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第二章:変わる、代わる
139.シェント&梓side
しおりを挟む『許されない、ですか?シェントさんは』
──許されるはずがない。
知っているべきだったのに隣にある地獄を知らず、正すべきだったのに地獄のうえにある平和な場所を当たり前に享受していた。魔物どもの子だ。
『絶望してしまえばいい。大事な人を奪って私を物として扱ったこいつらも同じような目に遭えばいい。奪われる辛さを思い知ればいい』
『可愛い子。なぁんにも知らないで、あははっ!本当に可愛い。長い髪で女の子みたいね……アンタでもよかったじゃない』
『私は謝らないわ。もしあの瞬間に戻ったら私は絶対にまたあいつらを殺してやる。死んで当然……そうよ、当然なのよ』
『近寄らないで。あいつらの子供なんて見たくもない』
許されるはずがない。
分かっている。
許せない。
『神子麗巳』
『……あなたもなの?ははっ……そう。好きにすれば』
切り捨てた髪を見た彼女は普段を思い出せない表情をしていた。
私たちは、どれだけ彼女に甘えていたのだろう。
その瞬間までは罪を償うため神子の望むままに生きてきたつもりだった。召喚を消してしまえないのなら犠牲者を減らすべく召喚の儀に望み、召喚がなされて浚った神子には元の世界に帰る以外の望みを叶えられるようにしてきた。神子からの魔力は魔物を根絶やしにするため使い、なるべく前線にも出るようにしてきた。形ばかりの国ではあるが維持しなければ神子の望みを叶えられなくなる。するべきことは多くある。冷静でいなければならない。個を捨て償いのためにと生きてきたつもりだった。
『話さなきゃ分からないですし私だってシェントさんのことを知りませんから今こうやって苦戦してます』
──私は、今まで神子麗巳という人と話してはいなかった。
償いという自己満足をしていただけで話しをしたことがない。そんな単純なことをシェントは梓と会話をして向き合っていくなかでようやく思い知って、
『麗巳、どうか少しだけ時間をください……私と話をしませんか?』
泣いた麗巳に、自分がどれだけ愚かだったのか痛感した。
考えなくてはいけない。盲目的になって思い込んで好きなように見てしまっていることはきっと多くある。梓が言っていたようにフィルターをかけて歪めた光景はたくさんあるはずだ。
『お願い、忘れさせて』
思いあがるな。
本人の望み通りとはいかず発動する魔法でどこかへ行きなにかを見た梓は恐怖と不安に冷静さを失っていた。あの時間は慰めの意味でしかない。
『甘えても、いいですか』
恐々と言った声に期待が混じっていた。この腕に梓を抱きしめたとき感じた温もりは嘘ではない。緊張に固くしていた身体を預けてくれたのも現実だった。情けなく願った口づけを叶えてくれたことも、はにかんだ表情も、シェントを知りたいと言ったあの言葉も──思いあがるな。
梓は、テイルを選ぶ。テイルと過ごす時間に抱いた恐怖が和らげるよう、この身体を使ってくれたらよかった。恐怖がなくなれば梓はテイルの手をまたとれるだろう。私は、身を引ける。
私でなくてもよかった。
分かっている。
けれど、思い出してしまう。梓をこの手に抱いたときのことを、シェントと呼んだ顔を、背中に伸ばされた手を……あれは自分の願望が見せる幻ではなかった。
──愛していると言いたかった。言って、受け入れてくれたら……どんなに幸せなことだろう。
いや、あの状況でそんなことを言えば重荷になるだろう。真面目な梓は自分が望んだゆえのことだと悩み、それこそ責任のような感情を抱いてしまう。
思いあがるな。
『やだあ……っ!』
思いあがるな。自分の都合のいいように考えてそれを押し付けてはいけない。この世界で生きることを考えるようになった梓を支えるどころか枷を嵌めて閉じ込めてしまうなどあってはならない。梓も望んでくれたことだと思いあがって我を通すのはあの魔物どもとなんら変わりがない。
『ごめんなさっなんでも、なんでもないです』
思いあがっては、いない。
シェントを見て染まった頬は意識しているように見えた……見えただけだ。頭を撫でたとき拒絶どころか幸せそうに微笑んだ顔も、引き留めようとするかのように伸ばされた手も、なにか思うように唇を見た視線もすべて、自分がそう望んで見たものだ。
「思いあがってはいない」
呟いて、握り締めた拳の力を抜く。
タオルを机に置いてドアノブに伸ばした手はいつかと同じように震えていて、いつもどおり情けないざまだ。長引いたとはいえ随分と遅い時間になってしまった。もう寝てしまっていてもおかしくはない。起きてくれているだろうか。話したい。たくさんのことを話したかった。
触れて、その体温を感じたい。梓と呼ぶと嬉しそうに微笑む顔を近くで見たい。抱きしめることができたら、愛しいとそう言えたなら──お互いにそう望んだ時間なら、どんなに嬉しいだろう。
──思いあがってない。
蝋燭が揺れる部屋から外を見ながら梓はそう自分に言い聞かせる。
『どうか起きていてください』
それなのに掠れた声を思い出しては顔が熱くなって落ち着かなくなる。気のせいだ。シェントがあの時間を自分から望んでいるなんて、違う。あの時間はパニックになって望んだ願いをシェントが叶えてくれただけのものだ。
「シェントさんは慰めてくれただけ」
呪文のように何度唱えただろう。ちゃんとしなければならない。人を振り回してばかりで結局口だけでなにもできていない自分が望まれているなんて都合のいい考えだ。
『あなたに抱きしめられるととても幸せな気持ちで満たされるんです。梓、どうか』
『あなたが、愛しい』
『本当に、幸せです』
『あなたが抱きしめてくれて嬉しかった』
──でもあの言葉はぜんぶ本当だった。だからあんなに幸せだったし嬉しくてシェントさんが欲しいって思って……っ!でもそれなら。
都合のいい考えとは、なんだろう。
違和感に梓は息を止めて身体を固くする。その答えはもうあの時間で思い知っている。ドクリと鳴る心臓に突き動かされるように立ち上がった梓はスナッファーで蝋燭を消していく。消えていく灯りを見ながら思い出すのは自立を胸に過ごした日々のことだ。
あの頃は自立することだけを考えて優先順位は低かったが、もともと、恋にもセックスにも興味はあった。憧れた人もいたが、周りの人がするような恋に堕ちるような感覚はいつまでも分からなくて、だからこそ、そうなれることに梓は少し憧れに似た気持ちを抱いていた。一日のほとんどをその人のことだけを考えるのはどんな気持ちだろう。自分が自分じゃなくなるような感覚を考えてみたが結局できなくて、想像するたび興味を募らせていた。その先にあるセックスも経験したことがないから興味は持っていた。友人たちが言うキモチイイというのも、好きだからセックスするというのもよく分からない。だから余計に興味を覚えもした。
いつかは恋してその人とセックスするのかな。
そんなことを考えて、そんなことを考える自分に呆れて勉強を再開する。好奇心はあるが梓にとって恋とはそういうものだった。そうでなければ、とてもじゃないが一人で生きていく未来が想像できなかった。自立して生きていかなければならないのに、自分が自分じゃなくなったらどうすれば。
──都合のいい考え。
真っ赤になった顔を照らしていた蝋燭が消える。ずいぶんと暗くなった部屋に灯りはもう一つだけだ。煙の臭いをふりきって動く足は慌ただしい。それなのに顔を照らす最後の蝋燭を見てなにを思ったのか手は止まってしまって。
「……梓?」
ノックに弾んだ胸が、聞こえた声に分かりやすくパニック状態になる。ドアが開く古めかしい音が聞こえる。閉まる音、小さく響いた足音。振り返れば暗い部屋にぼんやりと形を浮かびあがらせるシェントが見えた。立ち止まって、動かない。
──思いあがるな。
シェントは起きていた梓を見て喜ぶ心臓を落ちつかそうと息を整える。梓はスナッファーを手に持っていた。もう寝るところだったのだろう。悪いことをしたと思うが、こんな時間まで待っていてくれたのだと思えば嬉しさに心臓はいつまでも落ち着きはしない。
──梓はただ単に願いを叶えてくれただけだ。梓は、テイルを選ぶ。
分かり切ったことを何度も自分に言い聞かせる。
──私はそれまでの時間を一緒に過ごせるだけで幸せで……今なら、身を引ける。
だというのに未練たらしい身体はいつまでも動かない。
「こ、こんばんは」
「……こんばんは」
静かで暗い部屋。
それなのに互いがどんな表情をしているのか分かる気がした。
──思いあがってない。
シェントさんは慰めてくれただけだ。想ってくれてることを私は利用しただけ。
私は、自立しなきゃ。甘えてばっかりいたらこんな世界で生きていけない。
この世界、この世界で生きて──ああ、
本当に都合のいい考えばっかり。
揺れる蝋燭に浮かび上がってくるシェントの姿を見て梓の手からスナッファーが落ちる。マットの上に転がったスナッファーを拾いもせず歩き出した梓に蝋燭が遮られてシェントを再び暗闇に隠してしまった。揺れる世界。そのまま世界は動いて。
──慰めじゃなきゃ困るから、パニックになってたから、望んだことじゃないと都合が悪かったから。
「シェントさん」
歪めていた気持ちに声が震えてしまう。けれど呼んだ人は小さな声を拾って歩き出してくれて……それが嬉しいことを、思い知ってしまう。もう分かっているのだ。思いあがってしまいたい。そんな自分を許せるようになりたい。なにせ、それができるほどもう、たくさんの言葉を貰っている。
言えたらいい──言いたい。きっと言えばシェントは幸せに笑うだろう。そう思える自分を嬉しくも感じる。きっと、きっと。たくさんの想像が口に出せない言葉と一緒に浮かんでしまって、どれを一番最初に口にしようか悩んでしまう。
ああ、それなのに。
暗闇に浮かび上がるシェントの顔が見える。伸ばされた手を、梓と呼んだ唇を、梓を見る瞳を見つける。
静かな時間。
互いに伸ばした手が、ようやく互いの身体に触れた。見える輪郭を確かめるようになぞった手はそのまま互いの頬に触れて……目が合った。
もう、言葉はいらなかった。
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