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【イールと過ごす時間】
53.穏やかに、
しおりを挟む今日からまた新しい聖騎士との一月が始まる──そのはずだが聖騎士はいつまで経っても来なかった。日はすっかり落ちて部屋を照らすのは蝋燭の灯りだけだ。もしや数日がかりの魔物討伐にでもなったのだろうか。それともただ単に今日は来ないとしただけなのか。理由はなんでもいいのだが今までは一月の初めは必ず顔を合わせていたのでどういうことなのか深読みしてしまう。いや、そういえばそうじゃなかった人物もいた。
「失礼する」
梓が思い出したところでいつの間にか扉の前に立っていた男が話しかけてきた。扉が開いたことにも男が入ってきたことにも気がつかなかった。いつかと同じように恐怖を覚えて顔を上げる梓はそこに大柄な男を見つけた。ゆっくり近づいてくる男の表情は固く、強く結ぶ口元は梓に威圧感を与える。近づく距離にあわせて男にも梓の警戒する顔がよく見えるだろう。しかし男は歩くペースを落とさず梓の前まで移動すると無言で梓を見下ろした。ただでさえヴィラと同じぐらい背が高いうえ筋肉質な男だ。距離が近くなったぶん見下ろされると迫力が増して梓の身体は後ろに下がる。すでに椅子の背に背中はぴったりくっついていた。
「初めまして、樹と申します」
「私はイールという」
男の返答に梓は目を瞬かせる。
──この人が今までずっと噂に聞いていたイールさん……白那の想い人で麗巳さんのお気に入り。あ、今は麗巳さんのお気に入りじゃなかったっけ。
残念なことに突然現れた警戒に値する男がイールと分かってもイールに関する記憶に良いものはなく梓の態度は変わらない。イールも簡単な自己紹介のあとは無言だ。それでも長い沈黙のあとイールが先に切り出した。
「君は、なにやら変わったことを言うらしい」
一体聖騎士の間でどう話されているのだろう。梓は眉をひそめながら目の前の席に座ったイールを眺める。イールは机に両肘を置き目の前で手を組みながら鋭い視線を向けてきていた。
──まるで面接を受けてるみたい。
それも面接練習をしているとき友人がしてくれた高圧的な面接官に雰囲気が似ている。とはいってもその迫力と怖さは段違いだ。すぐに応えなかった梓に苛立ったのか溜息まで吐いている。
──落ち着け。
梓もゆっくり息を吐いて呼吸を整える。そして、姿勢を整えまっすぐにイールを見返した。シェントの魔法があるのだから怯える必要はないのだ。
──それにほら、熊が小さな椅子に座っていると思えばまるで怖くない。
今までの聖騎士も少なからずそうではあったが梓にとってちょうどいい椅子は聖騎士にとっては小さいらしい。イールにとってはかなり、だ。椅子からはみだすイールの身体を見て梓の顔に笑みがこぼれる。
「ひと月を過ごすにあたってのお願いのことでしょうか?それなら、はい、きっとそれが変わったことなのだと思います。私はこのひと月義務は果たしますがお互い干渉しすぎず穏やかに過ごしたいと思っています……具体的にはセックスも恋愛も一切求めていません。ただお互いこのひと月の間一緒に過ごすだけにしたいんです」
話しながらシェントのことを思い出して恋愛沙汰のことを付け加えておいたのだが、聞かれてもいないうえ求められてもいないのにわざわざ前置きで言うのは変な話だ。それにとても自意識過剰な気がして言いにくい。
気まずさに苦笑いを浮かべる梓をイールはしばらく無言で見ていた。梓の言葉を信用しきれていないのか、梓の表情がなにを意味するのか探っているようだ。
「それは……本気か」
「え?ああ、はい。なんの裏もなくこれは私が望むことです。その証明にシェントさんに魔法をかけてもらっていますし、だから触れないので結局一緒に過ごすだけになるのですが」
そう。例えイールが望んだとしてもそもそもそんなことは起こりえないのだ。
梓は確認するように口に出しながらふと思い出した。
『私なんていらないんじゃんって思ったの……ごめん。完全八つ当たり』
白那を勘違いさせた理由を聞いてみようか。イールには悪いが白那との喧嘩を思い出しただけで事の発端であるイールに怒りが沸いてくる。怒りが募ってくるとさきほどまで抱いていた恐怖さえ薄れて──
「本当に、触れない」
前触れなく伸びてきた大きな手が梓の手を透けて机に触れる。それでも突然のことに梓の心臓はドキリと嫌な音を鳴らして恐怖を思い出してしまった。不快に梓は手を胸元で握りしめながらイールを睨むが、その目はすぐ訝しげに瞬く。
イールは机に触れた手を間近に見ながら泣きそうにも嬉しそうにも見える表情を浮かべていたのだ。大柄な男。その威圧感は変わらないのに、さきほどまで感じていた恐ろしさがいまはどこにもない。目を閉じて両手を天井にあげるイールは神にでも感謝しているような表情だ。そして大きく息を吸ったかと思うと、長く、長く吐き出していく。それはまるでようやく呼吸ができたとでもいうようだ。
「樹」
「え、はい」
「俺は君との一月を今か今かと待っていた」
「え」
「穏やかに?いいじゃないか望むところだ。のんびり、ただのんびりとした時間を過ごそう」
「あ、はい」
戸惑う梓の相槌にイールは両手を静かにおろしながら微笑んだ。そしていまだ展開についていけない梓を眺めながら何度か頷いたあと、またもや両肘机につけて今度はわっと顔を覆う。
「長かった……」
「お、お疲れ様です……?」
「はああああああ……」
どう返せばいいか分からず疑問形になってしまったが、イールは梓の言葉に一瞬顔を上げ、それからすぐに顔を覆って長い溜息を吐いた。
──なんというか、これは、予想してなかった。
梓の提案に涙まで流しそうになるほど同意する奇妙な聖騎士を眺めながら梓は紅茶を淹れる。イールが梓を気に入ったという理由が分かりつつも素直に喜べないのはまだ納得できないからだろう。
「よければ、どうぞ」
紅茶を淹れて渡せば、イールはなにかを堪えるように口元を震わせる。
──この人よく今までやってこれたな……。
同情に呆れが混じってしまうのはギャップが凄いからだろうか。作った顔を脱ぎ捨てたのと同時に一人称や話し方まで変わったイールは梓の提案にまた神にでも感謝しそうだ。
──嘘吐けなさそうだし色々聞けるかな。
カップを受け取ったイールがごくりごくりと紅茶を飲んでいくのを眺めながら梓は思案する。
「うまい……ありがとう樹」
「それはよかったです」
喜びいっぱい微笑むイールに梓はにっこりと微笑んだ。
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