光城 朱純

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最後の相手

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 楽しい時間とは、かくも急ぎ足で過ぎ去るものか。これまでの生の中では感じることのできなかった充足感。
 満たされた想いに身を埋めながら、近寄る恐怖から目を逸らす。
 私にとっての最後の人間。それは間違いなく彼だ。
 ただそれを、彼に強いても良いのだろうか。
 忍び寄る恐怖の時は、間違いなく彼に最期の瞬間を見せる。
 その刹那、彼は私を恨むだろう。彼から与えられる憎悪の感情を、受け止められるだろうか。

「退屈しのぎももう十分だ。さて、この時間もそろそろ終わりにしよう」

 彼を解放してやろう。まだ間に合うに違いない。

「私を、喰らうのですか?」

「いや。まだ腹は減ってはおらぬ。ただ、急用ができた。其方との時間は終わりにしよう」

 私も女々しいな。ここから逃げろと、一言そう言えば良いだけなのに。
 では、と言われて足早に立ち去られるのがかくも怖いか。
 ひと呼吸の間ですら、この時間を長引かせたいか。

「貴女の急用が終わるまで待ちましょう。その時に空腹であるならば、この身を差し出しますよ」

「其方は解放してやる。もう糸が伸びることはない。安心して出ていくが良い」


✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎


 
 心穏やかな時間は突如終焉を迎えた。
 彼女の口から告げられる、閉幕の口上。
 もう一分、あと一秒、この時間を延ばすことはできないか。
 彼女の興味を惹く言葉を紡ぐことができれば、その時間は延びるはず。

「糸が伸びないとは、どういうことです?」

 何でも良い。一言この口を動かせ。

「私が気を動かすことはもうない。さすれば、糸は伸びぬ」

 彼女は何を諦め、何をこんなに焦っているのか。
 急用とは何か?

「どこかへ、行かれるんです?」

「来客があってな。はよ立ち去れ」

 もう、これ以上は無理だ。
 立ち去れと言われてしまった私が、ここに居続けることはできない。
 彼女の意思で連れてこられたわけでもない。糸が勝手に用意した人間。
 彼女の一存でどうにでもなってしまう身で、これ以上どうしようというのか。

 渋々と重い腰をあげれば、漂ってきたのは鼻の奥を突く嫌な臭い。
 遠くで聞こえる木の軋む音。それに紛れる喧騒。

「来客は人間ですか?」

「もう、間に合わぬではないかっ」

 余裕と隣り合わせで生きているような彼女の、苦痛に苛まれたような表情。
 それすらも余計に彼女を扇情的に見せて。この魅力に当てられてしまえば、蜘蛛の巣に捕らえられた心は微動だにしない。

「間に合わない。それも結構。私の旅はここで終えます」

「勝手なことを申すな」

「動物というのは、元来勝手なものです。自分勝手に振る舞い、今もこうして土足で踏み込んで来るのですから」

「其方を助けに来たと」

 彼女の耳には、私に聞こえる何倍もの音で雑音が届く。
 そんな音を、彼女の耳に届けるな。
 私は助けなど求めていない。思い上がりもいいところだ。

「私が最後に気持ちを向ける相手が貴女で良かった。貴女に感謝と敬意を」

 もう一歩彼女の近くに寄り、再びその側へと身を寄せる。
 
「感謝するのは私の方だ。其方が最後の人間で良かった」

 目の端に糸が伸びるのが見える。するすると先端を揺らすそれは、踏み込んできた者を排除するのではなく、私と彼女を守るようにその身を包む。
 蚕の繭のように糸に包まれ、外界から遮断された空間に彼女と私が二人きり。
 じわじわと熱に命を脅かされながら、思うことは彼女のこと。
 名前すら知れない相手。
 そんな相手と輪廻を思う。
 
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