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最後の相手 1

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 課長が日本を発ったのは、あの日から一ヶ月もしないうちだった。
 三月の始め、早川から届いたメッセージ。
『課長、今日だよ』
 それで初めて出発を知ったんだ。

 バレンタインのあの日、思いを口にした僕と最後までしなかった課長。
 その気持ちを尊重しなきゃって、それが僕の思いを受け取ってくれた課長に返せる唯一のもの。

 僕が泣き止むまでゆっくり食事をして、落ち着いてから普段と変わらない別れの時間。
 それが最後になるって、お互いにわかってて。
 きっと、最後にしようって決めてて。
 それでもいつもと変わらない挨拶を交わして、その場を別れた。

 課長の『また明日』がそのまま守られない約束になるなんて思いもしなかった。
 引越しの準備と、外部との引き継ぎ。昨日まで社内に居た人の姿が見えなくなって、二課の課長の席には他の人が座って。
 少しずつ無くなっていく課長の影。
 それでも、縋ったりしない。
 課長が認めてくれた僕は、僕がなりたかった理想の姿。仕事に真摯に向き合って、いつでもなりを整えて。
 そうあろうって、これまでよりも深く心に刻んだ。

 課長の出発を知ったって、僕が見送りに行けるわけもない。行ったところで、部外者には居場所なんてない。
 それなら、いつもと変わらぬ日常を。
 それこそ、僕が縛られずに僕でいることだから。
『いってらっしゃい。お体、気をつけて』
 僕から送った最後の言葉。
 課長からの返信は、メッセージには来なかった。

 今寝室のコルクボードに貼られた一筆箋は二枚。
 ホワイトデーに受け取った宅配便。
 差出人は『広瀬 晃平こうへい
 宝石箱みたいなキャンディボックスが届いて、それに付けられた一言。
『頑張れ』
 広瀬課長の力強く書かれた文字。
 仕事? それとも、課長の言う誰かを見つけること? 忘れることなんて、言わないよね。
 毎朝二枚の一筆箋を見て、自分に言い聞かせる。
 課長が認めてくれた僕に、一歩でも近づきたい。

 
「失礼します。不要紙の回収です」

 毎週月曜日、課長がいなくなっても変わらない僕の習慣。

「笠原。おはよう」

「早川係長。おはようございます」

 広瀬課長に代わって、僕に声を掛けてくれるようになったのは早川だ。
 課長が抜けたポジションを埋めるように昇進が決まって、いよいよポスト広瀬が現実味を帯びる。

「また、飲みに行く?」

「わかりました。また連絡して下さい」

 僕の敬語に、早川が少し不貞腐れた様な顔を見せる。
 仕方ないだろ?
 いくら同期とはいえ、他部署の係長相手に僕が言葉遣いを崩すわけにはいかない。
 最初の頃はつっかえていた僕も、もうすぐ一ヶ月だ。そろそろ早川にも慣れてもらいたい。

「昼メシは……」

「部屋で食べますよ」

「あ、そう」

「それでは、失礼します」

 食堂でのお昼も課長の移動が決まって消滅した。
 元々課長が食堂のメニューに飽きるまでって話だったはずだ。
 飽きることができたかどうかわからないけど、僕と早川がそれを続ける必要はない。
 全部元の形に戻っていく。
 この一年が奇跡だっただけ。
 多分、僕の人生で一番輝いていた。


 あぁ。全部元には、戻ってないな。
 帰りの電車の中、路線図の中から一つの駅名を見つめた。
 毎週金曜日、通い続けた駅。
 そこから抜け出そうって、もうやめようって努力した日々。
 自分が誰かに求められてるって実感したくて、体を差し出すしかなかった。
『お前でいいよ』
 そう言われることで救われて、嬉しくて。
 相手にとっては、僕なんて何の価値もなかったのに。

 金曜の夜を思い出さなくなったわけじゃない。
 体が疼かなくなったわけじゃない。
 そんな賢者になんてなれっこない。
 それでも、課長の横に並んでいられるように。あの『頑張れ』を真っ直ぐに見ていられるように。
 涙を拭ってくれる誰かに出会った時には、自分に自信を持っていたいから。
 僕のことを受け入れてくれる人は本当にいるんだろうか。
 愛されたいっていうのは、身の程知らずな願いかな。
 
 最寄駅から歩いて行ける焼き鳥屋。
 課長の酔った姿を初めて見た店。
 少し辛口の日本酒と串入れに刺さる串は何も変わらない。
 あまり強くもないお酒を入れて、ふわふわした気分で帰路につく。
 僕の行きつけの一軒は、あの赤提灯の店だ。
 課長の跡を辿った夜は、コルクボードの文字が涙で滲む。
 
 早川への敬語には慣れた。
 それなのに、課長のいない日々に慣れることができない。
 ぎりぎりの綱渡りみたいに、何とか普段と同じように振る舞うだけ。
 認めてもらえない努力をする意味は何?
 気づいてもらえないのに頑張るの?
 僕の踏みしめてる綱は、そのうち切れてしまいそうなぐらいほつれてる。
 真っ逆さまに、あの沼に落ちていってしまう。
 僕が立っていられる理由は、課長への思いだけ。

 
 今夜も営業二課は残業かな。
 定時に出た会社の窓、外から見上げるのも慣れたものだ。
 営業二課のある場所だって、もう無意識に目がいってしまうぐらい。
 闇が包み始める前の、紫色の空に浮かぶ蛍光灯の明かり。
 いつだって仕事に精を出す、優秀な彼らに思いを馳せる。

 今夜はどこに行こうかな。
 口コミサイトを開いて、目星をつけた店の情報を次々に広げる。
 食べ歩きは終わらない。
 今度課長に会ったときには、僕の好きな店を紹介しよう。
 課長が連れて行ってくれたのと同じくらい、何軒も何軒も紹介しよう。
 それまでに、できる限り行ってみないと。

 今夜の店を決めて会社から離れる。
 開店時間が遅めの店は、まだ開く前だ。
 どこかで時間を潰そうと辺りを見回した。

「笠原君?」

 聞き覚えのある声に、視線が泳ぐ。
 会社からは少し距離がある。僕の勤め先を知られることはないだろう。
 今になって。こんなところで。

「はい」

「あぁ、やっぱり! あれから何度かあの店に行ったんだけどね。笠原君はもう来てないみたいだったから」

 ゆっくりと相手の顔を確認すれば、思った通りの人。
 もう一年も前になる。
 金曜日の夜、最後の相手は彼だった。
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