23 / 34
10月6日(木)
1
しおりを挟む
「ま、あがってよ」
初めて目にする島田のアパートを観察していた真琴を、玄関ドアを開けながら島田が促す。
「あ、うん」
真琴はするりと玄関をくぐる。
大学生にして異性の自宅にひとりで入るのは真琴にとって「初めて」の体験だったが、そんな感慨は頭の片隅にもなかった。
かといって考えごとに集中しているわけでもなく、真琴は、なにかを考えているようでなにも考えていないような、不思議な気分だった。
あえて言葉で表すなら「なにを考えるべきかを考えている」……そんな状態だった。
「……きれいだね。いかにも島田くんってカンジ」
部屋に入った真琴は、一瞥して感想を口にする。
「物が少ないだけだよ。物がなければ散らからない」
それはもっともだ。
……それにしても物が少ないな。
私の部屋より片付いてんじゃないの?
あ、でも本棚と机はおっきいな。
どんな本読むんだろ……。
「古川」
「あひ」
本棚を物色しようとしていたところで島田に呼ばれ、真琴は、なにか悪いことをしているのを咎められたような気がして、おかしな返事をした。
……べつにいいよね。本棚覗いたって。
「で、今からなにをするんだ?」
……そっか。島田くんは催促してるんだ。
なにをするんだって……。なにしたらいいんだろ?
呆けたような真琴を見て、島田が道を示す。
「……まずは特典の確認だろ? 松下さんと約束してたじゃん」
「あ、そっか。そうだったね。うん」
そうだった。徳の特典の中身を確認しなきゃいけないんだった。
1000を超えて、トップになって、そして「運営」になった私の……徳の特典を。
内容次第では人質……学生みんなのプライベートの救出ができるかもしれないんだ。
さすがにそこまでの権限はこないかな……。
たしか、新しいお知らせは5個だっけ。
そんなことを考えながら真琴は携帯電話でカレンを立ち上げ、特典の内容を告げる「あなたへのお知らせ」を開く。
ん? これ、増えてる……よな。
6個あるぞ。通知が……。
いつの間にか新たな通知が届いていたらしく「あなたへのお知らせ」の未読は6つだった。
まず真琴はタイトルだけを見る。
〝徳600突破おめでとうございます!〟
〝徳700突破おめでとうございます!〟
〝徳850突破おめでとうございます!〟
〝徳950突破おめでとうございます!〟
〝徳1100突破おめでとうございます!〟
…………。
1100って……。
いくつまで用意してあんのよ、いったい。
そして……問題はこれだ。きっと……。
真琴の視線は、最後の通知のタイトルで静止する。
〝運営になったあなたへ〟
これ……これを真っ先に見るべきなのかな?
特典とは違う「運営となった者」への通知……。
これは私だけに宛てた通知だ。
私に付けられた「運営」という肩書きは、あくまで肩書きに過ぎないけど……。
本当の運営から私に向けたメッセージなんだ。きっと。
考え込む真琴を見て、ガラスのコップを両手に持って台所から来た島田が携帯電話を覗き込む。
「古川。……順に見よう」
島田は片方のコップを差し出しながらそう言った。
順に……か。うん、その方がいいかもね。
これまで、なんだって順を追ってやってきたんだ。
順番に見た方が正しい理解ができる……はず。
島田くんが言うんだし……間違いない。
特典の確認という目先の宿題にとりかかりながら、いまだ考えがまとまらない真琴はアイスコーヒーのコップを受け取り、暗示にかかったような心のまま〝徳600突破〟の通知を開く。
〝徳600突破おめでとうございます! 特典としてあなたにいくつか「業の特典」の動画を配信します。メニューの「カレン動画」でご視聴ください〟
あれ? ……これってたしか、同じような特典があったよな。
たしか、ヒドい内容だった。
なんで今さら?
「……古川、これ、350のヤツとは違う」
島田の言葉にハッとする。
いけない。私、ボーッとしてる。
みっちゃんの事件を告発して気が抜けたのかな。
真琴は、一度きつく目を閉じて気を立て直してから島田に尋ねる。
「違うって、どういうこと?」
「俺も350は超えたんだ。だから特典を見た。あの、パラパラ漫画みたいな特典サンプル」
ああそうか。島田くんも350は超えてるんだ。
……で、なにが違うの? それと。
「だから、なにが違うのよ」
「文面からして、これ……たぶんサンプルでも匿名でもない」
「あ……」
ホントだ。言われてみればそうだ。
どこにも「匿名」とか書いてない。
じゃあつまり……そのまんまなの?
「島田くん。……怖いね。これ見るの」
「今は見なくてもいいんじゃないか?」
「いいかな。……後回しにしても」
「うん。見ちゃったら、もしかすると田中美月の事件だけじゃなくて別の事件を告発したくなるかもしんない。でも、それってたぶん急ぎじゃない」
「急ぎじゃ……ない?」
「だって、いつ誰が徳600を超えるかなんて、そもそも未知数のはずじゃん。それに600だったら、もう他にも見てる人がいる」
「あ、そっか。そうだよね」
話しながら少しずつ頭が回り始めた真琴は、島田の言葉に納得し、次の通知を開く。
〝徳700突破おめでとうございます! 特典としてあなたは各種統計データを任意に選んで公開することができます。ただし公開は運営による「みなさんへのお知らせ」となります〟
……今度はなに?
あの、学生の残念な傾向を示した膨大なヤツを公開しろっていうの?
好きこのんで公開したいデータなんてなかった……はず。
ここでも島田に意見を求めようとしたが、少なくとも通知の内容は理解したので真琴は黙って次を開く。
〝徳850突破おめでとうございます! 特典としてあなたは、業の特典の執行に恩赦を行うことができます。詳細はトップページに追加された「恩赦設定」でご確認ください〟
これにはさすがに黙っていられず、真琴は手を止めて口を開く。
「これ……は、なんか重要っぽくない?」
「……すごいな。この権限は」
見れば島田の表情にも驚きがあった。
そうだよね。これは、もしかしたら学生を救う権限だもんね。
恩赦……。どこまでできるんだろ? これで。
「島田くん、恩赦ってさ、刑をなくすヤツだよね?」
「……正確には無くすわけじゃない。でもまあ、そんな認識でいいんじゃないかな。無くすんじゃなくて軽くする……。現実の恩赦は、刑期を短縮することも含まれる」
「そうなんだ。でもすごいよね、これ」
この漠然とした真琴の問いに、島田が答える。
「名ばかりじゃなくなってきてるな。だんだん」
「……え?」
「肩書きだけの運営じゃなくて、ホントの運営に近付いてる」
…………。
たしかに、そうかもしれない。
匿名じゃない爆弾を見る、学生の実態を知らしめる、かと思えば赦す権限もある……。
田中美月の件だけじゃない。まだなにかを求めてるんだ。……運営は。
「どうしよう? これ。……恩赦設定ってのを見た方がいいのかな?」
「いや、とにかく最後まで通知を見よう」
「そう……かな。だってこれ、みんなを救えるかもしんないよ」
「救えるなら救うのか? 古川は」
「そりゃそうに決まっ……」
言いかけて止める。
真琴が画面から目をあげて向き直った島田の瞳が、問いの重さを語っていたからだ。
なので真琴は考える。
今まで……今までずっと、自分も含めて学生を救うことを考えてきた。
救えるなら救う……。それは間違ってないと思うけど……。
……そう、そうだよ。恩赦できる範囲がどれくらいなのか知らないけど、ここで何も考えずに最大限の恩赦をして学生が救われたとしても、それは「運営」の本意じゃない気がする。
きっと私が今から探るべきことは、隊長が言ってた「運営を成仏」させる方法なんだ。
運営の主体は高山先生、そして高山先生は「大学の現状を憂う人」……。
つまり大学を良くしたいんだ。……簡単に言えば。
真琴は、なんとなく見え始めた道筋を確かめるように島田に尋ねる。
「島田くん」
「うん」
「みっちゃんの事件の告発は運営の目的のひとつ……って言ってたよね」
「ああ、うん。言った」
「じゃ、ほかの目的って……なに?」
「……古川」
「なに?」
「飲めよ、コーヒー。ぬるくなる。そして座ろう、いいかげん」
話を切られ、真琴はにわかに反論しようとするが、心が遅れて島田の言葉の意味に至った。
〝とりあえず落ち着け〟……。そう言ってるんだ、島田くんは。
真琴は、まだ辛うじて氷が残るアイスコーヒーをひとくち飲むと、その場に腰を下ろした。
そうして、ひとつ大きく深呼吸をしてから放心する。
島田の部屋にはテーブルの類するものがないためか、カーペットの上にそのまま座った真琴は、島田との距離が急に近く感じられた。
真琴が抜け殻のようになっているのを横目に、島田はスチール製のシングルベッドに腰掛ける。
真琴が向きを変えないので、島田は真琴の横顔を眺めるかたちになった。
「まず特典を見ろって言っといてアレだけど……古川、疲れてんだろ? 少し休むか?」
島田は自分の携帯電話を操作しながら、さりげなく真琴を気遣う言葉を口にした。
真琴は向きを変えぬまま、床に視線を落として答える。
「……でも、朝までに松下さんに特典の中身を連絡しなきゃ」
「まだ朝まで時間はあるよ。ちょっとでも寝た方がいい。頭まわってないだろ? 今」
「うん。たしかにそんなカンジだけど……」
それでも何かをしなければ……という表情でいる真琴を見て、島田がため息をつく。
「あの電話中継で班長っていう人が言ってた朝の会議ってのは10時からだ」
「うん……」
「じゃあ眠っておくべきだ。じゃないと判断を間違う」
「うん……」
「今が3時ちょい過ぎ。4時間近く寝ても7時だ。それから起きて2時間集中して考えて9時。それから松下さんに連絡したらいい」
「そう……かな?」
「証拠を手に入れて田中美月の事件を告発した時点で古川は功労者なんだ。それに古川は、朝の会議までに連絡するって言ったんだ。松下さんに」
「そう……だったっけ」
「間違いない。すぐに確認して連絡しろなんて松下さんは言ってない。このままフリーズした頭で起きてるより、眠ってから考える2時間の方が絶対マシ。なんか作業をするわけじゃないんだ」
「そう……かもね。……うん、そんな気がしてきた。でも島田くん、考えるってなに? 私、特典の内容確認して報告すればいいんじゃないの?」
「……いいから寝よう」
「なによそれ」
「スッキリした頭なら解るはずだけど、どこまで松下さんに報告するのかを考えなきゃいけないんじゃないのかな」
「……え?」
「古川が松下さんとどんな話をしたのか知らないけど、電話中継の内容からすれば、松下さんはやっぱり運営と関係あるんだろ?」
「……うん」
「それなのに特典の内容は知らないんだろ?」
「うん。……でも、そのへんのいきさつは聴いたよ」
「まだ全部の通知を見てないから絶対とは言えないけど、たぶん古川は、カレン騒ぎの終わらせ方については、松下さんより上に立ったと思う」
「松下さんより……上?」
「うん、たぶんね。だから冴えた頭で考えたら、ぜんぶを松下さんに伝えるんじゃなくて、必要な部分だけ伝えた方がいいって思うかもしれない」
「……なんで?」
「班長って人も言ってたじゃん。警察はもう、田中美月の犯人を捕まえることに集中するんだ。きっとカレン騒ぎの決着に関しちゃ、むしろ古川が警察に指示できる立場なんだよ。……古川が考える理想の決着のために」
「あああ、なんか頭こわれそう。もうギブ」
真琴が考えるのを諦めたのを見て、島田が優しく笑う。
「だからさ、寝るんだよ。とりあえず」
「……そうみたいだね。は~い、寝ま~す」
「よし。じゃ、どうする? シャワーでも浴びる?」
「……なんかもう、めんどくさい。横になったら5秒で寝そう」
「じゃ寝ろ。ベッド使っていいから」
仮眠をとることを決めた途端、真琴は急に体から力が抜けていく感覚に襲われた。
……まるで電池切れのように。
途切れそうになる意識で真琴は喋る。
「ん~と、じゃ……しまら……くん、は? ……いっしょ?」
「…………どっちでもいいよ」
「じゃ……いっしょ、ねる……」
言うや否や、真琴の体が宙に浮く。
抱き上げられたのだと真琴が理解したときには、思いのほか逞しい島田の腕でベッドに放り投げられた。
突然のことに言葉を失う真琴に、島田がしみじみと言う。
「……軽いな。やっぱり」
……放り投げられた。
子どもみたいに……。
でも……楽しいかも。
「……ビックリした」
「イヤだった?」
「ううん。……楽しいかも、これ」
「やるか? もいっかい」
ベッドの脇に立ち、島田が両腕を広げてみせる。
しかし真琴の気力は限界だった。
「……また今度……やって」
その真琴の言葉が合図のように、島田がベッドに上がり真琴の横に来る。
そして島田は真琴の髪を優しく撫でる。……労るように。
「あ……それ、いい……」
真琴は一気に幸せに包まれる。
島田は何も言わずに髪を撫でる。
吸い込まれるように眠りに落ちていく真琴の脳裏に、途切れとぎれの思いがよぎる。
……そういえば、隊長の肩書きも見てないな。
せっかく学籍番号聞いたのに……。
ああ、愛とも連絡取ってない……。
まあ、愛なら心配要らないか……。
そして真琴は眠りについた。
束の間、真琴は夢を見る。
その夢は、カレコレで語られた数々のエピソードの実写版のようなもので、妙にリアルなものだった。
その中で真琴は、変態教授に蹂躙される理学部生になり、不孝者の息子を持ちながら内職をする母親になり、学生運動でチラシを配り、やったこともないテニスをし、肝試しの最中に襲われ、学生に見下される助教授になり、正しいと信じることをしたのに袋叩きに遭い、母の名を呼びながら池に落ちた。
ご丁寧にその夢にはエンドロールまであり、カレコレが伝えたメッセージ「憐れむべし」で締めくくられた。
それはこの1週間、昼夜を問わずカレンとカレコレに翻弄され続けた真琴の心……疲労の極限にあった神経が見せた悪夢だった。
そうして枕をしたたかに濡らして目を覚ました真琴は、冴えた思考を取り戻した実感があった。
そこには、真の意味で「最後の運営」となった真琴がいた。
真琴が目の前にある島田の顔を見ると、島田は起きていた。
……寝なかったの? 島田くん……。
真琴がそれを訪ねる前に島田が機先を制す。
「おはよう」
「……ずっと……見てたの?」
「うん。見てた。……ずっと」
「私が……泣いてたのに?」
「……うん」
「なんで? 起こそうとしなかったの? うなされてたんじゃないの? 私」
「いや、うなされてはいなかった。……ただ、悲しそうだった」
「あえて起こさなかった。……そう言いたいの?」
「そう。なんか大切なものを視ているように思えたから」
ふ~ん……。大切なもの、ね。
ま、いいか。そんなことはどうでもいいんだ。
真琴は大きく伸びをしてから体を起こす。
そして、趣味のいい壁掛け時計で時刻が午前7時20分であることを確認し、行動を開始する。
「島田くん」
「うん」
「私、なんだか解った気がする」
島田が真琴の瞳を凝視する。
そこにしっかりと落ち着いた色を見た島田は、すぐさま「王佐」の顔になる。
「俺はなにをすればいい?」
真琴は、枕元にあった自分の携帯電話を拾い上げ、島田に差し出す。
「島田くんは、私の携帯で徳の特典の中身を確認してから松下さんに報告して」
本来、真琴だけに委ねられ真琴だけが知ることを認められたものをポンと投げられ、島田は一瞬、驚いた顔をした。
だが、それも一瞬……。「王」から全幅の信頼を受けた「王佐」としての自覚の表情に変わる。
「それで、古川は何をするんだ?」
「黒幕に会うの」
「……黒幕……って、誰のことだ?」
「……ゴメン、言えない。それに、まだ自信ないし」
「わかった。で、松下さんに報告する内容は俺の判断でいいのか?」
「うん、島田くんにお任せ。それで、あとで私に教えてよ。特典の内容ぜんぶ」
「オッケーだ」
言いながら島田が携帯電話を受け取る。
そして真琴は早速自分の行動に移った。
ポケットから白い携帯電話を取り出して松下にダイヤルする。
高山先生だけじゃない。松下さんも知ってるはずだ……。
〝厳正に処理する〟と言ってネガを受け取った高山先生に、こんな決心をさせたものを。
(おはよう古川さん。少しは眠った?)
松下さんの声は明るい……。
全体としては「良い方向」に進んでいるんだろうな、きっと。
でも私……最後の運営はまだ判断を下さないぞ。
「おはようございます。ちょっとは落ち着いたんですか? 構内は」
(うん。静かなもんだよ。僕たちも眠れた。……まあ、ザコ寝だけどね)
「さっそくなんですがお願いがあります」
(……お願い? なんだろ? 僕にできることならいいけど)
「黒幕に伝えてください。最後の運営が会いたがってると」
電話の向こうで松下が沈黙する。
言葉を探しているようだ。
(……その、古川さんが言う黒幕って、なに? 教授じゃなくて?)
島田が側にいる手前、ここで真琴は言葉を選ぶ。
高山先生の名前は出さない方がいいんだ……まだ。
「はい。私が会いたいのは、その人に決心をさせた人です。……松下さんはご存知だと思うので」
真琴は電話の向こうに、感嘆とも落胆ともいえない大きなため息を聞いた。
そこに真琴はたしかな手応えを感じた。
黙って松下の言葉を待つ。
(つまり、それを確かめなきゃ動かないんだね。……最後の運営は)
……よし。
携帯電話を握る真琴の手に力が入る。
そして断言する。
「そうです。それを知らなくちゃ、どんな決着がいいのか判断できません」
(……そっか。うん、分かった。これは急ぎ……だよね? 当然)
「はい。松下さんと約束した徳の特典の報告は、会議までに島田くんにやってもらいます」
(よし分かった。今すぐにでも……ってことだね。場所はどうする?)
「お任せします」
(うん。じゃ……一旦切るよ)
「はい、お願いします」
電話が切られた。
真琴は黙って目を閉じ、松下からの折り返しを待つ。
有能な補佐、島田は何も聞いてこない。
そして必要な報告を端的にくれる。
「古川、まだ途中だけど……」
「うん」
「ひとことで言って、古川は全権を持ってる」
「……つまり、みんなを生かすも殺すも……ってこと?」
「うん」
「わかった。ありがと」
全権か……。だったらなおさら原点を知らなきゃ。
あの、教育者のお手本みたいな高山先生が、どうして「人の道に外れる」と自覚しながらもカレン計画を興したのか、その原点を。
私の予想はたぶん合ってる。
……でも、理由が分からない。
だから会うんだ。会って確かめなきゃ……。
そうしている内に、真琴の掌中で白い携帯電話が着信を告げる。
真琴は発信者が松下……「まっちゃん」であることを確認してから電話に出た。
「……どうなりましたか?」
(屋上に8時半、これでいい?)
……早い。
でも、それでいいんだ。
真琴は今の時刻を確認してから答える。
「大丈夫です、それで。ありがとうございました」
(うん。……古川さん)
「はい」
(よろしくお願いするよ)
「……はい」
よろしくお願い……か。
やっぱり、それだけの理由があるんだろな。
でも私は「運営」として会うんだ。
よし、行こう。
真琴が立ち上がるのを見て、島田が呼び止める。
「古川、よく分かんないけど、人と会うのか? ……その、黒幕って人と」
「うん。ちょっと行ってくる。あ、松下さんへの報告、おねがいね」
ここで島田も立ち上がり「そんなら……」と言いながら洗面所に向かう。
そして戻って来た島田が持っていたのは濡らした白いタオルだった。
「せめて顔くらい拭いてった方がいい。なんていうか……台無しだから」
「……ありがと」
この心遣い……。ホント頼もしいよな。
いつかは思い出になるんだろな、これも。
一緒に懐かしめるといいな……。この人と。
そんなことを考えながら真琴は顔を思い切り拭きあげた。
大きな深呼吸と共に覚悟を固め、タオルを島田に返す。
「じゃ、行ってくる」
「うん。待っとくよ」
真琴は勢いよく玄関を出た。
午前8時30分、約束の時間ちょうどに真琴は屋上に出る。
10月初旬、静まりかえる朝の屋上は心地良い寒さだった。
そして真琴は視線の先、フェンスに腕を乗せて遠くを眺める尋ね人を認める。
真琴が歩き出すと、その気配に気が付いて尋ね人が振り返った。
そして真琴に語りかける。
「……なんか、久しぶりみたいに感じるんだけど、私だけ?」
「ううん。私もおんなじだよ。……愛」
涙を伴う目覚めとともに啓示のように思い至った推測……。
それは当たっていた。
ただ、こうして愛を目の前にして、真琴の心は複雑だった。
そして真琴は思い出す。
松下から言われた「信じられないという感覚を大切にしろ」という、漠然とした助言を……。
「……呼び出したのは真琴だよ」
「あ……うん。そうだね」
愛が促す。
しかし真琴は、友に尋ねるべき言葉を見失っていた。
島田の部屋から教育学部、そして屋上までの道のりである程度考えていたはずの疑問も、すっかり掻き消えた。
かといって心が乱れているわけではなく、むしろ気持ちは早朝の静けさと共に凪いでいた。
「聞かせて。……愛のこと」
紡がれた言葉は、真琴の心を映したように穏やかで、静かな問いだった。
愛は、澄んだ瞳でそれを受ける。
しっかりと真琴の言葉を受け止めてから、愛は早朝の空を仰ぐ。
そして愛は、「そうね……」と呟き動きを止める。
それはまるで、語るべきことを空に尋ねているような、美しい姿だった。
やがて、空の中から答えを拾った愛が真琴に視線を戻し、そして告げる。
「真琴、私のウチね……写真屋なんだ」
「え……そうなの?」
反射的に聞き返す真琴だったが、心は逆……。
いきなり半分くらいの疑問が晴れたような感覚だった。
「つまり……愛はず~っと前に知ったんだね。……田中美月さんの事件」
「うん。許せないと思った。……絶対に」
夫婦が現像を依頼したのは4年前……。
それが正確なら……当時は中学3年だ。
そんな時期にあの写真を見たなら……。
私だって……おんなじことを思うはず。
それで、それから愛はなにをしたんだ?
「愛は……お父さんかお母さんから聞いたの? 問題の写真のこと」
「違う」
「違う……の?」
「私ね、お小遣い稼ぎにね、店の手伝いしてたんだ。……看板娘って言われてたりしたんだよ。これでも」
看板娘……。
想像に難くないな、それは。
写真屋さんにいる「可愛らしい女の子」……。
愛なら、それだけお客さんを掴みそうだ。
「つまり、愛が見つけたってこと?」
「う~ん……。なんて言ったらいいのかな……。今ね、写真屋ではね、フィルムの現像依頼が来たときも、お客さんに渡すネガとは別にデジタルでデータを残しておくんだよ」
「……え? あ、それってもしかして、焼き増しするときのため?」
「うん、そう。それに、フィルムのネガをデジタルに変換するのも写真屋の収入源なんだよ。今どきは。ほら、昔のアナログ写真をデジタルでキレイに残したいってヤツ」
「じゃ、お店の手伝いをしてるときに偶然見つけたってこと?」
ここで愛が視線を逸らし、すこしだけうつむいた。
「偶然……じゃないかもしれない」
「……どういうこと?」
「真琴、私ね……手伝いしながら、こっそり見てたんだ。その……いろんなお客さんたちの写真」
……なるほど納得だ。
それは中学生とっては充分に興味をそそられる対象だ。
「それで例の写真見つけて、お父さんとかに聞いたの?」
「……聞けなかった」
愛は、さらにひとつ視線を落としコンクリートの床を見つめて答えた。
その声は、ひときわ小さかった。
聞けなかった……か。
その気持ちはよく解る。
でも……それなら、それからどうしたの?
真琴は、それを尋ねようとして愛を見る……が、うつむいたままきつく口を結んだ愛の佇まいがそれを躊躇させる
真琴は愛の言葉を待つことにした。
「……私ね、警察に行ったんだ。……印刷した写真持って」
「…………え?」
「家の仕事のことはだいたい解ってたから、そのときの私は思ったんだよ。〝きっとこの写真も封印されたんだろな〟って」
……そうか、そうなるのか。
そのときの愛はこの件を、松下さんが言ってた通常の対応……「これはお渡しできません」で終わったものだと考えたんだ。
でも現実は違ってて、このときにはもう、問題の写真は愛のお父さんたちの手で警察に持ち込まれてたはずだ。
真琴は話を繋ぐ。
「……でも、そのときにはもう警察も知ってた。……そうだよね?」
「うん。そう言われた。〝この件は、今ちょうど捜査してる〟って」
「……だけどってカンジだね。それは」
「そうね。でも私、捜査してるならそれでいい……いつか犯人が捕まるといい。そう思ったんだ」
……なんだか話が終わってしまいそうな流れだけど、この先、なにがあったんだ?
なにかがなくちゃおかしい。なにかあったはずだ。
そうだよ。私が呼んだのは、「高山先生に決心させた人」のはず……。
愛と向き合いながら考える真琴は、愛を捉える視線の奥、南の空に厚い雲を認めた。
ああ、雨が降るかもしれないな、これ。
まだ心は、波ひとつなく凪いでいた。
「どうなったの? ……それから」
穏やかな心で真琴は尋ねる。
「うん。私ね、ずっと気になってたんだ。捜査がどうなったのか。……犯人が捕まったってニュースも聞かないし、ホント、勉強が手につかないカンジだった。受験生だったのにね」
「……うん。解る」
「だからね、迷惑……っていうかウザがられるとは思ったんだけど、もう1回警察に行って聞いたんだ。〝あの事件、どうなりましたか?〟って」
「うん……」
それもよく解る。
高校受験が間近だったはずだ。
「それがいけなかったんだろうね。……たぶん」
「…………え?」
「それからちょっとして、私…………襲われちゃった」
風が吹く。
朝凪の刻は終わったみたいだ。
真琴は驚きの言葉も出せず、驚きの表情さえも作れずに立ちつくす。
「…………って言ったら驚く?」
……え?
……なに? 冗談なの?
いや、そんなはずない。
この場所、そしてこの時……。
ここで笑えない冗談を言うような愛じゃない。
「……どっち……なの?」
「……ゴメン。心配させちゃうね。なんにもされてないよ……正しくは」
「正しくはって……どういうこと?」
「うん。えっとね、たしかね、図書館帰りだったと思うんだけど、歩いてたらね、白い車が停まったんだ。私の前に」
「…………。」
真琴はなにも言えない。
ただ、愛から目を逸らさないことで意思を伝える。
「でね、男の人が降りてきたんだよ。運転席から。それで〝ちょっとお話いいですか?〟って言ってきた」
「……それ……で……」
「その人ね、ホントにこう、なんて言うか……ちゃんとした人っぽかったんだ。だからその人が〝寒いから車で〟って言うのを真に受けて車に乗ったんだ。……後ろの座席に」
「……うん」
なんだ? どうなるんだ? この話……。
波を立て始めた真琴の心は、荒れる気配に怯えていた。
それでも真琴は愛を見据える。
重い雲が先刻より近くにあった。
「私が乗ってすぐにね、その人が言ったんだ。〝これでもう逃げられない〟って」
「……逃げられない?」
「うん。ホントだった。私怖くなってドア開けようとしたんだけど、開かなかったんだ」
「それって、もしかして……チャイルドロック?」
「うん、そう。外からは開けられるけど、中からは開かない」
……たしかにそれは「逃げられない」状況だ。
それで、なんにもされなかったの? ……ホントに。
戸惑いが消えない真琴の表情を見て、ほんの少しだけ口もとを緩めて愛が続ける。
「ホントになにもされてないよ。だけどその人は言ったんだ。『これ以上首を突っ込むな』ってね」
真琴は空を仰ぐ。
そして大きく息を吐いた。
吐き出した息の中身は「安堵」と、そして「落胆」だった。
「……つまり、脅されたんだね。愛は」
「うん。……怖かった」
それはそうだろう。
中学生の女の子を車に閉じこめて「逃げられない」ことを釘刺したうえでの脅し……。
おしっこ漏らすよ、私なら……。
「それ……で、どうなったの?」
「すぐに車から降ろしてくれた。でも私、ガタガタしながら110番したんだよ。夢中でね」
「うん。私もそうする。……きっと」
真琴がそう言ったとき、ズボンの中の携帯電話が静寂を破る。
真琴は、白い携帯電話を手に取って画面を見る。
電話をかけてきたのは「まっちゃん」、松下だった。
……なに?
なんで今?
私が今、なにしてんのか知ってるはずでしょ?
そんなに重要なハナシなの?
真琴は訝りながら電話に出る。
「はい、古川です」
(ごめん古川さん、だいじなときに)
……取り込み中なのは解ってるみたいだ。
ということは、それに見合う用件なんだ。
「どうしたんですか?」
(田中美月を襲った犯人を逮捕した)
「……え?」
(逮捕したんだよ。20年前に田中美月を襲ったヤツを、ふたり)
真琴は絶句する。
迷うことなく喜ぶべき「良い報せ」なのだが、それが口に出てこない。
速すぎる……。
なんなの? ホントなの?
「それ……ホントですか?」
やっとの思いで絞り出したのは「信じられない」という気持ちだった。
松下がそれに答える。
(信じられない速さだと思うけど本当なんだ。詳しいことはまたあとで。だけどこの報せ、そこにいる人にも伝えてもらいたいんだ。……たぶん誰よりもこの報せを待ってた人だから)
「……はい」
(お願いするよ。それじゃ、また)
真琴は、通話が切れた画面を見つめる。
通話時間42秒……。
1分に満たない時間で、20年越し報せが届いた。
真琴はふと「時間」というものについて考え、そして放心する。
「真琴……どしたの?」
「あ……」
愛の話はまだ途中……核心に到着してない。
でも、これはそれより優先するべき報せだ。
真琴は、今しがた届けられた事実を伝える。
「田中美月を襲った犯人が捕まったみたいだよ」
今度は愛が絶句する。
突然電池が切れたオモチャの人形のように、動きも、そして表情も固まる。
動きが認められるのは目尻だけ……。
溢れ出る想いは、みるみる内に愛の頬を伝い、大粒の感情が床に落ちた。
「……真琴。……泣いても……いい?」
「いいよ。……てか泣いてんじゃん。もう」
そして愛は手で顔を覆い、声を圧し殺して肩を震わせる。
その姿は、4年近くに渡って愛を縛ってきたものの重さを真琴に教えた。
大波に飲み込まれた愛は、ひとしきり溺れたあとハンカチで顔を拭い、ふたたび真琴に向き合った。
愛の表情は晴れていたが、肩越しの雨雲はさらに近くなっていた。
「あれ? ……私、どこまで話したんだっけ?」
真琴も一瞬、自分がどこまで聞いていたのか考える。
「えっ……と、あ、そうだ。車から降りて110番したってとこ」
「あ、そっか、そうだったね。うん、110番したんだよ、私」
「うん」
「そんでね、すぐにお巡りさんが来て、警察署に行って話したんだ。その……脅されたこと」
「うん」
真琴は頬に冷たいものを感じ、雨が降り始めたことに気付く。
「警察署の刑事に説明して、もう話が終わりそうなころにね、別の若い刑事が来たんだよ」
「それって……」
「ん? なに?」
「あ、ううん、ゴメン。なんでもない」
たぶんそれ、松下さんだよな。
でも、なんか聞いちゃいけないような気がする。
……なんでだろ?
「その若い刑事が教えてくれたんだ。私と、私のお父さんが写真を持ち込んだ事件は、捜査してるけど犯人が判りそうにないって」
「……うん」
きっとそのときにはもう、捜査の打ち切りが決まってたんだ。
でも、そんなことは言えないから「犯人が判りそうにない」って言ったんだな、松下さんは……。
「でね、言われたんだ。『広北大学の教育学部にいる高山教授を訪ねてみてくれ』って」
……見えてきた。なんとなく。
雨が降ってきてるけど、このまま聞こう。
「じゃ、愛は行ったんだね、高山先生のところに。……まだ中学生だよね。そのころ」
「うん。私の家、県内だけどけっこう遠いんだ。それを刑事に言ったら、別の日に送っていってくれるって。だから次の日に送ってもらったんだ。広大の……そうよ、それこそ、この建物に」
「……それで、そのとき高山先生はなんて?」
「なんだかよく分からなかったけど謝られた。〝申し訳ない〟って」
……これか。
この瞬間か……。
高山先生に決意をさせたのは。
松下さんからネガを預かって「厳正に処理する」と言ってたところに、女子中学生が脅された……。
それでも真琴は尋ねてみる。
「申し訳ないって、どういう意味よ?」
「だいたい聞いてるんじゃないの? 真琴は。高山先生は警察から事件のことを聞いてたんだよ。そして大学として対処しようとしてた」
「……うん。そうみたいだね」
「まだ中学生だった私の話聞いて、高山先生は言ったんだ『犯人に反省がないことが判った。絶対に許さない』って」
またしても愛の瞳が潤んできたように見えたが、音を立てはじめた雨は、それを絶妙に隠してみせた。
「許さないって……。警察じゃないじゃん。高山先生は」
「それがこれ……カレンでしょ? 真琴」
話がひとつの結論に至った瞬間だった。
この一両日で知った情報に愛の話を加えれば、ほとんどぜんぶのことがらが繋がる。
ここで真琴は愛に促し、雨を避けられるように屋上の出入り口に移動する。
話はここからカレンのことになる……。
問題は、愛がどこまで絡んでるか、だ。
角張った小さい屋根の下、今度は肩を並べて寄り添うような距離になる。
愛がドアに背を預けてしゃがみ込んだので、真琴もそれに倣う。
しばしふたりは無言のまま、泣いている10月の空を眺めた。
「ねえ愛」
「うん?」
「愛は、その……どこまで絡んでるの? ……カレンに」
「絡んでない」
「え?」
「絡んでないんだよ。真琴」
空に投げていた視線を真琴に移し、愛は言った。
受け止めた真琴は、愛の瞳に嘘はないと感じた。
なので真琴は、その意味するところを考える。
絡んでないって……。
愛は高山先生に決意をさせただけで、カレンのことはまったく知らなかったてこと?
そう考えるのがいちばん簡単だと考えた真琴は、それをそのまま尋ねる。
「中3の冬に高山先生と会ってから、先生と連絡は?」
「あ、うん、取ってたよ。ちょくちょくね。私から連絡することはほとんどなかったけど」
「……その中にカレンの話があったんじゃないの?」
「なかったよ。先生から電話があったときは最初に『あれからなにもあってない?』って、私を心配する言葉をくれた。そして励ましてくれた」
「……もしかして、愛が教育を選んだのって高山先生の影響?」
笑顔にこそ届かぬものの、ここで愛は和らいだ表情を見せる。
「うん、そうだよ。高山先生がいるから、広大の教育にしたんだ」
なるほど充分な理由……と真琴は納得した。
しかし、愛がカレンに無関係だという点は、まだ完全に信じることができずにいた。
「しつこいかもだけど、ホントにカレンに絡んでないの? 愛は」
「……真琴」
「うん」
「私はね、カレンの騒ぎが始まってから、そうね……おとといくらいまではね、真琴になりたかったんだよ」
は? ……私になりたかった?
なに言ってんの? 愛……。
言葉の意味を掴み損ねた真琴は問い返す。
「私になりたかったって……どういう意味よ」
「私、自分がなりたかったんだ。……最後の運営に、ね」
ああ……そういうことか。
真琴はここで納得した。この騒動が始まってからの、一連の愛の言動と、その変化の理由を。
愛はなにも知らなかったけど、いち早く事態の真相を理解できたんだ。
そして「最後の運営」を目指してたんだ。
カレンとカレコレを極めた先にあるのが「運営」という肩書きだということを知ってたかは判らないけど、とにかく「運営」に近付こうとしたんだ。
愛にとって運営は、初めから「悪」じゃなかったんだ。
「…………なんかゴメン。私なんかが運営になっちゃって」
「いいんだよ真琴。私いま〝おとといくらいまでは〟って言ったじゃん?」
「え? あ、うん……」
「おとといの夜くらいから、カレコレを極めて選ばれるのは、私より真琴の方がいいんじゃないのかなって思うようになったんだ」
「……そうなの?」
「うん。私よりも真琴の方がいい……。そう思ったんだ」
「……なんで?」
「真琴がバカ正直だから……かな」
「褒めてんの? それ」
愛が笑う。久しぶりに見せる「ちゃんとした笑顔」だった。
「……どうだろ、わかんないや。でも私なんかより真琴の方がいいと思った。だからおカネはあったけど『しんじつ』は買ってない」
「……もしさ、もし愛が先に『しんじつ』を買ってたら、愛が選ばれてたのかな?」
「分かんないね、それは。ネガはひとつしかないけど、写真なら焼き増しできるから」
「早紀や平野は『しんじつ』を買おうって言わなかったの?」
「言ったよ。だけど私がやめさせた。『それは買わなくていい』って」
「……納得したの? それで」
「納得したかどうかは分かんないけど、承知はしてくれた。『それ、たぶん真琴が買う』って言ったらね」
「じゃ、ホントに……私が選ばれる方がいいと思ったんだね、愛は」
「うん。本物のネガが付いた『しんじつ』は真琴が手にしてほしかった」
「じゃ、愛のチームはまだおカネいっぱい持ってんの?」
「ああ、うん。持ってるよ」
「じゃあさ、愛、相談なんだけど……」
午前9時過ぎ、真琴と愛は教育学部4階にある高山教授の部屋の前にいた。
アポは取っていないが、高山先生はカレン騒動に対処する大学側の代表者のひとりなので10時からの会議に出席するために今は自室にいるはずだと踏んだからだ。
真琴は教授の部屋のドアをノックする。
(どうぞ)
中から教授の声がした。
真琴は「失礼します」と言いながらドアを開けた。
来訪者の真琴と愛を見て、高山教授は大げさに目を見開いて驚きを表した。
そして、表情を戻してから穏やかに言う。
「これはまた……。始皇帝とラストエンペラーが一緒に来たみたいな気分ですね」
「それなら、先生はなんになるんですか?」
高山教授はこの真琴の質問に表情を崩し、仕草で応接セットのソファを勧める。
窓際にセットされた保温機能付きのコーヒーメーカーから3人分のコーヒーをカップに注ぎ、盆に乗せる。
教授自身も、真琴と愛に対面するかたちでソファに着くと、真琴の質問に答える。
「私は……そうですね、プロデューサーといったところですかね」
「ああ、そうかもしれませんね」
「大神さんも一緒だということは、古川さんはもう、けっこうたくさんのことを知ったんですね?」
「……だと思います」
「……よかったです。最後の判断を委ねられた人に、ちゃんと知ってもらえて」
高山先生……ホント優しいよな。
学生、それも1年生の私たちにも丁寧な言葉で接してくれる。
ここにも「悪」を感じない。
……予想できたことだけど。
「それで、お揃いで私になんのご用ですか」
明るいグレーの背広をまとった紳士然とした教授は、コーヒーをひとくち啜り、真琴たちにもコーヒーを勧めながら紳士然とした口調で語りかける。
「はい。先生にお願いがあって来ました」
「……お願いですか。それは……そういえば隠す必要もないですね。運営としての私に、ですか?」
「いいえ、違います。このカレン騒動の大学側の代表者のひとりとしての〝高山教授〟に、です」
「どんなお願いでしょう」
高山教授は、またひとくちコーヒーを口にしてから、少し意外そうで、少なからず嬉しそうな表情で問い返す。
「はい。10時から食堂……捜査本部で会議がありますよね」
「はい」
「そこの場で、運営の意思を伝達していただきたいんです」
「運営の……意思、ですか。それは古川さんの意思ということですか?」
「そうです。運営として判断をする立場になった私の意思です。でもこれは愛……大神さんと話し合った結果です」
「それなら喜んで引き受けましょう。ふたりが出した結論なら」
「では、時間もないので申し上げます。運営の希望として伝達して、検討していただきたいのは2点です。まずひとつめですが……」
初めて目にする島田のアパートを観察していた真琴を、玄関ドアを開けながら島田が促す。
「あ、うん」
真琴はするりと玄関をくぐる。
大学生にして異性の自宅にひとりで入るのは真琴にとって「初めて」の体験だったが、そんな感慨は頭の片隅にもなかった。
かといって考えごとに集中しているわけでもなく、真琴は、なにかを考えているようでなにも考えていないような、不思議な気分だった。
あえて言葉で表すなら「なにを考えるべきかを考えている」……そんな状態だった。
「……きれいだね。いかにも島田くんってカンジ」
部屋に入った真琴は、一瞥して感想を口にする。
「物が少ないだけだよ。物がなければ散らからない」
それはもっともだ。
……それにしても物が少ないな。
私の部屋より片付いてんじゃないの?
あ、でも本棚と机はおっきいな。
どんな本読むんだろ……。
「古川」
「あひ」
本棚を物色しようとしていたところで島田に呼ばれ、真琴は、なにか悪いことをしているのを咎められたような気がして、おかしな返事をした。
……べつにいいよね。本棚覗いたって。
「で、今からなにをするんだ?」
……そっか。島田くんは催促してるんだ。
なにをするんだって……。なにしたらいいんだろ?
呆けたような真琴を見て、島田が道を示す。
「……まずは特典の確認だろ? 松下さんと約束してたじゃん」
「あ、そっか。そうだったね。うん」
そうだった。徳の特典の中身を確認しなきゃいけないんだった。
1000を超えて、トップになって、そして「運営」になった私の……徳の特典を。
内容次第では人質……学生みんなのプライベートの救出ができるかもしれないんだ。
さすがにそこまでの権限はこないかな……。
たしか、新しいお知らせは5個だっけ。
そんなことを考えながら真琴は携帯電話でカレンを立ち上げ、特典の内容を告げる「あなたへのお知らせ」を開く。
ん? これ、増えてる……よな。
6個あるぞ。通知が……。
いつの間にか新たな通知が届いていたらしく「あなたへのお知らせ」の未読は6つだった。
まず真琴はタイトルだけを見る。
〝徳600突破おめでとうございます!〟
〝徳700突破おめでとうございます!〟
〝徳850突破おめでとうございます!〟
〝徳950突破おめでとうございます!〟
〝徳1100突破おめでとうございます!〟
…………。
1100って……。
いくつまで用意してあんのよ、いったい。
そして……問題はこれだ。きっと……。
真琴の視線は、最後の通知のタイトルで静止する。
〝運営になったあなたへ〟
これ……これを真っ先に見るべきなのかな?
特典とは違う「運営となった者」への通知……。
これは私だけに宛てた通知だ。
私に付けられた「運営」という肩書きは、あくまで肩書きに過ぎないけど……。
本当の運営から私に向けたメッセージなんだ。きっと。
考え込む真琴を見て、ガラスのコップを両手に持って台所から来た島田が携帯電話を覗き込む。
「古川。……順に見よう」
島田は片方のコップを差し出しながらそう言った。
順に……か。うん、その方がいいかもね。
これまで、なんだって順を追ってやってきたんだ。
順番に見た方が正しい理解ができる……はず。
島田くんが言うんだし……間違いない。
特典の確認という目先の宿題にとりかかりながら、いまだ考えがまとまらない真琴はアイスコーヒーのコップを受け取り、暗示にかかったような心のまま〝徳600突破〟の通知を開く。
〝徳600突破おめでとうございます! 特典としてあなたにいくつか「業の特典」の動画を配信します。メニューの「カレン動画」でご視聴ください〟
あれ? ……これってたしか、同じような特典があったよな。
たしか、ヒドい内容だった。
なんで今さら?
「……古川、これ、350のヤツとは違う」
島田の言葉にハッとする。
いけない。私、ボーッとしてる。
みっちゃんの事件を告発して気が抜けたのかな。
真琴は、一度きつく目を閉じて気を立て直してから島田に尋ねる。
「違うって、どういうこと?」
「俺も350は超えたんだ。だから特典を見た。あの、パラパラ漫画みたいな特典サンプル」
ああそうか。島田くんも350は超えてるんだ。
……で、なにが違うの? それと。
「だから、なにが違うのよ」
「文面からして、これ……たぶんサンプルでも匿名でもない」
「あ……」
ホントだ。言われてみればそうだ。
どこにも「匿名」とか書いてない。
じゃあつまり……そのまんまなの?
「島田くん。……怖いね。これ見るの」
「今は見なくてもいいんじゃないか?」
「いいかな。……後回しにしても」
「うん。見ちゃったら、もしかすると田中美月の事件だけじゃなくて別の事件を告発したくなるかもしんない。でも、それってたぶん急ぎじゃない」
「急ぎじゃ……ない?」
「だって、いつ誰が徳600を超えるかなんて、そもそも未知数のはずじゃん。それに600だったら、もう他にも見てる人がいる」
「あ、そっか。そうだよね」
話しながら少しずつ頭が回り始めた真琴は、島田の言葉に納得し、次の通知を開く。
〝徳700突破おめでとうございます! 特典としてあなたは各種統計データを任意に選んで公開することができます。ただし公開は運営による「みなさんへのお知らせ」となります〟
……今度はなに?
あの、学生の残念な傾向を示した膨大なヤツを公開しろっていうの?
好きこのんで公開したいデータなんてなかった……はず。
ここでも島田に意見を求めようとしたが、少なくとも通知の内容は理解したので真琴は黙って次を開く。
〝徳850突破おめでとうございます! 特典としてあなたは、業の特典の執行に恩赦を行うことができます。詳細はトップページに追加された「恩赦設定」でご確認ください〟
これにはさすがに黙っていられず、真琴は手を止めて口を開く。
「これ……は、なんか重要っぽくない?」
「……すごいな。この権限は」
見れば島田の表情にも驚きがあった。
そうだよね。これは、もしかしたら学生を救う権限だもんね。
恩赦……。どこまでできるんだろ? これで。
「島田くん、恩赦ってさ、刑をなくすヤツだよね?」
「……正確には無くすわけじゃない。でもまあ、そんな認識でいいんじゃないかな。無くすんじゃなくて軽くする……。現実の恩赦は、刑期を短縮することも含まれる」
「そうなんだ。でもすごいよね、これ」
この漠然とした真琴の問いに、島田が答える。
「名ばかりじゃなくなってきてるな。だんだん」
「……え?」
「肩書きだけの運営じゃなくて、ホントの運営に近付いてる」
…………。
たしかに、そうかもしれない。
匿名じゃない爆弾を見る、学生の実態を知らしめる、かと思えば赦す権限もある……。
田中美月の件だけじゃない。まだなにかを求めてるんだ。……運営は。
「どうしよう? これ。……恩赦設定ってのを見た方がいいのかな?」
「いや、とにかく最後まで通知を見よう」
「そう……かな。だってこれ、みんなを救えるかもしんないよ」
「救えるなら救うのか? 古川は」
「そりゃそうに決まっ……」
言いかけて止める。
真琴が画面から目をあげて向き直った島田の瞳が、問いの重さを語っていたからだ。
なので真琴は考える。
今まで……今までずっと、自分も含めて学生を救うことを考えてきた。
救えるなら救う……。それは間違ってないと思うけど……。
……そう、そうだよ。恩赦できる範囲がどれくらいなのか知らないけど、ここで何も考えずに最大限の恩赦をして学生が救われたとしても、それは「運営」の本意じゃない気がする。
きっと私が今から探るべきことは、隊長が言ってた「運営を成仏」させる方法なんだ。
運営の主体は高山先生、そして高山先生は「大学の現状を憂う人」……。
つまり大学を良くしたいんだ。……簡単に言えば。
真琴は、なんとなく見え始めた道筋を確かめるように島田に尋ねる。
「島田くん」
「うん」
「みっちゃんの事件の告発は運営の目的のひとつ……って言ってたよね」
「ああ、うん。言った」
「じゃ、ほかの目的って……なに?」
「……古川」
「なに?」
「飲めよ、コーヒー。ぬるくなる。そして座ろう、いいかげん」
話を切られ、真琴はにわかに反論しようとするが、心が遅れて島田の言葉の意味に至った。
〝とりあえず落ち着け〟……。そう言ってるんだ、島田くんは。
真琴は、まだ辛うじて氷が残るアイスコーヒーをひとくち飲むと、その場に腰を下ろした。
そうして、ひとつ大きく深呼吸をしてから放心する。
島田の部屋にはテーブルの類するものがないためか、カーペットの上にそのまま座った真琴は、島田との距離が急に近く感じられた。
真琴が抜け殻のようになっているのを横目に、島田はスチール製のシングルベッドに腰掛ける。
真琴が向きを変えないので、島田は真琴の横顔を眺めるかたちになった。
「まず特典を見ろって言っといてアレだけど……古川、疲れてんだろ? 少し休むか?」
島田は自分の携帯電話を操作しながら、さりげなく真琴を気遣う言葉を口にした。
真琴は向きを変えぬまま、床に視線を落として答える。
「……でも、朝までに松下さんに特典の中身を連絡しなきゃ」
「まだ朝まで時間はあるよ。ちょっとでも寝た方がいい。頭まわってないだろ? 今」
「うん。たしかにそんなカンジだけど……」
それでも何かをしなければ……という表情でいる真琴を見て、島田がため息をつく。
「あの電話中継で班長っていう人が言ってた朝の会議ってのは10時からだ」
「うん……」
「じゃあ眠っておくべきだ。じゃないと判断を間違う」
「うん……」
「今が3時ちょい過ぎ。4時間近く寝ても7時だ。それから起きて2時間集中して考えて9時。それから松下さんに連絡したらいい」
「そう……かな?」
「証拠を手に入れて田中美月の事件を告発した時点で古川は功労者なんだ。それに古川は、朝の会議までに連絡するって言ったんだ。松下さんに」
「そう……だったっけ」
「間違いない。すぐに確認して連絡しろなんて松下さんは言ってない。このままフリーズした頭で起きてるより、眠ってから考える2時間の方が絶対マシ。なんか作業をするわけじゃないんだ」
「そう……かもね。……うん、そんな気がしてきた。でも島田くん、考えるってなに? 私、特典の内容確認して報告すればいいんじゃないの?」
「……いいから寝よう」
「なによそれ」
「スッキリした頭なら解るはずだけど、どこまで松下さんに報告するのかを考えなきゃいけないんじゃないのかな」
「……え?」
「古川が松下さんとどんな話をしたのか知らないけど、電話中継の内容からすれば、松下さんはやっぱり運営と関係あるんだろ?」
「……うん」
「それなのに特典の内容は知らないんだろ?」
「うん。……でも、そのへんのいきさつは聴いたよ」
「まだ全部の通知を見てないから絶対とは言えないけど、たぶん古川は、カレン騒ぎの終わらせ方については、松下さんより上に立ったと思う」
「松下さんより……上?」
「うん、たぶんね。だから冴えた頭で考えたら、ぜんぶを松下さんに伝えるんじゃなくて、必要な部分だけ伝えた方がいいって思うかもしれない」
「……なんで?」
「班長って人も言ってたじゃん。警察はもう、田中美月の犯人を捕まえることに集中するんだ。きっとカレン騒ぎの決着に関しちゃ、むしろ古川が警察に指示できる立場なんだよ。……古川が考える理想の決着のために」
「あああ、なんか頭こわれそう。もうギブ」
真琴が考えるのを諦めたのを見て、島田が優しく笑う。
「だからさ、寝るんだよ。とりあえず」
「……そうみたいだね。は~い、寝ま~す」
「よし。じゃ、どうする? シャワーでも浴びる?」
「……なんかもう、めんどくさい。横になったら5秒で寝そう」
「じゃ寝ろ。ベッド使っていいから」
仮眠をとることを決めた途端、真琴は急に体から力が抜けていく感覚に襲われた。
……まるで電池切れのように。
途切れそうになる意識で真琴は喋る。
「ん~と、じゃ……しまら……くん、は? ……いっしょ?」
「…………どっちでもいいよ」
「じゃ……いっしょ、ねる……」
言うや否や、真琴の体が宙に浮く。
抱き上げられたのだと真琴が理解したときには、思いのほか逞しい島田の腕でベッドに放り投げられた。
突然のことに言葉を失う真琴に、島田がしみじみと言う。
「……軽いな。やっぱり」
……放り投げられた。
子どもみたいに……。
でも……楽しいかも。
「……ビックリした」
「イヤだった?」
「ううん。……楽しいかも、これ」
「やるか? もいっかい」
ベッドの脇に立ち、島田が両腕を広げてみせる。
しかし真琴の気力は限界だった。
「……また今度……やって」
その真琴の言葉が合図のように、島田がベッドに上がり真琴の横に来る。
そして島田は真琴の髪を優しく撫でる。……労るように。
「あ……それ、いい……」
真琴は一気に幸せに包まれる。
島田は何も言わずに髪を撫でる。
吸い込まれるように眠りに落ちていく真琴の脳裏に、途切れとぎれの思いがよぎる。
……そういえば、隊長の肩書きも見てないな。
せっかく学籍番号聞いたのに……。
ああ、愛とも連絡取ってない……。
まあ、愛なら心配要らないか……。
そして真琴は眠りについた。
束の間、真琴は夢を見る。
その夢は、カレコレで語られた数々のエピソードの実写版のようなもので、妙にリアルなものだった。
その中で真琴は、変態教授に蹂躙される理学部生になり、不孝者の息子を持ちながら内職をする母親になり、学生運動でチラシを配り、やったこともないテニスをし、肝試しの最中に襲われ、学生に見下される助教授になり、正しいと信じることをしたのに袋叩きに遭い、母の名を呼びながら池に落ちた。
ご丁寧にその夢にはエンドロールまであり、カレコレが伝えたメッセージ「憐れむべし」で締めくくられた。
それはこの1週間、昼夜を問わずカレンとカレコレに翻弄され続けた真琴の心……疲労の極限にあった神経が見せた悪夢だった。
そうして枕をしたたかに濡らして目を覚ました真琴は、冴えた思考を取り戻した実感があった。
そこには、真の意味で「最後の運営」となった真琴がいた。
真琴が目の前にある島田の顔を見ると、島田は起きていた。
……寝なかったの? 島田くん……。
真琴がそれを訪ねる前に島田が機先を制す。
「おはよう」
「……ずっと……見てたの?」
「うん。見てた。……ずっと」
「私が……泣いてたのに?」
「……うん」
「なんで? 起こそうとしなかったの? うなされてたんじゃないの? 私」
「いや、うなされてはいなかった。……ただ、悲しそうだった」
「あえて起こさなかった。……そう言いたいの?」
「そう。なんか大切なものを視ているように思えたから」
ふ~ん……。大切なもの、ね。
ま、いいか。そんなことはどうでもいいんだ。
真琴は大きく伸びをしてから体を起こす。
そして、趣味のいい壁掛け時計で時刻が午前7時20分であることを確認し、行動を開始する。
「島田くん」
「うん」
「私、なんだか解った気がする」
島田が真琴の瞳を凝視する。
そこにしっかりと落ち着いた色を見た島田は、すぐさま「王佐」の顔になる。
「俺はなにをすればいい?」
真琴は、枕元にあった自分の携帯電話を拾い上げ、島田に差し出す。
「島田くんは、私の携帯で徳の特典の中身を確認してから松下さんに報告して」
本来、真琴だけに委ねられ真琴だけが知ることを認められたものをポンと投げられ、島田は一瞬、驚いた顔をした。
だが、それも一瞬……。「王」から全幅の信頼を受けた「王佐」としての自覚の表情に変わる。
「それで、古川は何をするんだ?」
「黒幕に会うの」
「……黒幕……って、誰のことだ?」
「……ゴメン、言えない。それに、まだ自信ないし」
「わかった。で、松下さんに報告する内容は俺の判断でいいのか?」
「うん、島田くんにお任せ。それで、あとで私に教えてよ。特典の内容ぜんぶ」
「オッケーだ」
言いながら島田が携帯電話を受け取る。
そして真琴は早速自分の行動に移った。
ポケットから白い携帯電話を取り出して松下にダイヤルする。
高山先生だけじゃない。松下さんも知ってるはずだ……。
〝厳正に処理する〟と言ってネガを受け取った高山先生に、こんな決心をさせたものを。
(おはよう古川さん。少しは眠った?)
松下さんの声は明るい……。
全体としては「良い方向」に進んでいるんだろうな、きっと。
でも私……最後の運営はまだ判断を下さないぞ。
「おはようございます。ちょっとは落ち着いたんですか? 構内は」
(うん。静かなもんだよ。僕たちも眠れた。……まあ、ザコ寝だけどね)
「さっそくなんですがお願いがあります」
(……お願い? なんだろ? 僕にできることならいいけど)
「黒幕に伝えてください。最後の運営が会いたがってると」
電話の向こうで松下が沈黙する。
言葉を探しているようだ。
(……その、古川さんが言う黒幕って、なに? 教授じゃなくて?)
島田が側にいる手前、ここで真琴は言葉を選ぶ。
高山先生の名前は出さない方がいいんだ……まだ。
「はい。私が会いたいのは、その人に決心をさせた人です。……松下さんはご存知だと思うので」
真琴は電話の向こうに、感嘆とも落胆ともいえない大きなため息を聞いた。
そこに真琴はたしかな手応えを感じた。
黙って松下の言葉を待つ。
(つまり、それを確かめなきゃ動かないんだね。……最後の運営は)
……よし。
携帯電話を握る真琴の手に力が入る。
そして断言する。
「そうです。それを知らなくちゃ、どんな決着がいいのか判断できません」
(……そっか。うん、分かった。これは急ぎ……だよね? 当然)
「はい。松下さんと約束した徳の特典の報告は、会議までに島田くんにやってもらいます」
(よし分かった。今すぐにでも……ってことだね。場所はどうする?)
「お任せします」
(うん。じゃ……一旦切るよ)
「はい、お願いします」
電話が切られた。
真琴は黙って目を閉じ、松下からの折り返しを待つ。
有能な補佐、島田は何も聞いてこない。
そして必要な報告を端的にくれる。
「古川、まだ途中だけど……」
「うん」
「ひとことで言って、古川は全権を持ってる」
「……つまり、みんなを生かすも殺すも……ってこと?」
「うん」
「わかった。ありがと」
全権か……。だったらなおさら原点を知らなきゃ。
あの、教育者のお手本みたいな高山先生が、どうして「人の道に外れる」と自覚しながらもカレン計画を興したのか、その原点を。
私の予想はたぶん合ってる。
……でも、理由が分からない。
だから会うんだ。会って確かめなきゃ……。
そうしている内に、真琴の掌中で白い携帯電話が着信を告げる。
真琴は発信者が松下……「まっちゃん」であることを確認してから電話に出た。
「……どうなりましたか?」
(屋上に8時半、これでいい?)
……早い。
でも、それでいいんだ。
真琴は今の時刻を確認してから答える。
「大丈夫です、それで。ありがとうございました」
(うん。……古川さん)
「はい」
(よろしくお願いするよ)
「……はい」
よろしくお願い……か。
やっぱり、それだけの理由があるんだろな。
でも私は「運営」として会うんだ。
よし、行こう。
真琴が立ち上がるのを見て、島田が呼び止める。
「古川、よく分かんないけど、人と会うのか? ……その、黒幕って人と」
「うん。ちょっと行ってくる。あ、松下さんへの報告、おねがいね」
ここで島田も立ち上がり「そんなら……」と言いながら洗面所に向かう。
そして戻って来た島田が持っていたのは濡らした白いタオルだった。
「せめて顔くらい拭いてった方がいい。なんていうか……台無しだから」
「……ありがと」
この心遣い……。ホント頼もしいよな。
いつかは思い出になるんだろな、これも。
一緒に懐かしめるといいな……。この人と。
そんなことを考えながら真琴は顔を思い切り拭きあげた。
大きな深呼吸と共に覚悟を固め、タオルを島田に返す。
「じゃ、行ってくる」
「うん。待っとくよ」
真琴は勢いよく玄関を出た。
午前8時30分、約束の時間ちょうどに真琴は屋上に出る。
10月初旬、静まりかえる朝の屋上は心地良い寒さだった。
そして真琴は視線の先、フェンスに腕を乗せて遠くを眺める尋ね人を認める。
真琴が歩き出すと、その気配に気が付いて尋ね人が振り返った。
そして真琴に語りかける。
「……なんか、久しぶりみたいに感じるんだけど、私だけ?」
「ううん。私もおんなじだよ。……愛」
涙を伴う目覚めとともに啓示のように思い至った推測……。
それは当たっていた。
ただ、こうして愛を目の前にして、真琴の心は複雑だった。
そして真琴は思い出す。
松下から言われた「信じられないという感覚を大切にしろ」という、漠然とした助言を……。
「……呼び出したのは真琴だよ」
「あ……うん。そうだね」
愛が促す。
しかし真琴は、友に尋ねるべき言葉を見失っていた。
島田の部屋から教育学部、そして屋上までの道のりである程度考えていたはずの疑問も、すっかり掻き消えた。
かといって心が乱れているわけではなく、むしろ気持ちは早朝の静けさと共に凪いでいた。
「聞かせて。……愛のこと」
紡がれた言葉は、真琴の心を映したように穏やかで、静かな問いだった。
愛は、澄んだ瞳でそれを受ける。
しっかりと真琴の言葉を受け止めてから、愛は早朝の空を仰ぐ。
そして愛は、「そうね……」と呟き動きを止める。
それはまるで、語るべきことを空に尋ねているような、美しい姿だった。
やがて、空の中から答えを拾った愛が真琴に視線を戻し、そして告げる。
「真琴、私のウチね……写真屋なんだ」
「え……そうなの?」
反射的に聞き返す真琴だったが、心は逆……。
いきなり半分くらいの疑問が晴れたような感覚だった。
「つまり……愛はず~っと前に知ったんだね。……田中美月さんの事件」
「うん。許せないと思った。……絶対に」
夫婦が現像を依頼したのは4年前……。
それが正確なら……当時は中学3年だ。
そんな時期にあの写真を見たなら……。
私だって……おんなじことを思うはず。
それで、それから愛はなにをしたんだ?
「愛は……お父さんかお母さんから聞いたの? 問題の写真のこと」
「違う」
「違う……の?」
「私ね、お小遣い稼ぎにね、店の手伝いしてたんだ。……看板娘って言われてたりしたんだよ。これでも」
看板娘……。
想像に難くないな、それは。
写真屋さんにいる「可愛らしい女の子」……。
愛なら、それだけお客さんを掴みそうだ。
「つまり、愛が見つけたってこと?」
「う~ん……。なんて言ったらいいのかな……。今ね、写真屋ではね、フィルムの現像依頼が来たときも、お客さんに渡すネガとは別にデジタルでデータを残しておくんだよ」
「……え? あ、それってもしかして、焼き増しするときのため?」
「うん、そう。それに、フィルムのネガをデジタルに変換するのも写真屋の収入源なんだよ。今どきは。ほら、昔のアナログ写真をデジタルでキレイに残したいってヤツ」
「じゃ、お店の手伝いをしてるときに偶然見つけたってこと?」
ここで愛が視線を逸らし、すこしだけうつむいた。
「偶然……じゃないかもしれない」
「……どういうこと?」
「真琴、私ね……手伝いしながら、こっそり見てたんだ。その……いろんなお客さんたちの写真」
……なるほど納得だ。
それは中学生とっては充分に興味をそそられる対象だ。
「それで例の写真見つけて、お父さんとかに聞いたの?」
「……聞けなかった」
愛は、さらにひとつ視線を落としコンクリートの床を見つめて答えた。
その声は、ひときわ小さかった。
聞けなかった……か。
その気持ちはよく解る。
でも……それなら、それからどうしたの?
真琴は、それを尋ねようとして愛を見る……が、うつむいたままきつく口を結んだ愛の佇まいがそれを躊躇させる
真琴は愛の言葉を待つことにした。
「……私ね、警察に行ったんだ。……印刷した写真持って」
「…………え?」
「家の仕事のことはだいたい解ってたから、そのときの私は思ったんだよ。〝きっとこの写真も封印されたんだろな〟って」
……そうか、そうなるのか。
そのときの愛はこの件を、松下さんが言ってた通常の対応……「これはお渡しできません」で終わったものだと考えたんだ。
でも現実は違ってて、このときにはもう、問題の写真は愛のお父さんたちの手で警察に持ち込まれてたはずだ。
真琴は話を繋ぐ。
「……でも、そのときにはもう警察も知ってた。……そうだよね?」
「うん。そう言われた。〝この件は、今ちょうど捜査してる〟って」
「……だけどってカンジだね。それは」
「そうね。でも私、捜査してるならそれでいい……いつか犯人が捕まるといい。そう思ったんだ」
……なんだか話が終わってしまいそうな流れだけど、この先、なにがあったんだ?
なにかがなくちゃおかしい。なにかあったはずだ。
そうだよ。私が呼んだのは、「高山先生に決心させた人」のはず……。
愛と向き合いながら考える真琴は、愛を捉える視線の奥、南の空に厚い雲を認めた。
ああ、雨が降るかもしれないな、これ。
まだ心は、波ひとつなく凪いでいた。
「どうなったの? ……それから」
穏やかな心で真琴は尋ねる。
「うん。私ね、ずっと気になってたんだ。捜査がどうなったのか。……犯人が捕まったってニュースも聞かないし、ホント、勉強が手につかないカンジだった。受験生だったのにね」
「……うん。解る」
「だからね、迷惑……っていうかウザがられるとは思ったんだけど、もう1回警察に行って聞いたんだ。〝あの事件、どうなりましたか?〟って」
「うん……」
それもよく解る。
高校受験が間近だったはずだ。
「それがいけなかったんだろうね。……たぶん」
「…………え?」
「それからちょっとして、私…………襲われちゃった」
風が吹く。
朝凪の刻は終わったみたいだ。
真琴は驚きの言葉も出せず、驚きの表情さえも作れずに立ちつくす。
「…………って言ったら驚く?」
……え?
……なに? 冗談なの?
いや、そんなはずない。
この場所、そしてこの時……。
ここで笑えない冗談を言うような愛じゃない。
「……どっち……なの?」
「……ゴメン。心配させちゃうね。なんにもされてないよ……正しくは」
「正しくはって……どういうこと?」
「うん。えっとね、たしかね、図書館帰りだったと思うんだけど、歩いてたらね、白い車が停まったんだ。私の前に」
「…………。」
真琴はなにも言えない。
ただ、愛から目を逸らさないことで意思を伝える。
「でね、男の人が降りてきたんだよ。運転席から。それで〝ちょっとお話いいですか?〟って言ってきた」
「……それ……で……」
「その人ね、ホントにこう、なんて言うか……ちゃんとした人っぽかったんだ。だからその人が〝寒いから車で〟って言うのを真に受けて車に乗ったんだ。……後ろの座席に」
「……うん」
なんだ? どうなるんだ? この話……。
波を立て始めた真琴の心は、荒れる気配に怯えていた。
それでも真琴は愛を見据える。
重い雲が先刻より近くにあった。
「私が乗ってすぐにね、その人が言ったんだ。〝これでもう逃げられない〟って」
「……逃げられない?」
「うん。ホントだった。私怖くなってドア開けようとしたんだけど、開かなかったんだ」
「それって、もしかして……チャイルドロック?」
「うん、そう。外からは開けられるけど、中からは開かない」
……たしかにそれは「逃げられない」状況だ。
それで、なんにもされなかったの? ……ホントに。
戸惑いが消えない真琴の表情を見て、ほんの少しだけ口もとを緩めて愛が続ける。
「ホントになにもされてないよ。だけどその人は言ったんだ。『これ以上首を突っ込むな』ってね」
真琴は空を仰ぐ。
そして大きく息を吐いた。
吐き出した息の中身は「安堵」と、そして「落胆」だった。
「……つまり、脅されたんだね。愛は」
「うん。……怖かった」
それはそうだろう。
中学生の女の子を車に閉じこめて「逃げられない」ことを釘刺したうえでの脅し……。
おしっこ漏らすよ、私なら……。
「それ……で、どうなったの?」
「すぐに車から降ろしてくれた。でも私、ガタガタしながら110番したんだよ。夢中でね」
「うん。私もそうする。……きっと」
真琴がそう言ったとき、ズボンの中の携帯電話が静寂を破る。
真琴は、白い携帯電話を手に取って画面を見る。
電話をかけてきたのは「まっちゃん」、松下だった。
……なに?
なんで今?
私が今、なにしてんのか知ってるはずでしょ?
そんなに重要なハナシなの?
真琴は訝りながら電話に出る。
「はい、古川です」
(ごめん古川さん、だいじなときに)
……取り込み中なのは解ってるみたいだ。
ということは、それに見合う用件なんだ。
「どうしたんですか?」
(田中美月を襲った犯人を逮捕した)
「……え?」
(逮捕したんだよ。20年前に田中美月を襲ったヤツを、ふたり)
真琴は絶句する。
迷うことなく喜ぶべき「良い報せ」なのだが、それが口に出てこない。
速すぎる……。
なんなの? ホントなの?
「それ……ホントですか?」
やっとの思いで絞り出したのは「信じられない」という気持ちだった。
松下がそれに答える。
(信じられない速さだと思うけど本当なんだ。詳しいことはまたあとで。だけどこの報せ、そこにいる人にも伝えてもらいたいんだ。……たぶん誰よりもこの報せを待ってた人だから)
「……はい」
(お願いするよ。それじゃ、また)
真琴は、通話が切れた画面を見つめる。
通話時間42秒……。
1分に満たない時間で、20年越し報せが届いた。
真琴はふと「時間」というものについて考え、そして放心する。
「真琴……どしたの?」
「あ……」
愛の話はまだ途中……核心に到着してない。
でも、これはそれより優先するべき報せだ。
真琴は、今しがた届けられた事実を伝える。
「田中美月を襲った犯人が捕まったみたいだよ」
今度は愛が絶句する。
突然電池が切れたオモチャの人形のように、動きも、そして表情も固まる。
動きが認められるのは目尻だけ……。
溢れ出る想いは、みるみる内に愛の頬を伝い、大粒の感情が床に落ちた。
「……真琴。……泣いても……いい?」
「いいよ。……てか泣いてんじゃん。もう」
そして愛は手で顔を覆い、声を圧し殺して肩を震わせる。
その姿は、4年近くに渡って愛を縛ってきたものの重さを真琴に教えた。
大波に飲み込まれた愛は、ひとしきり溺れたあとハンカチで顔を拭い、ふたたび真琴に向き合った。
愛の表情は晴れていたが、肩越しの雨雲はさらに近くなっていた。
「あれ? ……私、どこまで話したんだっけ?」
真琴も一瞬、自分がどこまで聞いていたのか考える。
「えっ……と、あ、そうだ。車から降りて110番したってとこ」
「あ、そっか、そうだったね。うん、110番したんだよ、私」
「うん」
「そんでね、すぐにお巡りさんが来て、警察署に行って話したんだ。その……脅されたこと」
「うん」
真琴は頬に冷たいものを感じ、雨が降り始めたことに気付く。
「警察署の刑事に説明して、もう話が終わりそうなころにね、別の若い刑事が来たんだよ」
「それって……」
「ん? なに?」
「あ、ううん、ゴメン。なんでもない」
たぶんそれ、松下さんだよな。
でも、なんか聞いちゃいけないような気がする。
……なんでだろ?
「その若い刑事が教えてくれたんだ。私と、私のお父さんが写真を持ち込んだ事件は、捜査してるけど犯人が判りそうにないって」
「……うん」
きっとそのときにはもう、捜査の打ち切りが決まってたんだ。
でも、そんなことは言えないから「犯人が判りそうにない」って言ったんだな、松下さんは……。
「でね、言われたんだ。『広北大学の教育学部にいる高山教授を訪ねてみてくれ』って」
……見えてきた。なんとなく。
雨が降ってきてるけど、このまま聞こう。
「じゃ、愛は行ったんだね、高山先生のところに。……まだ中学生だよね。そのころ」
「うん。私の家、県内だけどけっこう遠いんだ。それを刑事に言ったら、別の日に送っていってくれるって。だから次の日に送ってもらったんだ。広大の……そうよ、それこそ、この建物に」
「……それで、そのとき高山先生はなんて?」
「なんだかよく分からなかったけど謝られた。〝申し訳ない〟って」
……これか。
この瞬間か……。
高山先生に決意をさせたのは。
松下さんからネガを預かって「厳正に処理する」と言ってたところに、女子中学生が脅された……。
それでも真琴は尋ねてみる。
「申し訳ないって、どういう意味よ?」
「だいたい聞いてるんじゃないの? 真琴は。高山先生は警察から事件のことを聞いてたんだよ。そして大学として対処しようとしてた」
「……うん。そうみたいだね」
「まだ中学生だった私の話聞いて、高山先生は言ったんだ『犯人に反省がないことが判った。絶対に許さない』って」
またしても愛の瞳が潤んできたように見えたが、音を立てはじめた雨は、それを絶妙に隠してみせた。
「許さないって……。警察じゃないじゃん。高山先生は」
「それがこれ……カレンでしょ? 真琴」
話がひとつの結論に至った瞬間だった。
この一両日で知った情報に愛の話を加えれば、ほとんどぜんぶのことがらが繋がる。
ここで真琴は愛に促し、雨を避けられるように屋上の出入り口に移動する。
話はここからカレンのことになる……。
問題は、愛がどこまで絡んでるか、だ。
角張った小さい屋根の下、今度は肩を並べて寄り添うような距離になる。
愛がドアに背を預けてしゃがみ込んだので、真琴もそれに倣う。
しばしふたりは無言のまま、泣いている10月の空を眺めた。
「ねえ愛」
「うん?」
「愛は、その……どこまで絡んでるの? ……カレンに」
「絡んでない」
「え?」
「絡んでないんだよ。真琴」
空に投げていた視線を真琴に移し、愛は言った。
受け止めた真琴は、愛の瞳に嘘はないと感じた。
なので真琴は、その意味するところを考える。
絡んでないって……。
愛は高山先生に決意をさせただけで、カレンのことはまったく知らなかったてこと?
そう考えるのがいちばん簡単だと考えた真琴は、それをそのまま尋ねる。
「中3の冬に高山先生と会ってから、先生と連絡は?」
「あ、うん、取ってたよ。ちょくちょくね。私から連絡することはほとんどなかったけど」
「……その中にカレンの話があったんじゃないの?」
「なかったよ。先生から電話があったときは最初に『あれからなにもあってない?』って、私を心配する言葉をくれた。そして励ましてくれた」
「……もしかして、愛が教育を選んだのって高山先生の影響?」
笑顔にこそ届かぬものの、ここで愛は和らいだ表情を見せる。
「うん、そうだよ。高山先生がいるから、広大の教育にしたんだ」
なるほど充分な理由……と真琴は納得した。
しかし、愛がカレンに無関係だという点は、まだ完全に信じることができずにいた。
「しつこいかもだけど、ホントにカレンに絡んでないの? 愛は」
「……真琴」
「うん」
「私はね、カレンの騒ぎが始まってから、そうね……おとといくらいまではね、真琴になりたかったんだよ」
は? ……私になりたかった?
なに言ってんの? 愛……。
言葉の意味を掴み損ねた真琴は問い返す。
「私になりたかったって……どういう意味よ」
「私、自分がなりたかったんだ。……最後の運営に、ね」
ああ……そういうことか。
真琴はここで納得した。この騒動が始まってからの、一連の愛の言動と、その変化の理由を。
愛はなにも知らなかったけど、いち早く事態の真相を理解できたんだ。
そして「最後の運営」を目指してたんだ。
カレンとカレコレを極めた先にあるのが「運営」という肩書きだということを知ってたかは判らないけど、とにかく「運営」に近付こうとしたんだ。
愛にとって運営は、初めから「悪」じゃなかったんだ。
「…………なんかゴメン。私なんかが運営になっちゃって」
「いいんだよ真琴。私いま〝おとといくらいまでは〟って言ったじゃん?」
「え? あ、うん……」
「おとといの夜くらいから、カレコレを極めて選ばれるのは、私より真琴の方がいいんじゃないのかなって思うようになったんだ」
「……そうなの?」
「うん。私よりも真琴の方がいい……。そう思ったんだ」
「……なんで?」
「真琴がバカ正直だから……かな」
「褒めてんの? それ」
愛が笑う。久しぶりに見せる「ちゃんとした笑顔」だった。
「……どうだろ、わかんないや。でも私なんかより真琴の方がいいと思った。だからおカネはあったけど『しんじつ』は買ってない」
「……もしさ、もし愛が先に『しんじつ』を買ってたら、愛が選ばれてたのかな?」
「分かんないね、それは。ネガはひとつしかないけど、写真なら焼き増しできるから」
「早紀や平野は『しんじつ』を買おうって言わなかったの?」
「言ったよ。だけど私がやめさせた。『それは買わなくていい』って」
「……納得したの? それで」
「納得したかどうかは分かんないけど、承知はしてくれた。『それ、たぶん真琴が買う』って言ったらね」
「じゃ、ホントに……私が選ばれる方がいいと思ったんだね、愛は」
「うん。本物のネガが付いた『しんじつ』は真琴が手にしてほしかった」
「じゃ、愛のチームはまだおカネいっぱい持ってんの?」
「ああ、うん。持ってるよ」
「じゃあさ、愛、相談なんだけど……」
午前9時過ぎ、真琴と愛は教育学部4階にある高山教授の部屋の前にいた。
アポは取っていないが、高山先生はカレン騒動に対処する大学側の代表者のひとりなので10時からの会議に出席するために今は自室にいるはずだと踏んだからだ。
真琴は教授の部屋のドアをノックする。
(どうぞ)
中から教授の声がした。
真琴は「失礼します」と言いながらドアを開けた。
来訪者の真琴と愛を見て、高山教授は大げさに目を見開いて驚きを表した。
そして、表情を戻してから穏やかに言う。
「これはまた……。始皇帝とラストエンペラーが一緒に来たみたいな気分ですね」
「それなら、先生はなんになるんですか?」
高山教授はこの真琴の質問に表情を崩し、仕草で応接セットのソファを勧める。
窓際にセットされた保温機能付きのコーヒーメーカーから3人分のコーヒーをカップに注ぎ、盆に乗せる。
教授自身も、真琴と愛に対面するかたちでソファに着くと、真琴の質問に答える。
「私は……そうですね、プロデューサーといったところですかね」
「ああ、そうかもしれませんね」
「大神さんも一緒だということは、古川さんはもう、けっこうたくさんのことを知ったんですね?」
「……だと思います」
「……よかったです。最後の判断を委ねられた人に、ちゃんと知ってもらえて」
高山先生……ホント優しいよな。
学生、それも1年生の私たちにも丁寧な言葉で接してくれる。
ここにも「悪」を感じない。
……予想できたことだけど。
「それで、お揃いで私になんのご用ですか」
明るいグレーの背広をまとった紳士然とした教授は、コーヒーをひとくち啜り、真琴たちにもコーヒーを勧めながら紳士然とした口調で語りかける。
「はい。先生にお願いがあって来ました」
「……お願いですか。それは……そういえば隠す必要もないですね。運営としての私に、ですか?」
「いいえ、違います。このカレン騒動の大学側の代表者のひとりとしての〝高山教授〟に、です」
「どんなお願いでしょう」
高山教授は、またひとくちコーヒーを口にしてから、少し意外そうで、少なからず嬉しそうな表情で問い返す。
「はい。10時から食堂……捜査本部で会議がありますよね」
「はい」
「そこの場で、運営の意思を伝達していただきたいんです」
「運営の……意思、ですか。それは古川さんの意思ということですか?」
「そうです。運営として判断をする立場になった私の意思です。でもこれは愛……大神さんと話し合った結果です」
「それなら喜んで引き受けましょう。ふたりが出した結論なら」
「では、時間もないので申し上げます。運営の希望として伝達して、検討していただきたいのは2点です。まずひとつめですが……」
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
紙の本のカバーをめくりたい話
みぅら
ミステリー
紙の本のカバーをめくろうとしたら、見ず知らずの人に「その本、カバーをめくらない方がいいですよ」と制止されて、モヤモヤしながら本を読む話。
男性向けでも女性向けでもありません。
カテゴリにその他がなかったのでミステリーにしていますが、全然ミステリーではありません。
パラダイス・ロスト
真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。
※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。
白雪姫の接吻
坂水
ミステリー
――香世子。貴女は、本当に白雪姫だった。
二十年ぶりに再会した美しい幼馴染と旧交を温める、主婦である直美。
香世子はなぜこの田舎町に戻ってきたのか。実父と継母が住む白いお城のようなあの邸に。甘美な時間を過ごしながらも直美は不可解に思う。
城から響いた悲鳴、連れ出された一人娘、二十年前に彼女がこの町を出た理由。食い違う原作(オリジナル)と脚本(アレンジ)。そして母から娘へと受け継がれる憧れと呪い。
本当は怖い『白雪姫』のストーリーになぞらえて再演される彼女たちの物語。
全41話。2018年6月下旬まで毎日21:00更新。→全41話から少し延長します。
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
【完結】側妃は愛されるのをやめました
なか
恋愛
「君ではなく、彼女を正妃とする」
私は、貴方のためにこの国へと貢献してきた自負がある。
なのに……彼は。
「だが僕は、ラテシアを見捨てはしない。これから君には側妃になってもらうよ」
私のため。
そんな建前で……側妃へと下げる宣言をするのだ。
このような侮辱、恥を受けてなお……正妃を求めて抗議するか?
否。
そのような恥を晒す気は無い。
「承知いたしました。セリム陛下……私は側妃を受け入れます」
側妃を受けいれた私は、呼吸を挟まずに言葉を続ける。
今しがた決めた、たった一つの決意を込めて。
「ですが陛下。私はもう貴方を支える気はありません」
これから私は、『捨てられた妃』という汚名でなく、彼を『捨てた妃』となるために。
華々しく、私の人生を謳歌しよう。
全ては、廃妃となるために。
◇◇◇
設定はゆるめです。
読んでくださると嬉しいです!
マクデブルクの半球
ナコイトオル
ミステリー
ある夜、電話がかかってきた。ただそれだけの、はずだった。
高校時代、自分と折り合いの付かなかった優等生からの唐突な電話。それが全てのはじまりだった。
電話をかけたのとほぼ同時刻、何者かに突き落とされ意識不明となった青年コウと、そんな彼と昔折り合いを付けることが出来なかった、容疑者となった女、ユキ。どうしてこうなったのかを調べていく内に、コウを突き落とした容疑者はどんどんと増えてきてしまう───
「犯人を探そう。出来れば、彼が目を覚ますまでに」
自他共に認める在宅ストーカーを相棒に、誰かのために進む、犯人探し。
無限の迷路
葉羽
ミステリー
豪華なパーティーが開催された大邸宅で、一人の招待客が密室の中で死亡して発見される。部屋は内側から完全に施錠されており、窓も塞がれている。調査を進める中、次々と現れる証拠品や証言が事件をますます複雑にしていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる