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第二章:変わる、代わる

94.誠実不誠実

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ヴィラは柱にもたれかかっていた身体を起こしてゆっくり近づいてくる。梓も一歩二歩と近づいて──ハッとする。
『恋人の頼みだ、聞くとしよう』
最後に顔を合わせた日に囁かれた言葉を思い出して梓の足が止まった。けれどヴィラは一歩二歩と近づいてその手はとうとう梓の頬に触れる。それだけで梓はどうしたらいいか分からず視線を俯かせた。顔が、熱い。

「樹、俺を見ろ」
「……なんでここに居るんですか」
「樹」

互いに答えなかったが急かすように吹いた冷たい風に梓は顔を起こす。
赤い顔を見たヴィラは目元を和らげて。

「どうやら忘れていないようだ」
「……?」
「いや気にするな。会えて嬉しい……口づけていいか?」
「だっ駄目です」
「恋人なのにか?」
「こ?!恋人でも駄目です」

近くなった顔に慌てて首を振るが目の前の人は不満そうだ。恋人。甘い響きがする言葉のはずなのに聞くたび心臓が落ち着かなくなって怖くなってくる。
『明後日には戻る』
そして先ほど触れたテイルのことを思い出して息が止まりそうになった。梓を見下ろすヴィラはずっと表情が緩んでいて、客観的にどう見ても幸せそうな顔だ。
──それなのに私さっきテイルとキスした。
昨日のように無理矢理されるのではなく、気になっている相手だと認めたうえで、自らキスをした。この世界の価値観では普通で望まれることなのかもしれないが胸を刺す罪悪感に息が苦しくなる。不誠実な自分の言動はどう考えても酷く思えた。

「どうかしたか?」

先ほどまでヴィラを見上げて赤くなっていた顔が青ざめて泣きそうになっている。なにかあったのは間違いない。ヴィラは不安に満ちた表情が和らげればと思い梓の頬を撫でるが、より眉を寄せてしまっただけで。

「樹、教えろ。なにを考えている」
「……なにも」
「それを信じると思うか?前にも言っただろう。俺はお前が答えるまで何度でも問い詰める」

以前聞いたときは疲れを覚えて項垂れてしまった言葉だ。それなのに今日は泣きそうになってしまう。
──こんな私のことなんか気にしなかったらいいのに。
そう思うのに梓に尋ねては返事を待つヴィラに心臓が音を取り戻し始める。

「夫の話を覚えていますか?」
「……勿論だ。考えてくれたか?」

なぜかヴィラはごくりと息を飲んで恐々と尋ねてくる。
梓はヴィラの質問には答えられない。

「ヴィラさんはこの世界では共に過ごす女性を妻って言って妻を迎えるのなら他にも夫が必要になるって言ってましたよね……私、これがよく分かんないんです。私が住んでいた国では一妻一夫でした」
「……お前には理解しがたいことなのだろうが安全には変えられない。この世界では夫は複数いるべきだ。お前にかけられた魔法はお前を守ってくれるだろうが絶対とは言えないからな。俺は独占したいがためにお前を失うようなことになるぐらいなら他の夫を受け入れる……力がある者なら尚更いい。他の聖騎士で気になる奴はいるか?」

やはり、分からない。
魔物の恐ろしさもその影響も分かっているつもりだが、まだつもり程度なのだろうか。安全には変えられないと言って他の男を薦めるヴィラの考えが分からない。そんなことを言いながら壊れ物でも触れるように口づけてくるのが分からない。

「私、テイルとキスしました」
「……」
「自分からです」
「……」
「私「待ってくれ」

続けようとした言葉が遮られる。懇願するような声を出すヴィラの表情は強張っていて梓の言葉を怖がっているようだ。胸がズキリと痛んで罪悪感に息が出来ない。けれど言わなければならない。言わないと、受け入れられない。
──要領よく生きたいのに。
苦しい。

「私、あなた達のことを知りたいと思いました。この城のおかしなところとか怖いところが気になったし、それで苦しんでるみたいなあなた達のこと……助けたい訳じゃない。そもそも私には助けられない。テイルに言ったら何かしてほしいなんて望んでないって言われましたけど私……ごめんなさい。言ってること滅茶苦茶ですね。とにかく、私はあなた達のことを知りたいと思ったんです。怖いのに気になって……今もあなたに触れてる」

ヴィラの胸に触れた小さな手。少ししたあと詰めた息を吐き出すように動いたヴィラの身体に沈む。ゆっくり上下する胸。重ね着した服からは鼓動を見つけられなかったが、きっと、間違いなく腕のなか聞いた音を出しているのだろう。
見下ろしてくる黒い瞳は恐れを消していて梓の言葉を待っていた。怯んだ茶色の瞳は1度それてしまうが、また、戻る。

「私が好きってオカシナことを言うヴィラさんにドキドキしてしまっています。私のことを分かろうとしてくれてそれで……ところどころ行き過ぎたところはありますが、それでも私と話そうとしてくれたり一緒に考えたいって言ってくれたりするのが嬉しかった。恋人って言ったのは逃げるための言葉じゃなくて……私、あなた達に恋しかけてるんです。私」

ようやく言えたのに息が詰まってしまう。緊張しすぎて喉も乾いているうえ見下ろしてくる黒い瞳は──あれ?
梓が目を瞑る前には見えていた黒い瞳が見えなくなっていた。なぜかヴィラは自身の顔を手で覆って目を閉じている。ヴィラと呼べばビクリと肩は動き、閉じられた瞼がゆっくりと起きていく。梓は目が離せなかった。ヴィラの顔は真っ赤だった。

「……お前は俺に恋をしているのか」
「え、あ」
「あなた達というのは余計だが」
「……ごめんなさい。そうなんです私は」

続けようとした言葉はヴィラの指で塞がれる。
唇に押し付けられた指はもう梓が何も言わないことが分かると唇をなぞりだした。

「テイルが好きだから俺とは恋人になれないと、夫の1人としても許さないと言うのだと思った。お前が夫を1人とこだわらなくなってきているのはいいことだ。だから余計と言ったのはそのことじゃない。今お前は俺に気持ちを伝えてくれているのだろう?それならあなた達とは言わず俺にと言ってほしい。あなただけと言われるのもいい気分だろうがな」
「……私、酷いですよ。ヴィラさんが私を想ってくれてるのも知ってるし恋人だって言ったのに、テイルともキスしてる。ドキドキしてる」
「それは悪いことか?」
「……悪いことです」
「なら俺が許そう。そしてお前は自分に触れることが出来る男をあと少しだけ許してやれ。男とは醜い。最近、俺はそれを自覚しているんだ……いいから樹、言え」

なにを言っても意味がない。梓がどれだけ自分を否定して受け入れなかろうがヴィラはそれがどうしたといわんばかりに微笑む。
──頭がおかしくなりそう。
恥ずかしくて、よく分からなくて、怖くて。

「女だって……私は醜いです。そう言ってくれるのをいいことにあなた達に恋して「樹」

俯きかけた顔が起こされる。それだけで互いの距離は埋まって、けれど足りない。ヴィラは梓の両頬に手を添えてもう一度梓を呼んだ。唇から零れた白い息が梓の唇に触れる。どくん、どくんと心臓の音が聞こえた。
――ドキドキする。
梓は自分の両頬に触れる手のようにヴィラに触れた。冷えた肌は少しカサついている。指を這わせながらヴィラの顔を見上げ、見える黒い瞳。梓はあの朝のように目を閉じて、自分からヴィラに唇を重ねた。


「私、あなたに恋してます」


目を開ければ互いの顔がよく見えた。相手の瞳には自分の姿。微笑む唇は互いを呼んで、触れた肌を手繰り寄せながらもう一度と口づけ合う。身体が震える。冷たい風を忘れさせる体温が気持ちよかった。触れる舌の柔らかさも漏れる吐息だって気持ちいい。もっと触れたくなって。

「……俺の部屋に来ないか」

囁かれた言葉に意味を理解した梓は顔を赤くする。
そして、疑問。
『聖騎士は自分の神子以外の神子に会ってはいけない決まりがあるんだ……おかしいね?』
決められた一月の相手以外の神子と会ってはいけない、そんなルール。それなのに何故ヴィラはこんな誘いをしたのだろう。いや、思い出せばフランもあの奇妙な夜から逃げるためとはいえ梓を自分の部屋に招いた。分からなければいいのだろうか。けれどヴィラが梓の聖騎士ではない今、ヴィラは梓の部屋には行けないし梓もヴィラの部屋には行けない。あの鍵を使わずに向かうとなるとこの城を歩くことになるのは必須で、隠れて会うというのは難しいだろう。そういえば、だ。
――聖騎士の部屋は、神子の部屋はこの城のどこにあるのだろう。あの鍵はどうやって知らない部屋へと繋げているのだろう。

「逃げてしまったか」
「え?んぅ」

考えに囚われた梓に気がついたヴィラが困ったように微笑み、梓に口づける。けれど受け入れられるキスに心は舞い上がって笑みは嬉しさ堪えきれないものになった。手を、離す。それを名残惜しそうに目で追ってしまった梓は1人自分の頬を両手で覆った。
お互い熱がひくにはまだまだ時間がかかりそうだ。


「……聞きたいことはないか?」


そして落ちてきた言葉に梓は首を傾げる。急にどうしたのだろう。
ヴィラは真面目な表情だ。

「えっと……?そういえばヴィラさんはどうしてここに?」
「……麗巳からお前に言伝があってな。明日一緒に走りましょう、とのことだ」
「わあ」

どうやら麗巳の聖騎士はヴィラらしい。まさかの使い走りに驚くが、明日麗巳が本当に来ることにも驚く。
──ちょっと楽しみ。
なにせずっと1人で走っていたのだ。一緒に走る人がいればいつもと違って楽しいだろう。

「分かりました。教えてくれてありがとうございます」
「いや」

微笑む梓と違ってヴィラの表情は固い。驚いていたのだ。なぜ梓が麗巳からの言伝を聞いて微笑んだのか分からなかった。
──俺はなにも見てきていなかったのかもしれない。
後悔に似た気持ちが沸いてきて、笑ってしまう。様子がおかしいことを察した心配そうな梓の頭を撫でれば、困ったような赤い顔が微笑みに変わった。心臓が、五月蠅い。

「愛している」
「っ!!?」
「……俺に恋しているとは言ってくれないのか」
「……多分です」
「次のひと月が楽しみだ」
「……」

非難してくる赤い顔が愛しくてしょうがない。ヴィラは梓に口づけ……背を向ける。
命じてくれたらいい。聞いてくれたらいい。

そんな願いは口には出来なかった。








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