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第二章:変わる、代わる
129.「お願い」
しおりを挟むドアは閉まったままでテイルはもういない。この部屋に戻ってくることはないと分かっているのに見続けてしまう。
傷つけたのにちゃんと話せなくて、そのせいでまた傷つけた。
──ちゃんと?
どうしたら──テイルだけを望めば?──ヴィラさんたち──最低──私、後ろ髪ひかれてる──好きって言ってくれた人に甘えて利用してるんだ──シェントさんだって振り回して。
「あなたが何を考えて悩んでいるのか、分かる気がします」
子どものように泣き続ける梓の頭を撫でてシェントが柔らかに微笑む。
「自分が出来ることを考えては至らない自分を責めるばかりなんでしょうね。誰かを頼ればいいのに苦手で、自分で何とかしようとして一人で頑張って、そのくせ他の人の重荷まで背負って自分が勝手にしたことだってまた自分を責めて」
呆れたように言うのに表情は変わらない。馬鹿ですねと笑う言葉がまた優しく落ちてきて。
──だってそうじゃないといけなかった。
この世界に来てからはなおのことだが、元の世界だってそうだ。高校を卒業したら家を出て一人で生きていかなければならなかった。大好きな母の元を離れることになるがしょうがない。小さいころからの約束であるし、自立した姿を見せて安心させてあげたかった。
──お母さんを自由にしなきゃって。
ああでも、これも自分のためだ。母を理由にして母のせいにしたいわけじゃない。自分で選んだことだし生きていくのは自分だ。自分でなんとかして生きていかなきゃならない。
そうやって、生きてきた。
お金はなにかしたいときに使える便利なものだ。あるにこしたことはない。出来ないことは少ないほうがいい。出来ないと誰かに頼むことになるしお金もかかってくる。人付き合いは大切だとは思うけど、信じすぎないほうがいい。でも信頼がおける人や尊敬できる人好きな人はとても大切だ。
でも、この世界でどうやって生きていけばいいのだろう。
好きな人が出来た。自分とはまるで違う男の人で、誰かを意識する自分に自分で驚いて認めず蓋をしてきた。それなのに誰かは一人だけじゃなくて。
「樹」
(私は最低です)
「また自分ばかりを責めているんですか?あなたはこの世界で生きようとしてくれただけだ。違う価値観さえ受け入れて、あなたを欲しがる男の話を聞いて、考えて、その手を取ってくれただけだ」
(私はそんな良い人じゃないです。皆私をどう思ってるんですか。ほんとに神様の子供で見るみたいですよ……私は良い人じゃないし優しい人じゃないし、むしろ酷いし陰険です。最低な女です。聞こえのいいこと言うくせに自分のことになったらグズグズしちゃうし正論ふりかざして傷つけてばかりだもん)
恥知らずで最低な自分は醜くて嫌いだ。知りたくなかった。こんなことなら恋なんてしたくなかった。誰かを好きになんてならなければよかった。一人で生きていくだけでよかったのに。
(好きって言うけどそんなの、ソウイウの見てないから言えるんです。私なんて)
「樹」
いやいやと首をふる梓はぎゅっと目を閉じてもうなにも言ってしまわないようにシェントから顔を隠す。重い沈黙にこの場から消えてしまいたくなって、ああ、できそうだ。耳障りでしょうがない声も出なくなったのだ。消してしまうことだってできるだろう。触ることのできない自分の手がすうっと色をなくしていくのが見えてほっと力が抜ける。もうこれで嫌でたまらない自分を見なくてもすむ。
「そんなあなただから私たちは……私はあなたに恋におちた」
それなのに手が握られて体温を感じる。
掌に口づけたシェントの黒い瞳を見てしまう。床に片膝突くシェントはずっと表情を変えない。梓でさえ分かるほど感情を訴えてくる瞳はずっとそれてくれない。愛しいと見守るように優しいのに、見られることにドキリと心臓が震えてしまう。怖い。また。
「あなたが愛しくてたまらないんです」
それなのに聞いてしまう。
顔が熱くなって、悲しいだけじゃない涙があふれてこぼれて。
「あなたが嫌うあなたも私には愛しくてたまらない。自分を傷つけてまであなたは私たちを対等に見て話してくれた。一緒に部屋で過ごす時間がとても好きです。紅茶の香りがする静かな時間をあなたと味わっていると心が満たされてとても幸せな気持ちになるんですよ」
トクトクと鳴る心臓はなんだろう。
涙は止まらないのに苦しくなくて胸も痛くない。頭は混乱するのにシェントの言葉ははっきりと耳に届いて。
「もっとあなたのことを教えてください。あなたが隠す最低だというところもすべて。ふふっ、先に言っておくとあなたが不安に思うようなことにはなりえない。言ったでしょう?あなたが愛しくてたまらないんです。私たちが原因であなたが最低だと思うようになったというのなら、私は喜びこそすれあなたを嫌うことはない。教えてください。すべて聞いて、受け止めます」
魔法にでもかかったように目が奪われて震える心は間違いなく嬉しくて泣いている。否定する言葉を忘れてしまえるのは手にある温かさのおかげだろう。
「私のすべてを使ってあなたを甘やかしたい。樹。誰であろうと、あなた自身であろうとあなたを傷つけていいわけがない。あなたが傷ついて身を削る必要はどこにもない」
心臓がまたドクドクと騒がしくなってきたのに、頭はいやに冷静さを取り戻してしまった。嬉しさに熱くなる顔は純情で、ぐちゅりと濡れた秘部から這い出したのは欲にまみれた愛液。
脚に伝っていくのに気がついて足を閉じるが、それでもまだ身体のなかに残っていた精液混ぜながら濡れ落ちていく。まるで心動いた梓を責めるようだ。熱い体温。眼差しはまだそらされなくて、急に、うすっぺらなシーツで隠された姿を恥ずかしく思ってしまう。テイルと交わってついた痕は身体中にあるはずだ。長いあいだ身体を重ねていたから臭いもあるだろう。白い愛液はまだ脚を垂れていて。
(あ)
恥ずかしさにたじろぐ梓は腕についた赤い痣を見つけて顔を真っ赤にする。そして、絡む視線。梓がなにを見ていたのか分かったのだろう。動く視線。梓はシェントから手を離して身体を抱きしめようとするも、触れることができない身体をどうすることもできなかった。愛液を脚で隠せば、シェントが見つけてしまう。
それが分かってしまった梓は恥ずかしさのあまり否定に声なく叫ぶ。
(ごめ、なさ……っ!私最低、汚い)
熱い体温。
腕を掴んだ手に顔をあげれば、どうすれば嫌ってくれるのかシェントはまだ微笑んでいる。
「あなたは綺麗ですよ」
(……っ)
「テイルとの交わりは怖いものばかりだったんですか?」
(……)
静かに問うシェントに梓はしばらくして首を振った。
テイルと過ごした時間は怖いことも後悔にさえ思うことだってあった。けれど、向けられる想いが嬉しくて幸せできもちよくて……もっと触れたいと思いもした。
「愛していたが故にしたことだと許す必要はありません。ですが、浅ましい欲の証拠だとしてもこれはあなたを辱めるものにはならない。アイツもあなたも欲したゆえの証なのでしょう?汚れてなどいません。消えたとしても、そうです」
魔法を使ったのだろう。濡れた感触が消えて、赤い痣も消えてまるで何事もなかったかのようになる。
ああそれなのに、見つめられると落ち着かない。触れられる場所から伝わってくる熱に身体が痺れて、樹と呼びかけられるたびに違うと唇が震える。
恥ずかしい、最低、誰にでも心を許して甘えて。
自分を否定する言葉は淀みなくでてきてその通りだとおおいに納得してしまう。けれど、
──こんな私でもいいの?
それでも、いいのだろうか。
認めたくない自分に泣いてわめいていつまでも落ち込むような女だ。それを一番よく八つ当たりされたシェントが知っているだろう。それなのに笑って。
「馬鹿ですね。あなたがいいんです」
伝えてしまったらしい言葉に答えて唇緩めきって、ああ、なんて顔をしているんだろう。熱にあてられて上がっていく体温に頭がくらくらしてしまう。
「ですが、樹こそ私をどんなに優しい男だと思っているんですか?正直にいってこの立ち位置にいるのが私でよかったと思っています。あなたを慰められる。アイツには腸が煮えくり返りますが、感謝もしているような男ですよ」
男。
腕にある手の力を感じる。梓をこの場所に止めておく力だ。けれどきっとシェントは梓が逃げれば、逃がしてくれるのだろう。そして静かな部屋で顔を合わせたとき、気まずげに視線を彷徨わせる梓と違って微笑むはずだ。
「アイツはあなたを傷つけた」
(それは)
「分かっています。ですがアイツはあなたを怖がらせた。私なら、そんな想いはさせない」
それなら震えた心臓はなにを思ったのだろう。
それなら、逃げない身体はどうしたのだろう。
──でも、シェントさんだっていつか嫌になるはずだ。
顔も覚えていない父親の記憶で思い出せるのはその背中を見送って泣いていた母のことだ。どんなに好きでも結婚しても子供が出来ても別れてしまうことがある。嫌いになってしまう。
──こんな私ならよけい……違う。お母さんたちのせいにしたいんじゃない。怖いんだ。
溺れるほど好きになった人の手が離れていくのが怖い。あんなにも心乱れて欲しくなってそれで最後消えてしまうなんて、考えるだけで怖い。
『馬鹿ねえ』
ああそれなのに、恋しては泣いて笑った母の声を思い出す。変わった説教をされることはよくあったが、こういう、恋愛ごとに関しての説教はよく言われたものだ。
母は昔から有言実行の人でときどき無茶苦茶なことをいう人だったが、恋多き人になったのは離婚してからだ。
『アンタ人生損してるわ。自分を愛する男と出会えない人生なんて人生じゃないわよ』
それでも母はそれを悪いものにはせず娘である梓にも隠さず笑っていた。近所の人になにを言われようが気にせず生きていたのだ。聞いてもいないのに『不倫だけは信条に反するからしない』と胸を張って『自分の人生なんだから楽しんだもんがちでしょ』と笑って、参考書を手に眉を寄せる梓の頭を撫でていた。
──そんなことないよ。やることもやりたいこともいっぱいあったし、私はそれで十分だった。恋愛は、難しいよ。怖くて嬉しくて恥ずかしくてしょうがない。自分が最低な人間だってことばかり分かっちゃう。怖いよ。
『大丈夫』
笑う母の顔がところどころぼやけている。大丈夫じゃない。会いたい。話したい。そして『よかったじゃん』と笑い飛ばしてほしい。
けれどもう会えないのだ。
けれど……教えてくれたたくさんのことが梓の背中を押す。
『自立して生きるんだよ、梓』
一人で生きようと頑張る梓を見て困ったように笑っていた。愛され愛せなんておかしな説教をして誰かと生きる人生を望んでくれた。
生きる。生きるしかないのだ。
──決めたのは私だ。
手を伸ばしてシェントの胸に触れる。冷たい感触。そういえば部屋は暖房も入っておらず冷たい空気が漂っている。ああでも、それが丁度いい。
『馬鹿ですね。あなたがいいんです』
染み込んでいくいく言葉が温かくて、腕にある手が熱くて。
「っあ」
「……樹?」
複数の人に恋しているのも、誰にでも好きと言って身体に触れる恥知らずなところも、人を傷つける最低なところも、勝手に傷ついて落ち込んで周りを振り回すのも、自分は逃げるくせに人の秘密を土足で踏み荒らすのも──ぜんぶ、私だ。
『色んなことひっくるめてアンタを愛してくれる男が、アンタが愛せる男がいつか出来るんだからね』
──自分で言っていたことだ。
『最近よく分かったんですが結構自分勝手なんです。それに自分のことばっかり考えてます』
──それの、なにが悪い。
『お母さんってほんと自由。自分勝手!』
『娘のくせに気がつくの遅い!』
──自分の人生なんだから、自分で決めて、生きていく。
『……沢山、恋しな』
笑う母の顔が鮮明に蘇って泣いてしまうけれど、緩む表情は見なくても笑っているのが分かる。
「あなたが、愛しい」
まるで神に懺悔でもするようにシェントが想いを告げる。
その言葉を素直に嬉しく感じて、涙が落ちていく。心が震えて、喉が、震えて。
「わたっ」
「良い人ではなく、あなたが愛しいんです」
「私っ」
振り絞った声が音になって、シェントの胸に縋りついた手が重なる。
自分の指の感触を、体温を感じる。
「シェントさんのこと、知りたいです」
「はい。私のこともあなたに知ってほしい」
「はい。最低なところもぜんぶ……知ってください」
引き寄せられて梓の身体がシェントの上に落ちる。黒い瞳に映る梓の顔は熱をだしていて、ああ、分かりやすく恋をしている。なんて身近な場所に答えがあったのだろう。
蕾が開くように笑う梓にシェントが苦しげに目を細める。喜びを口元に堪えて、ああ。心が震える。
「教えてください……樹。私は最低で浅ましい人間で……それでも、受け入れてほしいと私は」
本心をさらけだすことに怯えているのか、知ってほしさに心が急いているのか分からない。
似た者同士の2人の視線が絡んで、吐息が触れる。
「シェントさんお願い……梓って呼んで」
「……」
あずさ。
音にならない声。
それじゃ足りなくて。
「私の名前なんです。お願いシェントさん……梓って、呼んで」
聞いたことがない甘いお願いに心臓が壊れそうになる。服を握り締める手にひきよせられて近づく距離。シェントを呼ぶ声が甘えて泣いて、小さく呟かれた音に目を瞬かせると嬉しそうに笑って。
眩暈がするほどの感情に心が満たされて、酔って、狂って、
「梓」
幸せに呼べば「はい」と小さな返事。どちらからともなく触れた唇は甘く、甘く……互いの身体を求めて食べ合った。
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