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tutrial:来たりて、また還らず
廃墟で見た夢
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携帯端末のアラーム音がけたたましく響く。俺はすぐに手を伸ばしてスイッチを切った。
アラーム設定を解除し忘れて三日目だ。早朝に起きる必要はもうないというのに。
時刻はもう朝の4時になろうとしていた。アパートの外の階段を新聞配達員がガタガタと降りていく音が、部屋の中まで聞こえてきた。
不意に、たとえようもない疲労感が全身を塗りつぶすのを感じた。少しでも気をゆるめると目の前の視界が掻き消えて、脈絡もなくどこかの砂浜のような風景が浮かんでくる。
「ふう、そろそろ限界かな……まあ、楽しかったからいいか」
俺は床に置きっぱなしのペットボトルを取り上げ、炭酸が抜けてぬるくなったコーラを喉に流し込んだ。
申し訳程度のカフェインと、酸味料が作り出す粘膜への刺激が、わずかに頭をはっきりさせる。
デスクの上、据え置きモニターの液晶画面の中では、やたらと装飾的なパーツがゴテゴテと盛られたコスチュームに身を包んで、男女6人の冒険者たちが思い思いのポーズで佇んでいる――俺は今日も今日とて大規模多人数参加型オンラインRPG「ルーン・ダイアスパー」にログインして遊んでいたのだった。
今回のダンジョンアタックは、上々の首尾だった。
拠点の街「オラクル」で募ったパーティーは、なじみのギルドメンバーが二人に、初参加の新来者が三人。当初は密かに心配したが、眉をひそめるようなマナーの不一致もなかった。
メンバーはみなレベルなりに鍛えたスキルと装備を揃えていて、俺たちはテンポよくボス部屋まで到達することができた。
そして、先般のアップデートで追加されたダンジョンボス「第三神体・ヒガン」を撃破。大量のアイテム強化石と、ゲーム内通貨「エイリル」を授与された。
攻略を終えたダンジョンから「オラクル」の一角にあるほこらまでテレポートされ、俺たちはそこでパーティーを一旦解散したところだった。
興奮冷めやらず、皆まだ談笑を続けている。画面左下のウィンドウには、彼らの会話ログが表示されていた。
【この間バザーで手に入れた次のレベルの鎧、これで+20まで強化できるな】
【私はこの強化石をトレードに出して、杖を新しくしようと思うの】
【また機会があったらお願いします! フレ登録してもらっていいですか?】
【もちろん!】
みんな上機嫌だった。今日の臨時メンバーのうち、一人くらいはいずれギルドに入ってくれるかもしれない。
【明日もよろしくな、コンラッド】
古参のギルドメンバー、斧戦士のドラガンがそういいながら、俺に手を振る。
ほかのプレイヤーは一人また一人と立ち去り、もうほこらの前は俺と彼、二人だけだった。
【ああ、またな。とりあえず俺、今夜はもう寝るわ。考えてみればもう三日ほど寝てなかった】
〈ちょっと! 死んじゃうわよ!〉
〈その声で素に戻るなよ〉
ゲームクライアントに組み込まれたメッセンジャーを通しての音声チャットで、俺たちはげらげらと笑いあっていた。
このチャットの音声にはそれぞれのキャラの外見にふさわしい形で、ある程度の変調をかけることができるのだ。
斧戦士のアバターに合わせた野太いガラガラ声でこの言葉遣いというのは、かなりの破壊力といえた。
ドラガンの『中の人』は現役の女子短大生だ。オフで会おうと誘っても毎度やんわりと拒絶されてはいるが、とりあえず俺たちはゲーム内でいい友人関係を保っている。
ドラガンはメッセンジャーの変調機能を切った。何度か聞いたことのある、明るく元気のいい声がヘッドホンから響いた。
〈昨日はリリちゃんの育成でずっと起きてたもんねー〉
〈ああ、ちょっと手助けし過ぎたかもな〉
〈いいじゃないの、彼女、すごく感謝してたよ『おかげで狩り場ひとつ上げられました』って〉
〈なら、よかった〉
俺はドラガンと別れるとそのまま町を通り抜け、郊外にある個人農場へ向かった。最近追加されたコンテンツだ。
ここでは毎日一回だけ、管理コマンドから生産設備の整備と強化を行うことができ、公式マクロを利用することで離席していても採掘や採集のスキルを上げられる。
開発度3レベルまで上がった鉱山からは今日初めて、貴重な黒銅鉱石が出た。
畑では既に、ポーションの材料になる雪白人参が収穫されている。しばらく生産関係を鍛えるのも悪くない――時間はいくらでもある。
「よし、もう寝るぞ。寝る!」
俺はマイク付きヘッドホンをはずし、歯も磨かずにそのままベッドに倒れ込んだ。クライアントは落とさない。どうせ起きればまたプレイするのだ。
明日から大学は夏休み――前期試験には結局出ていない。
摂氏25度に設定され冷房運転を続けるエアコンの音だけが、夢の中まで聞こえ続けていた。
* * * * * * *
目覚める前の不安な身じろぎ。
誰かが枕元すぐ近くにいる、そんな気配がした。額に手が触れたような感触と、何かの花に似た、かすかな芳香――
再び眠りに落ちようとしたその時、俺は閉じたまぶたの上に降り注ぐ強烈な日差しに気が付いた。そして、何かごつごつした固いものの上に寝ていることによる、背中の不快な痛みにも。
これは、おかしい。
俺は昨晩、サービス三年目に突入した「ルーン・ダイアスパー」にログインしたまま、ベッドに入って寝たはずだ。
洗濯をサボってシーツが汚れたままの、少々他人様にお見せできない系の寝床だが、少なくともこんな寝心地ではなかった。
思い切って目を開ける。瞳孔から光がなだれ込み、視神経を痛めつけた。
「ま、まぶしい……」
仰向けに横たわった俺の視界には、空が広がっていた。見慣れない色だ。強いて言えばやや緑色を帯びている。
その空のおおよそ三方向を塞いで切り取る、崩れかけた彩色レンガの壁が見えた。俺の体の下にあるものも、どうやらそうした壁が崩れた瓦礫であるらしい。
「……夢じゃあないらしいな。とすると、ここはどこだ?」
少なくとも、眠りにつく直前までいた、日本国東京都の私鉄沿線にひっそりと建つ安アパートではない。
手がかりを求めてあたりを見回すと、いくつか目を引くものがあった。リュックサック風に背負うように作られた木組みの枠――背負子とかキャリーボーンなどと呼ばれるたぐいの物体が、すぐ傍らの壁に立てかけられている。
木枠には皮でできたカバンが取り付けられていた。その隣にはなめし皮で作られた袋。地面へのすわり具合を見ると、何か液体が入っているようだ。
そこまで目を動かした直後、俺は妙なものに気が付いた。
瓦礫の山から少し離れた場所。レンガ床に積もった赤褐色の砂の上に、恐らくは指で描かれた、見たこともない象形文字が記されている。
それを見たとき、なぜか俺の頭には、はっきりとそれに対応する日本語が浮かんだ。
――ようこそ、クィル=ヤスへ。
「バカな。こんなもの、読めるはずがない」
わけがわからない。先ほどから視界に入る自分の手足もなにやらおかしかった。褐色に日焼けした肌の下にうかがえる、太いロープのようなそれでいてしなやかな筋肉。
足には植物の繊維で編んだ簡素なサンダルがくくりつけられている。皮膚にはほとんど体毛が見当たらず、手は骨ばって掌の皮が厚い。拳を握ると人差し指と中指の付け根には凶器めいた胼胝があった。
慣れ親しんだ自分の体ではない。やや肥満気味の、生白いあの体はどこへ消えたのか。
耐え難い不安が首をもたげる。ここはどうやら日本ではない。体も俺の体ではないようだ。
さて、俺ははたしてまだ俺なのか?
「落ち着け……落ち着け……俺は誰だ?」
――俺の名は井出川准。21歳、男。都内の大学に通う三年生。彼女いない歴21年。
趣味はオンラインゲームとweb小説を読むこと。コンビニのバイトは遅刻のせいで三日前にクビになった。講義には一か月前から出ていない。
「ルーン・ダイアスパー」のゲーム内でギルド長に就任して以来、新規メンバーの勧誘やキャラクター育成のためのインスタンスダンジョン攻略で忙しく、徹夜三日目に突入して――
突っ込みどころは満載だが、なにもおかしいところはない。だが、同時に頭の中では、それらとまったく同質の確かな手触りを持って、別系統の来歴情報が固定されつつあった。
――生まれて18年。子供のころから体力自慢。12の年に故郷の村を出奔し、メレグ山の闘神教団に入門を許されて秘門武術「心合拳」を学んだ。
修行のために山を下り、街道を徒歩で進むこと三日。モルテンバラ地方の荒野を踏破し――
「待て。ちょっと待て。なんだこれは! どっから紛れ込んだんだ、この記憶は!」
激しい恐怖に襲われて、俺は頭を抱えた。そうしてもう一度見上げた空には、さらに異様なものがあった。
天頂に二つの太陽が、抱擁を交わすように寄り添って輝いている。
「あ、ああ……」
何てことだ。どうやらここは、地球ですらないのだ。
アラーム設定を解除し忘れて三日目だ。早朝に起きる必要はもうないというのに。
時刻はもう朝の4時になろうとしていた。アパートの外の階段を新聞配達員がガタガタと降りていく音が、部屋の中まで聞こえてきた。
不意に、たとえようもない疲労感が全身を塗りつぶすのを感じた。少しでも気をゆるめると目の前の視界が掻き消えて、脈絡もなくどこかの砂浜のような風景が浮かんでくる。
「ふう、そろそろ限界かな……まあ、楽しかったからいいか」
俺は床に置きっぱなしのペットボトルを取り上げ、炭酸が抜けてぬるくなったコーラを喉に流し込んだ。
申し訳程度のカフェインと、酸味料が作り出す粘膜への刺激が、わずかに頭をはっきりさせる。
デスクの上、据え置きモニターの液晶画面の中では、やたらと装飾的なパーツがゴテゴテと盛られたコスチュームに身を包んで、男女6人の冒険者たちが思い思いのポーズで佇んでいる――俺は今日も今日とて大規模多人数参加型オンラインRPG「ルーン・ダイアスパー」にログインして遊んでいたのだった。
今回のダンジョンアタックは、上々の首尾だった。
拠点の街「オラクル」で募ったパーティーは、なじみのギルドメンバーが二人に、初参加の新来者が三人。当初は密かに心配したが、眉をひそめるようなマナーの不一致もなかった。
メンバーはみなレベルなりに鍛えたスキルと装備を揃えていて、俺たちはテンポよくボス部屋まで到達することができた。
そして、先般のアップデートで追加されたダンジョンボス「第三神体・ヒガン」を撃破。大量のアイテム強化石と、ゲーム内通貨「エイリル」を授与された。
攻略を終えたダンジョンから「オラクル」の一角にあるほこらまでテレポートされ、俺たちはそこでパーティーを一旦解散したところだった。
興奮冷めやらず、皆まだ談笑を続けている。画面左下のウィンドウには、彼らの会話ログが表示されていた。
【この間バザーで手に入れた次のレベルの鎧、これで+20まで強化できるな】
【私はこの強化石をトレードに出して、杖を新しくしようと思うの】
【また機会があったらお願いします! フレ登録してもらっていいですか?】
【もちろん!】
みんな上機嫌だった。今日の臨時メンバーのうち、一人くらいはいずれギルドに入ってくれるかもしれない。
【明日もよろしくな、コンラッド】
古参のギルドメンバー、斧戦士のドラガンがそういいながら、俺に手を振る。
ほかのプレイヤーは一人また一人と立ち去り、もうほこらの前は俺と彼、二人だけだった。
【ああ、またな。とりあえず俺、今夜はもう寝るわ。考えてみればもう三日ほど寝てなかった】
〈ちょっと! 死んじゃうわよ!〉
〈その声で素に戻るなよ〉
ゲームクライアントに組み込まれたメッセンジャーを通しての音声チャットで、俺たちはげらげらと笑いあっていた。
このチャットの音声にはそれぞれのキャラの外見にふさわしい形で、ある程度の変調をかけることができるのだ。
斧戦士のアバターに合わせた野太いガラガラ声でこの言葉遣いというのは、かなりの破壊力といえた。
ドラガンの『中の人』は現役の女子短大生だ。オフで会おうと誘っても毎度やんわりと拒絶されてはいるが、とりあえず俺たちはゲーム内でいい友人関係を保っている。
ドラガンはメッセンジャーの変調機能を切った。何度か聞いたことのある、明るく元気のいい声がヘッドホンから響いた。
〈昨日はリリちゃんの育成でずっと起きてたもんねー〉
〈ああ、ちょっと手助けし過ぎたかもな〉
〈いいじゃないの、彼女、すごく感謝してたよ『おかげで狩り場ひとつ上げられました』って〉
〈なら、よかった〉
俺はドラガンと別れるとそのまま町を通り抜け、郊外にある個人農場へ向かった。最近追加されたコンテンツだ。
ここでは毎日一回だけ、管理コマンドから生産設備の整備と強化を行うことができ、公式マクロを利用することで離席していても採掘や採集のスキルを上げられる。
開発度3レベルまで上がった鉱山からは今日初めて、貴重な黒銅鉱石が出た。
畑では既に、ポーションの材料になる雪白人参が収穫されている。しばらく生産関係を鍛えるのも悪くない――時間はいくらでもある。
「よし、もう寝るぞ。寝る!」
俺はマイク付きヘッドホンをはずし、歯も磨かずにそのままベッドに倒れ込んだ。クライアントは落とさない。どうせ起きればまたプレイするのだ。
明日から大学は夏休み――前期試験には結局出ていない。
摂氏25度に設定され冷房運転を続けるエアコンの音だけが、夢の中まで聞こえ続けていた。
* * * * * * *
目覚める前の不安な身じろぎ。
誰かが枕元すぐ近くにいる、そんな気配がした。額に手が触れたような感触と、何かの花に似た、かすかな芳香――
再び眠りに落ちようとしたその時、俺は閉じたまぶたの上に降り注ぐ強烈な日差しに気が付いた。そして、何かごつごつした固いものの上に寝ていることによる、背中の不快な痛みにも。
これは、おかしい。
俺は昨晩、サービス三年目に突入した「ルーン・ダイアスパー」にログインしたまま、ベッドに入って寝たはずだ。
洗濯をサボってシーツが汚れたままの、少々他人様にお見せできない系の寝床だが、少なくともこんな寝心地ではなかった。
思い切って目を開ける。瞳孔から光がなだれ込み、視神経を痛めつけた。
「ま、まぶしい……」
仰向けに横たわった俺の視界には、空が広がっていた。見慣れない色だ。強いて言えばやや緑色を帯びている。
その空のおおよそ三方向を塞いで切り取る、崩れかけた彩色レンガの壁が見えた。俺の体の下にあるものも、どうやらそうした壁が崩れた瓦礫であるらしい。
「……夢じゃあないらしいな。とすると、ここはどこだ?」
少なくとも、眠りにつく直前までいた、日本国東京都の私鉄沿線にひっそりと建つ安アパートではない。
手がかりを求めてあたりを見回すと、いくつか目を引くものがあった。リュックサック風に背負うように作られた木組みの枠――背負子とかキャリーボーンなどと呼ばれるたぐいの物体が、すぐ傍らの壁に立てかけられている。
木枠には皮でできたカバンが取り付けられていた。その隣にはなめし皮で作られた袋。地面へのすわり具合を見ると、何か液体が入っているようだ。
そこまで目を動かした直後、俺は妙なものに気が付いた。
瓦礫の山から少し離れた場所。レンガ床に積もった赤褐色の砂の上に、恐らくは指で描かれた、見たこともない象形文字が記されている。
それを見たとき、なぜか俺の頭には、はっきりとそれに対応する日本語が浮かんだ。
――ようこそ、クィル=ヤスへ。
「バカな。こんなもの、読めるはずがない」
わけがわからない。先ほどから視界に入る自分の手足もなにやらおかしかった。褐色に日焼けした肌の下にうかがえる、太いロープのようなそれでいてしなやかな筋肉。
足には植物の繊維で編んだ簡素なサンダルがくくりつけられている。皮膚にはほとんど体毛が見当たらず、手は骨ばって掌の皮が厚い。拳を握ると人差し指と中指の付け根には凶器めいた胼胝があった。
慣れ親しんだ自分の体ではない。やや肥満気味の、生白いあの体はどこへ消えたのか。
耐え難い不安が首をもたげる。ここはどうやら日本ではない。体も俺の体ではないようだ。
さて、俺ははたしてまだ俺なのか?
「落ち着け……落ち着け……俺は誰だ?」
――俺の名は井出川准。21歳、男。都内の大学に通う三年生。彼女いない歴21年。
趣味はオンラインゲームとweb小説を読むこと。コンビニのバイトは遅刻のせいで三日前にクビになった。講義には一か月前から出ていない。
「ルーン・ダイアスパー」のゲーム内でギルド長に就任して以来、新規メンバーの勧誘やキャラクター育成のためのインスタンスダンジョン攻略で忙しく、徹夜三日目に突入して――
突っ込みどころは満載だが、なにもおかしいところはない。だが、同時に頭の中では、それらとまったく同質の確かな手触りを持って、別系統の来歴情報が固定されつつあった。
――生まれて18年。子供のころから体力自慢。12の年に故郷の村を出奔し、メレグ山の闘神教団に入門を許されて秘門武術「心合拳」を学んだ。
修行のために山を下り、街道を徒歩で進むこと三日。モルテンバラ地方の荒野を踏破し――
「待て。ちょっと待て。なんだこれは! どっから紛れ込んだんだ、この記憶は!」
激しい恐怖に襲われて、俺は頭を抱えた。そうしてもう一度見上げた空には、さらに異様なものがあった。
天頂に二つの太陽が、抱擁を交わすように寄り添って輝いている。
「あ、ああ……」
何てことだ。どうやらここは、地球ですらないのだ。
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