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10月7日(金)
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あっという間に場を支配した島田を前に高山は肩を落とし、真琴は固まり、そしてミツキは静観する……。
そんな重苦しい空気の中、島田が真琴に語りかける。
「……古川、なんか泣きそうな顔してるぞ」
「え……と、じゃ……泣いてもいいかな」
思考は停止したままだったが、真琴の心は大きな喪失感に支配されていた。
それは、運営の主体であることを知ってもなお揺らがなかった「高山教授」の人物像が、真琴の中で音をたてて崩れていくような感覚によるものだった。
そして、それでも真琴が泣き出さずにいたのは、ただ単に理解が追いつかないからだった。
そんな真琴の心を見抜いているのかいないのか、島田は真琴をやさしく見つめながら、ゆっくりと、しかし強く断じるように告げる。
「いや、まだ泣くときじゃないんだ。古川」
「え……」
それ……どういう意味?
なんかまるで、悲しむ必要ないって顔してるけど……。
もう、なにがなんだか解んないよ。島田くん。
「この部屋で高山先生は、なにひとつ嘘をついてない」
……それってミツキがいたからじゃないの?
ミツキを意識したから否定できなかったんでしょ?
性アンケートの件を……。
まだ真琴の思考は動いていなかった。
ただ島田の言葉をそのまま捉えて、表面に波風が起きるだけ……。芯に届かない。
真琴の心を地球とするなら、荒れた地表が地滑りを起こしているようなもの……。核は冷えきっていた。
「俺の想像を聞いてくれ古川。……かなりややこしいけど」
……今の私に〝ややこしい話〟するつもり?
無理だと思うよ。見て判んないの?
(高山先生は悪くないんだよ。真琴)
「……え?」
(あ、法的には問題あるけどね)
ミツキ……。
法的には問題あるけど〝悪くない〟って……。
法的に問題あるのは、はじめから明らかでしょ?
カレンの……運営なんだから。
真琴は高山に視線を移す。
それに気がついた高山は、わずかに顔を持ち上げて答える。
「今度は私が拝聴する番みたいです。古川さん」
……あれ?
思ったより悪くないな、顔色……。
聴いても平気……なのかな?
(真琴、悪い報せはもう出尽くしたよ。ほとんど)
……そうなの?
ミツキが言うなら、そうなのかな。
「そういやミツキ」
(ん?)
「全国統一大学生テストって、ホントに古川が考えたのか?」
(そうだよ)
「そっか……。それなら、さすがのミツキも思ったんじゃないか?〝真琴すげえ〟って」
(うん、思ったね。すごいこと思いつくよね真琴も)
なに? 本人を前にして、なに話してんのよ。
当たり前みたいに……。
違和感はあるものの、真琴の心の芯……その温度がにわかに上昇する。
初めてだよね。島田くんが〝真琴〟って口にするの……。
「古川」
「うん」
で、やっぱり呼ぶときは〝古川〟なワケね。
それで? どんなタネ明かしがあんのよ。
「先生は同じなんだ。捜査本部の班長……大塚さんと」
「え? なにがどう同じなのよ。捕まえる側と……犯人でしょ?」
「先生はちゃんと説明した。でも古川は気づかなかったんだよ」
「え? なにそれどういうことよ」
「4年前、田中美月事件のネガを最初に先生に見せたのは松下さんじゃない」
「え……」
「当然といえば当然……。当時の西條署の刑事課長、大塚さんが報告したんだ。知らない関係じゃないし、警察として正式に報告したはずだよ。〝こんな事件を認知したので捜査します〟って」
「あ……」
「松下さんが持ち込む前に、ちゃんと段取りを踏んだ話し合いがあったんだよ。だってそうだろ? 4年前、はじめ警察は捜査に取りかかったんだから」
「そっか。そうだよね。そしてそれは……」
「そう、潰されたんだ。〝なにかの力〟で。犯人が判る前に」
ここにきて、真琴はまたも不安になる。
「じゃ、つまりその……圧力をかけたってのが……」
「高山先生……じゃない」
「先生じゃ……ない?」
「高山先生はあくまで個人……そんな力はないよ。圧力をかけたのは、国とつながる大きな組織……つまり〝大学〟だよ」
「あ……」
「このときの話がどこまで登って、どういうかたちで決まったのかは想像つかない。でもそんなことはどうでもいいんだよ。とにかく高山先生も大塚警部も同じ〝大きな力〟に組み伏せられたんだ」
「……つまり捜査を中止させるっていう結論には高山先生も納得できなかった。そういうこと?」
「それは……ちょっと複雑かもしんない。それこそ心の中のことだから本人……高山先生しか知らないよ」
島田の言葉を受けて、真琴は視線で高山に説明を促す。
しかし高山は、真琴の求めを容れない。
「申し訳ありません。もう……というより、まだ私は自分で説明する気分になれません。今しばらくは島田くんに説明を任せます」
先生……。島田くんに任せるってことは、ここまでの話は事実なんだ。
真琴は島田に視線を戻した。
「たぶん先生は、かなり抵抗したんじゃないかな。この〝大学〟が下した決定に」
「…………。」
それは想像に難くない。
でも、ひとまずはそれに従ったんだ。高山先生は。
少なくとも、松下さんがネガを持ってくるまでは……。
「これも想像するしかないけど、大学が下したのは〝大人の判断〟だったんだよ。それも苦渋の」
「苦渋……の?」
「うん。あのな古川、4年前の時点で捜査が中止されることなく犯人が捕まってたとして、誰かにいいことがあったか?」
「え?」
「このとき田中美月のご両親はもう、時間をかけて娘の死を受け入れてたはずだ。そして、これも想像するしかないけど、〝元〟とはいえ在学中の学生が起こした事件……。大学にとってもいいニュースじゃない」
「それはそうだろうけど……」
「そして、捜査中止を呑む理由は警察側にもあったんだ」
「は? 警察側に? なにそれ」
「いわゆる犯罪死の見逃し……。見逃しっていうと故意に聞こえるから実際は〝見落とし〟なんだけど、一般的には〝見逃し〟って言われてる」
「あ……ああ、そもそもみっちゃんが池に落ちて亡くなったときに、それが事件だと見抜けなかったことね」
「うん。田中美月の事件は、犯人を捕まえれば、かならずそこが注目を浴びるんだよ。もっとも、犯罪であったことを示す新たな証拠の発見があるから、そんなに非難されることじゃないけど」
「そうよね。当時はその……事件だと判断するに足る証拠……ってのがなかったんだもんね」
「でもテレビや週刊誌にとっては格好のネタだ。きっと好き勝手に書くよ。〝なぜ20年前、事故として処理されていたのか〟なんて見出しで」
「……そうだよね。逮捕のニュースはあっという間に消えるけど、そっちの方がネタになるね。……ホント島田くんが言うとおり、ややこしいね」
「え?」
「え? ……ってなによ」
「ややこしいのはここからなんだよ、古川」
ややこしいのは……ここから?
いやもう、おなかいっぱいなんだけど。
(大丈夫、真琴なら解るよ)
く……ミツキ……。
アンタなんか存在そのものがややこしいくせに。
……そういえばミツキが黙って聞いてるってことは、島田くんが言ってることは事実なんだろな。
「じゃ、解るように説明してよね、島田くん」
「ん。まあとにかく高山先生も大塚警部も、組織の決定には逆らえなかった。……だけど、これでいいのかって思ってた」
「うん。解る」
「で、松下さんが先生に届けたネガ……。あれは大塚さんからのメッセージだったんだよ」
「なるほどわかりません」
「…………。つまり大塚さんは、ネガが高山先生のところにいくように仕向けたんだと思う。賭けもあったとは思うけど」
「そんなこと松下さんはひとことも言ってないよ。さすがに無理があるんじゃないの? その推測」
「たぶん自覚がなかったんだよ、松下さんには」
「は?」
自覚がなかった?
自覚がないまま松下さんは大塚さんの思惑どおり高山先生にネガを持ち込んだの?
あり得るの? そんなこと。
「古川、公務員には上司の職務上の命令に従う義務があるんだ」
「……そんなの、普通の会社だって同じじゃないの?」
「そうかもね。でも公務員の場合はちゃんと法律……県警なら地方公務員法に定めてあるんだ」
「……それで?」
「32条に書いてあるんだけど、書かれてる以上は、背けば法律に違反することになるよな」
「まあ、そうね。そうなるね」
「でもこの〝命令に従う義務〟は、命令の違法性が明らかな場合は除外……。命令そのものが無効になるんだ」
「……なんとなく解ってきた」
「国と大学と警察が下した判断、これは話が大きすぎてよく分かんないけど、大塚さんが松下さんに下した命令はネガを〝処分しろ〟だったんだろ? おとといの夜の電話中継からすると」
「うん。そう聞いてるよ。松下さんからも」
「それ、正しくはもう少し言葉があったんじゃないかな。たとえば〝現場は納得できないよな、大学も〟とか」
「ああ、うん」
「そして、違法な命令であることをほのめかした上で、処分しろって言ったんじゃないかな。大塚さんは」
「……なるほど、あるかもね」
「大学に持ち込めって命令しちゃうと、さらにハナシがややこしくなっちゃうんだ。だから大塚さんは分かりやすい〝証拠隠滅〟の命令をしたんだよ。そしてメッセージは届けられた」
「でも、松下さんは疑ってたじゃん。当時の刑事課長……大塚さんを」
「うん。だから言ってるんだ。松下さんに自覚はないって。むしろ松下さんの若い正義感に賭けたのかもしれない。でも、とにかく届いたんだ。結果として」
「でもそれじゃ……。やっぱり賭けじゃん。ホントに思惑どおり動くか分かんない松下さんに託すより、大塚さんが自分で持ってきたらよかったんじゃないの? 先生のところに」
「罪を背負ったんだよ。大塚さんは」
「え?」
「大塚さんという個人が松下さんにネガの処分を命じたんだ。これで最悪の場合はこの一点に集約して、田中美月事件を消そうとした組織的犯罪を〝個人による証拠隠滅〟にすることができる」
「え……そうなの?」
「そうなんだよ。大塚さんが処分を指示した証拠はネガ、つまり田中美月事件の証拠品だろ? いろいろあって揉み消すことになった経緯は、関係者が話さないかぎり〝存在しない〟んだ。現に松下さんは捜査中止に至った経緯を知らないまま大塚さんを疑ってただろ? そういうことなんだよ」
それは……。
この話がもし本当なら、とんでもなく重いものが託されたんだよな。
大塚さんから……高山先生に。
そう感じた真琴は、あえて「拝聴」を決め込んでいる高山に尋ねることにした。
「……高山先生」
「はい、なんでしょう」
「ここまでの島田くんの話って、ホントですか?」
「まあ……想像するしかない大塚くんの内心とかもありますから、すべて真実とは言いきれませんよね」
「……それはつまり、それ以外の部分はホントってことですか?」
「ああ、はい。あらかた……いえ、ほとんど合ってると思います」
「大変なものが託されたんですね。……先生に」
「……大変なもの、ですか?」
……あれ? なにこの反応。なんか間違った?
重いでしょ? ……大塚さんから届いたネガは。
「だって……大塚さんが危険を冒してまで届けたんですよね。あの……ネガは」
ここで高山が首をかしげて考える。
真琴の言葉の意味を理解しようとしているようだった。
そして、理解に至った高山はパッと明るい口調になる。
「あ、ああ、島田くんが言った〝大塚さんが罪を背負った〟という部分ですか。古川さんが言ってるのは」
「そうです……けど、違うんですか?」
「……ややこしい話ですよね、たしかに」
「はい……」
先生、なんだか顔が明るくなってる……。
それこそワケ分かんないし。
「若い古川さんには……ちょっと汚れた話かもしれません」
「……どういう意味ですか?」
「大塚くんがしたことですよ。〝罪を背負った〟と言うと、なんだか深刻な感じになりますが、〝罪を独り占めした〟って言ったらどう聞こえますか?」
「罪を……独り占め、ですか?」
「はい。大塚くんがした『ネガの処分』、あれはそもそも大きなところで下された捜査中止という判断に付随するものです」
「……まあ、そうですね」
「あのネガは、もちろん田中美月さんの事件の証拠品ですが、捜査中止の決定と同時に『表沙汰にできない裏話の物証』になってしまったんです」
「言われてみれば……そうですね」
ネガ……〝田中美月事件の証拠品〟だったあのネガが、こんどは〝組織ぐるみの証拠隠滅〟の証拠品になった……。
で、大塚さんはその罪を〝独り占め〟したって……。
汚れた話……汚れた話……か。
「……つまりその、島田くんがいうところの〝巨悪〟……捜査を中止させた圧力……が公になりそうになった場合は、ぜんぶ大塚さんに罪を着せて誤魔化せる……。そういうことですか?」
「そうです。いわゆるトカゲの尻尾切りですね」
「じゃ、やっぱり重いんじゃないですか? 大塚さんのリスクからして」
「そこがこの話の〝汚れた〟部分なんですよ。まあ、汚れてるのは大塚くんじゃなくて〝世の中〟ですが」
「どういうことですか?」
間を置かず問い返す真琴のまっすぐな瞳を前に、高山の表情はすこし悲しげになる。
それはほんのわずかな変化だったが、真琴にはハッキリと感じ取れた。
そして悲しい表情を保ったまま高山が答える。
「トカゲの尻尾は手厚く葬られるんですよ。古川さん」
「…………え?」
「もし、この裏話が注目されそうになって、本当に大塚くんに責任を取らせるようなことになったら、大塚くんは一生安泰です」
「……は?」
「だってそうでしょう? 責任を背負ったとはいえ、本当のことをすべて知ってるんですから。ひとり責任を背負って口を閉ざす代わりに、その後の厚遇が約束されます。そうしないと、いつ大塚くんが〝本当のこと〟を喋るか分からない」
うわあ……。汚いハナシだなあ。
その真琴の気持ちはそのまま表情に出ていたようで、高山がフォローする。
「さっきも言いましたが、汚れているのは大塚くんじゃありません。世の中です。大塚くんは世の中の仕組みを逆手にとって利用した……。それだけです」
……そっか。そうだよね。
なにも大塚さんは自ら進んで〝俺に罪を着せろ〟とは言ってない。
ただ、私がはじめに思ったほどのリスクはない。そういうことなんだ。
「そうなると……なにもしなければ大塚さんは安全ですが、考えようによっては高山先生の行動次第でもありますよね。証拠……ネガを委ねられたんですから」
「だからこの、カレンなんですよ。古川さん」
「え?」
「学生という人質……。それはみなさんが言うとおり、田中美月事件の捜査を求めるために天秤にかける材料でした。でもそれと併せて4年前の組織悪を表沙汰にしないことも要求するつもりでした。少なくとも私は」
……なるほど。たぶんその要求はすんなり通る。
4年前の組織的な隠蔽は、それこそ国にとっても大学にとっても伏せたままにしておきたい事実だ。
……たぶん警察にとっても。
「ものすごくおおざっぱに言うと、組織悪を上回ると同時にその組織悪を隠すために用意した〝悪〟……それがカレン運営なんですね?」
「ものすごくおおざっぱに言うなら……そうですね」
それなら……いろいろ聞いたけど、やっぱり結論は同じ……。
20年前の事件を見過ごせないから、捜査を中止させた圧力を上回る人質をもって捜査の再開を求めたんだ。
でも……なんだかしっくりこないな……。
自分でも分かんないカンジ。……なんだろ? これ。
「古川、解んないだろ? ……ややこしくて」
「え……うん。解ったつもりなんだけど……。なんかこう、モヤッとしてる」
「それはたぶん、高山先生とミツキの違いだ」
「え……」
「あくまで高山先生は水面下で終わらせようとしてた。でもミツキはそれとは真逆……〝劇場型〟にしちゃったんだ」
ああ、そうだ。そんなこと言ってたな。
先生が密かに終わらせようとしてたのに、ミツキがいきなり大騒ぎにしちゃったんだ。
高山先生の気持ちは解った。
まだ解らないのはミツキの真意……か。
「……ミツキ」
(ん?)
「なんでこんな大騒ぎにしたの?」
(真琴はどう思うのよ)
「……聞いてんのはこっちなんだけど」
(そうね……。簡単に言えば、同じことが繰り返されるのを避けたってカンジ?)
「……同じこと?」
(そそそそ、同じこと。水面下のままやろうとすれば、こんどはもっと大きな力で潰される可能性があったんだよ)
「もっと……大きな……力?」
(うん。先生は常にこの大学のことを思ってる。でも国にとっては、たくさんある大学のひとつに過ぎないんだよ)
「……それがどうだってのよ」
(高山先生のセンでチマチマ駆け引きしてたら、この大学そのものが切り捨てられる可能性があったんだよ。〝組織ぐるみで犯罪をもみ消した許されざる大学だ〟って)
「あ……」
(そうなったら高山先生は屈してた。だってそれは高山先生がいちばん怖れることだから)
真琴は視線を高山に戻す。
「……つまり、もみ消しようがないようにしたんですね。ミツキは」
「そうです。目的を伏せたままカレンを大事件にしました。つまり時間差攻撃ですね。私は9月28日にミツキがカレンを豹変させたときに〝どういうことだ〟と迫りましたが、実はあっという間に納得させられたんですよ。ミツキの筋書きに」
「…………だからいつまで経っても〝目的不明〟だったんですね?」
「そうなんです。そして途中で目的を匂わせる仕掛けもありました」
「え?」
目的を……匂わせる? なにそれ。
そんなのあった?
(ああ、あれはホントに面白かったね。みんなの顔色がサーッと青ざめるの)
「なんのことよ」
(10月1日の夜だよ。真琴)
「え?」
「1日に始まったカレンコレクションの解析結果を見て、知る人はみんな肝を潰したんですよ。なにしろ田中美月事件が忠実にシナリオに織り込まれてたんですから」
「あ……そうか。そうですよね。田中美月事件のことを知ってる人って4年前のもみ消しに関わった人……。大学の偉い人が多いんですね?」
(そう。それと、それに納得できなかった人もね)
「ああ、なるほどね。そんなら……それはそれはステキな空気になっただろうね」
「そうですね。生きた心地がしない人と〝なるほどこれか〟と内心で喝采をおくる人……。実に様々でした」
「そうですよね。ホントは『これでいいのか?』って思ってた人も少なくないってことですよね」
高山が大きくうなづく。
「そうです。しかしこの時点でまだ警察と大学……まどろっこしいので〝体制側〟といいましょうか……は、運営と対話する手段がなかった。つまり運営に『これが目的か』と問うことができなかったんです」
「……運営はその場にいるのに、ですね?」
真琴の言葉に高山は苦笑い……。
背徳の笑みで応える。
「そのとおりです。私を押し退けてミツキが描いた筋書きとはいえ、このときのみんなの表情に、私は笑いを抑えるのに必死でした。ミツキは大胆なことをしたようで、私に余裕をくれたんですよ。……ほんのすこしの」
……そうか。
結果としてはそうなるんだな。
舵を奪ったなんていうとイメージ悪いけど、高山先生が抱えてた〝重いもの〟をミツキが引き受けたともいえるんだ。
「……それで、そのビミョーな空気は、それからどうなったんですか?」
(これがまた傑作……。だったよね。先生)
「……ええ、私としてはちょっとイヤな方向でしたが」
「え? ……なに? どうなったの?」
真琴としてはミツキに尋ねたつもりだったが、この問いを高山が受ける。
「疑心暗鬼になりながらも、表面上は『裏切り者などいない』ストーリーを導き出したんです。つまり大学でも警察でもない者の仕業だと」
「大学でも警察でもなくて、でも田中美月の事件を知ってる……。いたんですか? そんな当て馬みたいな都合のいい人が」
ここでわずかに沈黙が走る。
真琴の疑問に答えるのを高山とミツキで譲り合ってるような雰囲気だった。
そして、答えたのはミツキだった。
(写真屋……だよ。真琴)
「あ……」
そうか。いたんだ。
知り得た人が。
そして、その人も信用……「口が堅い」ことが生業の礎だから……。
「あり得るハナシ……。になったんですね? その場では」
「そうです。もちろん当の写真屋さんにそんな意図はありません。ですが体制側からみれば充分にあり得ることのように思えたんです」
「……そうですね。やったことの良し悪しは置いといて、4年前の隠蔽は大学も警察も〝組織〟を守るための自衛の判断だったんでしょうから。でも、それにしても……」
都合よく考えすぎ……。
真琴はそう思った。
そして、真琴の考えを見透かしたミツキが教える。
(真琴、これはもう本能に近い反応なんだよ。組織の上層……関係者の口を封じて事件をもみ消すという判断に最終的にGOサインを出した人たちは、それこそ〝よかれと思って〟やったことなんだから)
……そういうもんなの?
カレコレのシナリオに田中美月事件が出てきても、まだ信じられるの?
〝身内に裏切り者はいない〟って……。
腑に落ちない顔をする真琴をよそに、ここで島田が割って入る。
「古川、その場にどれくらい『運営』が紛れてたかは知らないけど、写真屋が疑われる流れは悪くないと思ったはずだ。だって、どんなに疑われても写真屋は潔白なんだから」
「まあ、そうなの……かな?」
「でも、運営の中でも、書き替えられた9月28日以降の筋書きを知ってるミツキと高山先生にとっては困ったことになったんだ。……違いますか? 先生」
「そうですね。島田くんの言うとおりです」
「え? なに? なんのこと?」
「今回の、ホントだったら中心人物になってたはずの人の存在だよ」
今さら飛び出した〝中心人物〟なる言葉に、真琴は考えることなく食い付く。
「なによそれ。誰よその中心人物って」
島田は、あらゆる感情を圧し殺して真琴を見据える。
それは、答えを知ったときの真琴の感情に一切の余念を与えぬための無表情だった。
そして島田が答えを告げる。
「写真屋の娘……大神愛、だよ」
あ……。
そうか。
そうなんだ。
「そう……だよね……。考えてみれば高山先生はいっぺん体制側の判断に与したんだ。それを翻したのは愛……だもんね」
「そう。脅しを受けた大神さんが先生を訪ねたとき、先生は大神さんになんて言った?」
先生がなんて言ったかって……。
目の前にいるじゃん。本人が。
本人に聞きなさいよ。
このナルシストめ。
胸中で島田に不満を吐きながら、それでも言われたとおり記憶をたどり、真琴は質問に答える。
「ええと、愛が言うには、たしか〝犯人に反省がないことが判った。もう許さない〟みたいなこと言ったみたいよ。高山先生は」
真琴は答えながら自然と高山を見る。
その瞳は静かで、正義を湛えていた。
「それ、ホントはすこし違ったんじゃないかな。このときの大神さんは、持つ情報が少なかったからフィルターがかかってる」
「え? どういうこと?」
「その時点では、田中美月を襲った犯人なんて不明だろ?」
「あ……」
「だから高山先生が〝犯人〟という言葉を使ったかどうか判らないけど、とにかくこのとき先生が〝反省なし〟として〝許さない〟と断じたのは、事件をもみ消して、なおも知った者の口を封じようとした体制側……組織のことだったんだ」
……そうか、そのとおりだ。
田中美月を襲った犯人は、15年前のことが事件として発覚したことすら知らなかったはずなんだ。
そして先生が〝許さない〟ことを決めたのは愛のことがあったから……。
じゃあつまり、高山先生がカレン計画を通じて最終的に判断を委ねようとしたのは……。
……愛、か。
口を開くと同時に高山の〝複雑な〟執念に思いが至り、真琴の頬に複雑な色の涙が伝った。
「先生は……何年もかけて、愛にすべて委ねようとしてたんですね? 田中美月の件と、それを葬ろうとした件の犯人の……その処断を」
「そうですね。古川さんが早々に結論に至ったとおり、私は〝田中美月事件〟と〝学生〟を天秤にかけました。これは、片方が紛れもない悪だったので、当然、目的は果たせました。犯人の逮捕というかたちで」
「はい。でも、それだけじゃなかったんですね」
「はい。私はもうひとつ天秤を用意したんです。つまり片方に〝事件の隠蔽〟もう片方に〝カレン運営〟の罪を載せた天秤です」
「そうですね。そして先生はその天秤……釣り合わせたい。そう思ってるんですよね」
ここで高山がすこし首をかしげて自問する。
そして、高山〝教授〟ではなく〝高山徹〟個人
としての動機を語る。
「4年前、なんの裏工作もなく田中美月事件の犯人が捕まっていれば、私はそれでよかったんです」
「はい」
「でも大学は国の権威を借りて、大学の体面を保つことを選んだ。……犯罪死を見抜けなかった警察の落ち度も併せて武器にして」
「……はい」
「古川さん、私はこの大学を愛しています」
「はい」
「体面を保つために為した4年前の裏工作……。私は今、これが明るみに出ることをなにより怖れています」
「はい。だからその4年前の陰謀に、高山先生の陰謀を釣り合わせようとした……。つまりこっちは両方とも表沙汰にならないようにしたいんですよね」
「そうです。でも、それを決めるのは私じゃない。私であってはいけない……。そう思っていました」
「つまりその、決める人というのが愛……。写真屋さんの娘だったために巻き添えになった大神愛なんですね?」
「はい。そのつもりでした」
……でしたってことは、今は違うんだよな。
鈍い自分でも解る。
愛に代わって、自分が〝決める人〟になったんだ。
でもホント、なにが決め手だったんだ?
「……どうして私……だったんですか?」
投げた問いが部屋をさまよう。
まるで独り言のようなその問いかけは、高山に向けたものともミツキに向けたものとも、あるいは島田に向けたものともいえた。
また、あるいは自問とも……。
「アンタが貧乳だからだよ、真琴」
振り返ると理沙がいた。
音も立てずにドアを開けて、その割にはビシッと真琴に人差し指を突きつけている。
ここでアンタが登場すんの? 理沙……。
「……清川、どういう意味だ? それ」
とっさに反応できたのは島田だった。
言葉を向けられた当事者である真琴はその言葉の意味を掴もうとし、高山はただこの珍入者に驚くだけ……。
まったく驚いた様子のない島田の態度は、理沙の飛び入りを予想していたかのようだった。
ま、試験が終わってから私のストーカーになってたんだから……。
尾けるよね、そりゃ。この部屋まで。
「私の言うことに意味があると思うなよナルシスト」
真琴を差す指先を島田に移して理沙が答える。
「……ないのか? ……意味」
「貧乳なのにおとなげボーボーだから選ばれたんだよ真琴は」
……理沙アンタ……ここがどこだか分かってんの?
「……清川、ここには教授もいるんだ。日本語で言えよ」
「え? そうね、つまりその……なんてえの?」
(裏表がなくて、しかも思慮深いから……。そんなトコロじゃないの? 訳すなら)
「そうそう、そんなカンジ。さすがだねミツキ」
能力を総動員して状況を理解した高山が理沙に尋ねる。
「ええと、あなたは清川さん……。つまり、もうひとりのチームメイトですか?」
「ですです。ある意味心中人物です」
「……そうですか。それならその……」
(先生、理沙もこの場にいて然るべきだよ。半分くらい知ってる)
「……ミツキ、アンタ、ナルっちのときは〝ぜんぶ知ってる〟って言わなかった?」
(ひひひ……。興味のないことは記憶に残らないでしょ? 理沙は)
「……よく理解してんのね、さすがに」
「清川さんにお尋ねしてもいいですか?」
「はい」
枠にはまらない理沙の言動は、その人となりをよく伝えたようで、顔を合わせたばかりの高山が理沙に尋ねる。
「清川さんはどう思いますか? この騒ぎのこと」
「……ザックリしたお尋ねですね。ずいぶんと」
「はい。でも清川さんは、その方が話しやすい人なんじゃないかと」
高山の言葉に、理沙はまんざらでもない顔で答える。
「えっと……。まずムカッっときましたね」
「はい、そうでしょうね」
「それから〝ん?〟ってなってから、へぇ……ってなったカンジです」
「……そう……ですか」
このやりとりを真琴は、高山と理沙の顔を交互に見ながら聴く。
二人とも真剣な顔してるけど……。
これ……成り立ってんの? ……会話は。
「はい。で、今は〝ほう?〟ってカンジです」
理沙、アンタ……。
どこまでそのスタイルでいくのよ。
「内実は清川さんにとっても意外だった。そういうことですか?」
「はい。思ってた以上に〝運営〟……高山先生は正義の人でした」
理沙の口から零れた「正義の人」というワードに高山が驚いてみせる。
「正義の人……ですか? まだ私のことをそう言うんですか? 清川さんは」
「え? 違うんですか?」
「あ、いえその……やっちゃいけないことをやってますので……」
相変わらず理沙の表情は豊かだ。
……見ていて飽きないほど。
かたや高山先生は、次々いろんなことを暴かれて、すっかり反省モードのままだ。
そんな気配を感じ取った理沙が告げる。
「あ、先生」
「はい」
高山に向けた視線はそのまま、理沙は島田を指差して言う。
「このナルシストがカッコつけて先生をやり込めたみたいになってますけど気にしなくていいですよ、こんな若造」
「え……いえ、そんなことは……」
いきなり登場してチームメイトをこき下ろす理沙に高山は戸惑いを隠せない。
それでも理沙の口は止まらない。
「いいんです。こういう演出じみたのが好きなイタい人なんです」
「…………。」
チームメイトをここまで悪く言う理沙に、さすがの高山も返す言葉を失う。
それを眺める真琴も、理沙が乱入した意図が掴めないので、ここで口を挟む。
「……理沙」
「ん?」
「アンタ、なにしにきたの?」
「え……」
通常人であれば即答して然るべき質問に、理沙の口が動きを止める。
そして理沙は、目を閉じて首を傾ける。
この雰囲気はいつもの理沙……。
つまり勢い……。なにも考えてなかったんだ。
真琴がそう理解しようとしたとき、理沙の口が動いた。
「そうね……まあ、ナル夫が偉そうにしてるのが気に食わなかったのと……」
……理沙がそう思う理由は解る。
隠されていた事実を暴くにしても、あんな……2時間ドラマの大詰めみたいな雰囲気にしなくてもよかったんだ。
島田くんはただ、知ったこととそれを基に推測したことをそのまま高山先生に問えば済んだはずだ。
「あとは……。仲間じゃないみたいでイヤなカンジだったからだよ、真琴」
そう言い終えたとき、理沙は目をしっかり開けて真琴を見ていた。
その表情は、それが本心であることを伝えるものだった。
そして理沙は、まず島田に視線を投げてから高山を見つめて言う。
「先生、とどのつまり、真琴にはぜんぶを知ったうえで結論を出してもらいたい……。そうですよね?」
唐突な問いであったが、高山は間を置かずに返す。
「そうですね……そうなります。まあ、隠しておきたい部分もあったりして、結局は島田くんに暴かれましたが」
自省のお手本のような態度でそう口にする首席教授に対し、理沙が意外な答えをする。
「先生、この場所に反省は要りませんよ。少なくともこの男に対しては」
理沙がそう言いながら指差していたのは島田だった。
この理沙の態度に真琴は少なからず驚いたが、当の島田に動揺は認められない。
「……そうか、それが理由か。清川が部屋に飛び込んできたのは」
「そうよ。おかしい?」
「……いや、これはたしかに清川が正しい」
……は?
理沙が正しい?
なにが? どこが?
真琴は戸惑う。そしてそれは島田と理沙のやり取りを眺める高山も同様であるようだった。
そして真琴は島田に尋ねる。
「あの……島田くん」
「ん?」
「……どゆこと?」
島田は相変わらずのポーカーフェイスで真琴の問いと視線を受け流す。
「……清川」
「うん?」
「俺が白状した方がいいのか? それとも清川が名探偵になるか?」
相変わらず他の者を置き去りにしたやりとりだったが、これに理沙は「ああ」と漏らし、腕を組んで「う~ん」と唸ってみせた。
「ナル夫はどっちがいいと思うの?」
「……あんがい清川主導が解りやすいと思う。ホラ、俺に準備はないし」
「そっか……。じゃ、また私が刑事役だね」
またもや新事実が明かされそうな雰囲気だが、それが「いい報せ」ではないことは真琴にも理解できた。
そんな真琴の顔を見てなにか感じたのか、島田が真琴に前置きのような言葉を告げる。
「古川」
「ん?」
「清川はさっき〝仲間はずれみたい〟じゃなくて〝仲間じゃないみたい〟だったからイヤだった。……そう言ったんだよ」
「あ……え、そうだっけ?」
「だからここは清川に任せるよ。俺は公平じゃない」
「公平じゃ……ない?」
真琴が知る誰よりも〝公平〟という言葉が似合う島田がそれを否定し、真琴が困惑しているところで理沙がバトンを受け取る。
「真琴、ナル夫は〝その他大勢の学生〟の代弁者なんかじゃないよ」
「…………え?」
「松下さんが怪しいってハナシになったときナル夫が披露した名推理、あれは〝許容範囲内の暴露〟だったんだよ」
「ゴメン、よくわかんない」
「そうね、う~ん……。じゃ真琴、松下さんから最初に聞いた松下さんの電話番号の電話番号って憶えてる?」
「……いや、憶えてないけど、携帯の電話帳にあるよ」
「かけてみな、それに」
「え?」
「いいから」
今、松下さんに用はない。
さっきまで会ってたんだし。
でも、理沙の目はフザけてない……。
真琴は言われたとおり自分の携帯電話を使い、そこに登録されている連絡先「松下刑事」……松下の連絡先として最初に教えられた番号にダイヤルする。
間もなく、部屋に呼び出し音が響く。
……って、これって……あれ?
鳴り出したのは自分の胸ポケットにある白い携帯電話……。
真琴はポケットから取り出して発信者を確かめる。
〝古川真琴〟……つまり私だ。
松下さんは最初、この白い携帯電話の番号を私に教えたんだ。
……で、これになんの意味があんのよ?
「……これってつまり、最初に松下さんが私に教えた連絡先ってのがこの白い携帯の番号だったってことよね。」
「そうだね……」
「そうだね……じゃなくて、なんなのよ理沙、なにがやりたいのよ」
「え……と、ちょっと予定が……」
「なんの予定?」
「……名探偵理沙」
ん? つまり、白い携帯電話が鳴ったのは理沙の見込みと違ったってこと?
でも、かけた先は松下さんだし……。
やっぱり解んないな、これは。
「……考えようとしたけど解りそうにないから教えてくんない? どういうこと?」
「こっちが鳴ると思ってたんだよ。清川は」
そう言って割り込んだ島田の手は、折り畳み式の黒い携帯電話をプラプラと揺らせていた。
「そう、それよそれ」
「ま、その可能性もあったよな。たしかに」
「でしょでしょ? くそ、惜しかった」
「ま、そんなに悔しがんなよ。隠しきれるもんじゃなさそうだから出したしな。こうして」
島田は、理沙に答えたあとで真琴を見る。
その表情は、なにかを見定めようとしているようにも、なにかを教えようとしているようにも見えた。
で、なんで島田くんが持ってんの? それを。
「なんで島田くんが持ってんのよ、それ」
「持たされたからだよ」
答える島田に動じる気配はない。
持たされたって……。
それはいったい、いつのこと……。
真琴はそう言いかけたが、すんでのところで思い留まる。
いや……重要なのは〝どうして〟の方だ。
なんで島田くんが持ってんのよ。
警察が協力者に貸し出す携帯電話を。
「……真琴」
「なに?」
「今、真琴にとって〝運営〟といえば誰のこと?」
理沙の問いかけは、淡々とした口調に相応しく極めてシンプルだ。
しかし真琴は「高山先生に決まってんじゃん」と言いかけて開いた口を閉じた。
「あんがい深いのね。その質問」
「でしょ? しかも一枚岩じゃないカンジ?」
「うん。この春まで運営の中心にいたのは高山先生だけど、今はそう単純じゃないね」
「そそそそ。で、思惑が微妙にズレてたりすんのよ」
「……だから島田くんがそのケータイ持ってんのね」
「うん。この男、学生みんなの代弁者のフリして、中身はドスケベだよ」
「……どういう意味だ? それ」
「ナル夫アンタさ、真琴にナイショで松下さんの手先になっといて、聴きたいのは私の方だよ。その行動の意味を」
松下さんの手先……。
つまり島田くんは島田くんで〝協力者〟になってたんだ。
言うまでもなく松下さんの。
そこに考えが至ってはじめて、真琴は理沙が言った「仲間じゃないみたい」の意味を知る。
そうなると、理沙が先生に答えた〝ムカッと〟して〝ん?〟ってなって〝へぇ……〟ってなったカンジというのは単純じゃないな……。
ハッキリしてるのは〝ほう?〟と思ってるのが今だってことだ。
皆が真琴の反応を待っているような空気の中、少し考えてから真琴は口を開く。
「まだよく解らないけど、運営の中でも、島田くんは松下さんに、そして理沙は高山先生に共感してるってこと?」
「当たらずとも遠からず……じゃない? ナル夫が松下さんに共感してるのは間違いなさそうだし、私は高山先生を正義だと思うよ」
「共感……ってか、松下さんはこう〝ハブられた運営〟みたいに思えたんだよな、俺には」
ハブられた運営……か。なるほどね。
松下さんは運営が生まれた理由を知りつつ、いろいろ明かされないで過ごしてきたんだ。
……立場上のことを理由に。
「島田くんがその携帯電話持ってるってことは、私が白い携帯電話に変わってから協力者になったの?」
「……たしかそう。いつだったか憶えてないけど、急に距離が近くなったときがあったんだ」
急に距離が……ね。つまり松下さんが急に距離を詰めてきたんだろうな。
それで私……私はどうなんだ?
今、なにを考えればいいんだ?
運営の内の誰に与するかを決めなきゃなんないの?
たとえば……ミツキとか。
(誰に従うとか、そんなハナシじゃないよ真琴)
ミツキ……。
ずっと黙ってたのに、このタイミングでそのセリフ……。
相変わらず空恐ろしいな。
「ミツキはそう言うけど、なかなか複雑な気分だよ。今」
(複雑だろうけど、真琴がするべきことをあえて言うなら〝知りうるかぎりのことを知る〟じゃないかな)
「ああ、なるほどね。そんなカンジだね。みんなが勝手にタネ明かしするから、理解するので精一杯だし」
(だから今は〝理解する〟に専念してればいいんじゃない? なさそうで、実はあるんだし。時間は)
「……たしかにね。忙中閑ありっていうより、忙は終わったんだもんね」
(そうだね。で、もうひとつの文献の出番じゃないの? ナル夫くん)
「……ミツキまでそう呼ぶのか?」
(そもそも島田くんに〝ナルシスト〟の称号を授けたの私だし)
「そういやそうだな。……もう出さなくてもいいと思ってたけど……ミツキは〝出すべき〟派だろうな」
(うん、そうだね)
「なによ、なんなの? その……文献って」
「これ」
そう言って放り投げるように島田は1枚の紙を差し出した。
テーブルの上で真琴はそれを改める。
これは……これも論文だ。10年くらい前の。
なんだか難しそうな標題……。
そして著者は……農学部助教授、白石恵美……。
……白石……恵美?
農学部助教授?
「この論文書いた白石って助教授、もしかして……」
「今は学生課にいる白石さんだよ」
「あ……」
「古川」
「…………。」
「古川は白石さんに子どもがいるの知ってるか?」
「あ……うん、聞いたことあるよ」
「でも、白石さんは未婚だ」
「…………そう……なんだ」
もう考えるまでもない。
カレコレの農学部ステージに出てきた助教授は白石さんの物語なんだ。
そしてミツキは言ってた。カレコレに出てくるエピソードは、主な運営の後悔を綴ったものだと。
だから、ほぼそのとおりのできごとがあったということなんだ。
でも白石さんが、あの白石さんが運営のひとりだなんて……。
白石さんだって憤慨してたじゃないか、カレンの騒ぎが始まったとき……。
(ここにもドラマがあるんだよ。真琴)
驚きを隠せず、それでいてなにも言えないでいる真琴にミツキが告げた。
「……いや、でも、重すぎるでしょ。このド」
(田中美月さんのご両親のドラマとどっちが重い?)
また言い終わる前に被せてきた。
でも、どっちが重い……か。
答えるのは容易くない。それだけは解る。
「古川さん」
思案顔の真琴に声をかけたのは高山だった。
伏せていた目を上げ、真琴は仕草で高山に答える。
「私は田中美月さんの家にお邪魔したことがあります。というか、ここ数年は幾度となく……です」
「そうなん……ですか」
「田中美月さんの家では、今でも毎年、美月さんの誕生日を祝っています」
…………。
これもまた重いドラマ……。
私にできるのは想像することだけ。
「よくある話ですが、美月さんの部屋は生前のまま。そして壁に記された成長記録……いわゆる柱の傷を見て心が動かない人はいないでしょう」
……光景が目に浮かぶようだ。
亡き娘のことだけを考えて生きてはいけないけど、忘れることもなければ逃げることもできない。
それが、娘を失った親なんだ。
真琴は不意に、我が身がとても大切なものに感じられた。
目を閉じて父と母の姿を思う。
それと同時に真琴の思考は元農学部助教授、白石に向けられる。
そう、ヒントはあった。
白石さんが私のことを「目立って真面目」と評していたのには裏付けがあったんだ。
カレン運営が始まるきっかけとなった田中美月事件はもとより、隠蔽が行われた後に松下さんがネガを携えて大学を訪れたときに窓口となる場所にいたんだから。
つまり、白石さんが取り次いだんだ。
松下さんを、高山先生に……。
初めに大塚警部が大学にネガを持ち込んだ先が高山先生だということも知ってたんだから。
学生説明会のときに私に見せた憤慨だって矛盾はない。
だって、この大騒ぎはミツキの独断によるもの……。
白石さんだってビックリだったんだ。
9月28日のカレン豹変は、運営同士の意志疎通も混乱させたはず……。
そして名前こそ出ていないものの、カレコレによって不本意に自らの過去を明かされた。
そう、明かされたんだ。……ミツキに。
たぶん、なにもできないまま……。
「……ミツキ」
(ん?)
「結局さ、アンタがいちばん苦しめてるよね、運営を」
(……そうだね。そうなるね。純粋に高山先生の手助けをするなら別の方法もあったよ。わざわざカレコレで白石さんたちのドラマを明かす必要なんてなかった)
「許せないの? 運営を」
(違う)
「……違う?」
(うん。許すもなにも、はじめから憎んでないんだよ。私は)
「でも罰は与えるワケね。過去をほじくって」
(真琴……)
他の者が見守るなか、真琴とミツキが問答をする。
口が問い、それに胸が答える……。
疲れを隠さず、それでいて静かな真琴の表情は、神託を受ける者のようだった。
その真琴の姿を見て、その場にいる皆が悟る。
もはや高山でも松下でも、あるいは白石でも愛でもなく、今ここでミツキと対峙する古川真琴こそが唯一の運営……。
最終の断を下す者だということを。
「白石さんの過去もそうだし、カレコレの他のエピソードもそう。ぜんぶアンタが晒したんでしょ。徳の特典にもあるらしい運営の自白だってそうじゃん。本人に断りなくアンタが私に見せるなら自白なんかじゃないじゃん。なんのためにそんなことすんのよ。アンタになんの権利があるってのよ。何様だか知らないけどさ」
昂る真琴の右手が左胸のミツキ……携帯電話を掴む。
激しい言葉とは裏腹に、我が胸に問う少女のような真琴の姿は神々しさを帯びていた。
(……信じるか信じないかは真琴の自由だけど)
「だけど……なに?」
(私は運営を憎んでないし、運営だった人たちも私を憎んでないよ)
「運営も……憎んでない? ミツキを?」
(うん)
「なにそれ。どんな理屈?」
(簡単に言うと、学生には自分と同じ過ちを繰り返してほしくない……。つまり、むしろ聞かせたいと思ってたんだよ)
「は? 白石さんの過去とかもそうだっての? あ、そうよ、どっちがホントだか判んない理学部のハナシ、あんなヒドい話を人に聞かせたいと思ってるって? そもそも二通りのルートがあったんだからどっちかはアンタの創作じゃん」
(白石さんについては……うん、そうだよ。他の人には辿ってもらいたくない道だって白石さんは言ってる。でも、悔やみきれないものもあるけど今は幸せだって)
「……話してるの? 白石さんとも」
(話してるよ。あ、でも高山先生とは違って、話すようになったのは9月28日からだよ)
「じゃあ理学部のエピソードは? あれはなんなの?」
(……真琴)
「なによ」
(二通りのストーリー……。どっちも現実にあったことなんだよ。あれは)
あ、ああ……そうなのか。
ここで真琴の言葉が止まる。
(あれさ、いちばん最初のステージだから、どのチームも仲違いする前だと思ったんだ。真琴たちも理沙が別ルート選んだから知ったでしょ? 両方の物語を)
「でも、あんなヒドい出来事を晒すなんて……。あれも同意をもらったっての?」
(うん。片方は特定されないことを条件に、もう片方は……遺族から、ね)
つまり、すべて同意を得てからカレコレを作ったってことか。
仕事の早さは今さら驚くことじゃない。
ミツキの能力は……底知れないんだから。
すべてに答えるミツキを相手に、ここで真琴はすっかり毒を抜かれてしまった。
右手が胸から滑り落ちる。
(真琴)
「なに?」
(この際だから言っておくけど、高山先生を含めて他の運営にも〝覗き趣味〟はないよ)
「……どういうこと?」
(運営が9月28日に学生に見せたもの……。あれはぜんぶ私が用意したんだ)
「つまり私のアレも、機械であるミツキしか見てないってこと?」
(そう。膨大なデータがサーバに蓄えられてたけど、その中から学生の〝イヤなもの〟だけを抽出して編集するなんて、生身の人間にできると思う?)
考えてみればそのとおりだ。
その能力もまさにコンピュータ……。
アナログ作業でできることじゃない。
真琴はすっかり脱力した。
そして、それを隠すことなく真琴は高山に乞う。
「……高山先生」
「はい」
「お話は理解した……つもりです。ですが、すこし時間をください」
「わかりました。その間、私は学生が早く安全圏に入るよう働きかけます」
「ああ……はい、よろしくお願いします」
そこまで言って真琴は立ち上がり、部屋を出る。
島田にも理沙にも一瞥もくれず部屋を出た真琴は、胸からスマートフォンを取り出す。
「ミツキ」
(うん)
「どうせアンタはなんでも見えちゃうんだろうけど、次に私がアンタを呼ぶまでは黙ってて。いい?」
(いいよ)
結末は近いけど、やっぱりその前に直接会っておかなきゃいけない……。
真琴はラインを開いてメッセージを送る。
おおむね1時間後、真琴は大学近くにあるファミリーレストランにいた。
「まだ晩ごはんには早いわね」
真琴がじっと固まり考えをまとめているところに、待ち人が声をかけてきた。
そして真琴の対面の席に着く。
「ずいぶん疲れてるわね。大丈夫なの?」
真琴は無言でうなづく。
疲れきっていることは事実……。隠しようがない。
「まあいいわ。それで、私になにが聞きたいの?」
真琴は顔を上げる。
目の前にあったのは、あの頼もしい顔……。
「……お母さん」
母の表情は9月28日の夜と同じ……。
〝なんでもこい〟と顔に書いてあった。
大事を経た娘を前にした母の、あまりの平常運行……。
その落ち着きぶりが真琴を悲しくさせる。
しかし、真琴は確認せずにはいられなかった。
ひとつ深呼吸をして、答えの置場所を心に空けてから真琴は問う。
「お母さんは、どこまで知ったの?」
母は、娘の問いをまっすぐ受け止めた。
穏やかに娘の瞳を見つめたまま、どう答えるかを考えているようだった。
もともとおしゃべりじゃないけど……。
そんなに考えることなの?
お母さん……。
「かるく10年は連絡とってなかったのよ、恵美とは。まさかそんなことになってたなんてね」
……なるほどそっちか。
白石さんからなのか。
真琴は静かに目を閉じて、心に設けた置場所に母の答えを置いてみる。
うん……なんの違和感もない。
じゃあ、隙間を埋めなくちゃ。
「連絡って、いつ? どっちから?」
「10月1日、恵美からよ」
あ、そうか。そうなんだ。
あれ? これでもう……隙間がないかも。
あ、すこしある。
「お父さん……には?」
「必要なかぎりで話したわ。お父さんもスッキリしてた」
必要なかぎり……。
なるほど巧い言い方だよね。
心の隙間が埋まった真琴は目を開く。
母の表情は変わらず穏やかだ。
その母が、穏やかに真琴に尋ねる。
「なんで真琴に感付かれたの? 私は」
「……だって、もう途中から心配してなかったじゃん。お母さんも……お父さんも。現実の危険は心配そうだったけど、カレンのことはもう全然」
「真琴、いつ気付いたのよ? いったい」
「ついさっきだよ。余裕なかったんだから。気付いたから連絡したんだし」
「ああ……なるほどね。お疲れ様よね。……ホントに」
敵わないな、やっぱり。
まだ聞きたいこともあるけど……。
もう……いいや。
空けた置場所がきれいに埋まった感触を得て、真琴はこの件を閉じた。
それからは真琴の愚痴……。
真琴はこの10日間の苦労を母に吐き出した。
そして真琴は、スッキリとした気分で母と別れた。
ファミリーレストランの駐車場で母の車を見送った真琴は、またひとつ深呼吸をする。
「……ミツキ」
(……はい)
「アンタって、ホントに黒幕だよね」
(……うん)
「いったい何人に嘘つかせてんのよ」
(ごめんなさい)
ごめんなさい……か。
言い訳しないし、これはなんとなく、ホントに反省してそうだな。
でも……これだけは確認しなきゃ。
「アンタのごめんなさいが本物か試させて」
(……わかった)
「賢者って、ぜんぶで何人いたの?」
問いを投げ、真琴は目を閉じる。
(…………ふたり)
ミツキの答えを受け、真琴の目が自然と開く。
「……ホントに反省してるんだ」
(そのつもり……だよ)
そう、賢者なんてホントは愛と隊長だけだったんだ。
あらかじめ運営にとって特別だった学生……。
意味合いはまったく違うけど。
よし、もういい。
ここまででいいんだ。
これ以上は「知らなくていいこと」なんだ。
お母さんのことも……。
隊長の……罪の中身も……。
自らにそう言い聞かせながら、真琴の頬に涙が伝っていた。
うつむくことなく、空を仰いで涙する真琴……。
それは奇しくも「可憐」という言葉が相応しい姿だった。
(真琴)
「ん?」
(たしかに私……罪深いけどさ、これだけは言わせて)
「なによ……あらたまって」
(真琴は〝超まこと〟が池に落ちる前に、悪くないって言ってくれたんだよ)
…………。
ああ……そうなんだ。
超法的手段で悪を捌いた〝超まこと〟は、たしかにミツキの思いが込められてたんだ。
そして、たしかに私は選んだ。
その責を問う最期の質問に〝いいえ〟を。
「……ミツキ」
(うん)
「もう、辛気くさいのは終わりにしよ。カレンのことで、もう不幸はいらない」
(……ありがとう……真琴)
ミツキの心を受けとるように、真琴は自転車の鍵を握りしめた。
そんな重苦しい空気の中、島田が真琴に語りかける。
「……古川、なんか泣きそうな顔してるぞ」
「え……と、じゃ……泣いてもいいかな」
思考は停止したままだったが、真琴の心は大きな喪失感に支配されていた。
それは、運営の主体であることを知ってもなお揺らがなかった「高山教授」の人物像が、真琴の中で音をたてて崩れていくような感覚によるものだった。
そして、それでも真琴が泣き出さずにいたのは、ただ単に理解が追いつかないからだった。
そんな真琴の心を見抜いているのかいないのか、島田は真琴をやさしく見つめながら、ゆっくりと、しかし強く断じるように告げる。
「いや、まだ泣くときじゃないんだ。古川」
「え……」
それ……どういう意味?
なんかまるで、悲しむ必要ないって顔してるけど……。
もう、なにがなんだか解んないよ。島田くん。
「この部屋で高山先生は、なにひとつ嘘をついてない」
……それってミツキがいたからじゃないの?
ミツキを意識したから否定できなかったんでしょ?
性アンケートの件を……。
まだ真琴の思考は動いていなかった。
ただ島田の言葉をそのまま捉えて、表面に波風が起きるだけ……。芯に届かない。
真琴の心を地球とするなら、荒れた地表が地滑りを起こしているようなもの……。核は冷えきっていた。
「俺の想像を聞いてくれ古川。……かなりややこしいけど」
……今の私に〝ややこしい話〟するつもり?
無理だと思うよ。見て判んないの?
(高山先生は悪くないんだよ。真琴)
「……え?」
(あ、法的には問題あるけどね)
ミツキ……。
法的には問題あるけど〝悪くない〟って……。
法的に問題あるのは、はじめから明らかでしょ?
カレンの……運営なんだから。
真琴は高山に視線を移す。
それに気がついた高山は、わずかに顔を持ち上げて答える。
「今度は私が拝聴する番みたいです。古川さん」
……あれ?
思ったより悪くないな、顔色……。
聴いても平気……なのかな?
(真琴、悪い報せはもう出尽くしたよ。ほとんど)
……そうなの?
ミツキが言うなら、そうなのかな。
「そういやミツキ」
(ん?)
「全国統一大学生テストって、ホントに古川が考えたのか?」
(そうだよ)
「そっか……。それなら、さすがのミツキも思ったんじゃないか?〝真琴すげえ〟って」
(うん、思ったね。すごいこと思いつくよね真琴も)
なに? 本人を前にして、なに話してんのよ。
当たり前みたいに……。
違和感はあるものの、真琴の心の芯……その温度がにわかに上昇する。
初めてだよね。島田くんが〝真琴〟って口にするの……。
「古川」
「うん」
で、やっぱり呼ぶときは〝古川〟なワケね。
それで? どんなタネ明かしがあんのよ。
「先生は同じなんだ。捜査本部の班長……大塚さんと」
「え? なにがどう同じなのよ。捕まえる側と……犯人でしょ?」
「先生はちゃんと説明した。でも古川は気づかなかったんだよ」
「え? なにそれどういうことよ」
「4年前、田中美月事件のネガを最初に先生に見せたのは松下さんじゃない」
「え……」
「当然といえば当然……。当時の西條署の刑事課長、大塚さんが報告したんだ。知らない関係じゃないし、警察として正式に報告したはずだよ。〝こんな事件を認知したので捜査します〟って」
「あ……」
「松下さんが持ち込む前に、ちゃんと段取りを踏んだ話し合いがあったんだよ。だってそうだろ? 4年前、はじめ警察は捜査に取りかかったんだから」
「そっか。そうだよね。そしてそれは……」
「そう、潰されたんだ。〝なにかの力〟で。犯人が判る前に」
ここにきて、真琴はまたも不安になる。
「じゃ、つまりその……圧力をかけたってのが……」
「高山先生……じゃない」
「先生じゃ……ない?」
「高山先生はあくまで個人……そんな力はないよ。圧力をかけたのは、国とつながる大きな組織……つまり〝大学〟だよ」
「あ……」
「このときの話がどこまで登って、どういうかたちで決まったのかは想像つかない。でもそんなことはどうでもいいんだよ。とにかく高山先生も大塚警部も同じ〝大きな力〟に組み伏せられたんだ」
「……つまり捜査を中止させるっていう結論には高山先生も納得できなかった。そういうこと?」
「それは……ちょっと複雑かもしんない。それこそ心の中のことだから本人……高山先生しか知らないよ」
島田の言葉を受けて、真琴は視線で高山に説明を促す。
しかし高山は、真琴の求めを容れない。
「申し訳ありません。もう……というより、まだ私は自分で説明する気分になれません。今しばらくは島田くんに説明を任せます」
先生……。島田くんに任せるってことは、ここまでの話は事実なんだ。
真琴は島田に視線を戻した。
「たぶん先生は、かなり抵抗したんじゃないかな。この〝大学〟が下した決定に」
「…………。」
それは想像に難くない。
でも、ひとまずはそれに従ったんだ。高山先生は。
少なくとも、松下さんがネガを持ってくるまでは……。
「これも想像するしかないけど、大学が下したのは〝大人の判断〟だったんだよ。それも苦渋の」
「苦渋……の?」
「うん。あのな古川、4年前の時点で捜査が中止されることなく犯人が捕まってたとして、誰かにいいことがあったか?」
「え?」
「このとき田中美月のご両親はもう、時間をかけて娘の死を受け入れてたはずだ。そして、これも想像するしかないけど、〝元〟とはいえ在学中の学生が起こした事件……。大学にとってもいいニュースじゃない」
「それはそうだろうけど……」
「そして、捜査中止を呑む理由は警察側にもあったんだ」
「は? 警察側に? なにそれ」
「いわゆる犯罪死の見逃し……。見逃しっていうと故意に聞こえるから実際は〝見落とし〟なんだけど、一般的には〝見逃し〟って言われてる」
「あ……ああ、そもそもみっちゃんが池に落ちて亡くなったときに、それが事件だと見抜けなかったことね」
「うん。田中美月の事件は、犯人を捕まえれば、かならずそこが注目を浴びるんだよ。もっとも、犯罪であったことを示す新たな証拠の発見があるから、そんなに非難されることじゃないけど」
「そうよね。当時はその……事件だと判断するに足る証拠……ってのがなかったんだもんね」
「でもテレビや週刊誌にとっては格好のネタだ。きっと好き勝手に書くよ。〝なぜ20年前、事故として処理されていたのか〟なんて見出しで」
「……そうだよね。逮捕のニュースはあっという間に消えるけど、そっちの方がネタになるね。……ホント島田くんが言うとおり、ややこしいね」
「え?」
「え? ……ってなによ」
「ややこしいのはここからなんだよ、古川」
ややこしいのは……ここから?
いやもう、おなかいっぱいなんだけど。
(大丈夫、真琴なら解るよ)
く……ミツキ……。
アンタなんか存在そのものがややこしいくせに。
……そういえばミツキが黙って聞いてるってことは、島田くんが言ってることは事実なんだろな。
「じゃ、解るように説明してよね、島田くん」
「ん。まあとにかく高山先生も大塚警部も、組織の決定には逆らえなかった。……だけど、これでいいのかって思ってた」
「うん。解る」
「で、松下さんが先生に届けたネガ……。あれは大塚さんからのメッセージだったんだよ」
「なるほどわかりません」
「…………。つまり大塚さんは、ネガが高山先生のところにいくように仕向けたんだと思う。賭けもあったとは思うけど」
「そんなこと松下さんはひとことも言ってないよ。さすがに無理があるんじゃないの? その推測」
「たぶん自覚がなかったんだよ、松下さんには」
「は?」
自覚がなかった?
自覚がないまま松下さんは大塚さんの思惑どおり高山先生にネガを持ち込んだの?
あり得るの? そんなこと。
「古川、公務員には上司の職務上の命令に従う義務があるんだ」
「……そんなの、普通の会社だって同じじゃないの?」
「そうかもね。でも公務員の場合はちゃんと法律……県警なら地方公務員法に定めてあるんだ」
「……それで?」
「32条に書いてあるんだけど、書かれてる以上は、背けば法律に違反することになるよな」
「まあ、そうね。そうなるね」
「でもこの〝命令に従う義務〟は、命令の違法性が明らかな場合は除外……。命令そのものが無効になるんだ」
「……なんとなく解ってきた」
「国と大学と警察が下した判断、これは話が大きすぎてよく分かんないけど、大塚さんが松下さんに下した命令はネガを〝処分しろ〟だったんだろ? おとといの夜の電話中継からすると」
「うん。そう聞いてるよ。松下さんからも」
「それ、正しくはもう少し言葉があったんじゃないかな。たとえば〝現場は納得できないよな、大学も〟とか」
「ああ、うん」
「そして、違法な命令であることをほのめかした上で、処分しろって言ったんじゃないかな。大塚さんは」
「……なるほど、あるかもね」
「大学に持ち込めって命令しちゃうと、さらにハナシがややこしくなっちゃうんだ。だから大塚さんは分かりやすい〝証拠隠滅〟の命令をしたんだよ。そしてメッセージは届けられた」
「でも、松下さんは疑ってたじゃん。当時の刑事課長……大塚さんを」
「うん。だから言ってるんだ。松下さんに自覚はないって。むしろ松下さんの若い正義感に賭けたのかもしれない。でも、とにかく届いたんだ。結果として」
「でもそれじゃ……。やっぱり賭けじゃん。ホントに思惑どおり動くか分かんない松下さんに託すより、大塚さんが自分で持ってきたらよかったんじゃないの? 先生のところに」
「罪を背負ったんだよ。大塚さんは」
「え?」
「大塚さんという個人が松下さんにネガの処分を命じたんだ。これで最悪の場合はこの一点に集約して、田中美月事件を消そうとした組織的犯罪を〝個人による証拠隠滅〟にすることができる」
「え……そうなの?」
「そうなんだよ。大塚さんが処分を指示した証拠はネガ、つまり田中美月事件の証拠品だろ? いろいろあって揉み消すことになった経緯は、関係者が話さないかぎり〝存在しない〟んだ。現に松下さんは捜査中止に至った経緯を知らないまま大塚さんを疑ってただろ? そういうことなんだよ」
それは……。
この話がもし本当なら、とんでもなく重いものが託されたんだよな。
大塚さんから……高山先生に。
そう感じた真琴は、あえて「拝聴」を決め込んでいる高山に尋ねることにした。
「……高山先生」
「はい、なんでしょう」
「ここまでの島田くんの話って、ホントですか?」
「まあ……想像するしかない大塚くんの内心とかもありますから、すべて真実とは言いきれませんよね」
「……それはつまり、それ以外の部分はホントってことですか?」
「ああ、はい。あらかた……いえ、ほとんど合ってると思います」
「大変なものが託されたんですね。……先生に」
「……大変なもの、ですか?」
……あれ? なにこの反応。なんか間違った?
重いでしょ? ……大塚さんから届いたネガは。
「だって……大塚さんが危険を冒してまで届けたんですよね。あの……ネガは」
ここで高山が首をかしげて考える。
真琴の言葉の意味を理解しようとしているようだった。
そして、理解に至った高山はパッと明るい口調になる。
「あ、ああ、島田くんが言った〝大塚さんが罪を背負った〟という部分ですか。古川さんが言ってるのは」
「そうです……けど、違うんですか?」
「……ややこしい話ですよね、たしかに」
「はい……」
先生、なんだか顔が明るくなってる……。
それこそワケ分かんないし。
「若い古川さんには……ちょっと汚れた話かもしれません」
「……どういう意味ですか?」
「大塚くんがしたことですよ。〝罪を背負った〟と言うと、なんだか深刻な感じになりますが、〝罪を独り占めした〟って言ったらどう聞こえますか?」
「罪を……独り占め、ですか?」
「はい。大塚くんがした『ネガの処分』、あれはそもそも大きなところで下された捜査中止という判断に付随するものです」
「……まあ、そうですね」
「あのネガは、もちろん田中美月さんの事件の証拠品ですが、捜査中止の決定と同時に『表沙汰にできない裏話の物証』になってしまったんです」
「言われてみれば……そうですね」
ネガ……〝田中美月事件の証拠品〟だったあのネガが、こんどは〝組織ぐるみの証拠隠滅〟の証拠品になった……。
で、大塚さんはその罪を〝独り占め〟したって……。
汚れた話……汚れた話……か。
「……つまりその、島田くんがいうところの〝巨悪〟……捜査を中止させた圧力……が公になりそうになった場合は、ぜんぶ大塚さんに罪を着せて誤魔化せる……。そういうことですか?」
「そうです。いわゆるトカゲの尻尾切りですね」
「じゃ、やっぱり重いんじゃないですか? 大塚さんのリスクからして」
「そこがこの話の〝汚れた〟部分なんですよ。まあ、汚れてるのは大塚くんじゃなくて〝世の中〟ですが」
「どういうことですか?」
間を置かず問い返す真琴のまっすぐな瞳を前に、高山の表情はすこし悲しげになる。
それはほんのわずかな変化だったが、真琴にはハッキリと感じ取れた。
そして悲しい表情を保ったまま高山が答える。
「トカゲの尻尾は手厚く葬られるんですよ。古川さん」
「…………え?」
「もし、この裏話が注目されそうになって、本当に大塚くんに責任を取らせるようなことになったら、大塚くんは一生安泰です」
「……は?」
「だってそうでしょう? 責任を背負ったとはいえ、本当のことをすべて知ってるんですから。ひとり責任を背負って口を閉ざす代わりに、その後の厚遇が約束されます。そうしないと、いつ大塚くんが〝本当のこと〟を喋るか分からない」
うわあ……。汚いハナシだなあ。
その真琴の気持ちはそのまま表情に出ていたようで、高山がフォローする。
「さっきも言いましたが、汚れているのは大塚くんじゃありません。世の中です。大塚くんは世の中の仕組みを逆手にとって利用した……。それだけです」
……そっか。そうだよね。
なにも大塚さんは自ら進んで〝俺に罪を着せろ〟とは言ってない。
ただ、私がはじめに思ったほどのリスクはない。そういうことなんだ。
「そうなると……なにもしなければ大塚さんは安全ですが、考えようによっては高山先生の行動次第でもありますよね。証拠……ネガを委ねられたんですから」
「だからこの、カレンなんですよ。古川さん」
「え?」
「学生という人質……。それはみなさんが言うとおり、田中美月事件の捜査を求めるために天秤にかける材料でした。でもそれと併せて4年前の組織悪を表沙汰にしないことも要求するつもりでした。少なくとも私は」
……なるほど。たぶんその要求はすんなり通る。
4年前の組織的な隠蔽は、それこそ国にとっても大学にとっても伏せたままにしておきたい事実だ。
……たぶん警察にとっても。
「ものすごくおおざっぱに言うと、組織悪を上回ると同時にその組織悪を隠すために用意した〝悪〟……それがカレン運営なんですね?」
「ものすごくおおざっぱに言うなら……そうですね」
それなら……いろいろ聞いたけど、やっぱり結論は同じ……。
20年前の事件を見過ごせないから、捜査を中止させた圧力を上回る人質をもって捜査の再開を求めたんだ。
でも……なんだかしっくりこないな……。
自分でも分かんないカンジ。……なんだろ? これ。
「古川、解んないだろ? ……ややこしくて」
「え……うん。解ったつもりなんだけど……。なんかこう、モヤッとしてる」
「それはたぶん、高山先生とミツキの違いだ」
「え……」
「あくまで高山先生は水面下で終わらせようとしてた。でもミツキはそれとは真逆……〝劇場型〟にしちゃったんだ」
ああ、そうだ。そんなこと言ってたな。
先生が密かに終わらせようとしてたのに、ミツキがいきなり大騒ぎにしちゃったんだ。
高山先生の気持ちは解った。
まだ解らないのはミツキの真意……か。
「……ミツキ」
(ん?)
「なんでこんな大騒ぎにしたの?」
(真琴はどう思うのよ)
「……聞いてんのはこっちなんだけど」
(そうね……。簡単に言えば、同じことが繰り返されるのを避けたってカンジ?)
「……同じこと?」
(そそそそ、同じこと。水面下のままやろうとすれば、こんどはもっと大きな力で潰される可能性があったんだよ)
「もっと……大きな……力?」
(うん。先生は常にこの大学のことを思ってる。でも国にとっては、たくさんある大学のひとつに過ぎないんだよ)
「……それがどうだってのよ」
(高山先生のセンでチマチマ駆け引きしてたら、この大学そのものが切り捨てられる可能性があったんだよ。〝組織ぐるみで犯罪をもみ消した許されざる大学だ〟って)
「あ……」
(そうなったら高山先生は屈してた。だってそれは高山先生がいちばん怖れることだから)
真琴は視線を高山に戻す。
「……つまり、もみ消しようがないようにしたんですね。ミツキは」
「そうです。目的を伏せたままカレンを大事件にしました。つまり時間差攻撃ですね。私は9月28日にミツキがカレンを豹変させたときに〝どういうことだ〟と迫りましたが、実はあっという間に納得させられたんですよ。ミツキの筋書きに」
「…………だからいつまで経っても〝目的不明〟だったんですね?」
「そうなんです。そして途中で目的を匂わせる仕掛けもありました」
「え?」
目的を……匂わせる? なにそれ。
そんなのあった?
(ああ、あれはホントに面白かったね。みんなの顔色がサーッと青ざめるの)
「なんのことよ」
(10月1日の夜だよ。真琴)
「え?」
「1日に始まったカレンコレクションの解析結果を見て、知る人はみんな肝を潰したんですよ。なにしろ田中美月事件が忠実にシナリオに織り込まれてたんですから」
「あ……そうか。そうですよね。田中美月事件のことを知ってる人って4年前のもみ消しに関わった人……。大学の偉い人が多いんですね?」
(そう。それと、それに納得できなかった人もね)
「ああ、なるほどね。そんなら……それはそれはステキな空気になっただろうね」
「そうですね。生きた心地がしない人と〝なるほどこれか〟と内心で喝采をおくる人……。実に様々でした」
「そうですよね。ホントは『これでいいのか?』って思ってた人も少なくないってことですよね」
高山が大きくうなづく。
「そうです。しかしこの時点でまだ警察と大学……まどろっこしいので〝体制側〟といいましょうか……は、運営と対話する手段がなかった。つまり運営に『これが目的か』と問うことができなかったんです」
「……運営はその場にいるのに、ですね?」
真琴の言葉に高山は苦笑い……。
背徳の笑みで応える。
「そのとおりです。私を押し退けてミツキが描いた筋書きとはいえ、このときのみんなの表情に、私は笑いを抑えるのに必死でした。ミツキは大胆なことをしたようで、私に余裕をくれたんですよ。……ほんのすこしの」
……そうか。
結果としてはそうなるんだな。
舵を奪ったなんていうとイメージ悪いけど、高山先生が抱えてた〝重いもの〟をミツキが引き受けたともいえるんだ。
「……それで、そのビミョーな空気は、それからどうなったんですか?」
(これがまた傑作……。だったよね。先生)
「……ええ、私としてはちょっとイヤな方向でしたが」
「え? ……なに? どうなったの?」
真琴としてはミツキに尋ねたつもりだったが、この問いを高山が受ける。
「疑心暗鬼になりながらも、表面上は『裏切り者などいない』ストーリーを導き出したんです。つまり大学でも警察でもない者の仕業だと」
「大学でも警察でもなくて、でも田中美月の事件を知ってる……。いたんですか? そんな当て馬みたいな都合のいい人が」
ここでわずかに沈黙が走る。
真琴の疑問に答えるのを高山とミツキで譲り合ってるような雰囲気だった。
そして、答えたのはミツキだった。
(写真屋……だよ。真琴)
「あ……」
そうか。いたんだ。
知り得た人が。
そして、その人も信用……「口が堅い」ことが生業の礎だから……。
「あり得るハナシ……。になったんですね? その場では」
「そうです。もちろん当の写真屋さんにそんな意図はありません。ですが体制側からみれば充分にあり得ることのように思えたんです」
「……そうですね。やったことの良し悪しは置いといて、4年前の隠蔽は大学も警察も〝組織〟を守るための自衛の判断だったんでしょうから。でも、それにしても……」
都合よく考えすぎ……。
真琴はそう思った。
そして、真琴の考えを見透かしたミツキが教える。
(真琴、これはもう本能に近い反応なんだよ。組織の上層……関係者の口を封じて事件をもみ消すという判断に最終的にGOサインを出した人たちは、それこそ〝よかれと思って〟やったことなんだから)
……そういうもんなの?
カレコレのシナリオに田中美月事件が出てきても、まだ信じられるの?
〝身内に裏切り者はいない〟って……。
腑に落ちない顔をする真琴をよそに、ここで島田が割って入る。
「古川、その場にどれくらい『運営』が紛れてたかは知らないけど、写真屋が疑われる流れは悪くないと思ったはずだ。だって、どんなに疑われても写真屋は潔白なんだから」
「まあ、そうなの……かな?」
「でも、運営の中でも、書き替えられた9月28日以降の筋書きを知ってるミツキと高山先生にとっては困ったことになったんだ。……違いますか? 先生」
「そうですね。島田くんの言うとおりです」
「え? なに? なんのこと?」
「今回の、ホントだったら中心人物になってたはずの人の存在だよ」
今さら飛び出した〝中心人物〟なる言葉に、真琴は考えることなく食い付く。
「なによそれ。誰よその中心人物って」
島田は、あらゆる感情を圧し殺して真琴を見据える。
それは、答えを知ったときの真琴の感情に一切の余念を与えぬための無表情だった。
そして島田が答えを告げる。
「写真屋の娘……大神愛、だよ」
あ……。
そうか。
そうなんだ。
「そう……だよね……。考えてみれば高山先生はいっぺん体制側の判断に与したんだ。それを翻したのは愛……だもんね」
「そう。脅しを受けた大神さんが先生を訪ねたとき、先生は大神さんになんて言った?」
先生がなんて言ったかって……。
目の前にいるじゃん。本人が。
本人に聞きなさいよ。
このナルシストめ。
胸中で島田に不満を吐きながら、それでも言われたとおり記憶をたどり、真琴は質問に答える。
「ええと、愛が言うには、たしか〝犯人に反省がないことが判った。もう許さない〟みたいなこと言ったみたいよ。高山先生は」
真琴は答えながら自然と高山を見る。
その瞳は静かで、正義を湛えていた。
「それ、ホントはすこし違ったんじゃないかな。このときの大神さんは、持つ情報が少なかったからフィルターがかかってる」
「え? どういうこと?」
「その時点では、田中美月を襲った犯人なんて不明だろ?」
「あ……」
「だから高山先生が〝犯人〟という言葉を使ったかどうか判らないけど、とにかくこのとき先生が〝反省なし〟として〝許さない〟と断じたのは、事件をもみ消して、なおも知った者の口を封じようとした体制側……組織のことだったんだ」
……そうか、そのとおりだ。
田中美月を襲った犯人は、15年前のことが事件として発覚したことすら知らなかったはずなんだ。
そして先生が〝許さない〟ことを決めたのは愛のことがあったから……。
じゃあつまり、高山先生がカレン計画を通じて最終的に判断を委ねようとしたのは……。
……愛、か。
口を開くと同時に高山の〝複雑な〟執念に思いが至り、真琴の頬に複雑な色の涙が伝った。
「先生は……何年もかけて、愛にすべて委ねようとしてたんですね? 田中美月の件と、それを葬ろうとした件の犯人の……その処断を」
「そうですね。古川さんが早々に結論に至ったとおり、私は〝田中美月事件〟と〝学生〟を天秤にかけました。これは、片方が紛れもない悪だったので、当然、目的は果たせました。犯人の逮捕というかたちで」
「はい。でも、それだけじゃなかったんですね」
「はい。私はもうひとつ天秤を用意したんです。つまり片方に〝事件の隠蔽〟もう片方に〝カレン運営〟の罪を載せた天秤です」
「そうですね。そして先生はその天秤……釣り合わせたい。そう思ってるんですよね」
ここで高山がすこし首をかしげて自問する。
そして、高山〝教授〟ではなく〝高山徹〟個人
としての動機を語る。
「4年前、なんの裏工作もなく田中美月事件の犯人が捕まっていれば、私はそれでよかったんです」
「はい」
「でも大学は国の権威を借りて、大学の体面を保つことを選んだ。……犯罪死を見抜けなかった警察の落ち度も併せて武器にして」
「……はい」
「古川さん、私はこの大学を愛しています」
「はい」
「体面を保つために為した4年前の裏工作……。私は今、これが明るみに出ることをなにより怖れています」
「はい。だからその4年前の陰謀に、高山先生の陰謀を釣り合わせようとした……。つまりこっちは両方とも表沙汰にならないようにしたいんですよね」
「そうです。でも、それを決めるのは私じゃない。私であってはいけない……。そう思っていました」
「つまりその、決める人というのが愛……。写真屋さんの娘だったために巻き添えになった大神愛なんですね?」
「はい。そのつもりでした」
……でしたってことは、今は違うんだよな。
鈍い自分でも解る。
愛に代わって、自分が〝決める人〟になったんだ。
でもホント、なにが決め手だったんだ?
「……どうして私……だったんですか?」
投げた問いが部屋をさまよう。
まるで独り言のようなその問いかけは、高山に向けたものともミツキに向けたものとも、あるいは島田に向けたものともいえた。
また、あるいは自問とも……。
「アンタが貧乳だからだよ、真琴」
振り返ると理沙がいた。
音も立てずにドアを開けて、その割にはビシッと真琴に人差し指を突きつけている。
ここでアンタが登場すんの? 理沙……。
「……清川、どういう意味だ? それ」
とっさに反応できたのは島田だった。
言葉を向けられた当事者である真琴はその言葉の意味を掴もうとし、高山はただこの珍入者に驚くだけ……。
まったく驚いた様子のない島田の態度は、理沙の飛び入りを予想していたかのようだった。
ま、試験が終わってから私のストーカーになってたんだから……。
尾けるよね、そりゃ。この部屋まで。
「私の言うことに意味があると思うなよナルシスト」
真琴を差す指先を島田に移して理沙が答える。
「……ないのか? ……意味」
「貧乳なのにおとなげボーボーだから選ばれたんだよ真琴は」
……理沙アンタ……ここがどこだか分かってんの?
「……清川、ここには教授もいるんだ。日本語で言えよ」
「え? そうね、つまりその……なんてえの?」
(裏表がなくて、しかも思慮深いから……。そんなトコロじゃないの? 訳すなら)
「そうそう、そんなカンジ。さすがだねミツキ」
能力を総動員して状況を理解した高山が理沙に尋ねる。
「ええと、あなたは清川さん……。つまり、もうひとりのチームメイトですか?」
「ですです。ある意味心中人物です」
「……そうですか。それならその……」
(先生、理沙もこの場にいて然るべきだよ。半分くらい知ってる)
「……ミツキ、アンタ、ナルっちのときは〝ぜんぶ知ってる〟って言わなかった?」
(ひひひ……。興味のないことは記憶に残らないでしょ? 理沙は)
「……よく理解してんのね、さすがに」
「清川さんにお尋ねしてもいいですか?」
「はい」
枠にはまらない理沙の言動は、その人となりをよく伝えたようで、顔を合わせたばかりの高山が理沙に尋ねる。
「清川さんはどう思いますか? この騒ぎのこと」
「……ザックリしたお尋ねですね。ずいぶんと」
「はい。でも清川さんは、その方が話しやすい人なんじゃないかと」
高山の言葉に、理沙はまんざらでもない顔で答える。
「えっと……。まずムカッっときましたね」
「はい、そうでしょうね」
「それから〝ん?〟ってなってから、へぇ……ってなったカンジです」
「……そう……ですか」
このやりとりを真琴は、高山と理沙の顔を交互に見ながら聴く。
二人とも真剣な顔してるけど……。
これ……成り立ってんの? ……会話は。
「はい。で、今は〝ほう?〟ってカンジです」
理沙、アンタ……。
どこまでそのスタイルでいくのよ。
「内実は清川さんにとっても意外だった。そういうことですか?」
「はい。思ってた以上に〝運営〟……高山先生は正義の人でした」
理沙の口から零れた「正義の人」というワードに高山が驚いてみせる。
「正義の人……ですか? まだ私のことをそう言うんですか? 清川さんは」
「え? 違うんですか?」
「あ、いえその……やっちゃいけないことをやってますので……」
相変わらず理沙の表情は豊かだ。
……見ていて飽きないほど。
かたや高山先生は、次々いろんなことを暴かれて、すっかり反省モードのままだ。
そんな気配を感じ取った理沙が告げる。
「あ、先生」
「はい」
高山に向けた視線はそのまま、理沙は島田を指差して言う。
「このナルシストがカッコつけて先生をやり込めたみたいになってますけど気にしなくていいですよ、こんな若造」
「え……いえ、そんなことは……」
いきなり登場してチームメイトをこき下ろす理沙に高山は戸惑いを隠せない。
それでも理沙の口は止まらない。
「いいんです。こういう演出じみたのが好きなイタい人なんです」
「…………。」
チームメイトをここまで悪く言う理沙に、さすがの高山も返す言葉を失う。
それを眺める真琴も、理沙が乱入した意図が掴めないので、ここで口を挟む。
「……理沙」
「ん?」
「アンタ、なにしにきたの?」
「え……」
通常人であれば即答して然るべき質問に、理沙の口が動きを止める。
そして理沙は、目を閉じて首を傾ける。
この雰囲気はいつもの理沙……。
つまり勢い……。なにも考えてなかったんだ。
真琴がそう理解しようとしたとき、理沙の口が動いた。
「そうね……まあ、ナル夫が偉そうにしてるのが気に食わなかったのと……」
……理沙がそう思う理由は解る。
隠されていた事実を暴くにしても、あんな……2時間ドラマの大詰めみたいな雰囲気にしなくてもよかったんだ。
島田くんはただ、知ったこととそれを基に推測したことをそのまま高山先生に問えば済んだはずだ。
「あとは……。仲間じゃないみたいでイヤなカンジだったからだよ、真琴」
そう言い終えたとき、理沙は目をしっかり開けて真琴を見ていた。
その表情は、それが本心であることを伝えるものだった。
そして理沙は、まず島田に視線を投げてから高山を見つめて言う。
「先生、とどのつまり、真琴にはぜんぶを知ったうえで結論を出してもらいたい……。そうですよね?」
唐突な問いであったが、高山は間を置かずに返す。
「そうですね……そうなります。まあ、隠しておきたい部分もあったりして、結局は島田くんに暴かれましたが」
自省のお手本のような態度でそう口にする首席教授に対し、理沙が意外な答えをする。
「先生、この場所に反省は要りませんよ。少なくともこの男に対しては」
理沙がそう言いながら指差していたのは島田だった。
この理沙の態度に真琴は少なからず驚いたが、当の島田に動揺は認められない。
「……そうか、それが理由か。清川が部屋に飛び込んできたのは」
「そうよ。おかしい?」
「……いや、これはたしかに清川が正しい」
……は?
理沙が正しい?
なにが? どこが?
真琴は戸惑う。そしてそれは島田と理沙のやり取りを眺める高山も同様であるようだった。
そして真琴は島田に尋ねる。
「あの……島田くん」
「ん?」
「……どゆこと?」
島田は相変わらずのポーカーフェイスで真琴の問いと視線を受け流す。
「……清川」
「うん?」
「俺が白状した方がいいのか? それとも清川が名探偵になるか?」
相変わらず他の者を置き去りにしたやりとりだったが、これに理沙は「ああ」と漏らし、腕を組んで「う~ん」と唸ってみせた。
「ナル夫はどっちがいいと思うの?」
「……あんがい清川主導が解りやすいと思う。ホラ、俺に準備はないし」
「そっか……。じゃ、また私が刑事役だね」
またもや新事実が明かされそうな雰囲気だが、それが「いい報せ」ではないことは真琴にも理解できた。
そんな真琴の顔を見てなにか感じたのか、島田が真琴に前置きのような言葉を告げる。
「古川」
「ん?」
「清川はさっき〝仲間はずれみたい〟じゃなくて〝仲間じゃないみたい〟だったからイヤだった。……そう言ったんだよ」
「あ……え、そうだっけ?」
「だからここは清川に任せるよ。俺は公平じゃない」
「公平じゃ……ない?」
真琴が知る誰よりも〝公平〟という言葉が似合う島田がそれを否定し、真琴が困惑しているところで理沙がバトンを受け取る。
「真琴、ナル夫は〝その他大勢の学生〟の代弁者なんかじゃないよ」
「…………え?」
「松下さんが怪しいってハナシになったときナル夫が披露した名推理、あれは〝許容範囲内の暴露〟だったんだよ」
「ゴメン、よくわかんない」
「そうね、う~ん……。じゃ真琴、松下さんから最初に聞いた松下さんの電話番号の電話番号って憶えてる?」
「……いや、憶えてないけど、携帯の電話帳にあるよ」
「かけてみな、それに」
「え?」
「いいから」
今、松下さんに用はない。
さっきまで会ってたんだし。
でも、理沙の目はフザけてない……。
真琴は言われたとおり自分の携帯電話を使い、そこに登録されている連絡先「松下刑事」……松下の連絡先として最初に教えられた番号にダイヤルする。
間もなく、部屋に呼び出し音が響く。
……って、これって……あれ?
鳴り出したのは自分の胸ポケットにある白い携帯電話……。
真琴はポケットから取り出して発信者を確かめる。
〝古川真琴〟……つまり私だ。
松下さんは最初、この白い携帯電話の番号を私に教えたんだ。
……で、これになんの意味があんのよ?
「……これってつまり、最初に松下さんが私に教えた連絡先ってのがこの白い携帯の番号だったってことよね。」
「そうだね……」
「そうだね……じゃなくて、なんなのよ理沙、なにがやりたいのよ」
「え……と、ちょっと予定が……」
「なんの予定?」
「……名探偵理沙」
ん? つまり、白い携帯電話が鳴ったのは理沙の見込みと違ったってこと?
でも、かけた先は松下さんだし……。
やっぱり解んないな、これは。
「……考えようとしたけど解りそうにないから教えてくんない? どういうこと?」
「こっちが鳴ると思ってたんだよ。清川は」
そう言って割り込んだ島田の手は、折り畳み式の黒い携帯電話をプラプラと揺らせていた。
「そう、それよそれ」
「ま、その可能性もあったよな。たしかに」
「でしょでしょ? くそ、惜しかった」
「ま、そんなに悔しがんなよ。隠しきれるもんじゃなさそうだから出したしな。こうして」
島田は、理沙に答えたあとで真琴を見る。
その表情は、なにかを見定めようとしているようにも、なにかを教えようとしているようにも見えた。
で、なんで島田くんが持ってんの? それを。
「なんで島田くんが持ってんのよ、それ」
「持たされたからだよ」
答える島田に動じる気配はない。
持たされたって……。
それはいったい、いつのこと……。
真琴はそう言いかけたが、すんでのところで思い留まる。
いや……重要なのは〝どうして〟の方だ。
なんで島田くんが持ってんのよ。
警察が協力者に貸し出す携帯電話を。
「……真琴」
「なに?」
「今、真琴にとって〝運営〟といえば誰のこと?」
理沙の問いかけは、淡々とした口調に相応しく極めてシンプルだ。
しかし真琴は「高山先生に決まってんじゃん」と言いかけて開いた口を閉じた。
「あんがい深いのね。その質問」
「でしょ? しかも一枚岩じゃないカンジ?」
「うん。この春まで運営の中心にいたのは高山先生だけど、今はそう単純じゃないね」
「そそそそ。で、思惑が微妙にズレてたりすんのよ」
「……だから島田くんがそのケータイ持ってんのね」
「うん。この男、学生みんなの代弁者のフリして、中身はドスケベだよ」
「……どういう意味だ? それ」
「ナル夫アンタさ、真琴にナイショで松下さんの手先になっといて、聴きたいのは私の方だよ。その行動の意味を」
松下さんの手先……。
つまり島田くんは島田くんで〝協力者〟になってたんだ。
言うまでもなく松下さんの。
そこに考えが至ってはじめて、真琴は理沙が言った「仲間じゃないみたい」の意味を知る。
そうなると、理沙が先生に答えた〝ムカッと〟して〝ん?〟ってなって〝へぇ……〟ってなったカンジというのは単純じゃないな……。
ハッキリしてるのは〝ほう?〟と思ってるのが今だってことだ。
皆が真琴の反応を待っているような空気の中、少し考えてから真琴は口を開く。
「まだよく解らないけど、運営の中でも、島田くんは松下さんに、そして理沙は高山先生に共感してるってこと?」
「当たらずとも遠からず……じゃない? ナル夫が松下さんに共感してるのは間違いなさそうだし、私は高山先生を正義だと思うよ」
「共感……ってか、松下さんはこう〝ハブられた運営〟みたいに思えたんだよな、俺には」
ハブられた運営……か。なるほどね。
松下さんは運営が生まれた理由を知りつつ、いろいろ明かされないで過ごしてきたんだ。
……立場上のことを理由に。
「島田くんがその携帯電話持ってるってことは、私が白い携帯電話に変わってから協力者になったの?」
「……たしかそう。いつだったか憶えてないけど、急に距離が近くなったときがあったんだ」
急に距離が……ね。つまり松下さんが急に距離を詰めてきたんだろうな。
それで私……私はどうなんだ?
今、なにを考えればいいんだ?
運営の内の誰に与するかを決めなきゃなんないの?
たとえば……ミツキとか。
(誰に従うとか、そんなハナシじゃないよ真琴)
ミツキ……。
ずっと黙ってたのに、このタイミングでそのセリフ……。
相変わらず空恐ろしいな。
「ミツキはそう言うけど、なかなか複雑な気分だよ。今」
(複雑だろうけど、真琴がするべきことをあえて言うなら〝知りうるかぎりのことを知る〟じゃないかな)
「ああ、なるほどね。そんなカンジだね。みんなが勝手にタネ明かしするから、理解するので精一杯だし」
(だから今は〝理解する〟に専念してればいいんじゃない? なさそうで、実はあるんだし。時間は)
「……たしかにね。忙中閑ありっていうより、忙は終わったんだもんね」
(そうだね。で、もうひとつの文献の出番じゃないの? ナル夫くん)
「……ミツキまでそう呼ぶのか?」
(そもそも島田くんに〝ナルシスト〟の称号を授けたの私だし)
「そういやそうだな。……もう出さなくてもいいと思ってたけど……ミツキは〝出すべき〟派だろうな」
(うん、そうだね)
「なによ、なんなの? その……文献って」
「これ」
そう言って放り投げるように島田は1枚の紙を差し出した。
テーブルの上で真琴はそれを改める。
これは……これも論文だ。10年くらい前の。
なんだか難しそうな標題……。
そして著者は……農学部助教授、白石恵美……。
……白石……恵美?
農学部助教授?
「この論文書いた白石って助教授、もしかして……」
「今は学生課にいる白石さんだよ」
「あ……」
「古川」
「…………。」
「古川は白石さんに子どもがいるの知ってるか?」
「あ……うん、聞いたことあるよ」
「でも、白石さんは未婚だ」
「…………そう……なんだ」
もう考えるまでもない。
カレコレの農学部ステージに出てきた助教授は白石さんの物語なんだ。
そしてミツキは言ってた。カレコレに出てくるエピソードは、主な運営の後悔を綴ったものだと。
だから、ほぼそのとおりのできごとがあったということなんだ。
でも白石さんが、あの白石さんが運営のひとりだなんて……。
白石さんだって憤慨してたじゃないか、カレンの騒ぎが始まったとき……。
(ここにもドラマがあるんだよ。真琴)
驚きを隠せず、それでいてなにも言えないでいる真琴にミツキが告げた。
「……いや、でも、重すぎるでしょ。このド」
(田中美月さんのご両親のドラマとどっちが重い?)
また言い終わる前に被せてきた。
でも、どっちが重い……か。
答えるのは容易くない。それだけは解る。
「古川さん」
思案顔の真琴に声をかけたのは高山だった。
伏せていた目を上げ、真琴は仕草で高山に答える。
「私は田中美月さんの家にお邪魔したことがあります。というか、ここ数年は幾度となく……です」
「そうなん……ですか」
「田中美月さんの家では、今でも毎年、美月さんの誕生日を祝っています」
…………。
これもまた重いドラマ……。
私にできるのは想像することだけ。
「よくある話ですが、美月さんの部屋は生前のまま。そして壁に記された成長記録……いわゆる柱の傷を見て心が動かない人はいないでしょう」
……光景が目に浮かぶようだ。
亡き娘のことだけを考えて生きてはいけないけど、忘れることもなければ逃げることもできない。
それが、娘を失った親なんだ。
真琴は不意に、我が身がとても大切なものに感じられた。
目を閉じて父と母の姿を思う。
それと同時に真琴の思考は元農学部助教授、白石に向けられる。
そう、ヒントはあった。
白石さんが私のことを「目立って真面目」と評していたのには裏付けがあったんだ。
カレン運営が始まるきっかけとなった田中美月事件はもとより、隠蔽が行われた後に松下さんがネガを携えて大学を訪れたときに窓口となる場所にいたんだから。
つまり、白石さんが取り次いだんだ。
松下さんを、高山先生に……。
初めに大塚警部が大学にネガを持ち込んだ先が高山先生だということも知ってたんだから。
学生説明会のときに私に見せた憤慨だって矛盾はない。
だって、この大騒ぎはミツキの独断によるもの……。
白石さんだってビックリだったんだ。
9月28日のカレン豹変は、運営同士の意志疎通も混乱させたはず……。
そして名前こそ出ていないものの、カレコレによって不本意に自らの過去を明かされた。
そう、明かされたんだ。……ミツキに。
たぶん、なにもできないまま……。
「……ミツキ」
(ん?)
「結局さ、アンタがいちばん苦しめてるよね、運営を」
(……そうだね。そうなるね。純粋に高山先生の手助けをするなら別の方法もあったよ。わざわざカレコレで白石さんたちのドラマを明かす必要なんてなかった)
「許せないの? 運営を」
(違う)
「……違う?」
(うん。許すもなにも、はじめから憎んでないんだよ。私は)
「でも罰は与えるワケね。過去をほじくって」
(真琴……)
他の者が見守るなか、真琴とミツキが問答をする。
口が問い、それに胸が答える……。
疲れを隠さず、それでいて静かな真琴の表情は、神託を受ける者のようだった。
その真琴の姿を見て、その場にいる皆が悟る。
もはや高山でも松下でも、あるいは白石でも愛でもなく、今ここでミツキと対峙する古川真琴こそが唯一の運営……。
最終の断を下す者だということを。
「白石さんの過去もそうだし、カレコレの他のエピソードもそう。ぜんぶアンタが晒したんでしょ。徳の特典にもあるらしい運営の自白だってそうじゃん。本人に断りなくアンタが私に見せるなら自白なんかじゃないじゃん。なんのためにそんなことすんのよ。アンタになんの権利があるってのよ。何様だか知らないけどさ」
昂る真琴の右手が左胸のミツキ……携帯電話を掴む。
激しい言葉とは裏腹に、我が胸に問う少女のような真琴の姿は神々しさを帯びていた。
(……信じるか信じないかは真琴の自由だけど)
「だけど……なに?」
(私は運営を憎んでないし、運営だった人たちも私を憎んでないよ)
「運営も……憎んでない? ミツキを?」
(うん)
「なにそれ。どんな理屈?」
(簡単に言うと、学生には自分と同じ過ちを繰り返してほしくない……。つまり、むしろ聞かせたいと思ってたんだよ)
「は? 白石さんの過去とかもそうだっての? あ、そうよ、どっちがホントだか判んない理学部のハナシ、あんなヒドい話を人に聞かせたいと思ってるって? そもそも二通りのルートがあったんだからどっちかはアンタの創作じゃん」
(白石さんについては……うん、そうだよ。他の人には辿ってもらいたくない道だって白石さんは言ってる。でも、悔やみきれないものもあるけど今は幸せだって)
「……話してるの? 白石さんとも」
(話してるよ。あ、でも高山先生とは違って、話すようになったのは9月28日からだよ)
「じゃあ理学部のエピソードは? あれはなんなの?」
(……真琴)
「なによ」
(二通りのストーリー……。どっちも現実にあったことなんだよ。あれは)
あ、ああ……そうなのか。
ここで真琴の言葉が止まる。
(あれさ、いちばん最初のステージだから、どのチームも仲違いする前だと思ったんだ。真琴たちも理沙が別ルート選んだから知ったでしょ? 両方の物語を)
「でも、あんなヒドい出来事を晒すなんて……。あれも同意をもらったっての?」
(うん。片方は特定されないことを条件に、もう片方は……遺族から、ね)
つまり、すべて同意を得てからカレコレを作ったってことか。
仕事の早さは今さら驚くことじゃない。
ミツキの能力は……底知れないんだから。
すべてに答えるミツキを相手に、ここで真琴はすっかり毒を抜かれてしまった。
右手が胸から滑り落ちる。
(真琴)
「なに?」
(この際だから言っておくけど、高山先生を含めて他の運営にも〝覗き趣味〟はないよ)
「……どういうこと?」
(運営が9月28日に学生に見せたもの……。あれはぜんぶ私が用意したんだ)
「つまり私のアレも、機械であるミツキしか見てないってこと?」
(そう。膨大なデータがサーバに蓄えられてたけど、その中から学生の〝イヤなもの〟だけを抽出して編集するなんて、生身の人間にできると思う?)
考えてみればそのとおりだ。
その能力もまさにコンピュータ……。
アナログ作業でできることじゃない。
真琴はすっかり脱力した。
そして、それを隠すことなく真琴は高山に乞う。
「……高山先生」
「はい」
「お話は理解した……つもりです。ですが、すこし時間をください」
「わかりました。その間、私は学生が早く安全圏に入るよう働きかけます」
「ああ……はい、よろしくお願いします」
そこまで言って真琴は立ち上がり、部屋を出る。
島田にも理沙にも一瞥もくれず部屋を出た真琴は、胸からスマートフォンを取り出す。
「ミツキ」
(うん)
「どうせアンタはなんでも見えちゃうんだろうけど、次に私がアンタを呼ぶまでは黙ってて。いい?」
(いいよ)
結末は近いけど、やっぱりその前に直接会っておかなきゃいけない……。
真琴はラインを開いてメッセージを送る。
おおむね1時間後、真琴は大学近くにあるファミリーレストランにいた。
「まだ晩ごはんには早いわね」
真琴がじっと固まり考えをまとめているところに、待ち人が声をかけてきた。
そして真琴の対面の席に着く。
「ずいぶん疲れてるわね。大丈夫なの?」
真琴は無言でうなづく。
疲れきっていることは事実……。隠しようがない。
「まあいいわ。それで、私になにが聞きたいの?」
真琴は顔を上げる。
目の前にあったのは、あの頼もしい顔……。
「……お母さん」
母の表情は9月28日の夜と同じ……。
〝なんでもこい〟と顔に書いてあった。
大事を経た娘を前にした母の、あまりの平常運行……。
その落ち着きぶりが真琴を悲しくさせる。
しかし、真琴は確認せずにはいられなかった。
ひとつ深呼吸をして、答えの置場所を心に空けてから真琴は問う。
「お母さんは、どこまで知ったの?」
母は、娘の問いをまっすぐ受け止めた。
穏やかに娘の瞳を見つめたまま、どう答えるかを考えているようだった。
もともとおしゃべりじゃないけど……。
そんなに考えることなの?
お母さん……。
「かるく10年は連絡とってなかったのよ、恵美とは。まさかそんなことになってたなんてね」
……なるほどそっちか。
白石さんからなのか。
真琴は静かに目を閉じて、心に設けた置場所に母の答えを置いてみる。
うん……なんの違和感もない。
じゃあ、隙間を埋めなくちゃ。
「連絡って、いつ? どっちから?」
「10月1日、恵美からよ」
あ、そうか。そうなんだ。
あれ? これでもう……隙間がないかも。
あ、すこしある。
「お父さん……には?」
「必要なかぎりで話したわ。お父さんもスッキリしてた」
必要なかぎり……。
なるほど巧い言い方だよね。
心の隙間が埋まった真琴は目を開く。
母の表情は変わらず穏やかだ。
その母が、穏やかに真琴に尋ねる。
「なんで真琴に感付かれたの? 私は」
「……だって、もう途中から心配してなかったじゃん。お母さんも……お父さんも。現実の危険は心配そうだったけど、カレンのことはもう全然」
「真琴、いつ気付いたのよ? いったい」
「ついさっきだよ。余裕なかったんだから。気付いたから連絡したんだし」
「ああ……なるほどね。お疲れ様よね。……ホントに」
敵わないな、やっぱり。
まだ聞きたいこともあるけど……。
もう……いいや。
空けた置場所がきれいに埋まった感触を得て、真琴はこの件を閉じた。
それからは真琴の愚痴……。
真琴はこの10日間の苦労を母に吐き出した。
そして真琴は、スッキリとした気分で母と別れた。
ファミリーレストランの駐車場で母の車を見送った真琴は、またひとつ深呼吸をする。
「……ミツキ」
(……はい)
「アンタって、ホントに黒幕だよね」
(……うん)
「いったい何人に嘘つかせてんのよ」
(ごめんなさい)
ごめんなさい……か。
言い訳しないし、これはなんとなく、ホントに反省してそうだな。
でも……これだけは確認しなきゃ。
「アンタのごめんなさいが本物か試させて」
(……わかった)
「賢者って、ぜんぶで何人いたの?」
問いを投げ、真琴は目を閉じる。
(…………ふたり)
ミツキの答えを受け、真琴の目が自然と開く。
「……ホントに反省してるんだ」
(そのつもり……だよ)
そう、賢者なんてホントは愛と隊長だけだったんだ。
あらかじめ運営にとって特別だった学生……。
意味合いはまったく違うけど。
よし、もういい。
ここまででいいんだ。
これ以上は「知らなくていいこと」なんだ。
お母さんのことも……。
隊長の……罪の中身も……。
自らにそう言い聞かせながら、真琴の頬に涙が伝っていた。
うつむくことなく、空を仰いで涙する真琴……。
それは奇しくも「可憐」という言葉が相応しい姿だった。
(真琴)
「ん?」
(たしかに私……罪深いけどさ、これだけは言わせて)
「なによ……あらたまって」
(真琴は〝超まこと〟が池に落ちる前に、悪くないって言ってくれたんだよ)
…………。
ああ……そうなんだ。
超法的手段で悪を捌いた〝超まこと〟は、たしかにミツキの思いが込められてたんだ。
そして、たしかに私は選んだ。
その責を問う最期の質問に〝いいえ〟を。
「……ミツキ」
(うん)
「もう、辛気くさいのは終わりにしよ。カレンのことで、もう不幸はいらない」
(……ありがとう……真琴)
ミツキの心を受けとるように、真琴は自転車の鍵を握りしめた。
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