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第二章:変わる、代わる

107.「ヤトラさん、置いていきますよ」

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コンコン、小さなノック音が聞こえてくる。それから恐る恐るとでもいうようにゆっくりと開くドアから現れるのはいまだ緊張と嬉しさ滲ませた表情をしているヤトラだ。

「おはようございます」
「おはようございます、樹様」

梓が微笑んで挨拶をするとヤトラは満面に笑みを広げる。ヤトラとの一月が始まって数日。ドアの前で直立して梓から声をかけられるまで動かないなんてことはなくなったが、いまだ神子を崇める彼は梓の一挙一動に大袈裟ともいえる反応をしている。初々しいといってしまえばそれで終わりなのかもしれないが扱い辛い、と梓は内心苦笑いだ。恐らくヤトラは今日も梓の部屋で過ごす大半をソファに座って過ごすのだろう。肩を緊張させながら時々会話をしつつ、梓の読書の時間を邪魔するのではと思えば眠るように目を閉じ動かなくなる。一度あまりにも気になって声をかけてみれば瞑想しながら魔力の流れというものを整えているとのことだ。同じ部屋にいる以上どうしても気になってしまうが、この部屋にいることで魔法の訓練にもなるのであれば彼にとっていいことだろう。
──ヤトラさんは置物と思うことにしよう。
ルールやこの城のことを探ることが出来ればと思ったが聞き出せた情報は知っていることばかりでヤトラから聞き出せた情報らしい情報と言えば初日に聞き出せたことぐらいのものだ。それならばこのひと月、梓自身が提案したようにお互い好きなように過すことに意識を切り替えたほうがいいだろう。それはそれで誰にも心乱されない、梓にとって本当に穏やかなひと月になるはずだ。


「あの、樹様よければ城下町へ買い物に行きませんか?」
「え?」


ヤトラからの思いがけない提案に梓は素で聞き返してしまう。気まずい時間。ペラリとめくられた本のページの音がいやによく聞こえて、案の定ヤトラは梓の反応に恐縮して言葉を飲み込んでしまった。

「あ、ごめんなさい少し驚いてしまって。買い物ですか?」
「はい……いえ、無理にという訳ではなく」

落ち込むヤトラに梓はまたしてもあるはずのない犬の耳と尻尾を見てしまう。がくりと垂れてしまって酷く落ち込んでいるのが見て取れる。そんなヤトラに罪悪感を持ちつつ頭をもたげたのは打算的な考えだ。
──ヤトラさんなら気がつかれないかもしれない。
ヴィラやテイルなら梓から目を離さないだろうし、好奇心旺盛なトアだと小さな違和感を見逃しはしないだろう。シェントやフランは梓の時間を尊重してくれはするが微妙なところだ。ヤトラなら、イールと同じように梓から完全に意識を逸らして自分のことに没頭してくれるだろう。神子を守るという使命のため、梓の不審な動きを見逃してくれるはずだ。

「行きたいです。今から、行けますか?」
「……はいっ!」
「では10分後、城門前で待ち合わせしませんか?」
「城門前ですね!分かりました!」

眩しい笑顔がドアの向こうに消えていくのを見送った梓は小さくため息を吐く。そして、棚に隠していた手紙を取り出した。

「やっとウィドさんに返事が出来る」

露店の店主から買った本に隠されたウィドからの手紙は何度も読み、返事を考えるのに随分かかった。梓に本を何度もオススメしていた店主の様子を見る限り返事は店主にしたらいいのだろうが、一緒に買い物に出かける兵士の目を考えれば難しく二の足を踏んでいたのだ。それ以前に、どう返事をすればいいのか分からなかった。
とりあえず梓はウィドが無事に国に変えれたことに安心したこと、元気で過ごしていること、アルドア国に行くつもりはないことを書いたのだがそれ以外のことについては書くことが出来なかった。店主が目を通す可能性も考えればあまり込み入った内容が書けないのも理由の一つだが、聞いてみたい神様の存在や神子のこと、ヴィラやテイルを想っていること、これから先のこと……相談したい事柄を言葉にして紙に残すことが怖くなってしまったのだ。
──この世界で、生きていく。
現実問題それしか選択肢はないのだがそれを自分で言葉にしてしまうのは怖い。見て見ぬふりしてきたものに向き合うと決めた理由、2人のことを第三者に話すのも勇気がいる。
──会って直接話せたらいいんだけどな。
結局、梓は手紙に書き加えることをせず部屋を出る。


「あ、これ、美味しいです」
「気に入っていただけてなによりです」


カステラボールを手に口元緩める梓にヤトラが幸せそうに微笑む。
──この人が魔物退治……。
アイドルを連想させる爽やかさと愛らしさを持つヤトラの笑みに梓は何度目か分からない心配をしてしまう。ヤトラは本当に魔物と戦えるのだろうか。他にもあるという食べ歩きが出来るお店を話すヤトラは戦闘からほど遠い存在のように思う。つい最近まで兵士だったこともあってか城下町に詳しいヤトラの話を聞いていると城下町で働いたほうがいいのではと余計な心配をしてしまう。
──でもヤトラさんと買い物出来たのは本当によかったかも。
無事露店の店主に手紙を渡すのに成功しただけでなく、面白そうな新しい本も購入できた。それどころかまだ未発見だった美味しい店も教えてもらえたのだ。元の世界と馴染み深い味がするカステラボールは食べると懐かしさに混じって切ない気持ちが沸いてくるが、同時に嬉しさも味わえる。薄っすらと砂糖がまぶしてあるカステラボール。梓は隣でニコニコと話すヤトラに一つ手渡した。

「ヤトラさんもお1つどうぞ」
「え……あ!はい、ありがとうございます」

戸惑いのあと泳いだ視線は笑顔に変わって戻ってきた。随分と素直な反応だ。梓はどうしたものかと悩むがヤトラはカステラボールを飲み込むように食べてしまった。
──別にいっか。
次は気をつけようと思いながら辺りを見渡して、ふと、気がつく。見覚えのある光景だ。道の先を見れば気さくな店主がいる美味しいパン屋を発見する。いつもはアラストが働くジャムのお店を目印に曲がって辿り着くパン屋だが、逆からも行けるようだ。
──意外と抜け道もあったりするし、城下町っていっても広いんだよな。
知らない道を歩いていたはずなのに知った道に繋がるとなぜこうもワクワクするのだろう。そのうえパンの焼けるいい匂いがしてきたものだから梓はカステラボールの袋を持ちながら今日のお昼御飯と晩御飯を考えてしまう。

「ちょっとあそこのパン屋さんで買い物してきます」
「あそこの……はい、分かりました。楽しんできてください」

微笑むヤトラに梓も微笑み返しながら、以前一緒にパン屋に入った兵士のことを思い出す。どうやらヤトラはあの兵士ではなかったようだ。

「いらっしゃーい、樹ちゃん。今日は新しい護衛の人だね」
「そうですね。あと樹ちゃんって呼ぶの止めてくれますか?」
「その顔酷いなあ」

壊れそうな音をたてるドアを見るなりヘラリと笑った店主がおちょくるように梓を呼ぶ。それに眉を寄せてパンを選び始めるのがこの店に来てする一連の流れだ。梓は後ろから茶々をいれてくる声にクスリと笑いながら好みのパンを取っていく。
露店やルトの店、アラストが働く店にばかり行くことで注意を向けられないよう梓は城下町にある色々な店に寄るようになったが、そのなかでも多く通っているのがこのパン屋だ。畏まることも遜ることもない店主は気さくで話していてとても楽だ。梓の名前を聞いたはいいが自分は名乗らない無礼なところも、かえって気を遣わなくていい。
──きっと私が神子だって薄々気がついてるんだろうけど何も言わないし。
トレイを持ってレジに向かえば店主が目を細めて笑う。

「今日もいっぱい買ってくれてどうも。自信出るねえ」
「つい来ちゃうぐらい本当に美味しいんですもん。特にチーズパンが好きですね」
「へえー?じゃあ新商品はチーズ使ったのにするかな」
「わっ、絶対買いにきます」

喜び余って手を合わせる梓に店主は目をぱちくりとさせたあと「そりゃ楽しみ」と本心か分からない笑みを浮かべる。なにせ「外の護衛が不安そうだけど?」とつまりは早く店を出ろと言って追い出すように手を振ってくるのだ。

「それじゃまた」
「まいどあり」

へらりと笑う顔が古びたドアに隠れていく。ドアが閉まる前に背後から聞こえてきたのは明るい声だ。

「お帰りなさい、樹様。いい匂いですね!」

不安そうに店を覗いていた顔はどこにもない。喜び弾ける顔に梓はまたしても悩んでしまうが、結局、流すことができず観念してしまう。
神子を敬う聖騎士、ヤトラ。それはそれでいいと考えてお互い好きなように過していきたかったが、このままだと梓が望む穏やかな時間には程遠い。ヤトラの悪意ない好意と言動に梓の疲れは早くも頂点に達しかけている。
──もう、いいや。
笑顔を作り続けるのはなかなかにしんどいものだ。ヤトラの態度が変わらないのだとしてもそれに合わせて自分の言動を抑えるのは止めたほうが楽だろう。梓は諦めに微笑み、ヤトラを見上げて、ニッと笑った。


「いい匂いですよね!私、ここのパンが凄く好きなんです。ヤトラさんも是非どうぞ」


言いながら梓はブラックペッパーがかけられた辛みのあるチーズパンが入った袋をヤトラに渡す。一線を引いて接っするのを止めた梓は肩の力を抜きすぎたのか普段よりも元気が良すぎる返事をしてしまって即後悔したが、目の前のヤトラはしっかり聞いてしまっているのだ。過ぎたことはしょうがない。

「それは甘くないやつですからきっと美味しく食べれますよ」
「え」
「それじゃ帰りましょうか」
「あ」

ヤトラに渡した袋と違って大きな袋を持ち直した梓は「ああ寒い」と身体を震わせたかと思うとは大きな欠伸をした。普段の梓らしくない言動だ。梓──神子。
にっこりと微笑む神子が普段ヤトラを気遣っているのはヤトラにも分かっていた。ヤトラに戸惑い、気まずさを覚えていることも分かっていた。それでも神子は微笑み毎朝「おはようございます」とヤトラに声をかけてくれる。そのたびに神子を喜ばせる話を、慰める話をと考え──失敗に落ち込んでいた。


「ヤトラさん、置いていきますよ」


呆れたように笑う顔を見ながらヤトラは手にある袋の温かさに気がついた。開けた袋の中には美味しそうなパン。きっと苦いワインとよく合うだろう。想像して、口元が緩む。

「一緒に帰りましょう、樹様」
「それでお茶会でもしましょうか」
「その小さな身体のどこに入るんですか。カステラボールも残っているでしょう」
「じゃあちょっと早い昼ご飯にしましょう」
「……そうですね」

いつもと違う戸惑いかたをしているが悪くないものだ。梓は困った微笑みを見上げて気楽な関係の第一歩を進めたと満足げに歩き出す。黒い髪が風に揺れて隣の人を掠めていった。






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