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第二章:変わる、代わる

133.堕ちる

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息を飲む音が近くで聞こえる。唇に触れる吐息を、頭に触れる手の温かさを……暗がりのなか梓を見て離れない黒い瞳を見つける。胸元に縋りついた手は鼓動を聞き取って嬉しさに似た感情を覚えてしまっている。
それなのに軋むベッドに怯えて身体がはねてしまって。

「怖いですか?」
「……怖いです。違う場所に……もう行きたくないんです。もう……今は、嫌」

どう言えばいいか分からなくて梓は黙り込む。麗巳の過去を盗み見しただけでなく他の人にまで話してしまうのは、どうなのだろう。自分ならと考えて出た答えは嫌という強い感情で、梓は強く口を結ぶ。けれど募る不安はたくさんのもしもをつれてきて怖くてたまらなくなってしまって。
──抱きしめてほしい。
シェントに甘えて抱きしめられたあの幸せな時間がほしくてたまらなくなる。ここは安全なのだと、そう思えた場所。

「その魔法がどのようなものかは私には分かりません。ただ、あなたはその魔法にひきずられている」
「そうかも、しれません」

厭う魔法をかけるときのようにシェントは梓に注意を促す。分かっている。そのツケはさきほど払ったばかりだ。それでも手に力が入ってしまう。分かっている。手がとられて固く力を入れていた指がひとつひとつ絡めとられる。分かっている。手が握られて顔を起こせば黒い瞳が見える。

「梓、私は」

悩ましげに吐かれた言葉が唇に触れる。一瞬悩むように止まった時間は結局そのまま動き出して、梓は逃げもせず口づけを受け入れた。互いの感触を味わっただけの唇はゆっくりと離れるも、また、視線は絡んで。
──それがどういうことか、分かってる。
口づけを受け入れ、求める先がどうなるかもう知っている。誰かを欲しいと思い、思われて手に入れる瞬間は宝箱にしまった宝石のような輝きをしているのだと思っていたのに、それだけではなかった。気が狂いそうになるほど求められた時間を思い出す。男と女。自分とは違う身体に涎垂らしながら触れて欲のまま乱れて、後悔した。知らなかった自分は恥ずかしくて怖くてたまらなくなって、もう好きなのか欲なのか後悔なのか分からなくなってしまった。
けれど、


「今だけでも……忘れたいんです」


すべてを忘れさせてほしい。甘えたくなるほど安心する腕の中にいたい。寝かせないでほしい。何も考えさせないでほしい。頭の中ぐるぐるまわる願いはどれも無責任で梓がなりたくなかった人の姿をしている。
ああ、なんて。

「私は浅ましい」

シェントの呟きに梓は目を瞬かせる。梓が自分に吐いた言葉とまったく同じことを言ったシェントは目が合うとなぜか微笑みを浮かべた。そのままためらいなく梓に口づけたシェントは向けられる視線に笑みを返しながら戸惑う言葉を舌で味わう。抵抗になりきらない牽制の言葉も、怖気づく声も、理性を取り戻しかける声も、後悔を想いかけた悩みもすべて消えてしまうようにと食べていく。

「んあ、はっ、んぅ」

頭に優しく触れていた手が梓の頬を覆う。ベッドが沈んで、近くなった温かさにシェントがベッドの上に移動したことだけがよく分かった。

「私は、確かにこの瞬間を願いました。梓」

口づけの合間に懺悔する口は微笑みながら混乱する梓を呼んだ。梓を諭そうとした人はもうおらず黒い瞳さえ笑みに緩んでしまっている。

「あなたに触れるとどんな顔をするのか、想像しましたよ。あなたが悲しんで苦しんでいるのに、私は確かにこの瞬間を望んでいたんです」
「あ」
「私が、怖いですか」

静かに微笑む顔は日常の雑談に見せるものとはまるで違う。怖くないと言えば嘘になるだろう。けれどきっと身体の奥がゾクリと震えたのは、喉を鳴らしてしまったのは、鼓動が五月蠅いほど早くなってしまったのは。

「ぅあ」

口づけの名残を拭った親指が梓から言葉を引き出そうと口の中に入り込む。噛むことは考えもしなかった。けれど内側撫でる指をどうしたらいいか分からず困り果てた梓は俯いて逃げようとする。
微笑む顔。

「梓」

優しく呼ぶ声は梓が答えるのを待っている。答え、返事。舌を押す指のせいで出来損ないの息が漏れて淫らな音を鳴らす。どうしたらいいか分からずされるがままに指を咥える梓を見る目は変わらない。
──私は。
手を、伸ばす。
縋りついていただけだった両手でシェントの手を捕まえれば、何の抵抗もなく指は口の中からなくなった。ピチャリ音が鳴る。伝う涎が熱くてたまらない身体を少しだけ冷やしたが理性を取り戻すには足りない。
──私は。
掴まえた手を頼りに膝立ちする梓にシェントは心臓が震えるのを自覚する。触れる唇に舞い上がって微笑んでしまう顔を、きっと梓はもう分かっている。

「少しだけ……ねえ、シェントさん。私は言葉にしないで逃げてます」
「ええ、それがなにか?」
「……私は」

──いつまでもグズグズしてそのうえこの人を利用しようとしてる。なのに付き合うとか……夫とか、そういうのなにも考えようとしないで。
きっとすべて隠さず口に出してしまえばシェントのことだから微笑んで軽く受け流すだろう。そしてきっと一緒に考えて梓がどうするかを待ってくれるはずだ。分かっている。
──狡い。

「梓」
「ふっ、ん」

分かっている。きっと後悔するだろう。
──テイルともちゃんと話せてないし傷つけたままだ。
分かっている。きっと嫌な自分を思い知って落ち込むことになるだろう。
──ヴィラさんに恋人って言っておきながら違う人とキスしてる。
分かっている。最低だ。
──私は酷いし陰険だし偽善者だし恥じらずで最低だ。
分かっている。
『良い人ではなく、あなたが愛しいんです』
分かっている。
──でもこれが私で、この人は分かってくれてる。それでいいって、こんな私が好きって。
すべて分かっている。
だから。



「忘れさせてあげます、梓。私のことだけを考えてください」



響く甘い声が脳をドロリと溶かして思考を鈍らせる。微笑む顔の下で何を考えているのか知りたいのに、熱い肌に惑わされて絡む舌の気持ちよさに溺れてしまう。抱きしめられて悦んだのはきっと。

「あ」

身体の奥が痺れて濡れた感触を思い出してしまう。
クスリと笑う顔。

「そうしてさしあげます」

甘い、あまい声。
強く抱きしめられて与えられる口づけは麻薬のようだ。安全な場所。抵抗になりきらない牽制の言葉も怖気づく声も理性を取り戻しかける声も……もうない。安心する場所。後悔を思いかけた悩みだってもうない。眩暈がするほどの感情に心が満たされて酔って狂って、ただただ幸せで。


「梓」


ついに雑音が消えて梓は笑みを浮かべる。残った言葉はひとつだけ。



「シェントさん」



柔らかなベッドに、身体が沈む。










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