35 / 65
幕間2 二人の「ゲイルウィン」
ひとたびの別れ
しおりを挟む
「モルドヴォスに取り憑いていた邪神の一片は封じられた……さて、これからどうするか」
ブルゼンの市壁から北へ1km。小高い崖の上で、マリオンは騎雉に跨り街を見下ろしていた。
いましも赤い塗装の械体が街を出ていくのが見える。数台の輜重械と騎雉に分乗した、百人ほどの兵士が随行しているようだ。
「アースラ・ゲイルウィンの護令械、サーガラックか……いや、ああした戦闘用の重装備なものは闘将械と称するのだったかな、今では」
独り言を言う癖がどうにも抜けないのが厭わしかった。誰も聞いておらず返事が返ってこないとしても、言葉を口に出し、音にしないと不安で仕方がないのだ。
カイルダインの中で眠っていた800年の間、彼女の意識はずっと眠っていたわけではない。
赤い闘将械は輜重械にあわせた歩調で、ゆっくりと西へ去っていく。随行する部隊の編成を考えれば、何らかの軍事的任務を帯びていることは想像に難くない。
「何をするつもりかはわからんが、私が気にしても仕方ないか。さて、こちらはどうしたものかな」
騎雉の首をなでて優しく話しかける。流賊の野営地からくすねた乗騎は、ここしばらくの間にずいぶんと彼女に慣れた。まだ若くやや体躯が小さいが、その分長く乗れることだろう。乗り潰しさえしなければ。
「ふふっ。なあ、お前たち何年くらい生きるんだ? もしかすると私のほうが先に逝くんじゃあるまいな?」
当然ながら騎雉には答える能力はない。マリオンは苦笑した。昔読んだ『ロビンソン漂流記』にはオウムの寿命は60年ほどと書かれていた記憶がある。まさか騎雉がそこまで長生きするとも思えなかったが。
「まあ、一緒にいられる間は話し相手になってくれるか――よし。出発だ、クーちゃん」
騎雉にそんな名前を付けたのは、柚島さつきのセンスが残存しているせいだった。携帯端末を日がな一日いじりまわし、ふざけた画像を添えて他愛もないメッセージをやり取りした日々が、懐かしくも遠く感じられた。
ふと、ひどい寂寥感にとらわれる。
(この世界に来て、マリオン・ゲイルウィンと柚島さつきが一つになってから、何と長い時間がたったことだろう……!)
もう二度と外界を見ることはないと思っていた。だがひとたび定まったはずの宿命は奇しくも覆され、マリオンは降ってわいたような自由と、いくばくかの時間を手に入れた――はずだった。
背後で、小石をかんだ足音が響いた。
「マリオン! こんなところにいたのか」
振り返って見下ろすと、ヴォルターが騎雉のそばに来ていた。近くにカイルダインの姿はなく、どうやら徒歩でここまで登って来たらしかった。
「何だ、私を探してでもいたのか?」
「ああ。俺たちは――俺とパキラは、これから北方へ向かって旅に出る。パキラの械匠試験の代わりに、ガラヴェイン卿の渉猟械マーガンディを修理することになったんだ。うまくいけば、アースラ姫からの推薦状が発効して、ダンバーの械匠ギルドから資格が認められる」
「ほう。それは何よりじゃないか……それで?」
「その……良かったら、あんたも一緒に来てくれないかと思って」
「む……私がか?」
いぶかし気な声音を作りながらも、マリオンの心は激しく揺れた。目の前にいるのは、同じ時代の日本から呼び込まれた男だ。そしてカイルダインを通じて、かつての彼女と同じ運命につながれた存在でもある。マリオンの寂寥感を埋めるのに、これほどの相手はまたといないはずだった。
「あんたはこの国の昔の歴史や、夜の闇に潜むものに詳しいはずだ――魔法にも。同行して、俺たちを助けてもらえないだろうか」
渡りに船の誘いだった。だが、彼女はすんでのところで踏みとどまった。
「すまん。実のところ気持ちはうれしい。日本の記憶を共有できる相手と旅ができる――できたとしたら、とても楽しいし、有意義だろう。だが、私にはその旅とは別にやるべきことがある」
「そ、そうなのか……」
ヴォルターが少し困ったような情けないような笑顔を浮かべた。この国の男がめったに表すことのないような感情が、そこに見えていた。
「そうしょげるな。カイルダインの佩用者が変更されたのは、とんでもないイレギュラーなんだ。一刻も早く何が起こったのか突き止めねばならんし、今後起こる事への対応策も探さねば……ダンバーへ行くんだな?」
「ああ」
「では、それぞれの用事が済んだらそこで落ち合おう。私は、帝都まで行ってみようと思う」
「帝都?」
「そうだ。かつて存在したハリサイド帝国……その都、ペトラへ」
二人はしばらく沈黙したまま視線を絡み合わせた。
「わかった。じゃあダンバーで待ってる――気を付けてな」
「ありがとう。そちらも――では、またな!」
マリオンは騎雉に鞭をあてると、名残惜しさを振り切って走り出した。もう一つ、伝えなければならなかったことがあったのだ。だが、できなかった。
――くそ! 実のところ私に自由などないというわけだ!
マリオンは悔しさに視界がにじむのを感じた。
マリオン・ゲイルウィンは高貴の生まれだったが、決して自由気ままに生きられたわけではなかった。柚島さつきはごく普通の庶民の娘で、その手の届く世界の広さにはおのずと限度があった。
だから、カイルダインから切り離され自由と時間を手にしたと思った時、彼女の中には押し殺してきた欲望が一気にあふれ出した。
見知らぬ世界の隅々まで見て回りたい。美味いものを食べ、異国の音楽に酔いしれてみたい。恋もしてみたい――好ましい男との間に子を成し、命尽きるその時までその子と一緒にいられたらどんなにいいだろう。
だが、それはできないことなのだった。マリオン・ゲイルウィンの記憶と意志が、彼女が個人的幸福へ逃げ込むことを拒んでいる。
そして、カイルダインの危険性についてヴォルターに克明に伝えることは、やはり許されなかった。口に出そうとした瞬間、それは彼女の舌をこわばらせ、どうしても言葉にすることができなかった。
ならば、せめて最後まで見届けなくては。そしてもしも何か道があるならば――彼を永劫の果てまで続く闇から救い、同時にガラ=ザタンを放逐、あるいは討滅する術があるならば、それを探さねば。
峡谷を後に、騎雉が駆けていく。国によってはこの鳥の風切り羽を切らず、飛翔能力を保ったままにして遠方への伝令に使うこともある、と情報屋ナブールが話していた。
(こいつの羽、伸ばしてみるか……)
マリオンは風を頬に受けて空を飛ぶ高揚感と爽快さを想像してみた。一方には恐怖もあるだろうが、この際何でも経験しておこうと思う。
帝都への街道は、彼女の知るルートとは幾分異なったものになっているようだ。長い年月の間にがけ崩れや風雨による浸食で変貌してしまったに違いない。
次々と目の前を飛び去っていく見知らぬ景色を見つめるうちに、マリオンは自分がそれを楽しんでいることに気が付いていた。
何のことはない。こんな些細なことでも自分は楽しみ、幸せになることができるのか。
「ははっ、案外たわいもないな。ははは」
笑うという行為がどういうものか改めて確かめるように、空気を胸いっぱいに吸い込み、吐き出しながらマリオンは山道を駆け抜けていった。
ブルゼンの市壁から北へ1km。小高い崖の上で、マリオンは騎雉に跨り街を見下ろしていた。
いましも赤い塗装の械体が街を出ていくのが見える。数台の輜重械と騎雉に分乗した、百人ほどの兵士が随行しているようだ。
「アースラ・ゲイルウィンの護令械、サーガラックか……いや、ああした戦闘用の重装備なものは闘将械と称するのだったかな、今では」
独り言を言う癖がどうにも抜けないのが厭わしかった。誰も聞いておらず返事が返ってこないとしても、言葉を口に出し、音にしないと不安で仕方がないのだ。
カイルダインの中で眠っていた800年の間、彼女の意識はずっと眠っていたわけではない。
赤い闘将械は輜重械にあわせた歩調で、ゆっくりと西へ去っていく。随行する部隊の編成を考えれば、何らかの軍事的任務を帯びていることは想像に難くない。
「何をするつもりかはわからんが、私が気にしても仕方ないか。さて、こちらはどうしたものかな」
騎雉の首をなでて優しく話しかける。流賊の野営地からくすねた乗騎は、ここしばらくの間にずいぶんと彼女に慣れた。まだ若くやや体躯が小さいが、その分長く乗れることだろう。乗り潰しさえしなければ。
「ふふっ。なあ、お前たち何年くらい生きるんだ? もしかすると私のほうが先に逝くんじゃあるまいな?」
当然ながら騎雉には答える能力はない。マリオンは苦笑した。昔読んだ『ロビンソン漂流記』にはオウムの寿命は60年ほどと書かれていた記憶がある。まさか騎雉がそこまで長生きするとも思えなかったが。
「まあ、一緒にいられる間は話し相手になってくれるか――よし。出発だ、クーちゃん」
騎雉にそんな名前を付けたのは、柚島さつきのセンスが残存しているせいだった。携帯端末を日がな一日いじりまわし、ふざけた画像を添えて他愛もないメッセージをやり取りした日々が、懐かしくも遠く感じられた。
ふと、ひどい寂寥感にとらわれる。
(この世界に来て、マリオン・ゲイルウィンと柚島さつきが一つになってから、何と長い時間がたったことだろう……!)
もう二度と外界を見ることはないと思っていた。だがひとたび定まったはずの宿命は奇しくも覆され、マリオンは降ってわいたような自由と、いくばくかの時間を手に入れた――はずだった。
背後で、小石をかんだ足音が響いた。
「マリオン! こんなところにいたのか」
振り返って見下ろすと、ヴォルターが騎雉のそばに来ていた。近くにカイルダインの姿はなく、どうやら徒歩でここまで登って来たらしかった。
「何だ、私を探してでもいたのか?」
「ああ。俺たちは――俺とパキラは、これから北方へ向かって旅に出る。パキラの械匠試験の代わりに、ガラヴェイン卿の渉猟械マーガンディを修理することになったんだ。うまくいけば、アースラ姫からの推薦状が発効して、ダンバーの械匠ギルドから資格が認められる」
「ほう。それは何よりじゃないか……それで?」
「その……良かったら、あんたも一緒に来てくれないかと思って」
「む……私がか?」
いぶかし気な声音を作りながらも、マリオンの心は激しく揺れた。目の前にいるのは、同じ時代の日本から呼び込まれた男だ。そしてカイルダインを通じて、かつての彼女と同じ運命につながれた存在でもある。マリオンの寂寥感を埋めるのに、これほどの相手はまたといないはずだった。
「あんたはこの国の昔の歴史や、夜の闇に潜むものに詳しいはずだ――魔法にも。同行して、俺たちを助けてもらえないだろうか」
渡りに船の誘いだった。だが、彼女はすんでのところで踏みとどまった。
「すまん。実のところ気持ちはうれしい。日本の記憶を共有できる相手と旅ができる――できたとしたら、とても楽しいし、有意義だろう。だが、私にはその旅とは別にやるべきことがある」
「そ、そうなのか……」
ヴォルターが少し困ったような情けないような笑顔を浮かべた。この国の男がめったに表すことのないような感情が、そこに見えていた。
「そうしょげるな。カイルダインの佩用者が変更されたのは、とんでもないイレギュラーなんだ。一刻も早く何が起こったのか突き止めねばならんし、今後起こる事への対応策も探さねば……ダンバーへ行くんだな?」
「ああ」
「では、それぞれの用事が済んだらそこで落ち合おう。私は、帝都まで行ってみようと思う」
「帝都?」
「そうだ。かつて存在したハリサイド帝国……その都、ペトラへ」
二人はしばらく沈黙したまま視線を絡み合わせた。
「わかった。じゃあダンバーで待ってる――気を付けてな」
「ありがとう。そちらも――では、またな!」
マリオンは騎雉に鞭をあてると、名残惜しさを振り切って走り出した。もう一つ、伝えなければならなかったことがあったのだ。だが、できなかった。
――くそ! 実のところ私に自由などないというわけだ!
マリオンは悔しさに視界がにじむのを感じた。
マリオン・ゲイルウィンは高貴の生まれだったが、決して自由気ままに生きられたわけではなかった。柚島さつきはごく普通の庶民の娘で、その手の届く世界の広さにはおのずと限度があった。
だから、カイルダインから切り離され自由と時間を手にしたと思った時、彼女の中には押し殺してきた欲望が一気にあふれ出した。
見知らぬ世界の隅々まで見て回りたい。美味いものを食べ、異国の音楽に酔いしれてみたい。恋もしてみたい――好ましい男との間に子を成し、命尽きるその時までその子と一緒にいられたらどんなにいいだろう。
だが、それはできないことなのだった。マリオン・ゲイルウィンの記憶と意志が、彼女が個人的幸福へ逃げ込むことを拒んでいる。
そして、カイルダインの危険性についてヴォルターに克明に伝えることは、やはり許されなかった。口に出そうとした瞬間、それは彼女の舌をこわばらせ、どうしても言葉にすることができなかった。
ならば、せめて最後まで見届けなくては。そしてもしも何か道があるならば――彼を永劫の果てまで続く闇から救い、同時にガラ=ザタンを放逐、あるいは討滅する術があるならば、それを探さねば。
峡谷を後に、騎雉が駆けていく。国によってはこの鳥の風切り羽を切らず、飛翔能力を保ったままにして遠方への伝令に使うこともある、と情報屋ナブールが話していた。
(こいつの羽、伸ばしてみるか……)
マリオンは風を頬に受けて空を飛ぶ高揚感と爽快さを想像してみた。一方には恐怖もあるだろうが、この際何でも経験しておこうと思う。
帝都への街道は、彼女の知るルートとは幾分異なったものになっているようだ。長い年月の間にがけ崩れや風雨による浸食で変貌してしまったに違いない。
次々と目の前を飛び去っていく見知らぬ景色を見つめるうちに、マリオンは自分がそれを楽しんでいることに気が付いていた。
何のことはない。こんな些細なことでも自分は楽しみ、幸せになることができるのか。
「ははっ、案外たわいもないな。ははは」
笑うという行為がどういうものか改めて確かめるように、空気を胸いっぱいに吸い込み、吐き出しながらマリオンは山道を駆け抜けていった。
0
お気に入りに追加
255
あなたにおすすめの小説


魔拳のデイドリーマー
osho
ファンタジー
剣と魔法の異世界に転生した少年・ミナト。ちょっと物騒な大自然の中で、優しくて美人でエキセントリックなお母さんに育てられた彼が、我流の魔法と鍛えた肉体を武器に、常識とか色々ぶっちぎりつつもあくまで気ままに過ごしていくお話。
主人公最強系の転生ファンタジーになります。未熟者の書いた、自己満足が執筆方針の拙い文ですが、お暇な方、よろしければどうぞ見ていってください。感想などいただけると嬉しいです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
姫騎士様と二人旅、何も起きないはずもなく……
踊りまんぼう
ファンタジー
主人公であるセイは異世界転生者であるが、地味な生活を送っていた。 そんな中、昔パーティを組んだことのある仲間に誘われてとある依頼に参加したのだが……。 *表題の二人旅は第09話からです
(カクヨム、小説家になろうでも公開中です)

食うために軍人になりました。
KBT
ファンタジー
ヴァランタイン帝国の片田舎ダウスター領に最下階位の平民の次男として生まれたリクト。
しかし、両親は悩んだ。次男であるリクトには成人しても継ぐ土地がない。
このままではこの子の未来は暗いものになってしまうだろう。
そう思った両親は幼少の頃よりリクトにを鍛え上げる事にした。
父は家の蔵にあったボロボロの指南書を元に剣術を、母は露店に売っていた怪しげな魔導書を元に魔法を教えた。
それから10年の時が経ち、リクトは成人となる15歳を迎えた。
両親の危惧した通り、継ぐ土地のないリクトは食い扶持を稼ぐために、地元の領軍に入隊試験を受けると、両親譲りの剣術と魔法のおかげで最下階級の二等兵として無事に入隊する事ができた。
軍と言っても、のどかな田舎の軍。
リクトは退役するまで地元でのんびり過ごそうと考えていたが、入隊2日目の朝に隣領との戦争が勃発してしまう。
おまけに上官から剣の腕を妬まれて、単独任務を任されてしまった。
その任務の最中、リクトは平民に対する貴族の専横を目の当たりにする。
生まれながらの体制に甘える貴族社会に嫌気が差したリクトは軍人として出世して貴族の専横に対抗する力を得ようと立身出世の道を歩むのだった。
剣と魔法のファンタジー世界で軍人という異色作品をお楽しみください。

もしかして寝てる間にざまぁしました?
ぴぴみ
ファンタジー
令嬢アリアは気が弱く、何をされても言い返せない。
内気な性格が邪魔をして本来の能力を活かせていなかった。
しかし、ある時から状況は一変する。彼女を馬鹿にし嘲笑っていた人間が怯えたように見てくるのだ。
私、寝てる間に何かしました?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる