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優秀な弟 1

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 何があるかわからないからって送ってもらった駅までの道のりは、二人の間の空気がどこかぎこちなくて、これまでに感じたこともない雰囲気に包まれていた。

 手を引かれた早川の力強さも、頭に響いた心音もずっと残り続けて。
 帰りたくないって気持ちのままに口にできなかったのは、瞼の裏に『頑張れ』の文字が浮かんだからだ。
 まだたった二ヶ月。広瀬課長の姿を見なくなって、それだけしか経っていないのに。
 自分の中に湧き上がる気持ちがどうしても不誠実に思えて仕方ない。

 二ヶ月前まで、広瀬課長のことを好きだって言っていたのに。初めて買ったバレンタインチョコだって渡したくせに。
 あっちがダメならこっちなんて、そんなに簡単に切り替えるなんて、節操なしにも程がある。
 さすがに早川だって、こんな気持ち知ったら呆れてしまうに違いない。
 だからこそ、あれ以上何も言ってくれなかったんだ。

『今夜は無理そう。明日にする?』
 あの日、僕を真っ先に呼んでくれるって言った早川は、毎週律儀にメッセージを送ってくれる。
 何曜日って決めたわけじゃない。
 それなのに、気がつけば毎週金曜日が僕たちの定例になっていた。
 金曜日がダメなら土曜、日曜って、僕の白紙の休日に色をつけていく。スケジュールが埋まっていくように、僕の気持ちが埋まっていく。

 広瀬課長で埋められていた心。今、早川に塗り替えられていて、毎週みっともないぐらいドキドキしてる。
 早川はどう思ってるんだろう。
 何を考えてるんだろう。
 不安で揺れる僕の視線を、何でもない様に受け止めて微笑み返してくれる。

 このままでいい。
 これ以上を望んだりしない。
 今でも僕には、自分に訪れた奇跡の様な瞬間を自分で壊す勇気はなくて。
 この関係が壊れてしまうぐらいなら、何も言わずにいることを選ぶ。
 早川までいなくなってしまったら、今度こそ僕は堕ちていくだろう。

『明日でも良いし、早川が忙しいならまた今度にしよう』
 係長になって、これまで以上に早川が忙殺されてるのを知ってる。
 毎日何時に帰れてるのか、ちゃんと休日を取れてるのか、僕の知らない所で無理し過ぎてないだろうか。
 そんな早川の負担になりたくなくて、毎週の必要なんてないって伝えたいのに。

『そんな言い方するなよ。俺の楽しみ奪ってくれるな』
 僕のためじゃなく、自分のために会いたいって言ってくれるから。
 つい甘えてしまう僕がいる。
 他人に必要とされる心地よさに浸かっていたくて、早川に掛かる負担を無視してしまう。

『それなら、明日の夜』
 もう数週間続くお決まりのやり取り。こんなに気軽に誰かと土曜日の約束ができる日が来るなんて。
 僕の煌めいた日々はまだ、こうして繋がっていて、信じられないぐらい眩しい。


「悪い。待たせた」

「良いよ。どうせ暇だし……って、今日も仕事だった?」

「あ? あぁ。午前中だけのつもりだったんだけど、終わらなくてな。着替えていられなかった」

 今夜の店は僕の家の近くだ。
 最寄駅で待ち合わせた早川の格好は、平日と同じスーツ。
 ビシッと決まった早川の隣に並ぶ、休日の気の抜けた姿の僕。
 もう少し、気合い入れれば良かった。

「そっちに行けば良かったかな。電車、大変じゃない?」

「大したことない。それに、今週は笠原の家の方だって約束だったろ? こっちに来たら、またいつもの餃子になるからな」

「それも良いけどね。餃子、好きだよ」

「毎週じゃ、さすがに飽きるぞ」

 早川の言葉に、つい笑いが溢れる。
 毎週どころか、週に三回は食べに行ってるだろうに。早川と会話してる僕が、気付いてないとでも思ってる?

「何が可笑しい?」

「ううん。あの味に飽きるときが来るのかなって思って。相当好きでしょ?」

「正直、飽きる気がしない。それに他の店を探す方が面倒だ」

「じゃあ僕が代わりに探すよ。何が好き? 早川のこと、教えて?」

「お……お魚」

「お魚? わかっ、わかったよ。ね。探しておく」

 早川の口から出た思いがけない単語に、返事がうわずって仕方ない。
 お魚……お魚……おさかな。
 頭の中で繰り返せば繰り返すほど、その響きが笑い声になって口からこぼれ出る。

「お前、性格悪いぞ」

「悪い? 元からだけど?」

「まぁ、俺といて緊張しなくなったなら良いか」

 早川の大きな手が僕の肩に触れる。
 その場所に自分の全神経が集中したように熱くなって、その熱さに反応して心臓が大きく音を立てた。
 また、バレバレの顔してるかな。
 広瀬課長への気持ちに気づいてしまったぐらい察しの良い早川に、僕の気持ちは既にバレてるに違いない。隠すことのできない僕の気持ち、少しぐらい伝わってると良いのに。

 僕より頭一つ分背の高い早川の顔を、下から見上げる様に伺えば、目を合わせた早川が口元に笑みを浮かべてくれる。目を細めて僕のことを見る素振りは、どこか広瀬課長にも似ていて。
 僕の胸が二重に高鳴る。
 早川に与えてもらえる幸せな時間。
 誰にも壊させやしない。
 それがたとえ僕自身だとしても、許すことなんかできない。

「もう、緊張なんてしないよ」

「お、本当?」

 少し意地を張った僕の気持ち、見透かされてるかもしれない。
 僕のことを揶揄ってる様に、意地悪く笑う早川の顔を直視できないのは緊張してるからじゃない。
 伝わってほしくて、伝わってほしくない気持ちが、僕の心臓の鼓動を早くする。
 目、合わせていられないよ。

「あれ? 隼斗はやと?」

 早川との他愛もない会話の最中、それを割り込んでくる様に聞こえた僕の名前。
 聞き覚えがある、ぐらいのことじゃない。
 耳にこびりついて離れない。
 この世の中で、僕のことを名前で呼ぶ数少ない人物。

優斗ゆうと?」

 名前を呼びながら、僕の全身から血の気が引くのを感じる。
 手の先も足の先も一気に冷えたのに、妙に頭の中だけが熱い。

「相変わらず、だな」

 僕の頭から靴の先までを見回した優斗が、嫌そうにそう告げた。
 優斗の言葉にはどこかトゲがあって、僕を根っから馬鹿にしてるのがわかる。

「久しぶり……」

 心臓は今にも破裂しそうなぐらい大きな音をたてていて、早川がいなければ逃げ出してしまっていたかもしれない。
 それでも、そんなことができるわけもないから、どこか諦めた気持ちで優斗と目を合わせた。
 出来損ないの僕の、優秀な弟と。
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