って、じつはいなくなった十六夜なんだって」と圭介
「聞いた! 聞いた! あやしい魔術で、近ごろの不思議を起こしてるって」と誠。
「誰に聞いたんだよ! それ」
 ぼくがさけぶと、ふたりは怪訝そうにふりかえった。
「五組の香織だよ」と圭介。
「ずいぶん言いふらしてるみたいだぜ」と誠。
ふたりは、またうわさ話に戻っていった。
昼休み。ぼくは五組の香織のところへ事情を聞きに行った。
「私も一組の友田さんから聞いたのよ」と香織。
 一組の友田さんのところへまわる。
「私、魔女だなんて言ってないわ」
 友田さんは納得できない様子だった。
「不思議なことを起こしているのが、十六夜かもしれないって言ったのよ」
 それからたくさんの子をたどって、やっとうわさのおおもとをつきとめることができた。
 あまりにもたくさんの子から子へと伝わっていて、話も少しずつ変わっていったけれど、それは三組の綾子の話がもとになっていた。
「夜、オーロラを見た日だと思うの」
 綾子は言った。
 オーロラを見た日といえば、十六夜が学校に来なくなった前の日だ。
「私、塾の帰りに島本さんに会ったのよ。今からお父さんに会いに行くんだって、本当にうれしそうだったわ」
「お父さんに会いに行くって言ったんだね」
「そう。ずいぶん遅い時間だったから、今から行くのって、私、驚いたんだけど、お父さんのところなら、だいじょうぶだなって。そのとき、島本さんがヘンなこと言ったのよ」
「なんて言ったの?」
「おかしなことが、しばらく続くけど、あまり気にしないでって」

十ニ

「おかしなことか・・・十六夜のお父さんってどこにいるのかなあ?」
 お父さんといえば、十六夜のお母さんが別れたお父さんのことなんだろう。
「島本さんのお父さんが、働いているところなら知ってるよ」
 わきから、鴨下くんが口をはさんだ。鴨下くんとは三年前に同じクラスだった。
「これまで働いていた会社をやめて、いまは鉄工所にいるんだって。その鉄工所が、ぼくの父さんの下請けの会社なんだ」
「鴨下くんのお父さんは、十六夜のお父さんに会ったんだね」
「うん。授業参観のとき以来だったんだって。あまりの変わりように、びっくりしたって言ってた。ずいぶんやせちゃったみたいだよ」
「その鉄工所の名前はわかるかな?」
「う~ん。なんだったかなあ? そうだ! 長谷川工業株式会社ってところだよ」
 鴨下くんは言った。
 十六夜のお父さんに会ってみよう、とぼくは思った。

十三
 十六夜のお父さんが働いている鉄工所は、街の中心を流れる桜川のすぐそばにあった。
 鉄工所の中に入ると、がっしりとした体格のおじさんが、機械を動かしていた。
「すいませーん」
 ぼくが声をかけると、鉄工所のおじさんは顔をあげた。
「なんだ? ぼく。なんか用か?」
「湯川さんという人が、ここで働いているはずなんですけど」
 十六夜のお父さんは、湯川という。
 おじさんが機械を止めて、こっちへやってきた。
「なんだ、知らねぇのか。湯川さんは死んだよ」
「死んだ!」
「だけど、変な死に方したんだよなあ。とつぜん会社に来なくなって、アパートをたずねていったら死んでいた。いわゆる孤独死ってやつだ。死因はわからずじまいさ」
「会社に来なくなったのは、いつごろですか。くわしく教えてもらえませんか?」
「なにを調べているのかしらねえが、あまり人のことに首つっこまねえ方がいいぞ」
「だけど知りたいんです」
「まあ、そこに座んな」
 鉄工所のおじさんは、そばの丸イスをぼくにすすめた。
「湯川さんが会社に来なくなったのは、ニ週間前だ。蝶がたくさんやってきた日があっただろう? その次の日だよ」
 そのとき、湯川さんが亡くなっていたとすれば、十六夜は死んだお父さんに会いに行ったことになる。
 ぼくはわけがわからなくなってしまった。
「死ぬちょっと前に、へんなこと言ってたなあ。なんでも一角獣がどうとか・・・」
「一角獣! どう言ってたんですか?」
「そのことなら細田に聞くといい。湯川さんと親しくしてたからな」
 おじさんは言った。
「今日は休みだが、行ってみるといいや。地図も描いてやるし、電話も入れといてやっから」

十四

 その週の日曜日、ぼくは細田さんのアパートをたずねた。
 細田さんのアパートは、すずらん通り商店街をわきにそれた住宅地にあった。
「やあ、きみが潤くんだね」
 よく日に焼けた、背の高い男の人が、ドアから顔を出した。
「せまいけど、あがってよ」
 通された部屋の壁を見て、ぼくは息が止まりそうになった。
「あ、あれ!」
 立派な額に入った一角獣の絵が、壁にかかっていたのだ。
「ああ、これか」
 細田さんは言った。
「湯川さんが描いたものだよ。湯川さんは、趣味で油絵をやっていてね。この絵は亡くなる少し前にぼくがもらったんだ」
「亡くなるちょっと前っていうと、オオカバマダラが街にやってきた日ですか?」
「オオカバマダラ? ああ、あの蝶のことだね。そうだね。その頃だ。ところで、きみはこの一角獣のことを、ぼくに聞きにきたんだろう?」
「そうです。湯川さんがなんて言ってたか、それを知りたいんです」
「それがね」
 細田さんは、目を細めて、一角獣の絵をながめた。
「一角獣は本当にいるって、湯川さんは言ってたんだよ」

十五

 細田さんは話をつづけた。
「鈴が森に一角獣はいるって。その頃からなんだ。鈴が森に霧がかかるようになったのは」
「湯川さんは、亡くなる前、どんなふうでしたか?」
 ぼくはたずねた。
「湯川さんは、ぼくには時間が残されていないって、よく言っていたよ」
「時間が残されていない・・・」
「月に一回。娘さん、十六夜ちゃんだっけ? とも会っていたらしいね」
「ええ。それは知っています。十六夜がよく話してたから」
「それが、別れた奥さんが再婚してしばらくしたら、会えなくなったって、ひどく寂しそうにしていたよ。生きる力のようなものが、だんだんと失われていくんだって。そう言ってた」
「生きる力・・・ですか」
「そのときは本当に亡くなるなんて思わなかった。この絵は形見のつもりだったんだな」
「そうですか」
「この絵をくれるときに、湯川さんは言ったんだ。これからおかしなことが、たくさん起こるけど、あまり気にするなって。一角獣がいなくなれば、街は元通りになるからって」
 その言葉は、十六夜がいなくなる前に、綾子に言った言葉とよく似ていた。

十六

 ぼくは、これまでのことを弘ちゃんに話してみた。
 弘ちゃんはだまって聞いていたが、やがて言った。
「十六夜はお父さんに会いに行くって言ってたのか。だけど、それが本当なら、十六夜は亡くなったお父さんに会いに行ったことになるな」
「そうなんだ。十六夜は死ぬつもりだったのかな?」
「そう決めつけるのは、まだ早いさ。たくさんのことが起こったけれど、まだまだわからないことが多すぎる」
 弘ちゃんは、ノートに「これまでにわかったこと」と書いて、箇条書きにしていった。

十六夜と十六夜のお父さんは、二人とも一角獣を見たと言っている。
十六夜と十六夜のお父さんは、二人ともおかしなことがたくさん起こると言っている。
十六夜がお父さんに会いに行くと言った日、お父さんはもう亡くなっていた。
十六夜がお父さんに会いに行くと言った日、十六夜はいなくなった。
オオカバマダラが街にやってきた日、お父さんはまだ生きていた。
オオカバマダラが街にやってきた頃から、鈴が森に霧がかかるようになった。
十六夜のお母さんは、なにかを隠しているらしい。
十六夜のお母さんが再婚してから、十六夜のお父さんは十六夜に会えなくなった。
鈴が森に一角獣がいると、十六夜のお父さんは言っていた。

「このくらいかな。わかったことは」
 弘ちゃんが、ため息をついて言った。
「謎だらけだな。だけど、キーワードはやっぱり一角獣ということになる」
 ぼくらは一角獣がいるという鈴が森へ行ってみることにした。

十七

 深い霧が鈴が森をかくしていた。
 進むにつれて、霧はますます深く、濃くなっていった。
「本当に十六夜のお父さんはここにきたのか? 道案内もなしに」
 弘ちゃんが言った。
「これ以上、進むのは無理だよ。戻れなくなる」と、ぼく。
「とにかく少し休もう」
 弘ちゃんが言って、ぼくら二人は太い木の幹にもたれて座った。
「潤。鈴が森ってこんなに大きな森だったか?」
「さっきから同じ道を、ぐるぐるまわっているような気もする。どうしようか?」
「とにかくまっすぐ進んでみよう。森の向こう側に突き抜けるまで」
 ぼくら二人は、ふたたび歩き始めた。
 弘ちゃんが立ち止まった。
「おい、潤! なにか聞こえないか?」
 ぼくは耳をすませてみた。
 かすかに馬のいななきが聞こえる。そして、蹄の音。
 いななきがいっそう大きくなった。
 一頭の一角獣が、そこでぼくらを待っていた。

十八

「おい、一角獣だ!」
 弘ちゃんが叫んだ。
「すごい! 本当にいたんだ!」
 一角獣は、首を大きくふると、向こう側を向いた。
「道案内をしてくれるらしいよ」と、ぼく。
 ぼくらは、一角獣のあとについて、霧の中を歩いていった。
 一角獣は、ときどき立ち止まっては、ぼくらをふりかえり、また歩き出した。
「どこへ案内するつもりなんだろう?」と、ぼく。
「とにかく今は、ついていくしかないさ」と弘ちゃん。
 それから、どれくらい歩いただろう? 弘ちゃんが叫んだ。
「おい! 霧がうすれていくぞ!」
「ほんとだ! なんだろう、あれは?」
 霧が晴れた。
 巨大な森が水晶のようにそびえていた。
 それは、すきとおった森だった。

十九

ぼくらは、一角獣をともに、すきとおった森の中を進んでいった。
風が吹くたび、ガラス細工のような木の葉が、いっせいに音楽をかなでる。
「なんて場所なんだ。ここは」
弘ちゃんは、あっけにとられていた。
「鈴が森にこんなところがあったなんて」
 夢の中のようだ、とぼくは思った。
 それでも、一角獣はゆっくりと森の奥へと進んでいく。
 やがて、ぼくらは森の広場のような場所へ出た。
何十頭もの一角獣が、だれかを丸く取りかこんでいる。
「お兄ちゃん・・・弘平くん・・・」
一角獣の中心に立っていたのは、いなくなったはずの十六夜だった。

二十

「とつぜん、いなくなってごめんね。お兄ちゃん。だけど、私にはもう時間が残されていないの」
 十六夜は言った。
「十六夜。ここは・・・ここはどこなの?」
 ぼくはたずねた。
 「ここはと呼ばれる世界なの。死んだお父さんもしばらくここにいたけれど、この世界を通って、先に向こう側へ行ったわ。まわりを見て、お兄ちゃん。それに弘平くんも」
 すきとおった樹木の中で、ちろちろと青い焔が燃えていた。
「これは命の焔」
 十六夜は言った。
「見て。お兄ちゃん」
 十六夜は、一角獣の輪から外に出て、一本の樹に手を当てた。
 すきとおった樹木の中で、赤い焔がさかんに燃え盛っている。
「ほら、お兄ちゃんの焔は、まだこんなに盛んに、燃えている。だけど、そうじゃない命もあるの」
 十六夜は、もう一本の樹に手を当てた。
 そこに焔は見えなかった。
「この木には、もう命が通っていない。やがて崩れて、砂に返ってしまう」
 気がつけば、焔が燃え尽きた樹も、まわりにはたくさんあるのだ。
 焔の燃え方は、それぞれ違っていて、どれ一つとして、同じものはなかった。
 揺らめきながら、燃えている焔。
 線香花火のように、かすかな火花を散らしながら燃えている焔。
 点滅を繰り返しながら燃えている白い焔。
「それぞれの命のあり方が違うように、焔の燃え方もそれぞれに違う」
 十六夜は言った。
「命のあり方・・・」
「たとえば、お兄ちゃんの命のあり方と、私の命のあり方は違う。ほら、見て。これが私の樹」
 十六夜は、また別の樹に手を当てた。

二十一

 十六夜が手を当てた樹の中では、小さなダイヤモンドのような焔が、今にも消えそうにゆらめいていた。
「わかるでしょ。もう私には時間が残されていない」
「どうして! どうしてこんなことになったのさ!」
 弘ちゃんが叫んだ。
「島本さんのせいだと思う」
「島本さんって?」
 ぼくはたずねた。
「お母さんの新しい結婚相手。私の義理のお父さん」
 十六夜はうっすらと笑った。
「殴られたり、蹴られたりしているうちに、たぶん頭の中がどうにかなっちゃったんだと思う。お母さんも知っていたけれど、だまって見ていたわ。このことを人に知られるのを誰よりも恐れていた。だから、私の本当のお父さんにも会えなくなった」
「そんなことをされていたの・・・まるで気がつかなかった」
 ぼくは言った。
「私はお兄ちゃんたちの前では、いつも明るくいたかった。心配させたくなかった。だから、隠していたの」
 十六夜は続けた。
「だけど、もう限界。わかる? お兄ちゃん。生きる力のようなものが少しずつ失われていったの」
「なんとか、なんとかならないの!」
 ぼくは叫んだ。

二十ニ

「今も舌がもつれるし、指先がずっとしびれてるの。うまく生き延びることができたとしても、うまくしゃべれない。うまく歩けない。そんな大人になるんだと思う」
 ぼくと弘ちゃんは、だまって十六夜の話を聞いていた。
「そんなのは嫌なの」
 十六夜は、ふたたび一角獣の輪の中に戻っていった。
「私はもう十分に苦しんだと思うから」
 十六夜はぽつりともらして、一角獣たちを見まわした。
「だから、私は残されたわずかな時間、この子たちといっしょにいるって決めたの」
 一角獣たちは、十六夜を守るように取り囲んでいた。
「最後に聞いていいかな?」
 弘ちゃんが言った。
「オオカバマダラがやってきたり、オーロラが出たりしたのは、一角獣の力だったんだね」
「そうよ」
十六夜は答えた。
「そして、この森の力でもあるの。森と一角獣はここでは同じなの。森が一角獣に力を与え、一角獣がこの森をつくりあげているの」
「森の力・・・」
 ぼくはつぶやいた。
「だけど、ここももう閉じるわ。街は元通りになる」
「これで・・・これで本当にお別れなの・・・」
 ぼくが言うと、十六夜はうなずいた。
「楽しかったなあ。お兄ちゃんと弘平くんといると。いっしょにいれて、本当に良かった」
 十六夜が言った言葉に、ぼくも弘ちゃんも泣き出してしまった。
「ありがとう。お兄ちゃん。弘平くん」
 それが、十六夜の最後の言葉だった。

二十三

ごごごごっという、地響きのような音が聞こえ始めた。
すきとおった森が崩れ始めたのだ。
一頭の一角獣が、いななきをあげて、ぼくらの前にやってくると、背中を向けた。どうやら、ぼくらに乗れと言っているらしい。
ぼくと弘ちゃんは、一角獣にとび乗った。一角獣が走り始めた。
「潤! 落とされるなよ!」
 一角獣にしがみつきながら、弘ちゃんが叫んだ。
 ぼくらの目の前に、大きな樹が倒れてきた。
一角獣は、大きくいななくと、その樹をとびこえた。
とぶような速さだ。
倒れてくる樹を、一角獣は次々ととびこえていく。
緑の森がもどってきているのに、ぼくは気がついた。霧は晴れている。いつもの鈴が森が戻ってきたのだ。
一角獣が歩みを止めた。森の出口まできたのだ。
一角獣は、ぼくらがおりると、またたくまに森の奥へと走り去った。

二十四

 こうして十六夜は、いなくなった。
 それから街でおかしなことは起こらなくなった。
 弘ちゃんはというと、三ヵ月後に別の学校に転校していった。
 今でもぼくは、三人で過ごした日々をなつかしく思うことがある。
 もうもどってはこない、その日々を。
 

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