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第1部
だいちゅき
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気が付くと、男の姿はなかった。
暗闇だけの世界を、梛央はあてもなく歩いていた。
男が追いかけてくるかもしれないが、梛央の足取りは重かった。時間の感覚も方向の感覚もなくて、たびたび襲ってくる恐怖に感情もおかしくなっていて、ただ途方もなく疲れていた。
心細くて、早くあたたかな人たちのもとに戻りたかった。
ゆっくりと歩き続ける梛央の前方に明かりが見えた。
気力を振り絞って明かりに近づく。
もう少しで明るいところに出る。
そう思った梛央を眩しい光が襲った。
梛央は思わず目を閉じる。
「ナオ、ナオ、これ食べてみて」
女の子の声がして梛央は目を開けた。
8歳くらいの女の子が梛央に赤い木の実を差し出していた。
女の子にはどこか見覚えがあった。誰だったかな、と考えて、子供の頃の薫瑠だと気づいた。
差し出された毒々しく赤い、ぶつぶつが集まったような木の実は、梛央がどう見ても食べていいものではなかった。
「やだ」
自分の発した声が幼い男の子のもので、梛央はおどろいて自分の手を見た。
小さい子供の手だった。
目の前の女の子が薫瑠なら、梛央は3歳か4歳のはずで、小さいのは当たり前か、と、ぼんやりと思う。
「いいから食べなさいよ」
「やだー」
いやがる梛央の口に、薫瑠は無理やり赤い実を押し込む。そのまま吐き出さないように梛央の口と鼻を手で押さえる。
赤い実を飲み込んでしまった梛央は、びっくりして泣き出さした。
「どうしたの? 梛央」
梛央の泣き声で琉歌が駆けつけてきた。
「カオルがぁ」
「よしよし」
琉歌は事情はわからなかったが、とりあえず梛央を抱き上げる。
「薫瑠、何をしたの?」
梛央の背中を優しく撫でながら琉歌が尋ねる。
「何もしてないもん。ナオの甘えん坊」
ぷいっ、と顔をそむける薫瑠。
「薫瑠、本当に何もしなかったのか?」
晃成に訊かれても、
「カオル、何もしてないもん」
薫瑠は怒った顔でまた、ぷいっ、とした。
その夜、梛央は激しい腹痛に襲われた。
「梛央、お腹痛いか? 気持ち悪いか?」
梛央を抱きあげて、背中をさすりながら晃成が耳元で心配そうな声を出す。
「おなかいたいいたい……きもちわるい……」
胃の奥からせりあがるものを感じて、梛央は口を押える。
「ごめんなさい、おいしそうな実だったの。ナオに食べてほしかったの」
薫瑠が泣きながらそばで謝っている。
「梛央、気持ち悪かったら吐いていいんだ」
背中をさすりながら晃成が声をかけた。
「吐くの、いやいや」
幼児の梛央は首を振らずに言葉で嫌がる。
「吐いていいんだ。悪いものを出すんだよ、梛央」
晃成に言われて気が緩んだのか、梛央は抱きかかえられたまま嘔吐した。
何度も嘔吐して晃成の服が汚れたが、
「よしよし。えらいぞ。すぐよくなるからな。がんばったな。いい子だ、梛央。それでこそ私の息子だ。父さんは梛央が大好きだよ」
なんだ、父さん、僕のこと大好きだって言ってたんだ。大きくなるうちに、忘れていたの、僕のほうだったんだ。父さん、ごめんなさい。僕も父さんのことが大好きだよ。
「だいちゅき……」
「ああ。どこにいても大好きだぞ」
梛央が目を覚ますと、暗がりに柔らかな灯りがともされた部屋で、誰かの温かな胸にもたれていた。
顔をあげて誰なのかを確かめなくても、さっき、えらいとほめてくれたのと同じぬくもりだった。
記憶があやふやなところはあるが、父さんが助けに来てくれのは覚えていた。晃成ではなくオルドジフだったが、あの男に襲われていたところを父さんとして助けに来てくれたのだ。
顔をあげてオルドジフの顔を見ると、疲れた表情で眠っていた。
あたりを見回すと、寝台の横に椅子を置いてテュコが眠っていた。
寝台カーテンの隙間からフォルシウスが椅子に座っているのが見えた。
梛央からは見えないが、きっとアイナやドリーンたちも心配してそばにいるのだろう。
ここは安心。安心していい場所。
「ドーさん……ドーさん……」
声を出すとひどく掠れていたが、梛央はかみしめるようにオルドジフを呼んだ。
「ん……」
自分を呼ぶ声で目を覚ましたオルドジフは、誰に呼ばれたのだろうと周りを見るが誰もおらず、ふと胸に抱いている梛央を見た。
梛央が潤んだ瞳で自分を見つめていた。
「ふぇっ……ドーさん……」
オルドジフの名を呼びながら梛央の瞳から涙が零れ落ちる。
「ナオ……」
「ドーさん、怖かった……すごく怖くて、気持ち悪かった」
ぽろぽろと涙を流す梛央の、その目はしっかりとオルドジフを見つめていた。
「ああ、怖かったな。頑張ったな。よく戻ってきたな。えらいぞ、ナオ」
「うん、がんばったよ、ドーさん」
夢の中の晃成と同じことを言ってくれるオルドジフに抱き着いて、梛央は声をあげて泣いた。晃成とオルドジフの愛情が嬉しかった。
オルドジフもしっかりと梛央を抱きしめて、正気を取り戻してくれた喜びに涙を浮かべていた。
「ナオ様……?」
梛央の泣き声で目を覚ましたテュコが状況が理解できずに立ちすくむ。
「テュコ、心配かけてごめんなさい」
「ナオ様……心配しましたよ……よかった」
思わずテュコも梛央に抱き着く。
フォルシウスもショトラも、急変か、と、寝台に駆けつけたが、固まって抱き合っている梛央とオルドジフ、テュコを見て、ようやく長い戦いが終わったことを感じていた。
暗闇だけの世界を、梛央はあてもなく歩いていた。
男が追いかけてくるかもしれないが、梛央の足取りは重かった。時間の感覚も方向の感覚もなくて、たびたび襲ってくる恐怖に感情もおかしくなっていて、ただ途方もなく疲れていた。
心細くて、早くあたたかな人たちのもとに戻りたかった。
ゆっくりと歩き続ける梛央の前方に明かりが見えた。
気力を振り絞って明かりに近づく。
もう少しで明るいところに出る。
そう思った梛央を眩しい光が襲った。
梛央は思わず目を閉じる。
「ナオ、ナオ、これ食べてみて」
女の子の声がして梛央は目を開けた。
8歳くらいの女の子が梛央に赤い木の実を差し出していた。
女の子にはどこか見覚えがあった。誰だったかな、と考えて、子供の頃の薫瑠だと気づいた。
差し出された毒々しく赤い、ぶつぶつが集まったような木の実は、梛央がどう見ても食べていいものではなかった。
「やだ」
自分の発した声が幼い男の子のもので、梛央はおどろいて自分の手を見た。
小さい子供の手だった。
目の前の女の子が薫瑠なら、梛央は3歳か4歳のはずで、小さいのは当たり前か、と、ぼんやりと思う。
「いいから食べなさいよ」
「やだー」
いやがる梛央の口に、薫瑠は無理やり赤い実を押し込む。そのまま吐き出さないように梛央の口と鼻を手で押さえる。
赤い実を飲み込んでしまった梛央は、びっくりして泣き出さした。
「どうしたの? 梛央」
梛央の泣き声で琉歌が駆けつけてきた。
「カオルがぁ」
「よしよし」
琉歌は事情はわからなかったが、とりあえず梛央を抱き上げる。
「薫瑠、何をしたの?」
梛央の背中を優しく撫でながら琉歌が尋ねる。
「何もしてないもん。ナオの甘えん坊」
ぷいっ、と顔をそむける薫瑠。
「薫瑠、本当に何もしなかったのか?」
晃成に訊かれても、
「カオル、何もしてないもん」
薫瑠は怒った顔でまた、ぷいっ、とした。
その夜、梛央は激しい腹痛に襲われた。
「梛央、お腹痛いか? 気持ち悪いか?」
梛央を抱きあげて、背中をさすりながら晃成が耳元で心配そうな声を出す。
「おなかいたいいたい……きもちわるい……」
胃の奥からせりあがるものを感じて、梛央は口を押える。
「ごめんなさい、おいしそうな実だったの。ナオに食べてほしかったの」
薫瑠が泣きながらそばで謝っている。
「梛央、気持ち悪かったら吐いていいんだ」
背中をさすりながら晃成が声をかけた。
「吐くの、いやいや」
幼児の梛央は首を振らずに言葉で嫌がる。
「吐いていいんだ。悪いものを出すんだよ、梛央」
晃成に言われて気が緩んだのか、梛央は抱きかかえられたまま嘔吐した。
何度も嘔吐して晃成の服が汚れたが、
「よしよし。えらいぞ。すぐよくなるからな。がんばったな。いい子だ、梛央。それでこそ私の息子だ。父さんは梛央が大好きだよ」
なんだ、父さん、僕のこと大好きだって言ってたんだ。大きくなるうちに、忘れていたの、僕のほうだったんだ。父さん、ごめんなさい。僕も父さんのことが大好きだよ。
「だいちゅき……」
「ああ。どこにいても大好きだぞ」
梛央が目を覚ますと、暗がりに柔らかな灯りがともされた部屋で、誰かの温かな胸にもたれていた。
顔をあげて誰なのかを確かめなくても、さっき、えらいとほめてくれたのと同じぬくもりだった。
記憶があやふやなところはあるが、父さんが助けに来てくれのは覚えていた。晃成ではなくオルドジフだったが、あの男に襲われていたところを父さんとして助けに来てくれたのだ。
顔をあげてオルドジフの顔を見ると、疲れた表情で眠っていた。
あたりを見回すと、寝台の横に椅子を置いてテュコが眠っていた。
寝台カーテンの隙間からフォルシウスが椅子に座っているのが見えた。
梛央からは見えないが、きっとアイナやドリーンたちも心配してそばにいるのだろう。
ここは安心。安心していい場所。
「ドーさん……ドーさん……」
声を出すとひどく掠れていたが、梛央はかみしめるようにオルドジフを呼んだ。
「ん……」
自分を呼ぶ声で目を覚ましたオルドジフは、誰に呼ばれたのだろうと周りを見るが誰もおらず、ふと胸に抱いている梛央を見た。
梛央が潤んだ瞳で自分を見つめていた。
「ふぇっ……ドーさん……」
オルドジフの名を呼びながら梛央の瞳から涙が零れ落ちる。
「ナオ……」
「ドーさん、怖かった……すごく怖くて、気持ち悪かった」
ぽろぽろと涙を流す梛央の、その目はしっかりとオルドジフを見つめていた。
「ああ、怖かったな。頑張ったな。よく戻ってきたな。えらいぞ、ナオ」
「うん、がんばったよ、ドーさん」
夢の中の晃成と同じことを言ってくれるオルドジフに抱き着いて、梛央は声をあげて泣いた。晃成とオルドジフの愛情が嬉しかった。
オルドジフもしっかりと梛央を抱きしめて、正気を取り戻してくれた喜びに涙を浮かべていた。
「ナオ様……?」
梛央の泣き声で目を覚ましたテュコが状況が理解できずに立ちすくむ。
「テュコ、心配かけてごめんなさい」
「ナオ様……心配しましたよ……よかった」
思わずテュコも梛央に抱き着く。
フォルシウスもショトラも、急変か、と、寝台に駆けつけたが、固まって抱き合っている梛央とオルドジフ、テュコを見て、ようやく長い戦いが終わったことを感じていた。
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