かれん

青木ぬかり

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10月7日(金)

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「すごいじゃん真琴。ホントにみんなを救っちゃいそうじゃん」

 試験が終わり、退出しようとした真琴に近付いてきたのは愛と早紀だった。
 同伴の機動隊員が周りに睨みをきかせているため、野次馬のような学生は遠巻きに真琴を見るだけ……近付いてはこない。
 こうして近付いてくることができるのは親友……愛と早紀だけだ。

「そういや早紀が言ってたね。いつか運営にスカウトされたらヒドい目に遭わせてやる……って」

「冗談じゃなくなっちゃったね。でもスカウトされたいとはもう思わないね、ゼッタイ」

「あ、そうだ。あんたたち三中の警戒は解けたの? ほら、おカネいっぱい持ってたじゃん」

「真琴の命令でおカネ使い果たしたから大丈夫だよ、もう」

「あ、そっか。なんかゴメンね」

 そうだった。チーム「三中」にも協力してもらったんだ。
 ……カルマトール1000の買い占めに。

「いいよ。真琴といい愛といい、なんか救世主と関われただけでもいい気分」

 この早紀の言いぶり……。
 愛はどこまで早紀に話してるんだろう。
 早紀と平野は、愛のひとことで「しんじつ」の購入を思いとどまったんだ。
 このチームにもドラマがあったんだろうな……。かなりの。

 駆け寄ってきた早紀の後から、愛がゆっくりと近付いてきた。

「早紀、救世主は真琴。私は日陰者だよ」

「でも、愛がいなかったら真琴は救世主になってないし、真琴がいなかったら愛がなってたんじゃないの?」

 ……どうやら、愛はかなりのところまで話しているらしい。
 まどろっこしいことは抜きだ。真琴は小声で愛に尋ねる。

「愛、早紀とか平野にはどこまで話してるの?」

「ほぼ全部。……だって私に後ろ暗いところはないし。あるとすれば真琴と早紀にヘタな芝居をしてたこと……だしね」

 なるほど……。言われてみればそうだ。
 愛は9月28日の時点でほぼすべてを察知してたけど、いち学生のフリをしてたんだ。
 まあ、それも当然の行動といえば当然の行動……。
 責められるようなことじゃない。
 そして愛も知らないんだ。
 Xデーを9月28日にしたのは黒幕……私がミツキを呼ぶAIだということは。
 聞かれたら教えるべきだろうか……。

 いや……これは愚問だ。
 愛は自力で真相にたどり着く。
 運営という肩書きは私に譲ったとしても「例の雲」でミツキには会えるんだ、愛も。
 そしてミツキも言っていた。当初のシナリオでは愛こそが「最後の運営」となる予定であったことを。

 つまり愛もミツキにとって特別な存在なんだ。
 かなり深い話をするだろう。愛とミツキなら。

 愛は、早紀や平野にはほぼ全部を話していると言った。
 でもそれは、おそらく方便……。
 高山先生のことは話してないはずだ。
 それは可能なら秘すべきこと……。
 まだそれがあるんだ。
 この事件には……。


「これからの予定はどうなってんの?」

 早紀が軽い口調で真琴に尋ねる。
 しかし、訊かれた真琴は戸惑う。

 あれ? どうなってんの?
 私の……予定は。

 昨日は予定外に早く寝て、今朝は余裕のない時刻に起こされた真琴は、自分の予定について何も把握していないことに気が付き、すがるような目で付き添いの機動隊員を見た。
 そして、突然見つめられた動揺を顕わにしながら隊員が答える。

「私も把握はありません。試験が済んだら先ほどの車までお連れするように、とは言われてます」

 そっか……。車に戻るってことは、家まで警察が送ってくれるってことだよな……。
 それってつまり謹慎みたいだよね。
 ある意味予定なしってこと……か。

「……おなか減ったな、とりあえず」

 それは「予定なし」という言葉を連想した真琴が何気なく口にした言葉だった。
 その言葉を愛が拾う。

「あ、ウチらも朝なんにも食べてないんだ。学食行かない? 一緒に」

 ……それはいい考えだ。と真琴は思う。
 愛や早紀と一緒にご飯を食べるのも久しぶりな気がする。
 でもそれは平時であればの話……。
 
 真琴は再び機動隊員に目で訴える。

「……松下さんに聞いてみないことには判断できません。きっとむこうも、清川さんでしたっけ……を連れて車に向かってるはずですので」

「じゃ、聞いてみてもらっていいですか? お二人もご一緒にってことで」

「え……私たちもですか?」

 屈強な隊員があからさまにオロオロする。
 真琴はなんだか小悪魔になった気持ちになった。

「ええ、私がぜひにと言っていると伝えてください。松下さんに」

「……分かりました。聞いてみます」

 機動隊員は、戸惑いながら真琴たちと少しだけ距離をとり、電話をかける。
 電話をかけながらも視界から真琴を外さないあたり、さすがだと感心する。

 電話口で松下にからかわれているのだろう。
 隊員の口から「いえ……そんなことは……」とか「そういうつもりは……」などの言葉が聞こえてくる。
 そして、通話中の電話を手で覆い隠すようにしながら真琴の方に近付いてきた。

「あの……学食に行くのは構わないみたいなんですが……」

「ですが……なにか?」

「清川さん……あ、それともうひとりの隊員も合流していいですか?」

「あ、ああそっか。もちろんです。せっかくなら松下さんも」

 真琴の回答を聞いて、今度はその場で隊員が電話を耳に戻す。

「もしもし。それでいいそうです、はい。それで、松下さんも……と古川さんが言ってますが……。ええ、はい。そうですか、分かりました。それでは総合科学部の学食前で、はい。では切ります」

 通話を終えた隊員が真琴に報告する。
 その表情は心なしか嬉しそうだ。

「松下さんは来ないそうです。それで、清川さんたちと学食前で合流することにしました。それでいいですか?」

「はい。じゃ、行きましょうか」

 真琴は先頭に立って教室を出て、学食に向けて歩き始める。
 清々しい秋の風にあたり、真琴の心は涼やかに満ちていた。

 すでに学食の前で理沙が待っていたので合流する。
 時間が半端なこともあるのだろう。学食は空いていた。
 真琴は隊員にささみチーズフライを勧めてみた。
 隊員は笑顔でそれをトレーに乗せる。

「ええと……じゃ、私たちは隣のテーブルで」

 全員が会計を済ませ、トレーを持ちつつテーブルに着くと、理沙に付き添っていた隊員が告げた。
 これに理沙が反応する。

「バカ正直に言うこときかなくていいじゃん。みんなで食べようよ。テーブルくっつけてさ」

 この理沙の言葉……。
 機動隊の人は松下さんに言われたんだ。
 たぶん「みんなの邪魔はするな」みたいなことを……。
 妙なところで頭が固かったりするよね。松下さんも。

 真琴は理沙に加勢することにした。

「そうですよ。一緒に食べましょうよ」

 しかし隊員は「職務命令なので」などと言ってこれを固辞しようとする。
 なので真琴は切り札を使う。

「松下さんからの命令と運営からの命令、どっちが重いですか?」

 隊員二人は顔を見合わせた。
 そして笑顔を滲ませ真琴に答える。

「さすがに運営ですね、それは」

「じゃ、決まりですね」

 そうしてみんなでテーブルを寄せ、遅い朝食をとる。
 真琴、理沙、愛、早紀……。4人の大学1年生と2人の機動隊員……。
 異色な組み合わせのようだが年齢的に近いので違和感はなく、完全に周囲に溶け込んでいた。
 注目を浴びている感覚も消えた。


「ああ……美味しいですね。これは」

 しみじみとそう言ったのは、ささみチーズフライを口にした隊員だった。
 それを皮切りに皆が喋りだす。
 真琴たちが提供するのは大学のこと、そして機動隊員が提供するのは仕事のこと……。
 若いとはいえ警察官として働く隊員が語る言葉には重みがあり、かつ新鮮だった。
 真琴はリアルタイムで「これは貴重な時間だ」と感じていた。


「そういえば災難でしたね。警察の人も試験受けさせられるなんて」

 言ったのは早紀だった。すでにずいぶん打ち解けていたので、間を置かず隊員のひとりが答える。

「いえ、特に成績を求められるわけではないので。むしろ貴重な経験でした」

「どんなこと書いたんですか?」

 ……聞き過ぎだ。そう思った真琴は早紀を咎める。

「アンタ、そんなこと聞くなら自分から言いなよ。アンタはなに書いたのよ」

「私? 私はアレよ、薄っぺらいことをとめどなく、よ」

「じゃ、なに書いたか人に聞けた義理じゃないじゃん。ですよね?」

 真琴は、隊員がさぞ答えに窮しているだろうと思い、同意を求めた。

「いえ、構いませんよ」

 真琴の思惑に反して隊員はそう答えた。
 その表情には自信すら感じ取れる。
 ……なに? どんなこと書いたの?
 真琴は一瞬にして早紀と同じ側……隊員がどんな回答をしたのか気になり始めた。

「……構わない……んですか?」

「はい。……まあ、問題に対する答えとしては的外れなこと書いたかもしれませんが」

「どんなこと……書いたんですか?」

「なによ、結局真琴も知りたいんじゃん」

 早紀のツッコミに真琴はわずかな悔しさを覚えるが、それ以上に関心が勝っていた。
 なので早紀を無視して隊員の言葉を待つ。

「被災地への出動で感じたことを書いただけです。……ですので、問題に対する答えにはなってないですよね」

 なんということもないという口調で隊員が放った言葉に、一同が沈黙する。
 多少の差はあれど、それぞれが己を恥じ入る面持ちがそこにあった。

「あ……すみません。なんだかシラケちゃいましたね」

「いえ、そんなことないです。それよりも聞いてみたいです。その……書いたことの中身を」

「え……そうですか? 面白いことはないですよ。これっぽっちも」

 謙遜してみせる隊員の表情に、真琴は年齢差を超えた隔たりを感じた。
 それは、あえていうなら「大人」と「こども」の違い……。
 過酷な現場での体験を語り始めた隊員の横顔は真琴にとって紛れもなく「大人」だった。

 これ……。この人の答案、きっと学生なんかより評価される……。
 だって、採点するのは、あのミツキなんだから。
 今夜ミツキに聞いてみよう。
 採点した感想を……。

 そうして人生の先輩から貴重な話を聞いた女子4人は、一様に隊員二人を尊敬のまなざしで見るようになった。
 それに調子に乗ることなく「いえ、仕事ですから」と応じる隊員の言葉はむしろ逆効果……好感を強めるだけだった。

 食事はとっくに済んだのに終わらぬ会話……。
 さながら合コンのような盛り上がりを見せつつある中で、隊員が言う。
 
「そういえば古川さん、業の問題には手を打つつもりはないんですか?」

「え? 業……の問題、ですか?」

 なにそれ……。なんのこと?
 初めて聞くよ、そんな言葉。

 明らかにピンとこない真琴の表情に、隊員は不思議な表情をする。
 ここで助け船を出したのは愛だった。

「……そんな余裕なかったんだね、真琴は」

「……かもしれない。なんのことだかサッパリだよ」

「ちょっと業のランキング見てみなよ」

「え……うん。わかった」

 真琴は言われたとおり携帯電話でカレンを立ち上げ、業のランキングを開く。
 そして、その「問題」の中身を知った。
 ランキングの表示下限である200位の業が2000を超えていたのだ。

「え? なんか……増えてきてない? 全体的に」

「そう。それのことを言ってるんだよ」

 え? ……なんで?
 どうなってんの? これ……。
 昨日までは順調に減ってたじゃん。ランキングに出てる業の数値……。

 真琴が答えを探していると、隊員がそれを教えてくれる。

「取り立て……です」

「……取り立て? ……あ、もしかしてカレコレで借りたおカネの?」

「そうです。その取り立てが始まってから、けっこうな勢いで業を増やしてる人が出てきてます」

 なに? 取り立てって業が増えるの?
 島田くんが見た解析結果では、たしか返済期限は48時間……。
 どんな取り立てなのかは聞いてなかったな。

「真琴、日付が変わってから掲示板はね、けっこうその話で賑わってるんだよ」

「……どんなカンジなの? 取り立てって」

 愛も警察も知ってて、私は知らなかった……。
 もう私は運営……。責任ある立場なのに……。
 尋ねる声に、そんな申し訳なさが滲んでいた。

 しかし、そんな真琴を責めるでもなく愛は答える。
 
「なんてことはないんだよ。取り立てが始まるとカレコレの中で黒服のキャラが追いかけてくるようになるんだ」

「……どう……なるの? ……捕まると」

「例の、敵が出してくる問題が10問たて続けに出されるんだ。もちろん逃げられない」

 ……そうか。私はすんなり進めたけど、まだ蝶までたどり着いてない人、つまり「お勉強問題」を消化できてない人はたくさんいるんだ。
 逃げられないなら……間違えば業が増える。
 つまり、そういうことか……。

「これ、けっこうウチも警戒してます」

 そう言ったのは機動隊員のひとりだった。
 もうひとりの方が「おい」とたしなめる。
 余計なことを言うな……。そんな雰囲気だ。

 でも、知っちゃったものは仕方ないし、聞いちゃったことは仕方ない。
 真琴は隊員に尋ねる。

「つまり、これのせいでまた秩序が危ぶまれてるんですね?」

「……そうです。まだなにも起きてませんが」

 まだなにも……か。それはよかった。
 うん。なにも起こらないうちに知ってよかった。
 これ、1年狩りが再燃することも充分にあり得るよな。
 それならどうすればいい?
 私にできることってなに?

 真琴はひとり考える。
 すでに周りは別の話題に転じていた。
 幸い、周囲も真琴がこうして黙り込むことにも慣れていた。
 その表情で深刻さを察知するのだ。
 気が気でないのは機動隊員で、急に口を閉ざしてしまったVIPを気遣う。

「大丈夫ですか、古川さん」

「え、あ……はい、大丈夫です」

「……もしかして、業のこと考えてたんですか?」

「はい……そうです」

「誰のために、ですか?」

 真琴はこれに答えようとして口を開けたが、そのまま動きを止める。
 さすが特別ゲスト、視点が新鮮だな。
 でも、大切なことなのかもしれないぞ、これ……。
 真琴はその意を確かめるために問い返す。

「誰のためにですか……ですか?」

「はい、そうです。古川さんが業の問題をどうにかしたいと思うのは誰のためにですか?」

 それは取り立てで困ってる人……。違うな、そんな単純じゃない。
 せっかく試験までして業で困ってる人に道を示したのに……。
 それに、せっかく回復した大学の秩序がまた壊れたら、警察の人たちが……。
 私だって、これ以上大学がおかしくなるのを黙って見てられない。
 ……いや、ホントにそう思ってるのか? ……私は。

 問うた隊員は、真琴が答えを出すのをジッと待っている。
 そこに先刻までの「シャイな男子」の気配は微塵もない。

 そう、業のことでいたずらに学生同士が現実で揉め始めたら……その人たちはカレンに目を向けなくなる。
 ……たぶん黒幕……ミツキは、今まさに業に困っているような軽率な人たちにこそカレコレに向き合ってもらいたいはずだ。

 だから……うん、答えはこれだ。
 視線を落としていた真琴は顔を上げ、隊員の目を見て答える。

「私のためです」

 真琴の答えを聞いた隊員は笑顔を見せた。

「1周まわってその答えなら、間違えることはないと思います」

 なんだか深いこと言うよね、ホント……。
 言われた方はサッパリだけど「それでいい」って言われたのは判る。

 隊員の言葉に背中を押された真琴は「運営」の顔付きになる。
 補佐役の島田が不在でも、その顔には自信と自負があった。

「愛」

「ん? なに? どした?」

「今夜、も1回パチンコで稼いで。カルマトールだけじゃなくておカネも必要みたいだから」

「……ああ、なるほどね。いいよ」

 さすが愛……。あっという間に意を汲んでくれた。
 あとは私がすることだ。

 真琴はカレンを開き、運営としての特典を使う。
 これってつまりミツキへの直訴だよね、簡単にいうと……。
 そんなことを考えながら「ルール変更」の申し出を送る。

『いいよ! そうしよう』

 ……了承された。
 相変わらずのノリで……。
 でも、これでいいんだ。きっと。

 間を置かず、テーブルにいる女子全員の携帯電話がお知らせの新着を告げる。
 話の腰を折られる格好になったが、みな一斉にその内容を確かめる。
 そして、その内容を受けて理沙が真琴に問う。

「これ、真琴がやったの?」

「うん」

「……そっか、真琴は運営なんだもんね。でも……うん、真琴らしいね、これ」

「焦ったのよ、私だって。だって今日の試験で、買い漁ったカルマトールを還元して救済しようとしてたのにさ、ここにきて業が増えていくんじゃ意味ないもん」

「でも補足説明が要るんじゃない? これ」

 そう言われて真琴は通知「運営からのお知らせ」を見る。


〝1コマ目の試験が終わって、今日から大学は実質3連休になります。まだ業を残している人のために、現時点から10月9日(日)23:59までの間、カレンコレクションを常時プレイ可能とします。ぜひ大学にかけられた呪いを解いてください〟


 真琴が水を差すかたちで食事会はお開きになったが、誰ひとり真琴を責めることはなかった。

 そして真琴と理沙は隊員2人と共に車へと戻る。
 松下は運転席で熟睡していた。
 隊員がおそるおそる運転席のガラスを叩き、松下を起こす。
 降りてきた松下は、寝起きにも関わらず溌剌としていた。
 起動してすぐにこの雰囲気……これも職業柄なんだろな。
 真琴はそんなことを考えた。

「どうだった? 年下の女の子との合コンは」

「あ、いえ……そんなんじゃ……」

 松下の問いに隊員が窮する。
 こんなイジワルも言うんだな、松下さん。
 真琴は軽口で割り込む。

「大盛り上がりでしたよ。松下さんの悪口で」

「そりゃよかった。どうする? このまま帰る?」

「……それ以外の選択肢があるんですか?」

「もちろんだよ。僕たちは古川さんたちの行動を束縛するものじゃない」

 まあ、言われてみればそうか。
 でも「じゃ、服を買いに」なんて言ったら手間をかけるだけだし、必ず付き添いがいるんだしな……。

「古川さん」

「え? あ……はい、どうもありがとうございました。楽しかったです。貴重なお話も聞かせてもらいましいたし」

 隊員が別れのあいさつを切り出したのだと受け取った真琴は、素直に感想を述べた。
 しかし隊員の意図は別のところにあるようだった。

「いえ、こちらこそ。それよりも、その……松下さんは休んでたようなので報告する必要があるかと。まあ、捜査本部はもう通知のことを知ったとは思いますが」

 ああ、そうか。
 どこまでもしっかり仕事をするんだな……。
 人間味はあるけど、徹底的に「私」を殺して「公」に徹してる。
 お父さんもこんなカンジなのかな。……仕事のときは。

「なんのこと?報告って」

 隊員の言葉を拾って、松下が真琴に尋ねる。
 真琴は、運営名でカレコレのプレイ可能時間を変更したことを報告した。
 
「なんでまたそんな……。まあ、古川さんのことだから意味があるんだろうけど」

「増え始めた業のためです。せっかくの試験が意味なくなっちゃう」

「ああ、たしかに業が増えていくなら、試験での救済措置……カルマトールの配分が焼け石に水になるかもしれない」

「はい」

「でも、それがどうしてカレコレの24時間営業? かえって業を増やすんじゃないの? 取り立てを受けてる学生は」

 やっぱり松下さんも寝起きだと頭が回らないのかな?
 飲み込みがいつもより悪い気がする……。

「カレコレでの取り立ては、黒服のキャラに捕まると強制的に問題が10問出されると聞きました」

「うん、そうだね」

「それなら債務者になってる学生に必要なのは、時間と……真摯な態度です。敵が出す問題の回答に時間制限はありませんから」

「つまり時間をかけてでも問題に取り組めってこと……なのかな?」

「そうです。今からでもカレコレに向き合ってもらうんです。正解すれば業は増えないし、そのあとの蝶の質問に真剣に答えていれば業は減ります」

 ここでようやく松下も理解が追いついたようで、そのうえで疑問を呈する。

「でも古川さん、取り立てに追われてるような学生は、その……なかなか古川さんが思うとおりには考えないんじゃないかな」

「そこは松下さんにお願いします」

「え? どういうこと?」

「もょもと、です。掲示板の流れを、真面目にカレコレに取り組む方向に導いてもらいたいんです」

「なるほどね。……でも、ちょっと自信ないな……それは」

「すこし踏ん張ってもらえれば援軍が来るはずです」

「え? 援軍って誰?」

「順調な人はそろそろカレコレをクリアするころです。きっとその人たちはもょもとに同調するはずです」

「……だといいけど」

「たしかに未知数ではあります。でも警察の代弁者もょもとは必要なんです。たしか今日から売店のカルマトールは〝うりきれ〟になるんですよね。その説明もしなくちゃ」

 カルマトールの件は松下の頭の中から抜け落ちていたようで、一瞬、松下の動きが止まる。
 学生がどういう行動に出るか、素早く思考を巡らせているようだ。

「……古川さん」

「はい」

「古川さんのこれからの予定は?」

「特にありません。……と思います。なにかありますかね?」

「古川さんがカレコレのプレイ時間を解放したなら、カルマトールの売り切れ状態はもう始まってるんだよね」

「そうなりますね。早い人はもう気付いたかもしれません」

 松下は額に指を突き立て、考えながら話をする。

「古川さん、申し訳ないけど古川さんたちはしばらく捜査本部にいてもらっていいかな?」

「……不測の事態に備えて、ですか?」

「うん。一昨日の夜のアレ、運営を捕まえたって報せで一旦は平和になったけど、また不安要素が出てきた。カレコレが開けるなら、古川さんはいつでも黒幕と話ができるんだろ?」

「ああ、すぐに対応できるってことですね」

「それもあるし、安全のこともある。みんなの中ではもう、運営イコール古川さんなんだ。突飛な行動に出る学生がいるかもしれない」

「分かりました。じゃ、私は松下さんと一緒に警察の現地本部に行けばいいんですね」

「うん。そうしてもらえると助かる。……えっと、清川さんも来てもらえるかな」

「え、私? ……私はその、遠慮しますです」

 理沙が驚いたような声で返事を返事をするが、表情はまったく驚いていなかった。
 真琴と松下の話から、この提案は予測できていたようだった。

「なによ理沙、一緒に来てくんないの?」

「私は運営じゃないし。忙しいし」

「なにが忙しいのよ」

「野暮なこと聞かないでよ。えっち」

 ……なんだ? どういう意味だ?
 真琴にはサッパリ意味が解らなかったが、一緒に来ないということで理沙は押し切ってしまった。

「じゃ、二人は清川さんを送ってから戻ってきて」

「承知しました」

 理沙を乗せた車が去っていくのを見送った真琴は、松下と並んで歩き始める。
 不測の事態に備えてという口実だったにもかかわらず、松下の歩調はゆっくりで、秋色に染まり始めた構内の木々を眺めたりしていた。
 その様子に真琴は、このカレン事件が峠を越えたことを実感する。

 この雰囲気……。今になって一部の学生の業が増えてきてることなんて、全体からすれば些細なことなんだ、きっと。

「古川さんが恩赦をしなかったのはどうして?」

 構内をのんびり眺めながら尋ねる松下の口調は軽かった。

 まるで「さっきはなに食べたの?」とでも聞いているような……。
 あるいは、私に聞いているんじゃないような……。

 すこし考えてから真琴は答える。

「……なんとなく、ですね。恩赦で学生を解放してしまうことは簡単ですけど……」

「学生が解放されれば、ウチら警察は用済みになるのかな?」

 ……それは……どうだろう?

 真琴には読めなかった。そうしたときの学生の行動が。

「古川さん、ホントに……なんとなく?」

「はい。ホントに……なんとなく、です」

「そっか……。なにかの素質があるのかもしれないね、古川さんには」

「え? ……どういう意味ですか?」

 松下が言っていることの意味が理解できない真琴は思わず立ち止まる。
 なにかの素質って、なんの素質よ……。まったく自覚ないし。

 松下はそのまま少し歩き、そこにあったベンチに腰を降ろす。
 その風情は、なにか語るべきことがある面持ちだった。
 真琴も歩を進め、松下の隣に腰掛ける。

「古川さんが恩赦をして学生が解放されたら、たぶん混乱が起きてた」

「え? なんでですか?」

「いきなり身の安全が戻ったら、その反動で今度はたくさんの学生がカレン騒動の犯人追及を求めて警察に詰め寄ってきてたと思うんだ」

 もし……もし私が恩赦で一斉に学生を解放したら……今度は学生が、警察に……か。
 ……あり得る。あの匿名の掲示板はいとも簡単に集団心理を形成して現実に影響を与える。
 それはアプ研の騒ぎでよく解った。
 きっと懲りない学生は、今度は〝よくも俺たちをこんな目に遭わせやがって〟といって運営を糾弾しようとしただろう。
 結果として私は、そうはならない判断をした……。
 でも、それは結果だ。私にそこまでの考えはなかった。

 私は単に……そうだよ、まだ問題意識を持てない学生にカレコレに向き合ってもらいたかったんだ。
 それに運営は徳950の特典……欠片の記憶で自らの罪を白状してる。
 それを警察に渡せば、これまで運営に関わった人たちを捕まえられる。

「学生の命運も、そして運営の命運も委ねられたんですね……私」

「そう。そしてこれは、現地本部じゃ話せない」

「……つまり、知ったら捕まえざるを得ないんですね?」

「そういうこと。だけど僕はそれがベストだとは思わない。警察官としては問題ある発言だけどね」

 ……4年前、松下さんの青い正義感が運営を産んだ。
 いや、そうじゃない。20年前に田中美月を襲った犯人が反省もなく愛を脅して口止めしようとしたから高山先生が運営を築いたんだ。
 そして今、松下さんは青くない。
 その感情は、高山先生や運営が裁かれることを望んでいない。

「……もうすこしミツキと話してみます。どんな結末がいいのか」

「うん、頼むよ。これ以上の不幸は要らない」

「不幸……ですか?」

「うん。警察が誰かを捕まえるってことは、必ず誰かが不幸になる」

「……どういう意味ですか?」

「いちばんこの事件に関わりがある例でいえば、田中美月を襲った犯人を捕まえたことによる不幸かな」

「……よく解りません」

「犯人は捕まって然るべき。だけど、犯人にもこの20年で築いてきたものもあった。それが一気に壊れたんだ。夫が20年前にそんな事件を起こしていていたことなんて、奥さんや子どもはまったく知らなかったんだ。そしてその人たちに罪はない」

 ……そうか。それはそうだろう。
 ある日突然に夫、あるいは父が逮捕されたとして、その家族に降りかかる不幸は計り知れない。

 掲示板で沸き上がる集団心理にそんな配慮を求めるのは無理だ。
 松下さんも運営のすべてを知っているわけじゃない。……意図的に。
 だからこれは、全容を知る私とミツキの問題だ。

「考えてみます。……きっといい結末があるはずです」

「うん。とりあえず古川さんや島田くん、そして大神さんが考えたプラン……今日の試験の内容とか、恩赦じゃなくカルマトールの配分で救済することとかは、学生に考えさせる効果がある。いい選択をしてると思うんだ」

「はい、ありがとうございます。私はミツキと考えますので、松下さんはもょもととして頑張ってください」

「うん。ま、それにもょもとだけじゃない。警察に協力してくれる学生もけっこう確保したんだよ。掲示板はそんなに荒れないよ、たぶん」

 そして二人は同時に立ち上がる。
 そのとき松下が、後方の植え込みに何かの気配を感じたように視線を投げる。
 すると、そこから一目散に逃げていく者がいた。
 真琴は呆れて目を閉じる。

「…………今の、清川さんじゃなかった?」

「間違いないです。理沙です」

「なにしてたんだろ?」

「たぶん島田くんに見せるつもりで私たちの写真を撮ったんだと思います」

「……それは誤解を解かないといけない……のかな?」

「大丈夫です。きっとないことないこと言い加えると思いますが、理沙の言葉に信用はありませんから」

「家まで送るように言ったのに……」

「それも理沙が断ったんだと思います。もしかしたら隊員さんもそそのかされたかもしれません」

「え? ……じゃ、もしかして僕もからかわれるの?」

「可能性は……あります」

「……ホント楽しそうだよね、清川さんって」

「……そうですね。私も見習わなくちゃいけないと思います」



 工学部食堂……捜査本部の中は一昨日とは一変して静かだった。
 かといって暇を持て余している刑事がいるという様子でもなく、皆が机に向かい、なんらかの作業をしているようだった。
 班長……大塚がこちらを見ていたが、すぐに真琴は松下に促されて仮設の取調べ室のひとつに入る。

「この部屋は初めてだろ?」

「あ……ホントですね。窓がある」

「たまたま間取りの関係でそうなっただけなんだけどね。みんなは来賓室って呼んでる」

「……立派な来賓室ですね」

「今、なにか飲み物を持ってくるよ」

「いえ、そんなの自分で……あ……」

 真琴は言いかけて口を止めた。
 そして言い直す。

「お願いします」

「うん」

 松下はいったん部屋を出て行く。
 交わした言葉は少ないが、松下の目は雄弁だった。

 そう……私は今、来賓なんだ。
 たいした身分じゃないけど……少なくとも警察が守っているあいだは、私の安全は絶対じゃなきゃいけないんだ。
 自重しなきゃな……。ちょっとは。

 戻ってきた松下は、真琴の向かいの席に着きながらペットボトルの紅茶を差し出す。

「今日は切らしてるんですか? ……お茶」

「大切なお客様だからだよ。外の自販機で買ってきた」

「え……。もしかして手出しですか?」

「いいんだ。僕のおごりで」

 松下に他意がないことを感じた真琴は、礼を述べてからペットボトルを開ける。

「そういえば松下さん、自分の分はないんですか?」

「要らないよ。もう古川さんに話す手持ちもないしね」

「え……じゃ、今日はもう、しないんですか? ……世間話」

 この言葉に松下の表情がひときわ優しくなる。
 わずか数日前のこと……。それを松下はまるで遠い思い出のように回顧しているようだった。

「古川さん」

「はい」

「世間話をするべき相手は今、僕じゃない」

「え……」

「きっと今も聞き耳を立ててるよ」

(あ、バレてるし)

 この声は…………ミツキ。

 真琴は慌てて携帯電話の画面を見る。
 しかし画面はオフのまま……。とりたてて異常は見当たらなかった。

 でも、今のはまちがいなくミツキの声……。
 真琴は黒いままの画面に話しかける。

「ミツキ、このままでも話せるの?」

(話せるよ。だってオフになってるのは画面だけじゃん。スマホなんてさ、常になんかしてるよ。なんかね)

「ほらね、相手は僕じゃないだろ?」

(松下さんもぜひご一緒に)

「僕が? この、トップ会談に?」

(その資格はあるんじゃないですか? 単に捜査に携わっただけの人じゃないんですから)

 ここで松下が考える仕草をする。
 だがそれはほんの一瞬で、松下は答を出す。

「じゃ、お言葉に甘えようかな」

 そう言いながら松下は立ち上がる。
 真琴はそれを、松下の分の飲み物を取りに行くのだと判断した。

(退出は認めません)

 ミツキの声で松下の動きが止まる。
 そして声の主……携帯電話を見て次の言葉を待つ。

(他言は無用ですよ。松下さん)

「……まいったな、これは」

(私に関する説明を誤れば、実体ある運営を処罰しなきゃならないかもしれません)

「……その話、班長にもしちゃダメなのかな?」

(ダメです。大塚さんは正しい人ですから組織の求めには抗えません。危険……というか、知らなければそれがいちばんなんです。お互いに)

「……なるほどね。じゃ、一緒に冷蔵庫まで来てよ。君と話すには水分が必要そうだから」

(それならいいです。連れてってください)

 真琴の携帯電話を拾い上げて松下が部屋を出ていく。

 えっと……私のなんだけどな、それ……。

 残された真琴は紅茶をもう一口飲み、小さな窓から外を眺める。
 学生棟が見えたが、それはいつになく静かで寂しげに見えた。
 そして松下が戻ってくる。
 片手には携帯電話とコップ、もう片方の手には2リットル容器だ。

 松下さん、どんだけ飲むのよ……。

「さて、僕なんかを交えて、なんの話をするの?」

(松下さん、警察はこの事件に首を求めますか?)

「……いきなりだね。でも首……か。そりゃ挙げなきゃって思ってるよ。現場はね」

(それは本心ですか? 私、みなさんの言葉は、聞こうと思えば聞けます。でも、言葉に出てこない部分は見えないんです)

「ああ、なるほどね。つまり心情としてはどうなのかってことだね」

(そうです。真琴が用意してる結末は前向きな部分だけです。苦い決着だとしても首が要るのか、それを教えてください)

 松下とミツキが話を進めるなか、真琴はひとり置き去りだ。

 ……なんのハナシしてんのよ、いったい。

「松下さん」

「ん?」

「今、なんの話をしてるんですか?」

「え? あ、もしかして意味が解らない?」

「はい……。首ってなんのことですか?」

 解らないものは解らないんだ。仕方ない。
 それなら聞けばいい……。簡単なことだ。
 知らないことは恥じゃない。知らないままでよしとすることが恥なんだ。

 それは、この一連の騒ぎを経て真琴が得た教訓のひとつだった。

「たしかに首ってのはウチの言葉かもしれないね。あのね古川さん、首ってのは犯人のこと。つまりこの事件に犯人逮捕っていう決着が必要かっていう話をしてるんだよ」

「ああ……そうなんですね。…………で、どうなんですか? その辺は」

「言ったとおりだよ。現場は無意識に首を求めてる。そのために捜査してるんだから」

(松下さんの気持ちは?)

 真琴が理解したところでミツキが話を進める。
 相変わらずミツキには無駄がない。

「僕なんかの気持ちが斟酌されるの?」

(もちろんです。どうなんですか? 必要ですか? 不要ですか?)

「要らないよそんなの。ですよね松下さん」

 真琴は思わず割って入っていた。
 首……それが犯人を意味すると聞いて真っ先に思い浮かんだのが高山教授だったからだ。

 高山先生は立派な人、そして田中美月を襲った犯人を許せなかった。
 それが動機なのに……。

 しかし松下の回答は、その心境を映して複雑だった。

「かたちは求められるかもしれない。求められたら僕たちはそれに従うだけだよ」

(まだ証跡は掴んでないですよね)

「……まあ、そうだね。ただ、班長の心の中にはあるかもしれない」

(もし今回も上からのストップがかかったら、大塚さんはどうすると思いますか?)

「……そりゃ、言われたとおりにするだろうね」

(それはしぶしぶ? それとも喜んで?)

「それは大事なこと? 結果は同じだよ」

(大切なことです。私が心配してるのは、大塚さんをはじめ捜査に携わったみなさんに無力感が残ることです)

 このミツキの言葉に、松下が笑顔を見せた。

「AIとは思えない気遣いだね。ありがとう。でもそれは心配ないよ。僕らに無力感は残らない」

(本当ですか? どうして?)

「いちばんの悪……田中美月を死に至らしめた犯人を逮捕したからだよ。まわりがどう言おうと、僕らにとってはカレンなんかより田中美月事件の方が大きい」

(ああ……だから私は読めなかったんですね。みなさんの気持ちが)

「まあ、たしかに言葉には出てこないかもしれないね、現場のその雰囲気は」

 またしても真琴は話に加われずにいるが、疎外感はなかった。
 話の中身は理解できるようになったし、加わる必要はなくても「聞いておくべき話」であると感じていたからだ。

(じゃあ、念のために首を用意してみます)

「……聞き捨てならない言葉だね」

(それなら聞かなかったことにしてください)

「いやいや、そりゃないよミツキ。どういう意味よ、今の」

(真琴にも手伝ってもらうかもしれない)

「へ? 私? 私がなにを手伝うの?」

(その話はあとで。……松下さん)

「ん? なに?」

(馬鹿が来ます)

「……え?」

 なによ馬鹿が来るって……。
 まだミツキを理解しきれてないんだろな。私は。

 そのとき、真琴たちがいる部屋のドアが控えめにノックされた。

「……どうぞ」

 松下が控えめに答えると、さらに控えめにドアが開かれた。
 若い刑事が顔だけを覗かせる。

「どうかした?」

「その……カレンの掲示板で調子に乗ったヤツがこっちに向かってます。……警察に気合い入れてやるって」

 刑事の言葉を聞き、松下は真琴の携帯電話に尋ねる。

「……馬鹿って、これのこと?」

(そうです)

「分かった。ありがとう。またあとで」

 松下が部屋を出ていく。
 若い刑事に隠す様子もなくミツキと話す松下に真琴は驚いたが、すぐに考えを改める。
 端から見れば携帯電話をスピーカーホンにして松下と真琴が誰かと話してたようにしか見えないのだ、と。


 松下が出て行き、ひとり残された真琴はミツキに尋ねる。

「馬鹿ってなによ?」

(そうとしか言いようがない人間よ。来れば分かる)

 そうとしか言いようがない……。
 そのミツキの言葉で、真琴はいくつかのできごとを思い浮かべた。

 ひとつは掲示板で学生課の白石さんの悪口を書き連ねていた人たち。
 もうひとつは、これも掲示板で知ったことだが、高校を出て警察官となった若い機動隊員を見下している学生たち……。

 ほかにも、巧みな言葉で真琴を狙ってきた見知らぬ3年生や、今まさにカレコレで借金の取り立てに追われている学生も「馬鹿」だと思った。

 カレコレの金貸しって50万円しか貸してくれないんでしょ?
 そのおカネでなにをしようとしたのよ、そもそも。

 そんなことを考えているうち、別室にいても判るほどの勢いで捜査本部のドアが開かれる音がした。
 そして第一声を放つ。

「ここの責任者と話したいんスけど」

 どうやらその「馬鹿」が来たようだ。


 窓が付いた部屋の中で真琴は耳をすませる。
 机の上に置いた携帯電話では、ミツキも聞いているだろう。
 おそらくは真琴より遙かに高性能な「耳」で……。

(責任者と話って、あなたはどちらさまですか?)

 ……松下さんの声じゃない。
 最初の対応は別の人がしたようだ。

(ここの学生だよ。見りゃ分かんだろ)

(学生さん……。それで、お名前は?)

(いいから責任者出せよ。まどろっこしい)

(つまり、名前は言いたくないんですか?)

(必要ねえだろ。俺はカレンの被害に遭ってる学生のひとりだ)

(……わかりました。それで、ご用件は?)

(責任者に直接言うよ。アンタじゃハナシになんないからな)

 普通の感覚なら、ここでもう我慢の限界だ。
 名乗りもしない礼儀知らずにここまで言われる筋合いは警察にはない。

 ミツキが「馬鹿」と評しただけのことはある……。

(済まないけど、身分も用件も明かせない人を責任者に通すことはできないんだ。私が聞くよ)

 これは……松下さんの声だ。
 さっきの人より声が低い。
 真琴は、松下と初めて話をしたときのことを思い出した。

(なんだよアンタ、俺は責任者を出せって言ってんだよ)

(責任者を呼びつける君は、なんの責任者なの?)

(は? なに言ってんの? バカだろアンタ。あのね、文句言いにきたのはこっちなの。分かる?)

 松下さんに対してもこの口のきき方……。
 耳障りな甲高い声……。どんなヤツなんだろう。
 とにかく相手を不快にさせる効果は抜群だ。
 この部屋を飛び出して、運営の力を振りかざして松下さんに加勢したい……。
 真琴はそんな衝動に駆られたが、どうということもなく冷静に対応する松下の声がそれを留まらせる。
 
(文句を言いにきた……。そう言ったね、今)

(ああ言ったよ。俺は警察に文句がある学生の代表)

(……誰の代表だって?)

(チンタラやってる警察に文句があんだよ、みんな。直接言う度胸がないヤツらばっかだから俺が来た)

(……それは代表っていえるの?)

 この松下の冷静な返しに無法者が逆上する。

(テメエ揚げ足とってんじゃねえぞ。善良な市民に失礼な口ききやがって。責任者どこだよ)

(君には警察に苦情を言う権利がある)

(……だったら早く責任者出せよ)

(ただしその苦情は平穏に行われた場合に限る)

(あ? なに言ってんだ? アンタじゃ話になんねえんだよ)

(さらに言うなら、苦情の申立人に警察官を選ぶ権利はない)

(なに偉そうなこと言ってんだよ。すっとぼけんのもいいかげんにしろよ)

(まして身分も明かさないなら、苦情を聞いてあげることもできない。……どこの誰だか分からない人からの敵意を相手にしてたらキリがないんだ、ウチらは。それは分かるだろ?)

 ……さすがだ。言いたい放題言わせながら伝えるべきことは伝えてる。
 そして最後に付け加えたひとこと……。
 松下さんは、相手の自尊心まで揺さぶろうとしてる。

(じゃあ……どうすりゃいいんだよ)

 一気に相手がトーンダウンした。
 これでもう、この場は松下さんの「勝ち」だ。
 
(つまり君も困ってるんだよね? 僕でよければ話を聞くよ。別の部屋に行こうか)

 押しかけてきた学生の返事が聞こえない。
 きっと黙ってうなづくしかなかったんだ。
 〝私〟から〝僕〟に切り替えた松下さんの言葉に……。
 

(優しいね、松下さん)

 机の上でミツキの声がした。
 たしかに松下さんは優しい。
 あんな無礼者、一喝しようと思えばできるはずだ。

「そうだね、あんなアツくなってる人に対しても誠実だし、相手も落ち着いちゃった」

(ま、穏便な方のマニュアルで充分だと思ったんだろうけどね)

「え? それってどういう意味よ」

(強硬な手段も選べるんだよ。警察は)

 強硬な手段? なによそれ。
 いきなり逮捕できるワケないし……。

 真琴がミツキにその「強硬な手段」というものの中身を尋ねようとしたとき、隣の部屋のドアが開く音がした。
 どうやら松下は、真琴が控える部屋の隣を使うことにしたようだ。

(これも計算かもね)

「……これって、ウチらの隣の部屋を選んだこと?」

(そう。ちょっと聞いてみよう。アイツはただの馬鹿じゃない)

 なによ、その含みのある言い方。
 あんたホントは人間なんじゃないの? ミツキ……。
 そんな気分になりながら真琴は真意を尋ねる。

「ただの馬鹿じゃないって……どういう意味よ」

(筋金入りの馬鹿……よ。ま、とりあえず拝聴だね)

 そのミツキの言葉を合図に真琴は気配を殺し、隣室の会話を拾うことに神経を集中させた。


(ま、座ってよ。お茶でも飲む?)

 入室後の、それが松下の第一声だった。

 松下さん、フランクな喋りだけど警戒は解いてない……。
 こういう輩を相手に「お茶でも持ってきましょうか?」なんて丁寧な言葉遣いをすれば、それだけで増長させる。

 被疑者でも協力者でもない……。
 警察官って、相手との距離感を一瞬で量らなくちゃいけないんだな。

 しかも、いつだって相手は予め距離を決めてある……。
 それを見定めたうえで、距離を操らなきゃいけないんだ。
 なんて難しい仕事なんだろう。

(いらねえ。なんか入れられてたらヤダし)

 対する学生の方は異次元の配慮だ。
 なんか湧いてんじゃないの? 頭に。
 ホント、どんな顔で喋ってんだろ。

「ね、ミツキ」

 真琴は携帯電話に囁いた。
 ミツキも相応のボリュームで返事をする。

(なに?)

「この、壁に付いてる覗き窓みたいなの、なに?」

(覗き窓。そのまんまじゃないの?)

「開けたら向こうが見える?」

(この壁薄すぎ。あんまり喋らない方がいい。真琴、カレコレ立ち上げてよ)

 ミツキの提案は理に適っている。
 つまりは文字で話そうというのだ。
 真琴は黙って言われたとおりにする。

 カレンコレクションは終了した場面から再開されるので、真琴がカレコレを立ち上げると、画面ではまさに「まこと」が「黒幕」と対面していた。
 画面上の「黒幕」の姿は、昨夜はミツキの悪ふざけでクマの人形のように変わったが、今日は元どおり女子高生のようなセーラー服姿のキャラになっていた。

 どのみち悪ふざけなのかもしれないけど……。
 ミツキは、この姿を「そういうコンセプト」って言ってたな。
 聞いてみよう。……またいつか。

 ミツキの素性のことは割り切り、真琴は話を文字にして続ける。

『ね、開けたらバレる?』
『可能性は半々。たぶんマジックミラーだからね』

『じゃ、やめたほ』
『そだね。真琴はなにが見たいの?』

 このカンジ……。ミツキと初めて話したときと同じだ。
 こっちが入力し終わってないのに返事してくる。
 でも……ある程度ミツキを知った今、もうイヤな気分はしない。
 ただ、あらためてミツキの優秀さを痛感するだけだ。

『いや、どんな顔し』
『これ』

 画面いっぱいにひとりの若者の顔写真が映し出される。
 茶色い短髪にネックレス……。
 ひとことで言うと「チャラい」印象だった。

 画面が戻ったので真琴は再び文字を入力する。

『これなんのしゃし』
『ゲーセンの防犯カメラ』

 ミツキはこともなげに返事をするが、真琴の背筋に冷たいものが走る。

 繋がってるものは見えちゃうって……。
 まあ、たしかに「視る」ためにあるんだけど。防犯カメラは。

 日本は、世界は、なにをどこまで把握してるんだろう。
 カードの履歴で嗜好を知り、ネットワークに繋がれたカメラで姿を知り、もはや人間とセットになってる携帯電話で現在地も、そして思想信条まで知り……。

 いや、把握してるのは国じゃない。企業だ。
 あ、もしかしたらこれがアレ……島田くんが言ってた「権力が企業に移りつつある」ってヤツの意味なの?

 いつだったかお父さんも言ってたな。「警察も大変だな」って……。
 犯人の通話記録も防犯ビデオの画像も、持ってるのは企業で、警察は手続きを踏んで企業にお願いして「それ」を教えてもらう……。
 そんな時代なんだ。

『真琴』

 視点を宙に投げて考え込んでいた真琴が携帯電話に目を戻すと、ミツキが文字で真琴を呼んでいた。
 ……いつから呼ばれてたんだろ。

『ごめんミツキ、ボーッとし』
『嘘だね』

 ……え?
 なによそれ。
 嘘なんかついてないし。
 私、ちゃんとボーッとしてたし。

『なによそれ。嘘なんて』
『真琴は今、考えてた。大事なことを』

 ……ああ、そういう意味ね。
 たしかにそうかもしれないけど、こうやって余所事を考えるのを俗に「ボーッとする」っていうんじゃないの?

 真琴がそんな反論のようなことを入力しようとしたところでミツキの言葉が続く。

『真琴が考えてたことはたぶん大事なこと。私がどうしてこの件に首を突っ込もうと決めたかにも関係がある。でもそれはまた別の機会、夜にでも話そうよ』

 ……ミツキには理由があるんだ。
 高山先生が……いや、高山先生と共感者たちが進めていたカレンの計画に加担することにした理由が……。
 でもミツキが言うとおり、それを話すのは今じゃない。
 今は、隣の部屋のやりとりに集中しなきゃ。
 松下さんと、筋金入りの馬鹿のやりとりに。

 真琴は集中力の矛先を隣室に戻した。

 隣の部屋には今、学生がひとりで残されている。
 学生は謎の言葉でお茶を断ったが、松下がそれに対して「自販機で買ってくるよ」と言ったのだ。

 そして松下が隣室に戻ってきたのを音で聞く。
 おそらくペットボトルのお茶を2本携えて……。
 そして学生にお茶を差し出していると思われるが、お礼の言葉は聞こえない。
 ここまでくると意図的なのではないかと疑いたくなるほど学生は無礼だ。

(じゃ、どうぞ)

 松下が告げる。
 開始の言葉だ。

(なんだよ、どうぞって)

 これすらピンとこないのか……。
 ここは警察……自ら乗り込んで啖呵を切っておいて、この緊張感のなさはなんだろう。

 まだお客さん気分でいるのか?
 断じて招かれざる者のくせに。
 もう相手にしなくていいよ、松下さん……。

(文句があるんだろ? 警察に)

(言っていいのかよ)

(僕が許可するようなことじゃない)

 そりゃそうだ。一方的に文句を言いにきて、今さらなにを言ってるんだこの馬鹿は……。

(……さっさと捕まえろよ。犯人を)

(君がいう犯人ってのは、もちろんカレンの騒ぎを起こした人間のことだよね?)

(分かりきったこと聞くんじゃねえよ)

(分かりきったこと……なのかな)

(ああ? 犯人なんてそれ以外に誰がいるんだよ)

 壁越しに真琴は思う。
 ……どうやらこの学生は、自分で吐いた言葉によって調子に乗るタイプなんだ。
 喋り始めるなり横柄さを取り戻した。

(犯人が捕まることを期待してるのかな? 学生は)

(あたりまえだろ。それでも刑事かよ。犯人捕まえて俺たち学生を助け出すのが仕事だろ)

 ここで松下が間を取る。
 ……上手い。口にした言葉を相手に自覚させる「間」だ。
 でも、きっとこの学生は「マズい、言い過ぎたか?」なんて考えてるんだろな。……馬鹿だから。

 そして松下が静かに告げる。

(この事件はそんなに単純じゃない)

(……どういう意味だよ)

 学生の気勢が削がれた。
 どうせ自覚はないだろうけど、松下さんの方が数段上手だ。

(犯人を逮捕して学生を助ける……君はそう言ったけど、それは同時にできないし、優先順位も違う)

(なに偉そうに言ってんだよ。要は犯人捕まえられねえだけじゃねえか)

(……いいの? 捕まえても)

(は? あんたホントに馬鹿じゃねえの? いいに決まってんだろ。早く捕まえてみせろよ。できもしねえくせに)

(……残念だけど、犯人を捕まえるのには、君の許可だけじゃ足りないんだ)

(てめえフザけるのもいい加減に……)

 ガタッと大きな音がしたので、壁に耳を近付けていた真琴はビクッとする。
 馬鹿にされていると感じた馬鹿が思わず立ち上がったらしい。

(学生の安全が最優先なんだ。違う?)

(ああ?)

 言っちゃえ松下さん……。言っちゃっていいよ。
 この事件の性質も忘れてるような馬鹿には、キッパリ言ってやった方がいい……。
 〝お前はバカか〟って……。

(君に言われたとおり犯人……いや、犯人たちを捕まえたとして、腹いせに学生のプライバシーをバラ撒かれたら誰が責任をとるんだ? 許可した君が責任をとるの?)

(なんで俺のせいになるんだよ。そんなの警察の責任だろ)

(じゃ、責任うんぬんは置いておこうか。人質は学生のデータ……つまり実体を持たない身代だ。正義感の強い君は、それでも犯人を捕まえて懲らしめることが第一なんだね?)

(ハナシすり替えてんじゃねえよ。要は犯人捕まえて、データも取り上げればいいだろが)

(データを……取り上げる?)

 学生の言葉の最後を松下が静かに復唱したことで、学生が黙る。
 さすがに自分が言ったことの難しさに理解が及んだようだ。
 そして松下も黙る。

 充分な時間をおいてから、松下が「ま、飲んでよ。せっかくだから」と言った。
 学生が再び椅子に座る音がした。

(じゃ、まずはデータ……俺たちの安全が第一だってんだな?)

(うん。さっき言ったとおりだよ。記憶にないかな? 東京で女の子が刺し殺された事件)

(女の子が……殺された? ……なんのハナシだよ。カンケーあんのかよ)

(その事件で犯人は、殺したうえに女の子の恥ずかしい画像をバラ撒いた。今回の事件はみんなの命に危険はないから一緒にはできないけど、犯人とデータは一体じゃないんだよ。ましてやこの事件、犯人はひとりじゃない)

(じゃ、運営のひとりを捕まえたって噂はどうなんだよ。ホントかよ)

(本当だよ。嘘じゃない)

(だったらそいつに全部吐かせて他のヤツらも一斉に……)

(そんなに簡単だったら苦労しないよ)

 松下さん、もういいよ。
 きっと何を言っても納得しない。
 ホントはこの学生だって解ってるんだ……。
 自分で言ってたとおり……文句を言いたいだけなんだから。

(まさか捕まえた運営って、あの古川って1年のことか?)

 いきなり自分の名前が飛び出したので真琴は身体を強ばらせる。

 まさかって……そのまさかなんだよな。
 松下さん、なんて答えるんだろ……。

(それについては捜査上の秘密なんだ。悪いけど教えられない)

(逃げんのかよ)

(逃げるんじゃない。言えないんだ)

(やっぱ責任者出せよ。そいつに聞くから)

(責任者でも答えは同じ……。言えることと言えないことはハッキリしてる)

 松下さん……「捜査上の秘密」って……。
 言っちゃたら……効果がなくなるから?
 それとも……なんか他に意味があるの?

(結局ハナシになんねえじゃん。どうしてくれんだよ警察は。どうやって俺たち助けるつもりなんだよ)

 馬鹿が居直り始めた。
 文句じゃなくて質問責め……。
 こうなってくるとタチが悪いよな。

(……逃げ出してくれないんだよ。人質が)

 このとき、真琴の掌中で携帯電話が1回、震えた。
 見るとミツキの言葉があった。
 
『真琴、このままだと松下さんがキレそう』

 キレそうって……。
 ぶちキレていい場面はいくらでもあったよな。
 なんでこのタイミング?

 真琴の疑問をよそに隣室の会話は続く。

(あ? なに言ってんだよ。意味わかんねえんだけど)

(これが誘拐事件なら、人質には脱出する道が用意された)

(は? たとえ話はもういいよ。俺は誘拐されてねえし)

(全員が無事に逃げてくれれば、残るのは犯人だけなんだ)

(だからそもそも誘拐されてねえっての)

(なのに自分で逃げようとしないで、貴重な時間をこうやって無駄にする学生がいる)

(……なに? まさか俺のこと言ってんの? 市民を守る警察の分際で)

 真琴の掌中で携帯電話が再び振動する。

『真琴、行くよ。隣に』
 
 表示されているミツキの言葉に、真琴は目を疑う。

 行くよって……。冗談でしょ。
 私、あんなのと関わりたくないし。

 真琴はその気持ちを入力する。

『冗談で
『本気だよ。キレたら松下さんの負けになっちゃう』

 ……ミツキは本気らしい。
 でも、私が行ってどうすんのよ。

『行ってどうすんのよ。なにもでき
『ちょっと芝居を打つよ。いい?』
 
 有無を言わせぬ勢いだ。
 そうして真琴は素早くミツキから芝居の台本を聞かされる。
 レクチャーは時間にして2分……。簡単なものだった。
 
 なによ、出たとこ勝負じゃないのよ、結局……。
 
 ミツキが真琴に教えたのは、松下に絡んでいる学生が上野裕太という工学部の2年生であること、そして渦中の取り立てに追われているということだった。
 警察への不満が書き連ねられた掲示板でおだて上げられて乗り込んできたが、上野の徳は200弱……。
 未だに掲示板の匿名性が絶対だと思っているらしい。
 真琴がその材料だけで上野を煽ったら、あとはミツキが引き受けるという。
 
 ミツキがけり付けてくれるなら……いいか。
 松下さんは、立場があるから堪えてるんだ。
 私なら、同じ学生なんだし……キレていい。
 
 真琴は勢いよくドアを開け、そして勢いよく隣室に乗り込んだ。
 ……ノックもせずに。
 
 突然の真琴の乱入で、部屋の時間が静止する。
 松下が本当に驚く顔を、真琴は初めて目にした。
 
「……古川さん、どうして……」
 
 松下が思わず「古川」の名を口にしたことで、上野……馬鹿学生の顔が気色ばむ。
 
「お前が古川か」

「そうよ上野裕太くん」

 かたくなに名乗らずにいた上野は、真琴からフルネームを呼ばれて戸惑う。
 それでもなお、上野は虚勢を張ってみせる。

「なんでオレの名前知ってんだよ。ストーカーかよ」

「悪いことは言わない。これ以上恥をかきたくなかったら、携帯電話の録音を止めた方がいい」

「な……んで、そんなこと分かるんだよ」

「アンタみたいなお調子者のやりそうなことだもん。録音されてたら言えないことを言ってあげるから、さっさと切りなさいよ。見かけ倒しの根性なし」

「なんだとこの……。それが先輩に対する口のきき方かよ」

「社会に出て立派に働いてる人に散々無礼なこと言っといて、どの口が言ってんのよ。このやりとりだって、まともな人が聞けばアンタの馬鹿さ加減をアピールするだけ。だから早く録音止めなさいよ。アンタのために言ってあげてんの、分かる?」
 
 ここまで相手を挑発するような振る舞いは、真琴にとって初めての経験だった。
 意外だったのはその感触……。思いのほか痛快なのだ。
 自分が吐いた言葉に自分が鼓舞される感覚……。
 真琴は、上野というお調子者の気分を少しだけ理解した。
 
「……切ったらなんか教えてくれるんだな?」

 まだ馬鹿がなにか言ってる。
 芝居抜きで真琴は苛立った。

「つべこべ言わずにさっさと切れって言ってんの。そもそも隠して録音することが恥ずかしいと思わないの? カレンの運営にされたことと変わんないじゃない。違う?」

 これには上野も反論の余地がないようだった。
 シャツのポケットから携帯電話を取り出して操作する。
 しかし真琴は追い打ちをかける。

「電源切って机に置きなよ」

「あ? 録音なら止めたぞ。言われたとおり」

 真琴は大きくため息を吐く。
 自分に酔った感覚……。もう芝居などではなかった。
 真琴は芝居のない言葉を上野にぶつける。

「アンタの言葉に信用はないんだよ。信用ゼロ。それを今から教えてあげるんだから言われたとおりにしてよ」

「てめえ……先輩に向かって……」

「さっきも言ったよね、それ。あのね、非礼に対する礼はないの。もしこの刑事さんがアンタの望みどおり責任者を出してきたとしたらどうするつもりだったの? ここの責任者は広大の大先輩よ」

 警察の現地本部の責任者が広大を出ているという事実を聞いて、上田が目を丸くする。
 そして、また馬鹿なことを口にする。

「……だからなんだよ。オレとは直接カンケーねえだろ」

「ホントなんとかなんないの? そのご都合主義。じゃ、私とアンタになんの関係があんのよ? さっきから先輩ヅラしてるけどさ」

 これにも上野は反論できない。
 黙って真琴を睨んでいる。
 もはや上野にはそうするほかないようだった。
 下地ができたと判断した真琴は静かに告げる。

「あのね、カレンの掲示板は匿名なんかじゃない」

「……は? なに言ってんだ?」

「もう半分近くの人が知ってることよ。上野くんがここに乗り込んでくることになったのは、なんていう掲示板?」

「あ? ……どうでもいいだろ、そんなの」

「言いにくいことはそうやって誤魔化すんだね」

「……憶えとけよ、この……」

「ここは警察なんだよ。言葉を選んだら?」

 上野がチラリと松下を見る。
 真琴も松下を見るが、表情は穏やかだ。
 真琴が部屋に来てから、松下は席に着いたまま……。
 静観する構えだ。

 そう、松下さんにとって私と上野のやりとりは単なる学生同士の口喧嘩なんだ。
 私がなにかマズいことを言いそうになったら止めてくれるだろう。


「無能警察を叩き出せ……だよ」

「……え?」

 松下が口を開いたので真琴は一瞬、意味を掴み損ねた。

「松下さん、なんて言ったんですか? ……今」

「だから、彼が乗せられた掲示板のタイトルだよ。〝無能警察を叩き出せ〟ってね。けっこう見応えあるよ」

 松下はそう言いながら席を立ち、真琴に着席を促す。
 この話、すぐには終わらない……。そう判断したようだ。
 真琴は勧められるまま着席し、上野と向かい合う。
 
 身も蓋もないタイトルの掲示板のことを知られ、さすがの上野もバツが悪そうにしている。
 だが、真琴に手を緩めるつもりはなかった。
 自分の携帯電話でカレンを立ち上げ、問題の掲示板を開く。
 書かれている内容は想像の範囲内……。おしなべて警察への責任転嫁だった。
 
「……なるほどね。ぜんぶ警察が悪いんだ。犯人を捕まえられない警察が」

「匿名だから遠慮がなくなるだけだろ。そんなもんだろ」

 言い訳がましく上野が口を開いた。

 匿名だから……ね。
 でもね上野くん、ちゃんとカレコレに向き合った人たちにはこう見えてるんだよ……。

 真琴は、すべての書き込みが実名表示された自分の携帯電話を上野に差し出した。
 それを目にした上野は、あからさまに狼狽する。

「な……んだよ、これ……。ぜんぶバレてんじゃん」

「この掲示板だけじゃない。ぜんぶの掲示板がこうなってるよ」

「……これは……選ばれたからか? ……お前が」

「違うよ。徳が400を超えた人はみんなこう、ぜんぶ実名表示。だからね、いまだにみっともない書き込みしてるのは、つまりカレンに向き合うことを放棄した人たち。……皮肉でしょ。そんな人たちに限って、掲示板で不平不満を書き込むのだけは一生懸命なんだから」

 突きつけられた事実に、上野はぐうの音も出せない様子だ。

 無理もないよね。匿名を傘に偉そうにしてた自分の書き込みを振り返ってるんでしょ? どうせ。

 運営は最初に示したじゃないか。徳に特典があることを。
 どんなものかは想像できなくても、警戒はできたはずだ。
 私にとっても特典の内容は想定外のものばっかりだった。
 でも、馬鹿まる出しの書き込みなんかしない。
 匿名ならなおさらなんだ……。
 むしろ実名の方がバカを言いやすい。

 でもね、アンタの馬鹿さはそれだけじゃないんだよ、上野くん。
 真琴は、ミツキから与えられた次のミッションに入る。
 
「取り立てにも追われてるんでしょ? 上野先輩」

 掲示板のことだけですっかりうなだれていた上野が、この言葉で顔を上げる。

「……なんでそんなこと知ってんだよ……」

「そういう意味のないことはもう聞かないで。とにかく知ってるんだよ私は。で、なんでカレコレでおカネ借りたりすんのよ」

「……カルマトール1000」

「は? 借りられるのは50万まででしょ? カルマトール1000は80万じゃん。買えないじゃん」

「いや、あとは自分で稼いだ分で……」

「稼ぐってなによ? ロクに問題にも答えてないから徳もないんでしょ」

 どうせパチンコだ。分かりきってる。
 カレコレのパチンコは、こういう馬鹿をあぶり出すためのものだったんだ。きっと。
 儲かるはずないのに……。
 仮に儲かったとしても、50万円は返さなきゃならないのに……。

 ……もう言っていい。
 それなりの自覚もできたころだ。
 松下さんが言えなかったことを、私が言ってやる。
 あえて静かに言ってやる。

「……馬鹿だと思いませんか? 自分のやってること」

 すっかり意気消沈の上野は返事をしない。
 それはすなわち、真琴の言葉に反論できないということだ。

 これでミツキから言われたミッションは終わり……。
 この人を煽れって言われたけど、すっかり凹ませちゃった。
 これじゃミツキの出番はないんじゃないの?
 
 真琴がそう思い始めたとき、うつむいたままの上野がなにかボソッとつぶやいた。
 
「聞こえないよ……なんて言ったの?」

「……それでも、悪いのは運営じゃないか」

 これは……。
 そう出るか。
 
 たしかにそれは根本的な問題……。
 運営の罪は消えないし、そもそも運営が学生を罠にかけたことで生じたできごとなんだ。
 この、上野という人のことだって……。
 
 上野の言葉にどう返したものか真琴が考えていたところで、机の上に置いたままになっていた真琴の携帯電話が着信を告げる。
 手に取って画面を見ると、相手は非通知……。
 真琴は警戒しながら電話に出る。

「はい……」

(真琴、交代だね)

 ミツキ……。
 ここで交代って、ここまでは想定どおりだったの?

 真琴はそう尋ねてみたかったが、目の前に部外者……上野がいるので口に出せない。
 するとミツキが話を続ける。

(真琴、今から私が言うことに〝はい〟とだけ答えて)

「……はい」

(真琴の攻撃力もなかなかのもんだね。感心したよ)

「……はい」

(充分凹ませたようでも、まだ足りないんだ。その証拠に今度はそもそも論……運営を責めようとしてる)

「はい」

(ここからは私の仕事。非通知からの電話だってのは上野も見たから、真琴は今から私が言うとおりにして)

「はい」

 ……なに?
 ミツキ……なにしようっての?

(まず真琴はこの通話をスピーカーホンに切り替えて、画面が上野に見えるようにして机の上に置くの。いい?)

「……はい」

(そして上野に言って。〝運営から電話だよ〟って)

「はい……」

(コイツの馬鹿はまだぜんぶ出てない。それじゃ真琴、やって)

「はい……分かりました」

 真琴はミツキに言われたとおり、通話モードをスピーカーホンに切り替えてから、上野の目の前に画面がくるようにして机の上に置く。
 そして、なにごとかと不安な顔をする上野に告げる。

「……上野先輩、運営から電話です」

 上野の顔から血の気が引いていった。
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