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序章:ようこそ、既に救われた王国へ

壁に大穴が開いた異世界へ

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「驚いたな。ここに着任して半年、一日も欠かさずに見回りを続けてきたが、まさか本当に人が現れるとは」

 若い女の声がした。口調からするとどうも人に命令を下すことに慣れている様子だ。軍人とか、法執行機関の――指揮系統の上の方。
 
「私の言葉が理解できるか? ここ来る前はどこにいた?」

 松明の明かりに浮かび上がった女の顔は、どう見てもいわゆるコーカソイド、ヨーロッパ系の人種的特徴を持っていた。だが不思議と言葉は通じた。
 
「り、理解できる……どこに、って俺はついさっきまで自分の家のトイレに」

 言葉は理解できるが起きていることは理解できなかった。どこだここは。

 あるいはもう俺は脱水で気を失って、覚めることのない夢を見ているのでは?

「トイレ? ああ、そうじゃない。こう言えばわかるかな……『生まれた国はどこだ?』」

「……日本国」

「ふむ」

 女は腕組みをしてうつむき、ため息をついた。その様子でようやく、松明は周囲の別の人間が持っていたのだと解った。
 似たような意匠だがずっと大ざっぱで簡素な造りの鎧――それを着込んだ男女が合わせて十人ほど。
 夢だとすればリアルすぎる。現実だと信じるにはあまりにも突飛すぎる。
 
「よろしい、完全に予測どおり、典型的事例だな。よし、現在君が置かれている状況を説明しよう。ついてきたまえ」

「なあ、これってまさか……」

「私の名はヴェルベット・リンドブルム。王国に使える騎士だ。ここはカセイ山脈の中央部に位置する、メディムという渓谷都市。そしてこの場所は……」

 自分のペースを崩そうとしない甲冑女のあとについて、石作りの階段を上る。しばらく行くと突然明るい場所に出た。
 どことも知れない岩山の中腹、生い茂る緑の草地に囲まれた、神殿めいた白い建造物の前庭。
 
「二百年前に勇者召喚が行われた、古代神の神殿だ。ようこそマンスフェル王国へ、ニホンからの来訪者よ」

 俺はとっさに口を利くことができなかった。
 何ということだろう――トイレに閉じ込められて干乾しになる運命は免れたようだが、どうやら俺はいわゆる『異世界』に迷い込んでしまったらしかった。

         * * * * * * *
        
 標高が高いせいか、この神殿のあたりは涼しい。暴れたり逃げ回ったりしてもいいことは何もなさそうなので、俺はひとまずこの女について歩くことにした。しばらく歩くとまた階段を上り、風通しのいいテラスのようなところへ出る。
 ブナ材か何か、渋い色の木材で作られた小ぶりなテーブルに案内され、勧められるままに席に着いた。
 
「君、大丈夫か? ひどく疲れた顔をしているようだが……」

「ああいや、ちょっと直前までトラブルに巻き込まれてまして……大丈夫です、もう大丈夫」

「そうか? 何か冷たいものでも飲むか?」

「いただきます!!!」

 一も二もなく首を縦に振る。しばらくすると少し厚めのガラス器に注がれた、泡立つ液体が運ばれてきた。りんご酒シードルのような発泡性の果実酒のようだ。
 
「うまい……」

 俺は柄にもなく涙を流した。まさか生きてもう一度、冷たい炭酸飲料など飲めるとは思っていなかった。助かったのだ。
 
「助かりました……何とお礼を言っていいか……」

 女は気まずそうな顔をした。
 
「そ、そうか。それは良かった……実はその、君がここに来たのは事故でな」

 事故とな。ああ、なんでもいい、これが現実であって、今いる場所がトイレの中ではないのなら。
 
「その昔、この国が黒竜王と名のる魔族によって脅かされたときのことだ。王の一人娘が巫女として、勇者の召喚を行った。私もあまり詳しくないのだが、異世界から人間を呼び込む際には、因果律の歪みによってある種の異能が発現することが多い。それを期待してのことだった――」

 ヴェルベットの話は非常に長かったのでちょっと要約する。
 
 二百年前、この国に呼ばれた異界の勇者は、俺と同じく日本人だった。どうやら、日本で生きていた時代もほとんど同じくらいだったらしい。
 
 彼は過酷な訓練といくつもの残酷な出来事を乗り越えた。かの王女を始め、ともに魔族との戦いをかいくぐった数人の女性たちをひっくるめて妻に娶り、やがて現在の王朝をひらいたのだという。
 
 で、問題はそこからで。
 
 勇者を呼び込んだ儀式は、その後もこの神殿を中心とした複雑な時空の歪みを残したままだった。おそらくその後数百年にわたって、偶発的に日本人がこちらへ呼び込まれる可能性があった。

 そこで彼は、自分の後に時空の歪みに巻き込まれる不幸な日本人を救おう、救い続けようと考えた。
 王朝が続く限り継続運用される基金を設立し、毎年予算を追加し、神殿を監視する人員を配置することを、国法に定めたのだ。

 なお、歪みを除去するための研究にはいまだにめどが立っていないそうな。

 
「……ハーレムの話まではちょっとむかつきましたけど、すごくいい人じゃないですか」

「ふふ、そうだろう? 彼の、勇者シワス・ユズシマの血は私の一族にも流れている……それは私にとって無上の誇りなのだ」

 どうやらこの人の先祖は、その勇者のハーレムにいた女性の一人らしい。 
 
「すまなかった……君たちの世界が我々のこの世界よりも豊かで便利で安全であることは承知している。王国には、君のような被害者を保護し、生存に必要な教育を施し、希望とあれば就職をあっせんする用意と、その経済的な裏付けがある。かつて君の同胞に救われた我々には、君たちにその恩を返す責任があるのだ」

「いいんですか、そこまで言い切っちゃって」

「そういわざるを得ないな。なぜなら――時間差で巻き添え召喚された形になる君たちには、言葉が通じるということを除いて、なんら特別な能力が与えられていないのだから」

 つまり、開けっ放しの穴から落ちてきた、ただの平凡な人。それが俺ら。
 
 
 結論から言うと、俺はしばらくその神殿で基礎的な訓練を受けた。基礎体力をつけるための運動や初歩的な武術、剣技。歴史や博物学、本草学といった、ここで賢明に生きていくための知識。

 ヴェルベットはどちらかといえばお堅い性格だったが、その分誠意をこめて俺の面倒を見てくれた。
 
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