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たどり着いたのは、僕の部屋 1
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広瀬課長と食事に行ったあの金曜日は、今思い返しても夢のような時間だった。
自分を蔑むことに懸命にならなくても、満たされた思いでいられる休日。僕にもあんな一軒を見つけられるんじゃないかって、数ヶ月ぶりに当てもなく外を歩き回ったりして。僕らしくもない。
社内での課長との距離感もぐっと縮んだ気がする。早川や他の営業二課の人に話しかけるような態度で接してもらえて、まるで部下の一人に加えてもらえたみたいだ。もちろん僕が営業なんて花形部署にいけるわけもない。一緒にしたら、怒られるかな。
偶然会えば会釈して、間が合えば立ち話して、たまには一緒に食事に行って。
広瀬課長と話せたことを思い出して、明日もまた会えることを願って眠りにつく。まるで中学生みたいな片思い。
それで十分幸せだった。この先もこの時間が続けばそれで良いって、本気でそう思った。
金曜日の夜は誰かに満たしてもらって、情けない思いをするための日じゃなくなった。このままこうして、あんな日々から遠ざかっていこう。広瀬課長の隣に、少しでもまともな自分で立てるようにしよう。あの沼から、抜け出そう。
『今夜はどこ行く?』
金曜日の午後四時。定時の一時間前に送られてくるメッセージは、広瀬課長からの誘いの文句。
金曜日の約束は、ちょうど二ヶ月ぶりだ。
『今夜は僕が紹介します』
人に紹介できる一軒を探そうと、口コミサイトを参考に始めた食べ歩き。まだ一度しか行ったことがなくても、きっと気に入ってもらえるんじゃないかって誘える日が来るのを待った。
『笠原から紹介されるの初めてだ』
『うちの近くなんで、電車乗りますが大丈夫ですか?』
料理をしない広瀬課長はいくつもお店を知っていて、そのどれもが美味しかった。残業の多い課長に合わせて、会社の近くで時間を潰して食べに行く。人気者の課長は金曜日の夜の予定はしっかり埋まっていたから、移動する必要のあるあの店には誘えなかった。
『大丈夫。一時間で終えるから、待てる?』
『はい。待ってます』
お仕事頑張って――そんな思いを込めて送信ボタンをタップする。流石にその言葉は送れない。
会社の上司なんだって、意識して線引きしておかないと、余計なひと言を言ってしまいそうになる。そしたら、すぐにでもこの関係は崩れてしまう。
広瀬課長が僕を誘ってくれる理由はわからない。もの珍しさが優ってる今の時間が過ぎ去れば、その辺の石ころの様に見向きもされなくなるだろう。
それまでに、できるだけたくさんの思い出をもらって、それを宝箱に入れて大切にしておければ、それだけで生きていける。
「あんまり店知らないって言ってなかった?」
「そうなんですけど、この間たまたま……」
二人で電車に揺られて、吊り革に捕まっても余ってしまうその長身に見惚れて。
店にたどり着く前にどうにかなってしまいそうだった。
「今夜は飲みたい気分だったから、居酒屋でありがたい」
「遠慮なく飲んで下さい。家近くなんで、僕もお付き合いします」
連れてきたのは炭火焼きの焼き鳥屋。赤提灯が目立つ小さな店。そんな店を見た課長のフォローにも似た言葉は、僕の気持ちを落ち着かせてくれる。
「あー。美味いなぁ」
丁寧に焼かれた肉と、それにつけられるタレ。塩味の加減もちょうど良くて、次々と串入れに串が刺さる。
少し濃い目の味に合わせて、辛口の冷酒を呷りながら課長が息をつく。
「何かあったんですか?」
これまで何度か一緒に食事をしてきたが、こんな飲み方をするのを初めて見た。
「ははっ。流石にばれるよなぁ。大きな仕事をね、一課に取られた」
「取られた?」
「向こうの企画のが上ってこと。向こうの課長の方が歳上だしさぁ、根回しも上手いよなぁ。『やっぱり若いだけじゃあ』なんて嫌味言われて、うちの奴らに悪いことしちゃったよ。俺が課長じゃなきゃ、企画通ってただろうに」
営業部を二分する一課と二課のやり合いは今に始まったことじゃない。他社と競合する前に、社内で競合させることで、より良い提案ができるなんて言ってるけど、その度にどっちかがこんな風に苦汁を飲んで。社内で歪み合うなんて、本当に良いことなのかもわからない。
「広瀬課長のせいじゃないです」
「慰めてくれなくてもいい。二課は二番手だからさ」
投げやりにそう言うと、また一杯酒を呷って。もう何杯目になるだろうか。
「そろそろやめた方が良いです。飲み過ぎですよ」
「俺がもう少ししっかりしてれば」
そう言うと僕の目の前にあったコップを持って、課長が一気に飲み干した。中身は、僕が飲み途中だった冷酒。
かっと顔に熱が上がるのを感じたのは、思いがけず間接キスになってしまったその行為に、描いちゃいけない想像を描いてしまったからだ。
「課長は十分やってるはずです。皆さんにあんなに慕われてるじゃないですか」
冷静を装って声をかけても、広瀬課長に僕の言葉が伝わってる気がしない。空になったコップを手で弄びながら、やり切れない思いをどうにか消化しようとしてるんだ。
「もう一杯……」
酒で流し込まずにはいられない思い。普段の課長からは想像もできない姿に、そんな姿を見せてくれたことに嬉しさが込み上げて仕方ない。
「課長、そろそろ出ましょう。送りますよ」
まだ飲み足りないと言いたげな課長を引っ張って、大通りに向かって歩く。こんな状態で電車になんか乗せられない。せめてタクシーに乗せて、家まで運んでもらおう。
そう考えてタクシーを待つも、金曜日の夜のタクシーは道端の僕になんか目もくれず、目的地に向けて走り去る。
捕まらないタクシーとせまる終電。
「課長、タクシー捕まらないんで、少し歩きますよ」
酔って判断力の低下した広瀬課長と一緒に、大通りを横切ってもう一度裏道へと入る。
到着したのは、僕の部屋。
自分を蔑むことに懸命にならなくても、満たされた思いでいられる休日。僕にもあんな一軒を見つけられるんじゃないかって、数ヶ月ぶりに当てもなく外を歩き回ったりして。僕らしくもない。
社内での課長との距離感もぐっと縮んだ気がする。早川や他の営業二課の人に話しかけるような態度で接してもらえて、まるで部下の一人に加えてもらえたみたいだ。もちろん僕が営業なんて花形部署にいけるわけもない。一緒にしたら、怒られるかな。
偶然会えば会釈して、間が合えば立ち話して、たまには一緒に食事に行って。
広瀬課長と話せたことを思い出して、明日もまた会えることを願って眠りにつく。まるで中学生みたいな片思い。
それで十分幸せだった。この先もこの時間が続けばそれで良いって、本気でそう思った。
金曜日の夜は誰かに満たしてもらって、情けない思いをするための日じゃなくなった。このままこうして、あんな日々から遠ざかっていこう。広瀬課長の隣に、少しでもまともな自分で立てるようにしよう。あの沼から、抜け出そう。
『今夜はどこ行く?』
金曜日の午後四時。定時の一時間前に送られてくるメッセージは、広瀬課長からの誘いの文句。
金曜日の約束は、ちょうど二ヶ月ぶりだ。
『今夜は僕が紹介します』
人に紹介できる一軒を探そうと、口コミサイトを参考に始めた食べ歩き。まだ一度しか行ったことがなくても、きっと気に入ってもらえるんじゃないかって誘える日が来るのを待った。
『笠原から紹介されるの初めてだ』
『うちの近くなんで、電車乗りますが大丈夫ですか?』
料理をしない広瀬課長はいくつもお店を知っていて、そのどれもが美味しかった。残業の多い課長に合わせて、会社の近くで時間を潰して食べに行く。人気者の課長は金曜日の夜の予定はしっかり埋まっていたから、移動する必要のあるあの店には誘えなかった。
『大丈夫。一時間で終えるから、待てる?』
『はい。待ってます』
お仕事頑張って――そんな思いを込めて送信ボタンをタップする。流石にその言葉は送れない。
会社の上司なんだって、意識して線引きしておかないと、余計なひと言を言ってしまいそうになる。そしたら、すぐにでもこの関係は崩れてしまう。
広瀬課長が僕を誘ってくれる理由はわからない。もの珍しさが優ってる今の時間が過ぎ去れば、その辺の石ころの様に見向きもされなくなるだろう。
それまでに、できるだけたくさんの思い出をもらって、それを宝箱に入れて大切にしておければ、それだけで生きていける。
「あんまり店知らないって言ってなかった?」
「そうなんですけど、この間たまたま……」
二人で電車に揺られて、吊り革に捕まっても余ってしまうその長身に見惚れて。
店にたどり着く前にどうにかなってしまいそうだった。
「今夜は飲みたい気分だったから、居酒屋でありがたい」
「遠慮なく飲んで下さい。家近くなんで、僕もお付き合いします」
連れてきたのは炭火焼きの焼き鳥屋。赤提灯が目立つ小さな店。そんな店を見た課長のフォローにも似た言葉は、僕の気持ちを落ち着かせてくれる。
「あー。美味いなぁ」
丁寧に焼かれた肉と、それにつけられるタレ。塩味の加減もちょうど良くて、次々と串入れに串が刺さる。
少し濃い目の味に合わせて、辛口の冷酒を呷りながら課長が息をつく。
「何かあったんですか?」
これまで何度か一緒に食事をしてきたが、こんな飲み方をするのを初めて見た。
「ははっ。流石にばれるよなぁ。大きな仕事をね、一課に取られた」
「取られた?」
「向こうの企画のが上ってこと。向こうの課長の方が歳上だしさぁ、根回しも上手いよなぁ。『やっぱり若いだけじゃあ』なんて嫌味言われて、うちの奴らに悪いことしちゃったよ。俺が課長じゃなきゃ、企画通ってただろうに」
営業部を二分する一課と二課のやり合いは今に始まったことじゃない。他社と競合する前に、社内で競合させることで、より良い提案ができるなんて言ってるけど、その度にどっちかがこんな風に苦汁を飲んで。社内で歪み合うなんて、本当に良いことなのかもわからない。
「広瀬課長のせいじゃないです」
「慰めてくれなくてもいい。二課は二番手だからさ」
投げやりにそう言うと、また一杯酒を呷って。もう何杯目になるだろうか。
「そろそろやめた方が良いです。飲み過ぎですよ」
「俺がもう少ししっかりしてれば」
そう言うと僕の目の前にあったコップを持って、課長が一気に飲み干した。中身は、僕が飲み途中だった冷酒。
かっと顔に熱が上がるのを感じたのは、思いがけず間接キスになってしまったその行為に、描いちゃいけない想像を描いてしまったからだ。
「課長は十分やってるはずです。皆さんにあんなに慕われてるじゃないですか」
冷静を装って声をかけても、広瀬課長に僕の言葉が伝わってる気がしない。空になったコップを手で弄びながら、やり切れない思いをどうにか消化しようとしてるんだ。
「もう一杯……」
酒で流し込まずにはいられない思い。普段の課長からは想像もできない姿に、そんな姿を見せてくれたことに嬉しさが込み上げて仕方ない。
「課長、そろそろ出ましょう。送りますよ」
まだ飲み足りないと言いたげな課長を引っ張って、大通りに向かって歩く。こんな状態で電車になんか乗せられない。せめてタクシーに乗せて、家まで運んでもらおう。
そう考えてタクシーを待つも、金曜日の夜のタクシーは道端の僕になんか目もくれず、目的地に向けて走り去る。
捕まらないタクシーとせまる終電。
「課長、タクシー捕まらないんで、少し歩きますよ」
酔って判断力の低下した広瀬課長と一緒に、大通りを横切ってもう一度裏道へと入る。
到着したのは、僕の部屋。
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