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テオドール、売り出す

不吉な幻影

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「何だい、こんな夜更けに……今から食事の支度をしろったって無理だよ」
 
 洗濯屋の店先までに四人そろって現れた僕らに、メイスンさんは何か誤解をしたらしかった。

「いや、違うんですよ! ニーナさんが帰ってこないんです」

「なんだって?」

 老婦人の顔色がさっと変わった。僕とアーニスが事情を説明すると、彼女の顔色はさらにどす黒くなった。

「……あの子は仕事で出かけるときに限ってはね、予定を急に変えるようなことはしないんだよ。お客を気に入って寝ることにしたとしても、必ずいったんは日を改める――その日を待つ間、お客の気持ちをうんとつのらせるためにね」

 憧れの美女のそんな手管について解説されるのは妙な気分だった。だがそれが本当だとすると――

「鑑定の仕事といって出かけたんなら、鑑定だけで済ませるし、泊まるなら最初からそう言うはずなのさ……これはどうにも、何か良からぬことが起きたに違いないよ」

「……僕も、そう思います」

「なら、早いとこ探しに行ってやっとくれ。あたしゃあの子の母親が死ぬときに頼まれたんだ。そばに近づく男と持ち込まれる仕事には気を付けて、くれぐれもおかしな目に遭ったりしないようにしてやってくれってね」

 メイスンさんはしわしわして骨ばった手で僕の腕をぐっとつかむと、深々と頭を下げた。

「とはいえ、あたしゃこの通りの老いぼれで荒事はできないし、こういう時に役に立つような魔法も覚えちゃいない――手のひらから洗濯石鹸を出すくらいのことさ、なんだかいわれのある術らしいけどね……頼むよ。ニーナを無事に連れ帰ってやっとくれ」

「……やってみます」

 年を取ってはいても、れっきとしたご婦人の頼み事だ。貴族の男子たるもの、やり遂げなければ男が廃る。ましてや、ドゥ・シュヴァリエの名を持つ男であるならば――父も祖父も、そうやって誇り高く生きた。

 だが、何から手を付けるべきか。そういえば――

「……手始めにアルヴァンが見かけたっていう、金ぴかの馬車だ。見かけた人を探して話を聞こう」

「うん、まずそれしかなかろうが……馬車がこの広い街のどこを通ってどこへ行ったかなんて、簡単にわかるものかな」

 ジェイコブが難しい顔でうつむいたが、僕にはどうすればいいかが不思議とわかった。

「大丈夫さ……馬車が通れるような道は、この街では限られてるもの」

 僕がこの街に来るまでのいきさつを、ニーナがずばりと言い当てたときのことを思い出す。剣と襟飾りと靴――情報収集と分析。

 そして、ジェイコブの足取りを確定するために聖堂で行った確認――考えられる可能性の中から、除外すべきものと残すべきものをより分ける方法。


 ――無駄足を踏まないためには、ありとあらゆる抜け道やわき道を、見落とさずにつぶさなきゃならないのよ――

 彼女の言った言葉が、耳元でありありと聞こえる気がした。そうだ。彼女はこういう時にやるべきこと、たどるべき考えの道筋を僕にすでに示してくれていた。


 だったら、今度は僕がその教えを活かして彼女を助ける番だ。


        * * * * * * * 


 勇んで外に出てみたものの、夜のエスティナは心臓に悪いことこの上なかった。佇む人影に声を掛ければ、次の瞬間消えたり、二階建ての屋根ほどの背丈に膨れ上がって大笑いを響かせたりだ。
 
 途中でエリンハイドを連れ出して仲間に加えながら、僕たちは石畳のしっかりした大通りを中心に駆け回った。あるのかないのかわからない路地が現れてはまた消え、何度もひやりとさせられる。

「くっそう……夜更けになりすぎたかな……まともな人間にまるで出会わないじゃないか!」

「テオの着想はいい線行ってるんだが、さすがにこの時刻ではなあ」

 アーニスを置いてきてよかった。彼女も同行したがっていたが、さすがにこうも怪異の連続だと彼女の神経がまだ持つまい。と言っても、こちらはそろそろ麻痺してきているのだが――

「ねえ、あれ……」

 ポーリンが大通りの反対側を指さしながら僕の肘をつついた。そちらへ視線を向けると、建物の影の闇の中に、人影が不自然に明るく浮かんでいる。

「あれは、いつかの……!?」

 血が凍るかと思われた。そこには、あの、アーニスを拾った晩に見かけたのと同じものがいたのだ。つまり、僕たちそっくりの服装をした、
 暗い眼窩をのぞけば、その姿は僕とジェイコブ、エリンハイドとポーリンに瓜二つ。僕の似姿は、眼窩にしおれた薔薇が挿してあるところまで前回と同じだった。

 そして剣を抜き放って何かに対峙しているポーズをとった彼らから、少し離れて、今なによりも見たくないものがあった。

 ニーナ。
 
 いや、ニーナの似姿だ。不思議な形に結われた鮮やかな赤毛でそうと知れるものの、今やは一糸まとわぬ姿にひん剥かれ、腹部にはぽっかりと大きな空洞が口を開けた姿で虚空に逆さに吊られていた。

「ニーナ……!?」

 前回の状況をよく思い出せ、テオドール――あのとき、影たちは存在しない幻の路地へと消えた。そして、すぐ後に僕たちは、物音に惹かれて道のこちら側にあった路地へ飛び込み、そこでエリンハイドに再会している。

 もしかしてあいつらは、僕たちが少し未来に出会う状況を、前もって演じて見せているんじゃないのか? だとすると……ニーナはこれから、体から臓腑を抜き取られるような目に遭うと?

 恐ろしい無言劇から目を離せずに、僕は膝を震わせていた。ジェイコブもエリンハイドも、ポーリンもただ無言で影たちの舞台を凝視していた。

 と、不意に影の側のが、少し離れた場所の石畳をしきりに指差し――次の瞬間、四人ともが消え失せた。

「なんだ、今のは……」

 ジェイコブが呻いた。

「悪趣味なまやかしだね……この街の幽鬼どもは、ああやってあたしたちを怖がらせてその恐怖をすするんだって聞いたよ……」

「む、待ってください。どうもあそこの建物の陰に、だれか倒れて……いや、寝ているのかな?」

 エリンハイドがそう言って、先ほど影が指さしたあたりへ近づいて行った。彼は種族的に夜目が利くのだ。

 そこにいたのは右足の膝から下を失ったみすぼらしい男だった。探索者のなれの果てだろうか、頭には古ぼけた安物の兜を載せたままだ。顔を近づけると体の脂っ気が腐敗した目にしみるような臭気と、どこで手に入れたものか安ものの蒸留酒の匂いがした。

 それでも、今夜初めて出会ったまともな人間には違いなかった。

「おい、ちょっと起きてくれ……今日の昼間、この辺りを金ぴかの馬車が通るのを見なかったか」

 回りくどい訊き方をする気にはならなかった。今の瞬間にもニーナがはらわたを取られているかもしれない。その前に口にするのもおぞましいような方法で、あの美しい裸身を弄ばれているのかもしれない。

「んん……くそ、なんでえ。人がせっかく気持ちよく寝てるってのに……」

「そいつは悪かったよ。だがこっちも手掛かりがなくて困ってるんだ。なあ、馬車を、金ぴかの馬車を見なかったかい?」

「金ぴかの、馬車だぁ……?」

「何でもいい、教えてくれたら酒手を恵んでやる。それでもっといい夢を見るといい」

 男はにわかに目を輝かせると、頭をはっきりさせようとする風にぶんぶんと振り回した。何か跳ねたように見えたのは、ノミかもしれない。

「馬車か……今日は見てねえ……だけどよ、金ぴかの馬車がいつも置いてある屋敷なら、確かちょっと前に見たぜ」

 なんということだ、大当たりじゃないか。あの影はもしかしてこれを教えてくれたのか?
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