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第二章:変わる、代わる
165.「俺は、この瞬間をずっと待っていた」
しおりを挟む今日からイールとの一月が始まる。最初に過ごしたイールとの一月では、昼から夕方までの間に姿を見せていた。最初に顔合わせしたときは夜だったが、それ以降はどれだけ遅くとも夕食を食べたら自室に戻ることを徹底していた。それをふまえると昼ご飯時に姿を見せそうだ。いや、昨日から今日の朝にかけて魔物討伐とのことだから夕方かもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていたらチクタクと時間が過ぎる音が聞こえた。椅子に座りながら外を眺めて意味のないことを考えてしまうのは現実逃避だろう。シェントと離れてしまってもできることをしようと意気込んでいたのに、想定外のことが続いて気持ちが挫けていた。唯一できたことは男の神子たちと会う日を決めたことだけだ。
「あと6日……」
それまでに調べておきたいことはあるうえ交流会にむけての準備もあって忙しいが、気を抜けば溜め息を吐いて物思いにふけってしまう。
考えることはたくさんあった。様子のおかしかった麗巳のこともそうだ。けれど答えを探そうと違和感を思い出していたら夢に見てしまいそうで、昨日と今日は起きるたび夢に見なくてよかったと安堵してから一日を始めている。きっとこれは今後ずっと続くだろう。心は休まらないが、麗巳の信頼を裏切るような真似はしたくない。幸か不幸か、麗巳以外のことで頭の中を埋め尽くすことはできた。
『少し……ほんの少しでも、アイツのことを想っていてはくれないのか?』
ジャムの店主の声が頭に響けば胸が痛んで苦しくなる。
(頑張るよってなにを……このまま)
考えて浮かぶもしもを塗り潰そうとして、ふと、ゆらめく紫色を思い出してしまう。白い魔力に交じって、変わって──幸せそうに微笑んだ藍色の瞳。
違う。
否定に身じろいだせいで手が机の上にのっていたカップにぶつかる。指に熱さを感じて慌てて手を引けば、カップのなかで紅茶がゆらゆら揺れて、揺れて。
どくどくと鳴る心臓の音を聞きながら梓は身体を固くする。息をするのも憚られるようにじっと、ただカップを眺めて──
「樹!」
「ひゃあっ!」
「っ!?どうした?!」
「えっ?あっ、イールさん?えっ??」
「……なにもないか。どうしたんだ?」
静寂な部屋は突然現れたイールによって混乱に染まった。大きな声で登場したイールに梓は驚きのあまり悲鳴をあげてしまったのだが、イールはイールで梓の悲鳴に何事かが起きたと勘違いしたらしい。何事というのが自分の登場であるということは考えもせず、警戒に部屋を見渡したイールは何もないことを確認したあと、混乱する梓に眉を寄せて首を傾げた。
(この人は本当にもう……)
驚きのあまりバクバクと今まで聞いたことがない音を心臓が鳴らしているのに、見下ろしてくるイールは不可解なものを見て困惑する顔をしているのだから酷い話だ。梓は呆れとおかしさがこみあげて表情を崩してしまった。相変わらず熊のような大きな身体。けれど似つかわしくないクエスチョンマークが頭の上に浮かんでいるのが見えて、怖さはみじんも感じない。
初見では怖さを感じる外見だというのに簡単に印象を覆し、どこかずれているイールという男は変わらないらしい。
「すみません、ちょっと驚いて変な声がでちゃいました。お久しぶりですイールさん。お元気そうでなによりです」
「そうか。いや、そうじゃない。それどころじゃないだろう……いや、まずはおめでとう」
「え……?」
「シェントを夫にしたんだろう?」
「ああ!なるほど……はい、ありがとうございます」
なにか言いたいことがたくさんあるらしいが、迷った挙句最初に出た祝の言葉に梓の表情が綻ぶ。椅子をすすめてお茶の準備をすれば、小さな椅子に窮屈そうに座るのが視界の端に映って。
「君が今を生きて、その先を見られるようになったことを心から嬉しく思う」
イールがどんな表情をしているのかは分からない。けれど梓は楽しくてつりあがった自分の唇がしゅるしゅると下がっていくのを自覚した。虚を衝かれて面食らう梓はカップを落とさないようにするのが精一杯だった。
「その道を歩きたいと思える相手ができたことも……樹?」
静かなことに違和感を覚えたのだろう。振り返ったイールに梓は瞬いたあと慌てて笑みを浮かべた。カップを机のうえにおいて紅茶を注いで、それから。
「いや、俺が言えることじゃないと分かっているが」
「ふふ、なんですかそれ……ありがとうございます。嬉しいです」
「……」
微笑む梓を見てイールは逃げるように紅茶を飲み始める。気まずさを感じているのが分かったが、梓は助け舟をだすことができなかった。
祝いの言葉は心からのものだろう。それが分かるのはイールの人柄を知っているからだ。分かっている。
『君が今を生きて』
そのとおりだ。
『その先を見られるようになった』
そのとおり。
『心から嬉しく思う』
なんで──。
ざらりと嫌な感情は喉で止まってくれた。紅茶を飲めば喉越し悪くても流れて、流れて……ああよかった。言わずに済んだ。
「そういえばさっき、それどころじゃないって言っていましたけど、どうしたんですか?」
あからさまに話が変わってイールの視線は泳ぐが、変わらない微笑む人の顔に埒が明かないと思ったのだろう。ずっと前に飲み干していたカップを机に置くと、緊張した面持ちで手を組んだ。初めて会ったときも似たような状況に陥った。そのときは高圧的な面接官のような印象を受けたが、いまはまるで懺悔するかのような、告解のような印象を受ける。
「正直、俺は君が夫を迎えることになるとは思わなかった……君がここで過ごあいだ沢山のことがあったのだと思う。最初は間違いなく不本意だっただろうし、嫌なことも理不尽なことも続いたはずだ。樹、俺は君をひとりの人間として尊敬している」
「イールさん……?」
大層な話になってきて梓はたまらず呼びかけてしまう。
(この人は本当に、どうしたらいいんだろう)
さっきまで抱いていた暗い感情は燻るどころかなくなってしまった。
ひとりの人間として。
嬉しいのに困惑して笑みは歪んで、見下ろしてくる茶色の瞳に映る情けない顔を見るしかできない。
「もしかしたら自覚はないかもしれないが、君はたくさんのことを変えた。この城に住まうものすべての時間を動かしたんだ……心から、感謝する」
「あの、そんなこと……話がみえてこないです」
訳の分からない話が続いて動揺する心は不安を呼んで怖くもなってくる。畳みかけられる身に覚えのない話といわれのない感謝は身をすくませて、けれど理由を、答えを知りたくて。
「どうすればいいのか君はもう知っているんだろう?」
そして静かに問うてきた言葉にドキリとして、梓は喉を鳴らす。
ルール。
聞かれない限り答えられず、聞かれても答えられず、自ら話してしまえば死んでしまうルール。けれどそれは嘘で、けれどそれを知らないから縛られている。
梓は静かに目を閉じる。そして、ひとつ深呼吸すると同じ瞳をする人に命令した。
「あなたが話せることを話してください。これは命令です」
はっきりとした言葉に、イールは梓のように深く呼吸する。それは嬉しさ混ぜた安堵を表していて、梓は罪悪感を覚えるが気がつかないふりをした。けれどイールはきっと事情が分かったときも似た表情をするだろう。そんな確信をもってしまうのはイールがイールだからだ。
「俺は、この瞬間をずっと待っていた。樹。君が知りたいと思っていること、俺が知っている限り話そう。そして俺はできるかぎり君の助けになる……だから」
以前イールからこの城の事情を探ろうとしたものの、イールの人柄ゆえに諦めたこともあった。それなのに思いがけない協力の申し出だ。それに、例えば夫に求めていた都合のいい話を含んでいて、梓にとって不利になるところはまるでない。けれど。
「神を殺すときは俺にさせてくれ」
予想もしなかった願いに梓は口を開けて固まった。
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