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ACT1:闘技場都市の支配者
地下の恐怖
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(いない、って……?)
何やらぞっとして、足が止まる。マリオンにも、召喚されたもう半分、もともとは日本人だった人格があったというのだ。柚島さつき――彼女が「もういない」とはどういうことだろう。
マリオンはそれっきり口をつぐんだ。彼女に少し遅れてドアを出ると、舗道の脇へ一歩控えたところで、ギルドの係員が一人控えていた。
あ、と声が出そうになる。前に来たときパキラに応対していた男だった。
「申し訳ありません」
彼が深々と頭を下げて何やら詫びてくる。俺は困惑した。
「何で謝る」
「お連れの械匠見習……パキラ嬢に対して、我々が取り立てて便宜を図らなかったことが、どうもあなたの窮状の根源にあるような気がしまして」
「いや、仕方ないだろうそれは。こんな状況を想定できるわけがない。あんたは自分の職務を公正に果たしただけだ」
「しかし……」
「あんたの責任じゃない。パキラは俺が連れ戻してくる」
うなだれる彼を残して、俺はマリオンを追った。
* * * * * * *
「神殿へ向かおう。ロランドがいるというなら、おそらくパキラもそこにいる。奴らは彼女のことを、君に対する重要な切り札だと思っているはずだからな」
「そういうことになる……のかな」
「間違いあるまい。交渉を持ち掛けてくるなら、それが決裂するまでは彼女は安全なはずだ。全く不安材料がないわけではないが、パキラを手にしたことで、逆に向こうの出方も読みやすいものに限定させることができた」
「あんた、結構黒いな?」
「仕方あるまい」
夜のブルゼン市中を駆け抜ける。裏通りは避け、大通りを選んで、ただし建物の影から影へ。
壁に囲まれた市域の東外れに、件の神殿はあった。火成岩を切り出して積み上げた、黒ずんだ色の表面にキラキラと鉱物の粒子が輝くその外観。
エジプトのアブ・シンベル神殿やマヤのピラミッドを思わせる、丈高でどっしりとした威容がそこにあった。
俺とマリオンは神殿を取り巻く広場の、立ち並ぶ石柱の陰から神殿の入り口を窺っていた。飾り立てられた小型の輜重械が出ていくのが見えた。
「あれは……?」
「まあ、空だろうな」
なるほど。あれに乗って出入りするほどうかつではない、ということか。刺客を警戒する権力者なら、恐らく地下通路の一つくらい確保していることだろう。果たして今、神殿の中にロランドはいるのかどうか。
神殿の内部に足を踏み入れた。列柱の一本一本に取り付けられた灯籠を避け、ここでも影の中を縫うようにして進む。時折ひそやかな衣擦れの音ともに、通廊を巡回する不寝番の下級神官が通り過ぎた。
「これは、地下を通る方が早そうだ」
「地下?」
「護令械の安置所になっている――ということはここはもともと火の神ホムタラの神殿だったはずだ。神殿の基本構造はどこでも共通だったし、昔とそれほど変わってはいまい。恐らく拝殿奥、至聖所の壁の向こうに護令械が保存されている」
「火の神。つまり自然や職業にちなんだ神が……?」
「そうだ。地球の三大宗教のようなものや、統一的な主神にあたるものはない」
マリオンが壁伝いに側廊への入り口へ向かって走る。彼女の靴は柔らかな鹿革で作られていて、地面の危険物から足を守りにくい難点はあるが、彼女自身の訓練された身ごなしと相まって、まったく足音を響かせなかった。
手招きするそぶりが見えて、俺もそこへ駆け寄った。
「あったぞ……やはりな」
巧妙に隠されているが、側廊入り口から入ってすぐの壁の下方に、かがんでようやく入れる程度の高さに作られた石の扉があった。
「確か、このタイプの扉は引き戸だ」
マリオンがなにやら壁を操作すると、短い階段から連なる通路が現れた。
降りてしまえば天井はそれなりに高く、立って歩けそうだった。マリオンが角灯に火をともし、左手に提げて進む。空気には角灯を点ける前から仄かに物の燃える匂いと、香料のかすかな香りが漂っていた。
かなりの広さのある、入り組んだ回廊だった。何か重量のある足音がどす、どす、と歩き回っている音が聞こえて、マリオンがはっと身をこわばらせるのが分かった。石蝋の煙にまざってかすかに漂ってくる、カビ臭さと腐敗臭――
「まずいな。退っていろ、ヴォルター。おそらく修道僧には相性の悪い相手がいる」
「な、なんだ?」
「君はこの世界の夜がどんなものか、まだろくに知らないだろう? ここでは本物の妖怪が出るんだ、拳や蹴りで倒すことのできない、邪悪な奴が」
みしっ、という音とともに前方の空気が揺れた。腐臭が急激に濃くなり、マリオンの手にした灯りが投げかける影の奥から、汚液にまみれた物体が現れた。
腐乱した肉と汚泥をこね混ぜたような体をした、身長2mほどの大まかに人間の形をしたもの――目の前のものに限っては、肩に当たる部分の肉に半ばまで埋まった頭蓋骨をむき出しにして、その一方の眼窩に赤い光が淀んでいた。
「操屍鬼!? まさかこんな不浄なものを、火の神の神殿地下に放つなどと!!」
「な、なんだこいつは!」
「墓場などに放置された死体を食い荒らす、正体のわからない生き物だ! だが亡者じゃない。死体の肉の中に、それを動かしながらむさぼる本体がいる。剣も拳も効かないし、触れたところから屍毒がうつる。行きつくところはあれと同じ腐肉の塊だ」
「うげえ……」
マリオンに向かって操屍鬼の腕がのびる。彼女はとんぼを切ってとび退き、辛うじてその攻撃を避けた。
「くそ、それなりに速い! さては闘技場の死者を食わせたか」
「闘技場の死者だって……?」
「ああ、こいつらは死体に残った精気を吸う。だから取り込んだ死体が新鮮なほど、強くて速い」
ぞっとした。『試金石』パラゴーンが年間三百勝を上げていたことを思い出したからだ。つまりあいつに挑まされて死んだ貧民や軽犯罪者は、目の前にいるような腐肉の塊に取り込まれ、その餌食とされた――冗談じゃない。
下手すれば俺もああなるはずだったのだ。
「あと10タラット下がれ、ヴォルター。こいつをなんとかできるのは今ここでは私だけだ。寿命を削ることになりかねないが、やらねば死ぬだけ――いや、死よりも悪い」
彼女は、襟元の首飾りから宝石の一個をむしり取った。鋭いモーションで投擲し、それは操屍鬼の足元で砕けて爆ぜた。
操屍鬼は光と熱を嫌うらしい。地下回廊の捕食者は一瞬ひるんで動きを停め、マリオンはその間に十分な距離をとることに成功していた。
「爆弾!?」
「熱晶石だ。衝撃を加えると熱量を一気に解放する、特殊なカットが施してある――時間稼ぎにはなる」
俺は残念ながら見守るしかできなかった。何も得物無し、触れればこっちが腐る相手に拳打を浴びせるのは無茶もいいところ。そもそもあの分厚い腐肉に打撃が効くとも思えない。
マリオンは角灯の覆いを全開に開き、高く掲げて詠唱を始めた。
「失効せる古き盟約の下、我が血に刻まれし刻印をよすがに。破壊と変転の司、南天の守護者よ、今一度我に力を与えよ。くるむ ああぷ たたながたん! やむら ががす みるごなだん! 不浄なる悪鬼を滅し、汚されし肉と魂に最後の安息を疾くもたらさん!」
詠唱しながらマリオンは苦悶の表情を浮かべ、大きくあえいだ。寿命を削るというのも大げさではなさそうだ。何かよほどの無理を通しているらしい。
――それでも、詠唱は完成し、術式は成立した。
「凝焔金剛法陣!」
マリオンの喉の奥で何かが張り裂けでもしたのか、口の端から血が一筋流れ落ちる。
だが操屍鬼の周囲には固体化した焔とでも形容すべき熱と光の檻が形作られ、その骨組みの一本一本から、鋭い炎の杭が内側の腐肉の塊へと突き刺さり貫いて膨れ上がった。
悪鬼のシルエットすべてが光の杭で埋め尽くされ、回廊の中には結界から漏れだした熱が充満する。操屍鬼は一片の肉も残さず、灰となって消滅した。
何やらぞっとして、足が止まる。マリオンにも、召喚されたもう半分、もともとは日本人だった人格があったというのだ。柚島さつき――彼女が「もういない」とはどういうことだろう。
マリオンはそれっきり口をつぐんだ。彼女に少し遅れてドアを出ると、舗道の脇へ一歩控えたところで、ギルドの係員が一人控えていた。
あ、と声が出そうになる。前に来たときパキラに応対していた男だった。
「申し訳ありません」
彼が深々と頭を下げて何やら詫びてくる。俺は困惑した。
「何で謝る」
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「いや、仕方ないだろうそれは。こんな状況を想定できるわけがない。あんたは自分の職務を公正に果たしただけだ」
「しかし……」
「あんたの責任じゃない。パキラは俺が連れ戻してくる」
うなだれる彼を残して、俺はマリオンを追った。
* * * * * * *
「神殿へ向かおう。ロランドがいるというなら、おそらくパキラもそこにいる。奴らは彼女のことを、君に対する重要な切り札だと思っているはずだからな」
「そういうことになる……のかな」
「間違いあるまい。交渉を持ち掛けてくるなら、それが決裂するまでは彼女は安全なはずだ。全く不安材料がないわけではないが、パキラを手にしたことで、逆に向こうの出方も読みやすいものに限定させることができた」
「あんた、結構黒いな?」
「仕方あるまい」
夜のブルゼン市中を駆け抜ける。裏通りは避け、大通りを選んで、ただし建物の影から影へ。
壁に囲まれた市域の東外れに、件の神殿はあった。火成岩を切り出して積み上げた、黒ずんだ色の表面にキラキラと鉱物の粒子が輝くその外観。
エジプトのアブ・シンベル神殿やマヤのピラミッドを思わせる、丈高でどっしりとした威容がそこにあった。
俺とマリオンは神殿を取り巻く広場の、立ち並ぶ石柱の陰から神殿の入り口を窺っていた。飾り立てられた小型の輜重械が出ていくのが見えた。
「あれは……?」
「まあ、空だろうな」
なるほど。あれに乗って出入りするほどうかつではない、ということか。刺客を警戒する権力者なら、恐らく地下通路の一つくらい確保していることだろう。果たして今、神殿の中にロランドはいるのかどうか。
神殿の内部に足を踏み入れた。列柱の一本一本に取り付けられた灯籠を避け、ここでも影の中を縫うようにして進む。時折ひそやかな衣擦れの音ともに、通廊を巡回する不寝番の下級神官が通り過ぎた。
「これは、地下を通る方が早そうだ」
「地下?」
「護令械の安置所になっている――ということはここはもともと火の神ホムタラの神殿だったはずだ。神殿の基本構造はどこでも共通だったし、昔とそれほど変わってはいまい。恐らく拝殿奥、至聖所の壁の向こうに護令械が保存されている」
「火の神。つまり自然や職業にちなんだ神が……?」
「そうだ。地球の三大宗教のようなものや、統一的な主神にあたるものはない」
マリオンが壁伝いに側廊への入り口へ向かって走る。彼女の靴は柔らかな鹿革で作られていて、地面の危険物から足を守りにくい難点はあるが、彼女自身の訓練された身ごなしと相まって、まったく足音を響かせなかった。
手招きするそぶりが見えて、俺もそこへ駆け寄った。
「あったぞ……やはりな」
巧妙に隠されているが、側廊入り口から入ってすぐの壁の下方に、かがんでようやく入れる程度の高さに作られた石の扉があった。
「確か、このタイプの扉は引き戸だ」
マリオンがなにやら壁を操作すると、短い階段から連なる通路が現れた。
降りてしまえば天井はそれなりに高く、立って歩けそうだった。マリオンが角灯に火をともし、左手に提げて進む。空気には角灯を点ける前から仄かに物の燃える匂いと、香料のかすかな香りが漂っていた。
かなりの広さのある、入り組んだ回廊だった。何か重量のある足音がどす、どす、と歩き回っている音が聞こえて、マリオンがはっと身をこわばらせるのが分かった。石蝋の煙にまざってかすかに漂ってくる、カビ臭さと腐敗臭――
「まずいな。退っていろ、ヴォルター。おそらく修道僧には相性の悪い相手がいる」
「な、なんだ?」
「君はこの世界の夜がどんなものか、まだろくに知らないだろう? ここでは本物の妖怪が出るんだ、拳や蹴りで倒すことのできない、邪悪な奴が」
みしっ、という音とともに前方の空気が揺れた。腐臭が急激に濃くなり、マリオンの手にした灯りが投げかける影の奥から、汚液にまみれた物体が現れた。
腐乱した肉と汚泥をこね混ぜたような体をした、身長2mほどの大まかに人間の形をしたもの――目の前のものに限っては、肩に当たる部分の肉に半ばまで埋まった頭蓋骨をむき出しにして、その一方の眼窩に赤い光が淀んでいた。
「操屍鬼!? まさかこんな不浄なものを、火の神の神殿地下に放つなどと!!」
「な、なんだこいつは!」
「墓場などに放置された死体を食い荒らす、正体のわからない生き物だ! だが亡者じゃない。死体の肉の中に、それを動かしながらむさぼる本体がいる。剣も拳も効かないし、触れたところから屍毒がうつる。行きつくところはあれと同じ腐肉の塊だ」
「うげえ……」
マリオンに向かって操屍鬼の腕がのびる。彼女はとんぼを切ってとび退き、辛うじてその攻撃を避けた。
「くそ、それなりに速い! さては闘技場の死者を食わせたか」
「闘技場の死者だって……?」
「ああ、こいつらは死体に残った精気を吸う。だから取り込んだ死体が新鮮なほど、強くて速い」
ぞっとした。『試金石』パラゴーンが年間三百勝を上げていたことを思い出したからだ。つまりあいつに挑まされて死んだ貧民や軽犯罪者は、目の前にいるような腐肉の塊に取り込まれ、その餌食とされた――冗談じゃない。
下手すれば俺もああなるはずだったのだ。
「あと10タラット下がれ、ヴォルター。こいつをなんとかできるのは今ここでは私だけだ。寿命を削ることになりかねないが、やらねば死ぬだけ――いや、死よりも悪い」
彼女は、襟元の首飾りから宝石の一個をむしり取った。鋭いモーションで投擲し、それは操屍鬼の足元で砕けて爆ぜた。
操屍鬼は光と熱を嫌うらしい。地下回廊の捕食者は一瞬ひるんで動きを停め、マリオンはその間に十分な距離をとることに成功していた。
「爆弾!?」
「熱晶石だ。衝撃を加えると熱量を一気に解放する、特殊なカットが施してある――時間稼ぎにはなる」
俺は残念ながら見守るしかできなかった。何も得物無し、触れればこっちが腐る相手に拳打を浴びせるのは無茶もいいところ。そもそもあの分厚い腐肉に打撃が効くとも思えない。
マリオンは角灯の覆いを全開に開き、高く掲げて詠唱を始めた。
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詠唱しながらマリオンは苦悶の表情を浮かべ、大きくあえいだ。寿命を削るというのも大げさではなさそうだ。何かよほどの無理を通しているらしい。
――それでも、詠唱は完成し、術式は成立した。
「凝焔金剛法陣!」
マリオンの喉の奥で何かが張り裂けでもしたのか、口の端から血が一筋流れ落ちる。
だが操屍鬼の周囲には固体化した焔とでも形容すべき熱と光の檻が形作られ、その骨組みの一本一本から、鋭い炎の杭が内側の腐肉の塊へと突き刺さり貫いて膨れ上がった。
悪鬼のシルエットすべてが光の杭で埋め尽くされ、回廊の中には結界から漏れだした熱が充満する。操屍鬼は一片の肉も残さず、灰となって消滅した。
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