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第二章:変わる、代わる
144.「味方……そうですね」
しおりを挟むひんやりと冷えた空気から隠れた布団のなか抱きしめ合う。ドキドキとなる心臓が嬉しさか期待かを探るのはまだ恥ずかしい。内緒話をするように名前を呼び合って、唇に触れて、抱きしめて……肌を重ねる。
「梓」
──この人の低くて穏やかな声が好き。
名前を呼び返せば嬉しそうな顔。胸がきゅうっと嬉しさに震えて、抱きしめれば耳元に愛の言葉が囁かれる。
──私の夫。
恋人という関係をとばして得た、この世界で生きる未来を一緒に考えられる存在。召喚をなくすための共犯にもなってくれる人。
触れ合って、言葉を交わして、存在を確かめあえることに幸せを感じる。想い想われる嬉しさと張り詰めた緊張が消える安堵を知ってしまったいま、もう、1人だけで生きる未来を考えられなかった。
「──寒くないですか?」
「はい、まだ身体がぽかぽかしますし……シェントさんがあったかいから、大丈夫です」
「そうですか」
撫でられるだけで嬉しくなる姿を昔の梓が見たら目を疑うことだろう。梓はシェントの身体に身を寄せて心臓の音を聞く。大きな、大きな音。シェントの身体が動いて空気が動く。布団を肩までかけなおそうとしていることが分かった梓は負けじと手を伸ばしてシェントの肩にも布団をかける。笑う声と口づけが頭にふってきた。
「明日、一緒に城下町に行きませんか?」
「城下町?行きたいです」
思わぬ誘いに喜んでふたつ返事をする梓にシェントの口元が綻ぶ。けれど、しばらくして白い息を吐きだした。
「城下町の境まで行きましょう。麗巳がかけたという魔法がどういうものか分かります」
シェントの言葉にはっとして身体を起こせば、冷たい空気が一気に襲い掛かってくる。服がかぶせられ、梓は大人しく服を着ながら一度深呼吸する。麗巳がかけた魔法。
「言葉の魔法のことですか?」
「ええそうです。あれが神でなく麗巳がかけているのだとしたら負担は相当のものです。麗巳の体調不良の原因のひとつはこの魔法かもしれません」
体調不良。確かに、魔法を使ったとき梓は眠ることが多かった。あれが魔法を使った疲労によるものであれば、毎日使い続けている麗巳の負担は相当のものだ。やはり、麗巳だけに任せてはいけない。
手に力が入る。
「早く言葉の魔法を自分で使えるようになるかこの国の言葉を勉強して話せるようになるか……どっちかはできるようにならないとですね」
「そう、ですね。しかし明日見てみたら分かると思いますが魔法を覚えるほうが早いでしょうね。この国の言葉を学ぶことはまずできないようになっています」
「学ぶことができない……?分かりました。とにかく明日、ですね」
真夜中とはいえ月明かりに照らされてシェントの顔はよく見えた。2人とも服を着てしまって、淫らに過ごした時間が嘘のようだ。素肌に残った口づけの痕だけが名残をみせて梓の口元を緩ませる。
明日。
頷いたシェントに梓も提案する。
「私、麗巳さんに召喚をなくすための協力を仰ごうと思っているんです。それで、麗巳さんがよければになりますがシェントさんも一緒にその場にいてほしいです。召喚を含めてこの世界のことや神の話をするとき、この世界でずっと生きていた人の視点で話を聞いてもらいたいんです」
「麗巳がいいのであれば、是非」
「はい。好きにしなさいって言ってもらえているのでとりあえず誘ってみます。これからのことを考えると他にも協力者というか、味方がほしいですね。白那は味方になってくれそうですが、先に他の人を手伝ってるかもしれないですしちょっと微妙なところです」
「味方……そうですね」
シェントが布団を手繰り寄せて梓にかける・
真面目な話は終わりにして横になりましょう。そう言うのだと思っていた。
「梓は夫を考える男は他にいますか?」
「え?」
耳を疑う言葉になにも続けられない。シェントはまっすぐに梓を見ていて、あろうことか僅かに唇をつりあげる。
微笑みながら自分以外の男を梓に提案している。夢でないことが分かって、梓はもう一度、戸惑いの声をあげた。返事は帰ってこない。
『他の聖騎士で気になる奴はいるか?』
以前ヴィラにも言われたことだ。この世界に生きる人からすればなにもおかしくない普通の考えで、戸惑いを覚えた言葉。けれどいまはただただショックで。
「テイルも間違いなくあなたを大切に想っています」
シェントにそんなことを言われたくなかった。そう思って、動揺する。
触れ合って、言葉を交わして、存在を確かめあえることに幸せを感じる……夫に望んだ人。他の人にもそうすることを別になにも思わないのだろうか。他を考えられなくなっている心は恋に恋していることろがあるのかもしれない。夢中になって他が見えなくなって、それに逃げているのかもしれない
──ああ、でも、そうだ。この世界で生きるのなら複数の夫は当たり前で……そうじゃないと危険だし、望まれることだし。
けれど自分に言い聞かせるたびに心がズキズキと痛む。私だけを望んでほしいと、私だけを夫にしてほしいと言ってほしかった──人任せ。
くしゃりと表情を歪めて笑う梓をシェントは抱きしめる。弱々しく背中に手をまわす梓はなにかを訴えるように頬を擦りつけてきて、手に力を込めると、じっと腕のなか動かなくなる。可愛くて愛しい存在。絶対に大事にしたい、守りたい存在。
──私以外に梓を守る男が必要だ。
召喚魔法をなくしこの国を亡ぼすことができても、できなくても今後のことを考えれば梓の立場は危うくなる。ルールが虚偽だったことを他の者の知るところになれば神子という存在自体が危うく、神子が戦うにしても、一時はしのげても戦い続けることは難しいだろう。ただでさえ女性ひとりで生きるのができない世界だ。梓を守る男は多いにこしたことはない。
分かっている。
何度したか分からない葛藤を口に出さないよう、シェントは梓を誘ってベッドに横になる。小さな頭を撫でながらシェントはそれ以上なにも言わない。
──治癒魔法が使えることを後悔するようになるとは。
神子を除けば唯一治癒魔法が使えるシェントはその血だけでなく狙われる対象となる。自分一人だけと欲をかいた結果、梓の危険にさらすことになるのだけは避けたい。なんとしてでも自分と同じような男が、夫が必要だった。
──そいつも苦渋の決断だろうな。
梓を手に入れるために飲まなければならない他の存在への感情がありありと分かって口が歪む。一緒に過ごす時間は幸せだ。そしてときどき、どうしても思うだろう。この表情を知っているのか、これは初めてだったのか。そうやって自分以外の存在を感じる瞬間に嫉妬するだろう。ああそれでも、梓がみせた独占欲のおかげで耐えられる。
暗く染まっていく視界に梓の寝息が聞こえてきて、シェントもようやく目を閉じる。
──きっと。
何度も唱えていれば魔法のように奇跡が起きるだろう。
暗い眠りの奥から目覚めれば、腕のなか柔らかい感触がした。見れば暖をとろうと身体にすりよってきて服を引っ張っている梓がいた。このまま寝かせてあげようか起こそうか幸せな選択肢にシェントは悩みながら梓の頭を撫でる。
「ん……」
微睡ながら見上げてくる顔。
しばらくして目が覚めた顔は真っ赤になって動揺を見せていたが、微笑みを浮かべて挨拶を口にした。けれど昨夜の話を思い出したのか表情を暗くして俯いてしまう。
その姿に自分だけのものにできない後悔がどっと押し寄せてくる。
──きっと。
梓は暗い空気を吹き飛ばそうとしたのか城下町の話題を口にし、朝食を食べたあとすぐに向かうことになった。
外で待ち合わせをすれば、寒さに顔を赤くして走ってくる姿が見えた。温かそうな上着を羽織ってマフラーも巻いているが寒そうで、それも可愛らしい。名前を呼ばれて微笑んだ顔はシェントと同じように名前を呼んで、同じ顔をしたシェントにますます表情を緩める。天気の話、城下町の賑わい、ジャムの話……他愛のない話をしながら、どちらからともなく繋いだ手をそのままに歩いていく。
そして辿りついた城下町の境で、梓はしばらくして違和感に目を細めたかと思うと、驚きに声をあげた。
「文字が変わった……?」
外には荷馬車が続いていて商人や警護を務める傭兵で今日も人が多い。そんな彼らの持ち物に書かれた文字や、彼らが話している言語が境を超えた瞬間に変わっていく。驚いたのは梓だけでなく彼らもそうだった。きっと彼らは初めてこの国に来たのだろう。
「この国が神に祝福された国だと広まっているのはこの奇跡を誰もがその身に体験できるからです。どの言語で書かれた本であっても境を超えれば日本語に変わってしまう。そのうえここにいればどんな言語で話そうが必ず通じるんです。この世界の言語は複数ありますが、どれを話してもこの国では必ず相手に通じる……神の御業だと誰もが思った。神を見たという者も多い。それゆえ他国の者はこの国を神に祝福された国と呼び、神子を神の依り代のように考え一目見ようとこの国に訪れる。魔物がいようとも神の奇跡を身に浴びようと捧げものを手に毎日やってくるようになったのです」
シェントの説明に梓はハッとする。
さまざまな料理を食べることができたくさんの贅沢ができたのはそういった恩恵によるものだったらしい。魔物に対峙するリスクを背負ってでも神に触れたいと思う人が多いのだ。
「どの言語で書かれた本もこの国に入ったら日本語になるんですよね」
「はい。最初は書物が読めなくなって焦りましたね。この世界の言葉で書いたものが瞬時に日本語へと姿を変えていくのは慣れませんでしたが、日本語を覚えるのには役立ちました」
「やっぱりそうですよね、読めないですよね。ああ、だから……学べないんですね」
違う言語で話しても日本語に聞こえ、違う言語で書いたものはすぐさま日本語へと変わってしまう。根気よくやればこの国の人たちが日本語を覚えたように梓たちもこの国の言語を覚えることができるかもしれないが、シェントたちの場合と比べればその難易度は高い。
──確かに、魔法を使えたほうが早そう。
できればとりたかった選択肢が消えて梓は眉を寄せる。
「魔法を解いてもらったあとゼロから勉強するのもいろいろと不都合だし、でも、そもそも魔法が使えるようになったかの確認は解いてもらったあとじゃないと分からないし、使えてなかったら練習しなきゃだし……堺の外で練習?魔物のことを考えると対策してからじゃないと駄目だし」
続く呟きを聞きながらシェントは外の人間が梓に気がつかないように錯覚の魔法をかける。堺の外で魔法を試すのはひとつの方法ではあるがリスクのほうが大きい。国の近くで魔物が出ることは滅多にないが、増えた魔物のことを考えれば避けておきたい選択肢だ。
けれど。
「シェントさん、一緒に外に出てくれませんか?魔法が使えるか試してみたいです」
「魔物がでる可能性は捨てきれませんよ」
シェントの忠告に梓は夢の魔法でとはいえ魔物を見たときのことを思い出す。身をすくませる咆哮は梓を恐怖で縛って逃げる力を失わせた。禍々しい異形の存在。人を食らう大きな口から赤い血を混ぜた涎を落とす姿は忘れられない。危険な存在だ。厭う魔法が保険になるかもしれないが、試すのも恐ろしい。
けれど。
「分かってます。魔物が存在することも、とても怖い存在だってことも……対峙するようなことがあったら私は間違いなく動けなくなって役立たずの足手まといになります。そのうえでお願いします。私に試すチャンスをください」
強い意志は責任感によるものだろう。麗巳やほかの神子を動かすのならまず自分がと、持たなくてもいい罪悪感や少なくない好奇心もあわせてシェントに願っている。
「それに、シェントさんがいたら大丈夫です」
厭う魔法を願ったときのような盲目的な発言にシェントは微笑む。願いを叶えられるのが自分であることを嬉しく思う。おかしなことだ。梓の手をとって外に歩き出せば冷たい風が歓迎するように吹きだすのに、普段とはまるで違う心地で微笑んでしまっているのだから世の中なにが起こるか分からない。
だからきっと。
シェントは隣に立つ梓を見る。梓は境を超えた足を戸惑うように動かし、振り返って城下町を眺めた。そして城門を見上げ、空を……シェントを茶色の瞳に映す。
黒い瞳を見つけた梓はいつものように呼びかけた。
「シェントさん」
「──」
──はい、なんですか?
きっとそう言ったはずだが、聞かされていたようになにを言ったのか分からない。梓がシェントを呼んだと分かったのはニュアンスでだろう。
「帰りにジャムを買って帰りませんか?苺以外にもシェントさんが好きな味があったらいいな」
「──」
今までずっと話せていた人がなにを言っているのか分からなくなるのがこんなにも怖いこととは思わなかった。最初からなにを言っても言葉が通じなかったのなら、どんなに心細かったことだろう。
──麗巳さん……怖かっただろうな。
魔法。魔法の使い方は未だはっきりと分からない。けれどいままで色んな人から聞いて自分でも試して、使えた魔法。何度も何度も、言葉が通じるようにと強く願う。
「言葉が分かりますか?」
「──」
梓が話し、シェントも話す。
いつもしている会話だが通じず一方通行だ。怖さゆえか梓はシェントの手を取り、両手で握った。シェントがなにか話している。分からない。けれど手を撫でた指の優しさは知っている。
「私、あなたが好きです。大好きです」
「──」
「大好きなんです」
梓の震える声にシェントが目を瞬かせる。
梓?
そう聞こえてくるようだ。
「私、この世界にきて恋をしました。自分とは違う男の人が気になってドキドキしましたし、怖いけど気になってつい目で追うようになりました。でも分かったんです。一緒に生きたいって、この世界で生きていく未来を考えられたのはあなたなんです。シェントさん」
知って分かって、ようやく自分の気持ちが作れた。分かってしまったらもう引き返せない。嘘をつけない。
『俺だけ見ろよ』
この世界に来てから何度も何度も目にした光景。最低だと分かっていても、それでもこの人がいいと思う人ができた。
「あなただけがいい」
「──」
頭を撫でる優しい手はいつも待ってくれる。話をしてくれて、これからを一緒に考えてくれる。
──きっと……絶対にシェントさんだって。
大事な人だから独占欲をもつ。大事だから好きに生きてほしいなんて、きっとそんな優しさはどこかでなくなった。同じ気持ちなら、昨夜なぜあんなことを言ったのか考えれば答えは簡単だ。
建物に囲まれない自由な外にもかかわらずいつ魔物が現れるかもしれない恐怖がつきまとう世界。異形の存在と対峙するため外へ行く聖騎士たちはいつもどんな気持ちだろう。奇跡の魔法にかかる想いの強さは計り知れない。ここは危険でいっぱいの世界なのだ。梓自身が戦えることができたらいいが、努力はするにしてもその姿をイメージさえできない。自衛のための魔法や守るための魔法ならまだ検討の余地はあるが、魔物や追手の撃退といった攻撃は難しいだろう。
夫は、必要だ。打算に満ちていようが、夫は必要なのだ。
──シェントさんの安全を考えても必要。
梓は握っていた手に力を込める。
「愛しています。だから、私はあなたと一緒にいられる未来がほしいから」
黒い瞳がじっと梓を見ている。その瞳をまっすぐに見返した梓はシェントの手をひいて城下町へと戻って行った。シェントがかけた魔法の働きで梓たちの姿は人々に映っていないようだった。外では魔物だけでなく人であっても恐ろしい存在になるだろう。梓は抜けていた不安要素を思い出して溜め息を吐く。
──本当に、することがたくさんある。
くよくよしている場合ではないのだ。問題はたくさんある。
城下町にはいった梓はシェントの手をひいたまま歩き続ける。梓。言葉が聞こえて振り返ればホッとしたような顔。思わず肩の力が抜けて。
「魔法、失敗しました」
「そうですね」
「またいろいろ考えなきゃです。どうすればいいか一緒に考えてくれますか?」
「もちろん」
ひとり突っ走っていた足がゆっくりと落ち着いて、シェントと並ぶ。
少しだけ、人混みを理由に梓はシェントに身体を寄せた。
「今度テイルと会おうと思います」
「……はい」
ふってきた返事は気のせいか暗い。そのことに嬉しさを感じるといったら、きっと喜んでくれるだろう。
──ああ本当に、私は酷い女だ。
ここが人混みでなく部屋であったなら抱きついて口づけを求めていた。
問題はたくさんある。
隣に立つ人を見上げれば、微笑む顔。
「せっかくですから昼食になるものを買っていきましょうか」
「いいですね。あ、ジャムも買いにいきましょう。シェントさんの好きな味を教えてほしいです」
「私も梓と同じで苺が好きですよ」
「……それは私が好きだからとかじゃなくてですか?」
「それもありますがもともと苺が好きですね」
「そう、ですか……ふふっ。嬉しいです」
幸せな会話に表情は緩んで和んだ心は穏やかそのもの。
2人で歩く長い、長い道。徐々に知った場所になっていく。そこに浮かんだ人に梓は苦笑して、目を閉じた。
夫は必要だ。
問題なのは、相手がそれを望むかどうかだ。
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