かれん

青木ぬかり

文字の大きさ
上 下
22 / 34
10月5日(水)

しおりを挟む
「つまり、そういうことだ」

 固まる真琴の掌中にある携帯電話に表示されたステータスを確認した島田が穏やかに言う。
 断定するようなその言葉には、ある程度の予感があったという響きがある。

 しかし当の真琴にとっては完全な不意討ち……。
 現状を理解するどころか、こころが考えることを拒んでいた。

 なので真琴の口が紡ぐのは、幼児のような言葉だった。

「なに? ……これ」

 そんな、怯えを隠しきれない真琴を安心させるように島田がゆっくりと答える。

「悪いことじゃない。ある意味たどり着いたんだよ。古川は」

「……たどり……着いた」

「うん。これはひとつのゴールだろ。だって、これで刑事からの依頼は果たせる」

「え……」

「運営になっちゃたんだから、古川の考えは、そのまま『運営の目的』……だろ?」

「なに? とうとう運営になっちゃったの? 真琴」

 理沙の言葉は、いまだ混乱の中にある真琴の耳に入らない。
 しかし真琴の頭脳は少しずつ現状把握に向けて動き始める。

「……つまり、委ねられたんだね。……わたし」

「そうだ。ついさっきまで『今の運営』だった人たちから、ね」

「……逃げなくちゃ」

 いまだに運営という存在の一般的評価が「悪」であるという認識の真琴に、自らが運営となった自覚と同時に保身が襲う。
 それを島田が押し留める。

「まだ大丈夫だ古川。徳のランキングから古川は消えた」

「……え?」

 消えた? ……ランキングから?
 じゃあ……安全、なの?

「完全に隠れたんだよ。誰も古川が運営だってことは知らない」

 誰も……知らない。
 その言葉は、真琴に一握りの平静を与えた。

「でも、目的なんて……わたし……」

「うん。今は思い浮かばないかもしれない。……それこそ今までの運営の『執念』について考える必要がある」

「……執念?」

「そうだよ。古川だって言ってたじゃん。ものすごい執念がなきゃできないって」

「執念……」

 今まで運営を非難するために使ってきた単語が肩にのしかかる。

 執念……。たしかにそうだ。このカレン騒動の基にあるのは幾年にもわたる……ただならぬ執念だ。
 
「古川、目的はそれこそ……バイトの先輩が言ってた成仏、じゃないのか?」

「成仏……」

 成仏か……。
 私が運営になったくらいなんだから、ここに至るまでに運営は移り変わってきたんだろうな。きっと。

 だからきっと、成仏させるべき想いというのは、歴代の運営じゃない。
 いちばん初めの人……たぶんたったひとりの誰かだ。

 ということは……その人が「黒幕」なの?

 うん、きっとそうだ。黒幕なんて単なる名前に過ぎない。
 いや、もしかしたら自虐の想いがあるのかもしれない。
 自らの行為が決して認められるものではないという自責……。
 でも、その人の執念に共感できるものがあったから、ここまで運営がリレーされてきたんだ。

「私は……期待されてるんだね、今」

 真琴の言葉に生気が戻った気配を察し、島田の表情が明るくなる。

「そう。理想の結末をなし得る者として託されたんだよ。古川は」

「……なにが基準になったのかな」

「俺が思うには、もちろん古川がカレコレで答えてきた回答とかステータスとかだろうけど、たった今選ばれたってことは、決め手になったのはきっとカレコレに出てきた『運営』への受け答えと、みっちゃんの弔いに向かったことじゃないかな」

 みっちゃんの弔い……か。
 そうだ、みっちゃんの話はどっちが真実なんだろう。

 島田くんが見たっていう新聞記事が語るように「事故」なのか、それともカレコレで描かれたように「事件」なのか……。


 ……真実。 真実か……。


 脳中に「真実」というワードが浮かぶと同時に、真琴の思考は瞬く間に鮮明さを取り戻した。

 その冴えた思考で島田に告げる。

「島田くん。私、家に帰るから付き合って」

「分かった」

 島田も真琴の意図を理解したようだ。
 そして、それは理沙も同様であるようだった。

「真琴、私はなにすればいい?」

 理沙か、理沙は……。

「一緒に来てくれてもいいけど、理沙はとりあえずクリアして、エンディングがどんな風になるのか教えてよ」

「分かった。でも、もうすぐ終わるよ。その後は?」

「そうね……。理沙の肩書きがなんなのか知らないけど、クリアしたら理沙も売店で弔花を買ってみっちゃんを弔ってよ」

「うい」

「それで……そう、もし当てられるなら、理沙の携帯で当ててもらいたい」

「当てるって……。まさか裏パチンコ? 今さら」

「そう、そのまさか。おカネを稼ぎまくって」

「……なんのため?」

 この理沙の疑問に、真琴ではなく島田が応じる。

「清川、とりあえず今は古川の言うとおりにしよう。なんたって運営なんだ。古川は」

「ん、分かった」

「で、どうする? 一緒に来る?」

「う~ん……。私はいいかな。これがドラマなら、私はチョイ役、主役はアンタたちだもんね」

 そんなことはない……。真琴はそう思ったが、敢えて口にしなかった。
 理沙は理沙なりの配慮で言ってるんだ。

「じゃ、私と島田くんで行ってくるよ」

「うん、そうして」

「じゃあ……行くか。古川」

「うん」

 そうして真琴は、島田と共に理沙の部屋を出た。



「どうしよっか。島田くんは原付でしょ?」

「2ケツで行こう」

「二人乗りってこと?」

「そう」

「マズイよ、それは」

「構わない」

「捕まるかもしんないじゃん」

「構わない」

 構わないって……。
 切符きられてもいいってこと?
 そうとしか考えられない。

 違法に勝る正義……か。
 そんな大層なものじゃないんだけどな、私の気分としては。

 たかが二人乗りとはいえ、自分のためには違反も厭わないという島田の言葉に、真琴はあらためて自分に課せられたものの重さを感じた。
 なんだかよっぽど重要人物になっちゃったみたいだな。これじゃ。

「……知らないよ。どうなっても」

「そんな心配はどうでもいいんだよ。今は。だから早く乗れ」

 有無を言わさぬ島田の語勢に抗うことに意味がないことを悟った真琴は、島田が跨る原付バイクの後ろに乗り、両の腕を島田の腰にまわす。
 初めて自分から抱きついた……。そんな場違いな思いがよぎったが、それはすぐに掻き消え、バイクが発進すると同時に真琴の頭の中は「執念」と「成仏」という単語で占められた。

 誰の、どんな執念なんだろう……。
 そして、どうすれば報われるんだろう。
 まだ分からない……けど、きっとその答えが家にある。
 真琴はそう確信していた。


 やがて原付は真琴のアパートに着く。

 外に人はいない……。
 裏パチンコを当てた「三中」のひとりであることを疑われ、さらには「運営」になった者として、目ざとい人たちが自宅に張り付いているかもしれないという懸念は杞憂だったようだ。
 これは……ホントに消えたんだろな、ランキングから。

 人がいないことに安心した真琴は原付を降り、すぐに郵便受けを確認したが、そこにはなにもなかった。
 それでも真琴の確信は揺らぐことなく、すぐに自室の玄関を開け、玄関にある方の郵便投入口をあらためる。

 …………あった。
 これが……真実。

「島田くん、あったよ。……真実」

 真琴はそれを示しながら、原付を停めて追ってきた島田に言う

「真実……。その封書が?」

「うん。一緒に見よう」

「ちょっと待った」

「……なによ」

「それを投げ込んだ人間はこの騒ぎに絡んでる。そしてそれは、その証拠品だ」

「なに? これをそのまま警察に渡せっての?」

「……それも選択のひとつ、だよ」

 島田の言うことはもっともだ。
 この、消印もなにもない封書は、誰かが直接ここに投げ込んだものだ。
 でも……と真琴は思う。
 きっとこの封書を投げ込んだ人も「使命」を果たしただけなんだ、と。

「いや、すぐに開けるよ。そして島田くんと一緒に見る」

 真琴の言葉に覚悟と信念を感じた島田は、自分の進言が否定されたことをむしろ喜んでいるようだった。

「よし、見よう。その……真実ってヤツを」

「うん、見よう」

 真琴は自室の中央、ちゃぶ台に島田を促してからテレビ台の引き出しを開けてハサミを取り出す。
 そうして自分もちゃぶ台に着いた真琴は、躊躇うことなく「真実」の封を切る。


「これ……は、記事?」


 封書の中には、さらに別の封書も入っていたが、それとは別に入れられていた紙切れが真っ先に目に入る。
 それは平成7年、田中美月が構内の池で溺死した「事故」を報じた新聞記事だった。

 それは、その事故に関する記事を数紙から切り抜いたものの写しで、各紙とも内容は似たり寄ったり……あるテニスサークルが構内で催した新入生歓迎会の折に飲酒した新入生、田中美月が誤って転落したというものだった。

 当然のこととして、各紙とも事故の事実だけにとどまらず「未成年の飲酒野放し」「危機管理態勢に問題」など、当時まだ移転して間もなかった広北大学の姿勢を問題視する記載が添えられていた。

「これって、島田くんが見つけた記事と同じ?」

 頭を突き合わせて記事の写しを凝視している島田に真琴が尋ねる。

「そう、俺が見つけたのはこの中の……これ、だったかな。全部じゃない」

 そう言いながら、島田は記事のひとつを指差した。

 真琴は考える。
 これが真実……。
 2千万の真実……。

「古川、記事はどれも似たようなもんだ。あとはなにが入ってる?」

「あ、そうか。そうだよね」

 真琴は封書を逆さまにして、その中身をすべてちゃぶ台の上に出す。

「あ……」

 飛び込んできたのは衝撃的な映像……。
 襲われている「田中美月」だった。

 どうやら真実はカレコレで描かれた方、サークルの肝試しの最中に田中美月という1年生は襲われていたようだ。

 ちゃぶ台に広げられた数枚の写真……。
 それは田中美月が襲われた状況を雄弁に語っていた。
 驚くべき点は、カレコレが、その襲われた状況までも忠実に再現していたことだった。
 が、昂ぶりと共に冴えわたる真琴は、すぐにそれが驚くに値しないことに気付く。

 この写真があるなら忠実な再現……カレコレの演出も容易い。

 目出し帽を被った黒ずくめの男に、脚を広げる格好で後ろから抱え上げられている「田中美月」の目はきつく閉じられている。
 そして、パンティーをずらされて秘部を撮影されているのだ。

 これ、この犯人……撮影者たちはたぶん、この場でみっちゃんを強姦するつもりはなかったんだ。きっと。
 この場では恥ずかしい写真だけ撮って、あとでなにかをしようとしてた……。
 真琴にはそのように感じられた。
 
 なにか目つぶし……そう、カレコレではスプレーみたいなものだったけど、たぶんホントにみっちゃんは目を開けられない状態にされてる。
 だって、いくら襲われてるといっても、全部の写真できつく目を閉じてるんだから……。
 まさににカレコレに出てきたような状況だったんだ。

 見えないまま抵抗して、そして見えないまま逃げようとして……。
 そして、見えないまま池に落ちたんだ。

 慣れないお酒を飲んで、目が見えなくて、服を着たまま落ちたなら、誰だって溺れる。
 いったん落ちたら、どっちが地上かも判んないんだから……。

 それを助けることなく見殺しにしたんだ。この犯人は。
 せめて……せめてみっちゃんを池から引き揚げてから逃げればよかったのに。

 突きつけられた真実は、真琴の心に激しい怒りを生む。
 犯人に向けて、真っ直ぐに……。

「古川、こっちは……ネガだ。現像されてる以外の写真もあるみだいだぞ」

 島田の言葉で真琴は我に返る。
 ネガ……か。どのみち立派な「犯罪の証拠」だ。
 これを警察に突きつければいいの?

 すぐに連想された警察への告発……。しかし真琴は同時に違和感を抱く。

 なんで……なんで今まで隠れてたワケ? ……これ。


「島田くん……」

 沸いた疑問を島田と共有すべく声にするが、島田に返事はない。
 見れば額に指を立て目を閉じて、いつになく考え込んでいる。
 たぶん同じようなこと考えてるんだろうけど、答えが見つかるの?

 島田が放つ気配があまりに集中しているようだったので、真琴は真琴なりに考えてみることに決め、それと同時に気になっていたことを確認する。

 真琴が気になっていたこと、それは「徳の特典」だった。
 900を超えてトップになったのを確認したときから気にはなっていたのだが、そのとき徳のランキングに愛が入ってきたことを知り、確認する気を削がれていた。

 いや……逃げていたというのが正確かもしれない。
 そのあと確認するタイミングはいくらでもあった。
 怖かったんだ。私は。「あなたへのお知らせ」の箇所に点る「NEW!」の、その中身が……。

 どんどん運営の「こころ」に近付く「徳の特典」……。
 そして今、自分が運営なんだ。

 でも、これを確かめずして進むべき道は判らないだろう。
 真琴は、せめて少数であってほしいという願いを込めて「あなたへのお知らせ」を開く。

「あ……」
「あ……」

 真琴と島田、二人がほぼ同時に声を出す。
 真琴の声は落胆の響き、それに反して島田の声は気付きの響きだった。

「……どしたの? 島田くん」

「ヒントっぽいことがひらめいた」

「ヒントっぽい……こと?」

「うん。……それより古川はどうしたんだ?」

「え? ああ私? ……私は例の『徳の特典』見てガッカリしてた」

「……運営だもんな。どんな特典?」

「まだ見てない。届いた数だけ見てイヤになった」

「……いくつ?」

「……5個」

「そんなビックリする数じゃないじゃん。昨日もそれくらいあったろ?」

「まあ……そうだね。中身の方が恐ろしいね」

「きっとすごい権限があるんだろな。運営なだけに」

「……そうだね」

「じゃあ、それはあとで見よう。古川がやるべきことをだいたい決めてから」

「そだね。いっぺん忘れよう、これは。……あ、なんか理沙みたいだね。これじゃ」

「そういや清川もエンディングに着いたころだよな」

「だね。それはあとで理沙に聞くとして、なによその……ヒントっぽいってヤツ」

「うん。オレ、田中美月の事件がまだ生きてることに気付いた」

「生きてるって、どういう意味? ……それ」

「まだ時効じゃない。だから犯人を捕まえれば裁きを受けさせることができる」

「そうなの? ……私、時効のこととかよく知らないけど」

「亡くなった田中美月のご両親はどう思ってんのかな……」

「みっちゃんのご両親は……それこそ時効のことなんて頭にないんじゃないの? だって事故として処理されてたんだから」

「そうなんだよな……。けっこう重要な部分な気がするんだけどな、これ」

「時効のこと?」

「うん」

「じゃあ聞かせてよ。運営になっちゃった私には知る義務がありそう」

「うん。じゃ、できるだけ簡単に」

「そうだね、おねがい」

「みっちゃんの事件は、写真とかカレコレのとおりだったら、普通に考えて罪名は『強制わいせつ』か『強姦未遂』なんだ」

「そう……なるのかな」

 真琴は、自分が写真を見た時に抱いた印象……。犯人たちは強姦の意思まではなかったという意見を、あえて挟まずに聞き役に徹する。

「たとえ強姦までするつもりがなかった……つまりあの写真を撮るまでが目的だったとしても結果は同じなんだ」

「結果は……同じ?」

「強制わいせつっていう罪の時効は7年なんだ。普通なら」

「……普通……なら?」

「うん。みっちゃんの事件の場合は普通じゃない。被害者が亡くなってるんだ」

「……すると、どうなるの?」

「罪名が強制わいせつ致死傷になる。すると時効が15年間」

 説明を聞きながら真琴は計算する。
 平成7年から15年間……って、それでも平成22年で時効じゃん。
 さすがに自分が産まれる前の事件だな……。
 実感が伴わない真琴は、そんな妙な感想を抱いた。

「じゃ、平成22年で時効になったんだね」

「ならなかったんだ。それが」

「……どういうこと?」

「平成22年4月27日の刑法の一部改正で、殺人罪に時効が無くなった」

「ああ、それはけっこう話題に……って、もしかして……」

「うん。みっちゃんのケースも改正に当てはまるんだよ」

「……どういう風に?」

「あの時、殺人の時効が無くなったことが大きく話題になったけど、それだけじゃなくて、ほかの罪でも人を死亡させた場合に限って時効が長くなる決まりができたんだ」

「……何年になったの?」

「30年」

 30年……。重い響きだ。
 でも、人を死なせるような罪なんだから……。
 これは……簡単に感想を口にできない問題だな。

 でも、そっか……。こういうことを知ったうえで島田くんは法を「生き物」と言って、そして、違法すなわち悪という私の安易な見識にも釘を刺したんだ。
 あれ? でも……。
 もともと畑違い……。島田との知識の差を痛感しながらも、真琴は自分が持つ知識の範囲内で反論する。

「でもさ、なんか習ったよね。さかのぼって処罰はされない。みたいなヤツ」

「お、すげえな古川。よく知ってんじゃん」

 なんだか先生に誉められた気分だ。
 まあ、この分野に関しては太刀打ちできないから仕方ないか。

「誰かが犯した罪について、その後からできたり、その後に変えられた法律は適用されないんだよ。当たり前だけど」

「そう、それよ。そうだよね。なにかやったあとで『それは犯罪になりました』ってのはダメだよね」

「だけど、このときの刑法改正は例外だったんだ」

「え?」

「未解決殺人の遺族の声が大きかったからね。その改正の時点で時効を迎えてない事件は適用範囲にされたんだ」

「え……。ってことは」

 真琴は、ちゃぶ台の上に置かれた新聞記事の日付を確認する。
 平成7年5月3日朝刊……。つまり事件は5月2日……。

「時効ギリギリだったんだよ。この事件は」

「つまり改正がなかったら平成22年の5月2日に時効だったけど……ってこと?」

「正しくは5月1日だけどね。でも、つまりそういうこと。ギリギリだったけど、結果としてこの事件の時効は、平成37年……というか2025年まで延びた」

「でも、なんか……。あ、そうよ。この事件の犯人は、みっちゃんを殺すつもりはなかったでしょ? その辺はどうなるの?」

「殺すつもりがあったらもうそれは殺人罪だよ。それぞれの犯罪行為と、被害者の死亡に因果関係が認められれば適用される」

「ああ……それもなんか聞いたことあるね」

「うん。女の子が襲われる事件に限らなくて、人が襲われるたぐいの犯罪だと、かなりの割合でその〝因果関係〟ってのが争点になってる。そしてこの田中美月の事件に関しては完全にアウト、言い逃れの余地がない」

「そうなんだ。……ま、そうだよね。それに、溺れてるみっちゃんを見捨てて逃げたんだもんね」

「ん~と、そこの部分は想像しかないな。でも、もしみっちゃんが暴れて逃げだした時点で犯人も逃げた……。つまりみっちゃんが溺れてるって認識がなかったとしても成立するよ。これ」

「あ、そうか。因果関係はあるんだ」

「そうそう」

 島田の法律講座が一段落したところで、真琴は再び自分の思索に戻る。

 平成22年、時効を迎える寸前で時効が延長された事件……。
 事件自体はもう20年以上前……。

 そもそも早い段階でこの写真が警察に届いていたなら、警察は捜査していたはず。

 じゃ、この決定的な証拠が誰かの知るところになったのは……平成22年よりも後ってこと?
 でもまあ、そうとしか考えられない。

 つまり、その「誰か」の執念は平成22年以降に産まれたんだ。


「セットがお得……」

「え?」

「さっき清川が言ったヤツだよ。清川が言ったとおり、俺と古川は逆でもよかった。なのに松下刑事は俺に見せろと言った」

「……そうだね。ねえ、考えたくないけど……松下さん……」

「松下刑事が黒幕……か?」

「うん……。怪しくなってきたよね。なんか」

 真琴の主張に、島田はまったく驚かなかった。
 それが真琴の主張に同意しているからなのか、それとも驚くことに慣れてしまったからなのか、表情からは判らなかった。
 鈍い反応を示す真琴に島田が答える。

「実は今日の昼、松下さんに会った」

「え? ……島田くんが?」

「うん」

「島田くんが……なんで? どうやって?」

「王佐っていう肩書きで裏パチンコが当たるか聞きにきたって口実にした」

「でも、どうやって松下さんを指名したの?」

「『古川真琴の関係者です。松下刑事をお願いします』って、そのまんまだよ」

「じゃ、島田くんは私より前から松下さんを疑ってたの?」

「まあね。だって明らかなスタンドプレーがいくつかあるし」

「スタンドプレー?」

「うん。清川が言ったとおり、もしかしたら俺とセットで古川を特別視したんじゃないかなとも思ってた。なんとなく、だけどね」

「ああ、私だけじゃ気付かないかもしれないもんね。時効のこと。それで、スタンドプレーってのは?」

「ちょっと話が逸れるけど、いちばん初めに違和感を感じたのは、あの解析結果を俺に見せろって言ったことなんだ」

「ああ、理沙も言ってたね。逆でもよかったんじゃないかって」

「そう。古川には読み解きにくいかもって言われたらしいけど、あの解析結果はホントに簡単だったし、下手でもなかった。あれはきっと、普通の刑事がつくったんじゃなくて、専門の技官みたいな人がつくったんじゃないかな。法律の文章っぽいところなんかこれっぽっちもなかった」

「そうなんだ……」

「松下刑事が期待したのは、もちろん古川の性格とか徳のアドバンテージもあったろうけど、この事件がまだ生きてるってことを見抜ける目じゃないのかな」

「島田くんの、法学部の目……ってことね」

「そう。自分から『これは事件で、しかもまだ時効がきてないんです』って言い出すわけにいかない理由があるんじゃないかなってね。みっちゃんの記事を見つけたときに閃いたんだ」

「ん……ちょっと難しいハナシだね。まあいいや。それで結局、スタンドプレーってのはなんのこと?」

「うん。古川が借りた携帯、途中で替わっただろ?」

「え?「……ああ、うん」

「それがおかしいんだよ。どんな理由を言われて替えたのか知らないけど、協力者に貸し出した携帯をわざわざ替える必要ってのがどうしても思い浮かばないんだ」

「どういうこと?」

「たぶん、携帯を替えたときに松下さんは独断をしてる。携帯を替えた日に松下さんから何を聞かされた?」

 いまだ心の底から松下を疑う気持ちを持てぬまま、真琴は島田の問いに答えようと記憶をたどる。

「あの日は……そっか、けっこう重要なこと聞いたんだ。えっと、そうよ、それこそ学生が知らない事件の裏よ。もょもとが自演だったりとか、晒された二人が逮捕されてたこととか、賢者のこととか」

「それはたぶん、協力者にも言っちゃいけないことだったんじゃないかな。だから貸し出し用の携帯電話から別の携帯電話に替えた。もしかしたら古川は、あの捜査本部の中では重要視されてないのかもしれない」

 重要視されていないという島田の言葉に真琴は心当たりがあった。
 そうだ。松下さん自身が言ったんだ。「三中」が裏パチンコを当てて安全を確保しなきゃならない状況で私に連絡がなかった理由を尋ねたときに……。
 私の事情を知っているのは捜査本部でもごく一部……表向きはノーマーク……。
 そんなことを言ってた。
 じゃあ、ホントに松下さんが……。

「もうひとつの嘘も確かめたんだ。俺」

「え……」

 もうひとつの……嘘?
 なんの……こと?

「カレコレ自体に危険はない」

「え?」

「そもそも疑問に思ってたんだ。古川が最初の携帯借りたとき、その理由が『カレコレのプログラムが危険だから』って言われたこと」

「まさか……それも違うの?」

「だってさ、カレコレのダウンロードってあっという間だったじゃん。ホントに、あっという間。そんな複雑なもんじゃないと思ったし、学生にカレコレを始めさせる10月1日の段階で、今さらなにか仕込む必要あんのかなって」

「それ……を、その嘘をどうやって確かめたの?」

「学科にいるんだ。アプ研と付き合いがある女子が」

「あ……」

「古川が教えてくれたじゃん。アプ研もカレコレの解析してるって。だからさ、その子から聞いてもらったんだよアプ研に」

「じゃ、結果は……って、聞くまでもなさそうだね」

「うん。カレコレのプログラムは単なるゲーム。怪しげな機能はないってさ。だからこれは松下さんが古川を縛るための口実だったんだ」

 やっぱり島田くんは昨日の昼間、いろいろ調べてたんだ。
 松下さんの嘘もどうやら間違いないみたいだ。
 でも、この騒動の発端となった人を黒幕と呼ぶなら……松下さんは黒幕じゃない。

 黒幕……その実体は、きっとそんな呼称が似合わない「正義の人」……。
 それこそ松下さんみたいな人であっても不思議じゃない。
 でも、きっと松下さんは黒幕じゃないんだ。
 もしかしたら私の何代か前の「運営」だった可能性はあるけど……。

 事件は今から21年前……。
 そして今、目の前にある決定的証拠が現れたのはここ6年間のいつか……。
 みっちゃん……田中美月は、平成7年入学……。

 ん、あれ? ……そうか。平成7年ってことは……。
 お父さんとお母さんはこの大学にいたんだ。えっと……3年生、かな。
 これは……。聞いてみる価値あるな。
 ちょうどお父さんと話をしたいと思ってたところだし。
 ホントはクリアする前にアドバイスが欲しかったけど……。
 なんて言うかな「わたし、運営になっちゃった」って聞いたら。
 なんか怖いけど……後悔はしたくない。
 
「島田くん」

「ん?」

「私、ちょっとお父さんと電話してもいいかな」

「ああ、うん。……じゃ、どうしよっか。オレは」

「いいんじゃない? ここにいても。なんだか気が合いそうだし」

「それは分かんないけど……いてもいいならいるよ。このまま」

「うん。そうして。あ、そうだ。島田くんは理沙に聞いてみてよ。あっちがどうなってんのか」

「オッケー」

 自らがなすべきことは見つからぬものの、そんな話をしてから真琴は携帯電話を手にする。
 普段なら父に電話するのには相応の心の準備をしていた真琴だったが、このときに限っては動作に間断がなかった。

 電話帳から父の携帯電話番号を選んでダイヤルをタップし、真琴は待つ。

(……どうした? とうとうピンチか?)

 無粋な言葉……いかにも父らしい第一声だ。
 しかし真琴は、そこにこそ安堵の情を抱く。
 ブレない父にこと頼もしさを感じたからだ。

「ピンチってか……。運営になっちゃった。私」

(なんだ? その……運営ってのは?)

 え……「なんだ」って。運営は運営……でしょ?
 あ、そうか、もしかして……。

「えっと……。運営っていうのは、カレン運営のことだよ。解る?」

(カレン……運営? つまり例の、カレンってアプリを維持してたヤツか?)

「そうそう、そんなカンジ」

(なんだお前、犯人になったのか? ついに)

 父が電話口で笑っているのが判る。
 そこに深刻な雰囲気は微塵もない。

「……なってないよ。……話せば長くなりそうだけど、この騒ぎの結末を委ねられたみたいなもん……かな」

(それじゃ運営でもなんでもないじゃないか)

「え……」

(つまり俺がお前の部屋に行ったときに見た〝優等生〟ってのが〝運営〟になった。そういうことか?)

「あ、うん、そう」

(でもお前はその、カレンを本当に〝運営〟する作業をするはめになったわけじゃないんだろ?)

「そう……だね」

(まあいい。その言葉には重さがあるんだろうからな。結末を委ねられたってことは、広大の騒ぎが上手く収まるかどうか、お前の肩にかかってるってことか)

「そんなカンジ……かな」

(結構なことだ。お前の好きなようにしろ)

 好きなようにって……。
 なんだか喜んでない? ……お父さん。
 真琴はそれをそのまま口にする。

「なんか喜んでない? お父さん」

(ん? 喜んじゃいけないのか?)

「そんな気分じゃないんだけどな。……私は」

(じゃあ聞くが、お前はこの1週間、どこを目指してたんだ?)

 ……さすがに父だ。と真琴は思う。

 考えようによっては、目指していた場所に着いたのかもしれない。
 じゃあ、私が嬉しくないのは……どうしてだ?

「なんか……なんかね、重いんだ。その……委ねられたものが」

 ここで初めて父が間を置いた。
 そういえば、お母さんもいるのかな? ……家に。
 父が黙ったので、真琴は続けて尋ねてみる。

「お父さん。今、お母さんと一緒?」

(いや、まだ職場だ。仕事が捌けなくてな)

 まだ職場にいるんだ、お父さん。
 そういえば今、何時よ。

「お父さん」

(ん?)

「今……何時?」

(あ? ……え~と、22時45分……か。……お前、まさか時間も分からないほど追いつめられてるのか?)

 ここで初めて父の声に心配の色が混ざった。
 安心させなくちゃ、と反射的に返事を返す。

「ううん。そんなんじゃなくて、今日はなんか、時間を気にする間もなかったみたい」

(……大詰め……なんだな?)

「うん……そんなカンジ」

(それで? ……めずらしく俺になんの用なんだ? ……まさか俺に孫ができるのか?)

 …………。
 似たもの夫婦だよな、ある意味。
 言葉は違うけど、あの日、すがる思いで電話した私にお母さんも言ったんだ。
 〝なに? 赤ちゃんでもできた?〟……って。
 でも……うん。安心させる効果は抜群だ。

 電話してよかった……。真琴はそう思う。
 父と言葉を交わすたびに地に足がついていく心地に浸る。
 まだ何ひとつとして話すべきことを語っていないのに……。

(それで、なんなんだ? その……重いものってのは)

 父の方から本題を切り出す。
 これも絶妙……。真琴は、まるで己の呼吸と心理を読まれているような感覚になる。

「平成7年、お父さんは大学にいたんだよね?」

(そうだな。……3年、か)

「春に女の子が池に落ちて死んだ事故、憶えてる?」

(ああ……なんか、あったような気もする。それがどうかしたのか?)

 あったような気がする……か。
 つまり、強烈な印象に残っているわけではないんだ。

「簡単に言うとね、事故として処理されてたその件……事件だったんだ」

 電話口の父が黙る。今日は2回目だ。
 話が確信に入ったのが伝わった……。
 真琴にそんな手応えを与える沈黙だ。

(……時効を、逃れたのか)

 すごい。さすがお父さんだ。
 でもまあ、検察庁で働いてるんだから、ある意味ではプロなのか。
 それにしても、あっという間におおむねのことが伝わった回答だ。

 父を称える言葉を口にしようとしたとき、父が先に疑問を投げる。

(どっちだ?)

「え? ……どっちって……なに?」

(廃止の方か? それとも……30年の方か?)

 ……ああ、そういうことか。
 殺人事件だったら時効そのものがなくなったんだ。


「えっと、30年の方……だね」

(それが判ってるってことは、お前の手元に証拠があるんだな?)

 うお……。なにこの伝わり方……。
 言葉のひとつに油断ができない圧を感じる。
 それこそ理沙の「刑事ゴッコ」とは比べようがない。

「すごいねお父さん。ホントの取調べみたい」

(本物の取調べを受けたこともないくせに滅多なことを言うんじゃない)

 うわ、これ……怖い。
 いきなり追いつめられてる気分だな、これじゃ。

「……ごめんなさい」

(と、まあ……こんな感じで主導権を握るのが取調べだ)

 え? あれ? ……なに? もしかして、からかわれたの? ……私。

「お父さん」

(なんだ?)

「もしかして、今、からかった?」

(そうだ。べつにおまえがなにか悪いことをしたわけじゃないんだろ?)

 ……逆らえないな。とても。

 父にあらためて畏敬を覚えると共に、真琴の心は刹那、高校卒業までの家庭生活に飛び、生活を共にしてきた期間の父を思い出す。

 小学生までは厳格で、有無を言わさず真琴を叱りつけていた父。
 中学生になってしばらくして、真琴が生意気を利き始めてからは逆に優しくなっていた父。
 そして高校時代母の後ろに回って真琴を支えるようになっていた父……。

 真琴の中で、今、電話の向こう側にいる父は、そのいずれとも違っていた。
 一瞬の回想を経て、真琴は口を開く。

「だから、この事件を警察に……告発っていうのかな? それをしようと思うんだ」

(それがこの騒ぎの大因だってのか?)

「とりあえずは……うん。そう思う」

(その決定的らしい証拠がどうやってお前の手元に届いたのか、その経緯はどうでもいい。だけど眠っていた理由は判ってるのか?)

「え、それ……が、まだよく判んないんだ」

(解せんな。それは)

「そう……だね」

 どうやら父の関心も、この「真実」が誰かの手にありながら、なおかつ秘されてきたことに向かったようだ。

 真琴はここで、真琴がこの1週間にやってきたことの概要を父に説明した。
 一昨日にも話をしていたので、父もおおよそのことは周知であり、ほとんど聞き返されることなく父はすべてを理解した。

(まあ、たしかになにかあるな。その松下とかいう刑事には)

「うん。でも、それがなんなのかぜんぜん判んないし、いい人なんだよ。とっても」

(お前が言うように、その証拠……ネガか……が人の目に触れたのは最近、それこそお前が使ってたその、なんとかいうアプリが出てきた直前なんだろうな)

 アプリの名前は憶えてないのにこの理解……。
 ホントに必要な情報だけ採り込むんだな、プロって。

 あ、でも……。
 真琴はここにきて、父がアプリの名前に頓着がないことに気が付き、そして思い出す。
 エンディングに込められていたメッセージ「憐れむべし」を……。
 そして、それについては父に説明していなかったので補足のように父に伝えた。
 すると、父は意外なことを言い出した。

(真琴、告発するのはいい。それはそれで犯人の目的のひとつなんだろう。告発先は、それこそお前が接触してきた刑事がいいんじゃないのか)

「え? いい……のかな。松下さんで」

(いい。向こうもそれを望んでるはずだ。そして、決定的な証拠と共に告発がなされたなら、警察には捜査をする義務がある)

「……そうなんだ」

(正しくは捜査をして、その結果を検察官に報告する義務、だけどな)

「お父さん……なんかカッコイイね」

(…………そんな口を叩くくらいなら、まだ余裕がありそうだな)

「うん、お父さんと話したおかげだね」

(……そりゃ……よかったな)

 電話の向こうで、柄にもなく父が照れている雰囲気があった。
 だがその表情にまでは想像が及ばず、真琴はこれが電話であることを惜しんだ。
 気を良くしたのか、父が意外な報告を始める。

(それはそうと真琴、あのな)

「ん? なに?」

(まあ、親の仕事なんて興味ないかもしれないが、俺は来年から仕事が変わる)

 え……。なにその重大発表……。
 転職する気配なんて、今までぜんぜんなかったのに……。

「……転職、するの?」

(違う。副検事になるんだ。いちおう身分は検察官に変わる)

「え……それって、今の職場で偉くなるってこと?」

(偉くなるっていう言い方は好きじゃない……というか語弊があるとは思うけど、お前が受験勉強してるのを見て……な、俺も勉強したんだ。20年ぶりに)

「すごいじゃん。おめでとう」

 父の吉報を真琴は心から喜び、それを言葉にする。
 そして報せが不意であっただけに、これが中学生の頃の自分であったなら「おめでとう」の言葉が素直に言えていないだろうなどと、不意に自身の変化に思いが飛んだ。
 電話口の父は、さすがに「ありがとう」とは言わない。
 なので父は話題を変えてきた。

(それはそうと、今、大学に詰めてる捜査本部の頭は大塚、だろ?)

「え? ……えっと、うん。たしかそんな名前だった、かな」

(そいつは広大を出てる)

「え……そうなの? でも、お父さんより歳上に見えたよ」

(直接の知り合いじゃないし、歳は……1つ上、かな)

「直接の知り合いじゃないなら、なんで知ってんの?」

(……お前、俺がどこに勤めてるか知ってて言ってるんだよな?)

「……つまり、検察庁でもこの騒ぎが話題になってるってこと?」

(いや、大っぴらにはなってない。でも重要事件だからな。捜査するのは警察、方針を立てるのは検察庁だ)

「そっか……」

 検察と警察の関係……。これも学校で習ったような気がするけど、具体的にイメージしたことは一度もなかった。
 まだまだ知らないことだらけだな、私。

(それで、お前は告発するんだな? その事件を)

「うん、そのつもり」

(するなら早い方がいい。きっと待ってるはずだ)

「待ってるって……誰が?」

(本当の意味での犯人に決まってるだろ。聞き飽きたかもしれないが、この騒ぎは人質誘拐みたいなもんだ)

「そうだね。そう言われてるね」

(それで犯人の目的が、事情は知らんが事件の告発なんていう正当行為なら、迷う必要はない)

 ……断言してる。
 そうか、さっきお父さん……。

「これ、告発は目的のひとつって言ってたね。お父さん」

(そう。おそらく先がある。だから俺と話してるヒマがあるなら行動だ。俺の耳に入ってくるのは、広大で起こってる学生同士の事件ばっかりだからな)

「え? ……そうなの?」

(そうなの? じゃない。そんなことも知らないのか?)

「知らないよ……」

 まあ、大学がアブない場所になってるのは重々承知のつもりだけど……。
 今日は朝から隠れてたしな……。

(本当に知らないのか。……まあ、小さい事件なんてそんなもんか。当事者しか知らないまま終わる。ほかの学生の耳には入らないのか……)

「つまり、このカレン騒動の煽りで、ケンカがたくさん起こってるってこと?」

(簡単に言えばそうだな。ケンカなら傷害、あとは恐喝、強要……。小さな事件が山ほど起こってる。それこそ数えきれないんじゃないか? 微罪なら検察に数字が来るのは翌月だしな)

「そうなんだ……」

(そのうえな、小さい事件でもややこしかったりするから警察はきっとパンクしてる)

「小さくても……ややこしい?」

(たとえば……そうだな。この騒ぎを機に今までの貸しを……なんて強要の場合、どっちが悪いのか分からん。かかる手間だけはいっぱしの事件だ。めんどくさいからあとは自分で想像しろ)

「分かった。じゃ、最後に確認するけど、告発するときはホントに松下さんでいいの?」

(むしろそれ以外の人間に告発したら、すべてがパーになるのかもしれないぞ。なにしろお前を特別な者にしたのがその刑事なんだからな。事情は知らん。事情は知らんがそれが筋書きなんだろう。筋書きにない行動をするなら安全になってからだ)

 言われてみればもっともだ。
 松下さんがどういうかたちでこの騒動に関わっていたとしても、今は松下さんの思惑どおりに動かないといけない。

 それに、私も松下さんに会って聞きたい。
 真実の……裏側を……。


 父との通話を終えた真琴に残ったものは、涼しい覚悟だった。

 不安は去り、進むべき道は示された……。
 しかも「早い方がいい」と……。

 どうしてこうまでも、自分の周りにいる人は頼もしいんだろ……。

 とりわけ9月28日以降、おのれの評価が定まらぬ真琴は自らを省みることが至難であるが故に、自分を取り巻く人たちが見せるものに発見ないしは敬服し続けてきた。
 とりわけ「発見」の側面が強いのだが、騒動のなかにあって「発見」は、いずれも自己にないものを見つけるかたちで不意に訪れるものであったため、発見のたびに真琴はおのれの評価を下げてきた。
 つまり、自覚のないまま少しずつ自分を過小評価していたのだ。
 あくまで相対的に……。

 だが当然、今の真琴にそのような心理を自己認識する余裕もなければ時間もない。
 しかし、それこそ無自覚のまま夕刻以降に交わした理沙、そして島田との会話は真琴に自信を取り戻させた。

 そして今、父との会話は真琴に勇気を授けた。

 逸る気持ちを抑えながら、通話を終えた真琴は島田に告げる。

「島田くん」

「うん」

「連れてって。……大学に」

 島田は異を唱えることなく台上の「真実」をまとめ始める。
 それは王を支える者の動きだった。


 原付バイクの後ろでふたたび島田の腰を抱きながら、真琴は島田に相談する。
 軍議は途上……。歴史ドラマのセリフのようなフレーズが真琴の脳裏をよぎる。
 それは程良い陶酔に似た、なにかを成し遂げようとする者の昂ぶりだった。

「理沙はどうなってる?」

「パチンコ当てた。順調にカネ増やしてるよ」

「……エンディングは?」

「ぜんぜん違ってた。龍が出てきて憐れむべしのメッセージまでは同じだったけど、そのあとの『運営』ってキャラのくだりがないまま通常画面に戻ったらしいよ」

「じゃ、そこまでが誰にでも用意されたエンディングなんだね」

「だな。でも弔花でみっちゃんの弔いをしたら清川の蝶も真っ白になって、肩書きも変わったらしい」

 ……肩書きまで確認したのか、理沙は。
 なんだかんだでホント冴えてるよな。

「どんな肩書き?」

 堂々と違反をしながら深夜の県道を征く鉄の馬を駆りながら、王佐は思案する。

「……ゴメン。忘れた」

「そっか。ねえ島田くん。大学で今、事件がたくさん起こってるの知ってた?」

「うん。それとなくね」

「……そっか。私、ぜんぜん知らなかった」

「きっと要らない情報だったんだよ。古川には」

 この島田の言葉からも、真琴は「発見」をする。
 そう、そうなんだ。「要らない情報」もあるんだ、世の中には。

 島田くんが理沙の肩書きを憶えてないのも……。
 記憶が良いと言い張る理沙だって言ってた。「必要な情報だけ自動で選択」って……。

 なにもかもを把握するなんて、どだいムリなんだ。
 そして私はこの1週間、主に必要な情報だけを注がれてきた。

 その意を質さなきゃいけないんだ。……まずは。
 それを知らずして、この「運営」は動いてやらない。
 ここまできたらもう、むこうだって拒めないはずだ。

「ねえ島田くん」

「うん?」

「私……運営じゃないよね」

「……古川がそう言うんなら、そうだ」

「そして松下さんは運営か、少なくとも本当の意味での運営を知ってるよね」

「それを問い質しに行くんだろ? ……それに答えないなら、あとは古川の意思次第だ」

「答えてくれるかな?」

「くれると思う。……俺はね」

「そっか……。うん、そうだね」

 あとはぶっつけ本番だ……。
 なんにも心配いらないんだ。
 適法違法の話じゃないから。
 対峙するのは悪意じゃない。

 それからしばし静かな思いで身を預けていた真琴の視界が、今なお明るい大学の灯を捉えた。

 目的の場所に到着し、真琴はバイクを降りる。

 工学部食堂……警察の捜査本部の前まで二人乗りで来たが、誰からも咎められることはなかった。
 警察関係者と思われる人間ともすれ違ったのに、だ。
 それがたまたまなのか、それとも構内の情勢を反映しているのか判然としなかったが、それも些事のひとつ……「要らぬ情報」であると真琴は理解した。

 真琴を降ろした島田はバイクに跨ったままだ。
 明らかに真琴の指示を待っていた。
 その姿が真琴に自信を植え付ける。

「島田くん。一緒に来る?」

「古川が決めてくれ」

 ヘルメットを脱いだ島田の表情は穏やかだ。
 真琴の脳裏で9月28日の母の姿と重なる。

「じゃあ、うん。島田くんはたぶん、理沙よりも私に近いエンディングが出ると思うから、まずはクリアしてよ。カレコレ」

「分かった。それから?」

「それでね、あ、もちろんみっちゃんの弔いに行ってからだけど、売店で『例の雲』買ってよ」

「……ああ、あったな、それ。でも、解けるかな……俺に」

「度外の命ではない……でしょ? 王佐の人なら」

 真琴は、自分が持つ歴史上の「王」というイメージを表情にしてみせた。

「ま、やってみるよ」

「うん。解らなかったら連絡して。……メールで」

「うん」

「あ、いや、そっか。解っても連絡して。その……結果を」

「おお、なるほど。……御意」

 御意……か。島田くんも乗ってきてくれた。

「……と。じゃ、行ってくる」

「御武運を」

 優秀な参謀に見送られ、真琴は捜査本部の入口に向かう。

「あ、そうだ」

「……どうした?」

「やることなくなったらでいいんだけど……」

「なに?」

「カルマトール1000の大人買い……しといて」

 戦地に赴く真琴の言葉に、島田は一瞬だけ意外を表す。
 しかし、すぐにその気配は収まった。

「先を……考えてるんだな? もう」

「……ちょっとだけね」

「分かった。とにかくやってみるよ」

「うん。じゃ、またあとで」

 そうして今度こそ真琴は、捜査本部の入口を開いた。


 捜査本部となった食堂内は、おそらく日付が変わろうとしているこの時刻にあっても喧噪に包まれていた。
 これまで真琴が松下と話をしていた仮設の〝取調べ室のような部屋〟は3つほど設けてあるのだが、いずれもドアが開放された状態で使用中……。学生が取調べをうけているようだった。

 門外漢ながら真琴は、ドアが開放されたまま取調べが行われていることに違和感を覚えるが、素早く全体を見渡してその理由を知る。
 この食堂の全部が取調べ室になってるんだ……今は。
 見れば室内の至るところに学生らしき若者の姿があり、制服私服を問わず警察官から事情聴取を受けているのだ。

 これが実情……。お父さんが「パンク」、そして島田くんが「古川にとって要らぬ情報」と称したものの実態か……。
 手が空いているような刑事の姿は見当たらず、むしろ事情聴取を待つ学生が自分の順番を待っているようであった。
 
 普段の真琴であれば気後れしそうな状況だが、すでに自覚をまとう真琴は、まっすぐ目的に向かって動き出す。
 まさに今、顔を腫らした学生から事情を聴いている刑事に背後から声をかける。
 
「失礼します」

 この真琴の呼びかけを身内のものであると思って振り返った刑事の顔が、瞬間で怪訝なものになる。

「……なに?」

 いかにも真琴を事件の関係者……警察の手を煩わせている学生のひとりであると認識したようだ。
 ひらがな2文字で表せる問い返しには「引っ込んどけ」という意味が汲み取れた。

 すごい迫力……。この人も「プロ」なんだ……。
 だけど、それに勝る重要事項が私にはある。

「松下刑事をお願いします」

「あ?」

「松下刑事をお願いします」

 真琴は繰り返す。
 自分の凄みに怯まない真琴を認めて、問われた刑事は体を真琴の方に向ける。

「松下部長は取調べ中だ。終わるまで待っとけ」

「古川真琴が来たとお伝えください」

「ああ?」

「古川真琴です。古川真琴が来ていると松下刑事にお伝えください」

 二十歳に届かない華奢な小娘が自分の威圧に一向に怯まない様をみて、さすがに刑事は感じたらしく「ちょっと待ってろ」と言い残して取調べ中の部屋のひとつに向かう。

 そして部屋から出てきたのは、入っていった刑事ではなく松下だった。
 部屋を出た松下……そこにいつもの柔和な表情はなかった。
 険しい表情のまま近付いてくると、真琴より先に、先刻の刑事に事情聴取を受けていた学生に告げる。

「悪いけど、ちょっと待っててもらえる?」

 学生は、事態が飲み込めぬまま「はい」と返事をした。
 それを確認してから松下が真琴の方に向き直る。
 あ、松下さん……怪我してる……。

「お待たせ古川さん」

 精魂尽き果てたかのような憔悴ぶりであるにも関わらず、真琴に語りかける松下の口調はやはり優しかった。
 やっぱり……やっぱりこの人は「悪」じゃない。
 真琴はまずそれを確信した。
 そして松下に挨拶をする。

「いえ。私の方こそ…………お待たせしました」

 真琴の言葉を受け、松下に得心が浮かぶ。
 そう、これが筋書き……。

「場所を変えた方がいいね。ここは……あんまりだ」

「それはお任せします」

「うん。……じゃあ、出ようか」

「はい」

 松下は、真琴を促しながら食堂を出て、駐車場に向かう。
 食堂を出てすぐ、先刻の場所に留まり携帯電話を睨む島田を認め、松下が言う。

「彼氏は……一緒じゃなくていいの?」

 そっか……面識あるんだ。
 でも、これは私の問題だ。

「はい。構いません」

「そう……。じゃ、いいのかな? 車で行くよ」

「はい」

 松下がキーレスで解錠した白い捜査車両……。
 真琴は助手席に乗り込もうとしたが、松下はそれを制して後部座席のドアを開けた。
 真琴は促されるままに乗車する。

 車両が発進し、まず口を開いたのは松下だった。

「よかったよ。古川さんが選ばれて」

「そうですか。でも、ずいぶんお待たせしちゃったみたいですね」

「そんなことないよ。思ってたよりもずっと早い。見立て違いは……そう、大学の秩序がこんなに早く壊れたことだね」

 ……そっか。そればかりは予測し難いものだったのかもしれない。

「パンク状態……ですね?」

「うん。カレンの捜査どころじゃなくなってきた」

 大学の秩序……か。
 それを取り戻すのが先かもな。

「松下さん」

「ん?」

「大学の秩序を回復しましょう。……先に」

「……どうやって?」

「『警察が運営を確保した』……それを流してもらっていいです」

「……なるほど。たしかに収まりそうだね。それは」

「でも条件があります」

「うん。なに?」

 真琴の言葉を受ける松下の表情には悲観も悪意もない。

 むしろ真琴に近い……。目的の完遂が近い者の顔だ。
 それを見て、真琴は自分の想像が正しいことを知る。

「運営は、田中美月の事件を告発する用意があります」

「……その物腰、ウチの新米に見習わせたいね」

「条件はひとつです」

「どうぞ」

「松下巡査部長が、運営の質問に嘘偽りなく答えること、それだけです」

「分かった。約束する」

「……ホントですか?」

「うん。むしろ聴いてもらいたいくらいなんだ。それも想像に難くないよね?」

「そうですね。じゃあまず、先に捜査本部に報せてください。運営確保の報を」

「……どこまでもいい人なんだね。古川さん」

「え……なんのことですか?」

 まるで今から松下が「悪」に豹変する可能性もあるような、含みのある言葉だった。
 お人好しと言われたようで真琴は一瞬、身構える。

「あ……ああ、ごめん。ヘンな意味はないよ。真っ先に飯場に報せろってことは、ここにきても古川さんは大学……学生のことを考えてる」

「……おかしいですか?」

「いや、安っぽい言葉でいいなら……そう、感動してるよ。本当に。古川さんでよかった……。うん、ありがとう」

 ありがとうと言いながら、松下は携帯電話を取り出す。
 そして、ハンドルを片手に携帯電話を操作する。
 ここにもある……。法を超えた正義が。

「松下です。とり急ぎ一報です。たった今、運営のひとりを確保しました。……ええ、はい。……ええそうです」

 今、松下さんが話をしているのは、きっと捜査本部の責任者……。
 お父さんも名前を知ってた、あの大塚っていう人だ。

「それで班長。運営の意思です。確保された運営は、自分が確保された報せをもって学内の秩序回復を望んでいます。……はい、間違いありません。本人の意思です。よろしくお願いします。詳細は後刻で……はい、失礼します」

 大塚との通話を終えた松下は、ゆっくりと携帯電話を助手席に置き、真琴に切り出す。

「こんなに早く……というか今日、しかも夜でも来てくれるとは思ってなかったから、場所を用意してないんだ。どうしようか」

「私は……このままでもいいです。お話できるなら」

「このままって……車で?」

「はい、もちろん。ほかの誰にも聞かれないという意味では、けっこう悪くない条件ですよね」

「うん」

「たぶん松下さんは、最初から車で話をするつもりだった。……違いますか?」

「え?」

 真琴の言葉の意味を量りかねる松下の返事、それを無視して真琴は助手席……松下がそっと置いた携帯電話に手を延ばす。
 そして携帯電話の状態を確認する。

 あれ? ……なにも起動してない。

「……ごめんなさい。私の考えすぎでした」

「いや、いいんだ。それだけの警戒を養うだけのものがカレコレとカレンにはあった」

「それだけじゃないです」

「うん、分かってる。それだけ僕が疑わしいんだよね」

「はい」

「たしかに古川さんが言うとおり、僕には抱えているものがある」

「はい」

「でもそれは今日、古川さんに話すために抱えてきたんだ。隠すことはなんにもない」

 すんなりいきそうな雰囲気……。
 でもこれはまだ筋書き……松下さんの空間だ。

「それって、田中美月さんの件を告発する材料を委ねられた人に……ってことですよね」

「そう。それが誰であれ僕は話をすることになってた。でも本当に、それが古川さんでよかったと思ってるんだよ」

 話をすることになってた……か。
 筋書きを書いたのは自分じゃない……。
 そう言っているようにも聞こえるど……。
 それはわざわざ聞かなくてもいいかな。

 真琴は素早く尋ねるべきことがらの順序を定める。

「今から嘘はナシです。松下さん」

「分かった。どうぞ」

「今、私に与えられた『運営』という肩書きは、これまでの運営と違って、最後に目的を果たすために用意された形式だけのもの。そうですよね」

「それは、いきなり……なんとも言えない質問だね」

「ヘンな言い逃れは認めませんよ。今日だけは」

「もちろんそのつもりなんだけど……。じゃ、言い方を変えよう。そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」

「……どういう意味ですか?」

「田中美月の件は大きい。それこそ、許されることじゃない」

「はい」

「古川さんなら、おおよそ察しがついてると思うけど、運営はひとりじゃない」

「はい。さらに言うなら何代も変わってきたんじゃないかと思ってます」

「……そうだね。その言い方が近い」

「今まで運営として関わった人すべてを運営と呼ぶなら、松下さんもそのひとり。それでいいですか?」

「……うん。それは、そうかな。うん、それでいい」

「どうして濁った言い方になるんですか? ハッキリしてくださいよ」

「あ、ゴメン。……うん、僕は運営のひとりだね」

 順序を決めたはずなのに、松下さんの答え方がハッキリしないから思ったように進まない。

 やっぱり私に取調べのまねごとは無理があるのかな。
 しかも刑事相手に……。

 あ、もしかして……。

「松下さん」

「うん」

「最後を託されたのが私でよかったというのは本心ですか?」

「本心だよ。古川さんのさっきの質問でいうなら、僕は運営だ。運営が積み上げてきたものが報われることを願う者として、古川さんでよかったと思ってる」

「じゃあ質問を変えます。私を選んだ……いえ、私が選ばれるように誘導したのは松下さんですよね」

「できるだけ古川さんが選ばれるように努力、というか……そうだね、誘導したのは僕だ。でも決定したのは僕じゃない」

「それは松下さんが私に『今の運営』と説明していた、その、徳の上位にいる『委ねる者』と『助言者』が私を選ぶように……え? 努力……ですか?」

「そうなんだよ。運営が決定権を学生に投げたから、不確定要素が入った。でも僕は古川さんを適任者と見ていた」

「じゃ、ホントに……私に決めたのは4人の学生の判断だったんですか?」

「そう。僕はその人たちと話をしたこともない」

 それじゃキリがないのか……。
 過去の……おそらくかなり初期の運営だった松下さんと、私を選んだ直近の運営には繋がりがない……。
 でも、これは確認しとかなきゃな……。

「私にネガを届けたのは『委ねる者』、つまり私の前の運営なんですか?」

「ああ……あの、事件を裏付けるネガを実際に持っていたかってこと?」

「はい。そうです」

「そうだよ。あのネガは、古川さんに委ねた人が持ってた。……と思う」

「その人は、どうやって手に入れたんですか?」

「そのひとつ前の運営……ってことになるね」

「それは誰なんですか?」

「僕は知らない」

「本当ですか? それは」

「うん。そのように進められてきたからね」

 そのように進められてきた……。
 知らないように……ってことか。

「……どこまで……知ってるんですか?」

 ここで松下が表情を和らげる。
 そこには少しの落胆が滲んでいたが、視線を遠くに投げて間を置き「……でも、無理もないか」とつぶやいてから真琴に問う。

「古川さん。やっぱり、僕が古川さんの質問に答えていくよりも……」

「僕の話を聞いてくれ……。ですか?」

「うん。……やっぱりその、正確に知ってもらいたい」

 正確に知ってもらいたい、か。
 たしかに、いざこうして私が松下さんから聞こうとしても、松下さんの答えを予測してないから、ちっとも進まない。

 でも……。
 真琴はここで最後の抵抗をする。
 
「そこに……そこに嘘は混じらないんですか?」

 この言葉に松下が笑顔で応じる。
 それは本当に喜んでいるように見えた。

「うん、誓うよ。嘘は入らない。……あ、そうか、僕が初めて古川さんと会ったときの……アレと一緒だよ。うん」

「……なんですか? ……アレって」

「古川さんは、僕がカレンについて質問し始めてすぐ僕に、まず教えられることをぜんぶ吐けって言ったんだ」

 真琴は急いで記憶をたどる。
 しかし、そんなことを言った覚えは見当たらなかった。

 あのときは、たしかにちょっとテンションがおかしかったかもしれない。
 でも、そんなこと言う? ……私が。

「……私、そんなこと言ってません……よね」

「ん? ああ、うん、そうだね。言い方は全然違ってた。でも確かにあのとき古川さんは、僕が教えられることを先に教えてくれって言ったんだ。……関心したよ。もしかしたら、あの瞬間が分水嶺だったのかもしれない」

 松下の言葉で真琴の記憶が喚起される。
 たしかに、そんなことを言ったかもしれない……。
 でも、分水嶺って……。

「つまり私を、最後の運営の適任者かもしれないって感じたんですか?」

「うん。一目惚れだったね。もう」

「…………松下さん」

「うん」

「嘘はナシ……って言いましたよね、私」

「言ったね」

「なんですか? その……一目惚れって……」

「そのまんまだよ。嘘はない」

「……それはその……適任者として、ですよね」

 少なからぬ好意を抱いていた相手から、突如「一目惚れ」などと言われ、真琴に動揺が走る。
 口で真意を問い返しながら、心はなにも考えられない状況で、だた動揺を抑えることだけに全身が奪われていた。

「どう取るかは古川さんに任せるよ。……これから話すこともね」

 あ……。今、どれくらいの間があったんだろ?
 ……ダメだ、こんなんじゃ。考えなきゃ、考えなきゃ……。
 そう、これから話すこと……それだ。

「…………続けてください」

 先を促すだけの返事……。
 真琴はそれを、やっとの思いで口にした。
 
「うん。僕がどう関わってるのか、核心を先延ばしするつもりはないけど順番でいいかな? 話す順序は」

「……はい」

 順番どおり……なら、なんの問題もない……。
 問題ない……。

「だいたい4年前、ひとつの使い捨てカメラが県内の写真屋さんに持ち込まれた」

「…………。」

 真琴は返事を返せない。
 せめて沈黙すること……口を挟まないことで「聴いていること」を訴えた。
 そんな状況は慣れているのか、あまり間を置かずに松下は続ける。

「たまたま、だったんだ。ホントに。持ち込んだのは40代の夫婦、念願のマイホームが完成して、それまで住んでた賃貸のマンションから引っ越すときに出てきた『なにを撮ったのかも憶えてない』使い捨てカメラ。たしか10個くらいあったんじゃないかな」

 真琴は沈黙を続けるが、少しずつ話が耳に入るようになってきた。
 しかし、まだ問い返す余裕はない。

「そんな使い捨てカメラが10個もあるって状況が、『ズボラな人たち』なのか『きちんとした人たち』なのかは僕にも判らない。でもその人たちが広大にいた頃って、ちょうど世の中のカメラがフィルムからデジタルに移り変わる頃だったみたいなんだ。現像しないまま捨てるのも気持ち悪いし、もしかしたら懐かしい写真が出てくるかもしれないし。とにかくその夫婦は店に現像を依頼したんだ」

「……はい」

 やっと返事できた……。
 ……要は広大の先輩ってことね。その夫婦は。

「もう想像できると思うけど、その中にあったんだよ。……とんでもない写真が」

「はい」

 つまり、私が持ってる写真のことだ。
 ……どうなるの? そういう場合。

「写真屋さんはビックリだよ。ごくごく普通の夫婦が持ち込んだ懐かしい使い捨てカメラの中に、その、例の写真があったんだから」

「……そうですね」

「こういう場合……あ、違うな。えっと、わいせつな写真の現像依頼がきたときは、通常の対応なら『これはお渡しできません』って説明してネガは廃棄するみたいなんだ」

「そう……なんですか」

「うん。デジタルばっかりになっちゃったからイメージしにくいかもしれないけど、わいせつな写真イコール犯罪とはならないんだ。……なんというか、趣味……の場合もあるから」

 うん……解る。……理沙のおかげで。
 松下さん、聴くのも上手なら説明するのも上手だな、さすがに。

「……解ります」

「うん。でもこのときは、映っているものが映っているものだけに、写真屋さんは夫婦に説明するより先に警察に持ち込んだんだ」

「解ります。……よく」

 真琴の返事になにか感触を得たのか、そこから先は松下の説明にリズムが生まれた。
 それはまるで講義を聴いているような、真琴をして「説明する準備はできていた」ことを理解させるだけの整然さを備えていた。

 ホントに、このときのために用意してたんだ。
 なにも見ないで説明できるだけの……執念……。

 松下は理路整然と説明し、それを真琴は余すところなく吸い込む。

 約4年前のできごと……。
 持ち込まれたネガを見た警察官は、即座にそれが事件の証拠であると判断した。
 なので現像を依頼した夫婦には他の写真だけを渡し、問題の写真については一切言及しないよう写真屋に指示した上で警察官はネガを預かった。

 もともと10個もあるカメラの内のひとつ……しかも古い物であるので「現像できなかった」という写真屋の説明に、夫婦はなんの疑問も抱かなかったらしい。
 
 そして警察は、写真に写るものがいつ発生した事件なのか緊急かつ隠密に捜査を行い、すぐにそれが平成7年の「田中美月の溺死事故」にかかるものであると特定した。
 特定と同時にこの事件が「時効延長」の対象となることを知った警察は、少数の特命チームを組んで捜査を行った。
 
 写真屋に現像を依頼した夫婦が完全な「善意の第三者」である可能性が否めないことや、遺族たる田中美月の両親の心が「事故」で決着して20年近く経過していることなどから、捜査は非常にデリケートに行われた。

 結果として、現像を依頼した夫の方が田中美月の先輩として問題の肝試しを行ったサークルに所属しており、このとき肝試しに参加していた学生は「事故」の責任として数週間の謹慎に併せて謹慎期間中に反省文の提出という処分を受けたようだ。
 軽率な享楽がひとつの命を奪った自責もあり、学生個々の処分とは別に、サークルは自主的に解散したらしい。
 
 ここまで聴いて真琴は、一連の処分について「無理からぬこと」という感想を抱いた。
 これら学生に対する処分などについては、大学に残る卒業生の記録により判明した部分が大きいと松下が補足したが、真琴はそれにも納得できた。

 カメラを持ち込んだ夫が犯人である可能性もあれば、サークル内の誰かによる犯行である可能性が大きいが、当事者たちにそれを追及するリスクは小さくない。
 肝心の遺族……田中美月の両親の中で重い決着が付けられている「娘の死」なのだ。判明した事実をもって蒸し返すには慎重な判断を要する。
 20年近くの歳月を経て、さらに絶望を届ける事実だからだ。
 
 犯人が特定できるならば遺族に報せよう……。
 そういう方針のもと、サークル関係者に接触しないままの捜査が行われたが、結果として犯人は不明……少なくともサークルの関係者ではないとの結論に至った。

 ここで真琴はようやく質問を挟む。

「それで……ネガはどうなったんですか? どういういきさつで今、私の手にまわってきたんですか?」

「うん。このときの写真屋さんは犯罪の告発ではなくて、相談というかたちで警察に来たんだ」

「……はい」

「だから写真屋さんにはひとこと『こないだの写真の件はくれぐれも内密に』と言うだけで足りたんだよ」

「……そうなんですか?」

「古川さん。今の時代だと想像つかないかもしれないけど、写真屋ってのは、口が堅くなきゃ務まらない仕事なんだよ。みんながフィルムを写真屋に持ち込んでた時代に、お客さんの私的な写真を現像するのが仕事だったんだからね」

「あ……そっか。そうですよね」

「そうなると、あとは警察の問題。捜査に携わった人間の中でも意見が分かれたんだ。今からでも正式に押収の手続きをして捜査を継続するべきっていう意見と、犯人は許し難いけど遺族の平穏を乱してまで捜査する方が残酷だっていう意見と」

「……結局、捜査を中止する方向になったんですね?」

「そう。それが当時の責任者、西條署の刑事課長の決断だった」

「え? 西條署って……。そんなに大学の近くなんですか? その写真屋さんって」

「いや、近くないよ。県内だけどね。でも事件が広大だからネガがまわってきて捜査をしたのは当時の西條署の刑事課だよ」

「ああ、そうなんですね。それでネガはどうなったんですか?」

「廃棄することになった。正式に……っていうか、提出の書面を作っていれば簡単に処分はできないけど、このときはその手続きをしてなかったんだ。幸か不幸かね」

「廃棄……ですか。でも、廃棄されなかったから今ここにあるんですよね?」

「うん。そのときの刑事課長は部下のひとりに指示したんだ。処分しとけって」

「はい」

「でも指示を受けた部下は、その措置に納得できなかった」

「…………それで、どうしたんですか?」

「大学に持ち込んだ」

「え? ……でも、そのときはもう事件のことは大学も知ってますよね? さっきの松下さんの話では、サークルの関係者のことは、大学に残ってた資料で調べたって……」

「うん。大学の学生課の、それもごく一部は知ってた。でも指示を受けた部下が持ち込んだのは、ひとりの教授のところなんだ」

「……どういうことですか?」

「その部下は知ってた。刑事課長が広大を出ていることをね。そして、刑事課長の判断を怪しんだんだ。いや、刑事課長と平成7年当時の広大を……かな」

「え? それってつまり、その刑事課長が在学時に田中美月の事件に関係してるってことですか?」

「それは判らない。判らないけど疑ったんだ。さすがに刑事課長が犯人だとは思ってないけど、写真を処分することは事実上の隠蔽だし、なにか大学を庇ってるのかもしれないと感じたんだ。……卒業生なだけに」

 真琴はここまで聴いて、運営の発端についておおよその見立てがついた。
 今さら回り道はしたくない……。その思いで見立てを口にする。

「……松下さん……なんですね? その、大学にネガを持ち込んだのは」

「ご明察だよ。僕が大学に持ち込んだ。そして事実を追及しようとした」

「……さっき松下さん、ひとりの教授に持ち込んだって言ってましたけど、それは誰なんですか? どうしてその教授に持ち込んだんですか?」

 ここで、これまでテンポ良く話をしていた松下が少し沈黙する。
 真琴は顔を上げ、後部座席から松下の様子を窺う。
 そして得た感触、それは松下がこの場を誤魔化そうというものではなく、答える覚悟を固めている気配だった。

 なにか重要なことを言おうとしている……。
 その感覚に、真琴の鼓動も自然と高まる。

「刑事課長が在学時に師事した教授……。今はひとつの学科の主席になってる、教育学部の高山教授だよ」

 え……高山先生? つまり、教育学部出身だったのか。
 その、当時の西條署の刑事課長は……。
 松下の言葉に促され、真琴の中でさらになにかが繋がる感覚があった。

「……それがつまり、運営の始まりになったんですか?」

「え……。……うん、まあ……そうだね。結果としてはそうなった」

「……じゃあ、松下さんが運営を産んだんじゃないんですか?」

「当時の僕の思いは、警察官として、田中美月の命を奪った犯人が許せなかったし、腑に落ちない刑事課長の判断に答えが欲しかっただけなんだ」

「それは……言い訳じゃなくて?」

「うん。本心だよ。実際、在学当時の刑事課長に不審な点があったという情報は得られなかったし、ネガは『大学の問題として厳正に処理する』という高山教授の言を信じて預けた。……ま、もともと廃棄するように言われてた代物だしね」

 ……ということは、ネガが松下さんの手を離れてから、高山教授のところで運営の計画が始まったのか?
 いずれにしても高山教授はこの事件の「発端」を知る人……それは間違いない。


「いわば僕は運営の『産みの親』、それでいえば高山教授は『育ての親』なんだろうね」


 高山先生が運営の『育ての親』……。
 高山先生が言った『大学の問題として厳正に処理する』の答えが……これなの?
 信じられないような話だけど、これは紛れもない事実……。

 真琴の疑問は次々と晴れていく。
 だが、その中でひとつだけ真琴を不安にさせ続けるものが松下の話の中にあった。
 それを明らかにしないことには前に進めない……。
 そう感じた真琴は、ここで思い切って松下に尋ねる。

「松下さん……」

「うん?」

「その……まさかとは思うんですが……」

「どうしたの? ……急に」

「この発端……。写真屋さんに現像を依頼したのって、私の両親ですか?」


「え? 違うよ。どうしてそんな……あ、そうか。古川さんのところはお父さんもお母さんも卒業生だっけ」

 ……今の松下さんの反応に不自然さはなかった。
 じゃあ……ホントに違うのかな。ならいいけど。

「……それなら……よかったです」

「事件があった平成7年に大学にいたの? お父さんたちは」

「はい。父も母も、そのとき3年生でテニスをしてたみたいです」

 松下の肩が一瞬だけ上下する。
 驚いているようだ。

「それなら……そう考えるのも無理ないね。すごい偶然だよ。でも古川さん、違う部分もあるんじゃない?」

「違う部分……ですか?」

「うん。古川さんのご両親は、4年くらい前に家を建てたの?」

「言われてみれば……違います」

「在学中にテニスをやめたりした?」

「そんな話も聞いてない、です」

「古川さんがこの大学を希望したときに反対した?」

「いえ、喜んでました。とても」

「ね?-違うでしょ? 僕だったら……というか、もし現像を依頼した夫婦が古川さんのご両親だったとして、我が子がこの大学を希望したら反対するね」

「……そうでしょうか」

「うん。20年前のこととはいえ、どんなきっかけで耳にするか分からないだろ? この夫婦は少なくとも謹慎処分を受けてサークルが解散して……。事故として処理されたとはいえ、それなりに大きな騒ぎになったんだ」

 ……たしかにそうかもしれない。
 両親の母校に入学して、子が積極的に両親の足跡を探すこともあり得るし、それは大きなリスクだ。

 決定的なのは、4年前に家を建てたという点だ。
 私は幼い頃からずっと同じ一戸建てに住んでた。
 私の親は、私が産まれたころに家を建てている。

 親が関わっていないという実感を得て、真琴の心は落ち着いた。
 真琴が安心する気配が伝わったのか、松下が話を戻そうとする。

「ま、世間は狭いっていうから、まさかって思っちゃうよね。安心したなら続けてもいいかな」

「あ、はい。お願いします」

「うん。さっき僕が言ったとおり、僕は自分の疑問を晴らすためにネガを大学に持ち込んだ。そして高山教授に委ねた」

「はい」

 いちど動揺してから落ち着きを取り戻すという課程は、動揺する前よりも心が穏やかになるようだ。
 真琴はすっかり集中力を取り戻していた。

「ここからは高山教授の話になる……と思うよね。当然」

「はい、そうですね」

「それについて、僕はよく知らないんだ」

「……嘘はナシです。松下さん」

「本当なんだ。今回、カレンが豹変したこととか、カレコレの中身をみて初めて知ったことが多い」

「どういうことですか?」

「高山教授にネガを預けてから僕は静観してたんだ。それは高山教授の言葉を信じたっていうのもあるけど、僕自身の目的は終わったっていう気分が大きかった」

「……つまり、ぜんぶ高山先生が仕組んだってことですか? カレンのことは」

「高山教授の配慮だよ」

「え?」

「高山教授がネガを受け取ってから、なにをどう考えてカレンの計画を思いついたのかは想像するしかない。でもカレンは悪意あるアプリだったし、今こうして重大な犯罪として捜査される事態になってる」

「なにか関係あるんですか? それが」

「高山教授は、僕が犯罪者にならないように……あ、いや……僕が犯罪に加担した形跡が残らないように考えてくれたんだ」

「……よく解りません」

「高山教授は大学の現状を憂う人なんだ。ここまで大胆なことをするとは思ってなかったけどね。僕がネガを渡してから3ヶ月くらい経ったころかな、警察署に来たんだよ」

「警察署に……ですか」

「うん。たしかそのとき『私はもしかしたら人の道に外れることをしようとしているかもしれない』みたいなことを言ってた。……結局それがカレンのことを指してたんだろうね。僕はそのとき、連絡用として高山教授から携帯電話を受け取ったんだ」

「携帯電話? ……なんのためにですか?」

「教授は僕からのアドバイスを求めてたんだ。計画を滞りなく進めるためにね。教授は計画の中身を話さなかったし、僕もあえて訊かなかった。知っちゃったら僕にはそれを阻止する義務が生じるんだ。共犯になっちゃうからね」

「でも、普通に自分の携帯電話で話せばいいんじゃないですか」

「大騒ぎになって、事件の中心が高山教授だと疑われたら、教授の通話履歴も捜査される。そのとき、僕と頻繁に通話していたという事実は残したくなかったんだよ。高山教授は」

「ああ……そうなんですね」

「だから教授は僕に、息子さん名義の携帯電話を預けたんだ。それなら通話履歴に残ってても不自然はない」

「……それが4年前のことなんですね」

「ネガが写真屋さんに持ち込まれてからずいぶん経ってたから、えっと……3年半くらい前になるのかな? 僕がその、白い携帯電話を預かったのは」

「え……白い携帯電話……ですか?」

「うん。今、古川さんに貸してるヤツだよ。9月28日にカレン騒動が始まって、僕と教授が話をしてても怪しまれなくなったから僕なりの目的に使わせてもらったんだ。あ、ちゃんと高山教授には言ったよ。もうしばらく使わせてほしいって」

 ……偽装。松下さんは白い携帯電話を私に貸すとき、たしかそう言った。
 もう、誰が誰に対して何を偽装してるのか解んないじゃん。
 混乱しかけた思考を努めてシンプルにして、真琴は松下の話を理解しようとする。
 
「それじゃ……結論を言うと高山先生がカレンのアプリを大学に広めて、罠を仕掛けたってことなんですか? ……信じられないですが」

「信じられないって、あの高山教授がこんなことをするなんて……ってこと?」

「はい……」

 ここで松下が黙る。
 そして自分に言い聞かせるように小さく「うん」とつぶやいてから真琴に言う。

「古川さん。その『信じられない』って感覚、大事にしてね」

「え? ……どういう意味ですか?」

「信じてる人が信じられない行動をした。信じられないけど事実なら、きっとなにか理由があるはずなんだ。『疑う』とか『失望する』とは違う、『信じられない』っていう感覚を持ち続けることが大切なんじゃないかな。……思いつきだけどね」

「……つまり高山先生という人そのものは信じろってことですか?」

「まあ、今回に限っていえば……それに近いかな」

「……憶えておきます。まだよく解りませんけど」

「うん、そうして。それで、カレンの話の続きなんだけど」

「はい」

「教授から携帯電話を預かって以来、たまに電話でアドバイスを求められるようになったんだよ。僕は」

「はい」

「でもそれは『こういうことをすれば発覚するか』とか『こういうことをするのに安全な方法はないか』という感じのもので、具体的なことは僕に言わなかったんだ。教授は」

「……つまり、すべては高山先生しか知らないんですか?」

「いや違う。高山先生と、その共感者たちだよ。……たぶんね。もともとのカレンのアプリだって高山先生がつくれるものじゃないだろ?」

「たしかにそうですね……。それじゃ松下さんの話は……」

「うん。ここまでかな。なにか聞きたいことがあったら聞いてよ」

 これで松下さんの話は終わり……。
 高山先生は松下さんの立場を考えて、計画の詳細を伏せたままアドバイスを求めてた……。

 信じられない……けど。「信じられない」を大切にしろ……か。
 じゃ、確認することは、二つ……かな。

「高山先生がやってることを松下さんは具体的には知らないって、本当ですか?」

「高山先生からは聞かされてない。想像したり、ちょっと探ったりはしたけどね」

 ちょっと探ったり……か。
 つまり知ってるんだ。なにもかも。

 でもここで私がそれを追及したら、松下さんは「知っていた」ことになっちゃうんだ。
 聞けば松下さんを共犯者にしてしまう。
 嘘はナシ……。その約束をしちゃったんだから。
 高山先生が守ってきたものを壊してしまうんだ。
 だから……今は聞かない。もうひとつを確認しよう。

「松下さん」

「うん」

「私は松下さんと、これからも連絡が取れますか?」

「……うん。その白い携帯電話は、この騒ぎが終わるまで古川さんに貸しておくよ」

 この松下の返答……その声色は、なにか今までと違う響きがあった。
 思わず真琴は聞いてみる。

「松下さん? ……どうかしたんですか?」

「え? ……いや、なんでもないよ」

 なんでもないわけがない……。
 ……なんだかわからないけど。

 そう感じた真琴は、すこし前のめりになって後部座席から松下の横顔を窺う。

 松下の頬に涙が伝っていた。


「……なんで……どうして泣いてるんですか?」

「え? あ……バレちゃったか。……ゴメン。でもホント、なんでもないよ」

「そんなわけないじゃないですか。どうしたんですか? いったい」

「感動……したんだ」

「え?」

 なに? 感動ってなんのこと? ……私、なんかした?

 思いあたるところのない真琴は、強く正しい刑事の涙を見て混乱する。
 そこに松下が説明する。

「古川さんは今、僕が言ったことをぜんぶ飲み込んで『あえて聞かない』という選択をしたんだよね」

「……ぜんぶ飲み込んでるか自信ないですけど……そうですね」

「その心遣いに感動したんだ。やっぱり古川さんが選ばれてよかったって、僕の見立ては正しかったって実感できたんだよ。バレたら恥ずかしいから動かないようにしてたのに」

「そんなに……感動することなんですか?」

 尋ねながら真琴は気が付く。
 一連のカレン騒動に関わった人たちの思いを繋ぐことは、松下が己に課した使命だったのだと。
 気付くと同時に真琴は、自分の心に重いものが転がり込むのを感じた。
 戸惑う真琴に、松下が明るい声で言う。

「あんまり気にしないで。あんがい涙もろい人種なんだよ。刑事って」

 ここにきて真琴を気遣う松下の言葉に、心の中の重いものが一段と重くなる。

 全部……全部が上手くいく結末なんてあるのかな……。
 私にできるの? それが……。

「話が終わりなら……。これからどうするんですか?」

 とにかく歩みを止めてはいけない。
 その思いだけで真琴はこの言葉を口にした。

「とにかく告発の手続きをしよう。その意思は変わりない……よね」

「はい。お願いします」

 真琴の返事を受けて、松下は最寄りの公園の駐車場で車を停める。
 そこから車内は一転して事務的な雰囲気になった。
 まず証拠となるネガを警察に提出する書類を作成し、告発の意思を記した供述調書を作成した。その供述調書をもって告発の受理になると松下は説明した。

 調書の内容はいたってシンプルだった。
 真琴が携帯電話でやっていたゲームの中の売店で「しんじつ」というアイテムを買ったら、女性が襲われている写真とネガが自宅の郵便受けに投げ込まれたこと。
 同封されていた新聞記事から、これが平成7年に「事故」として処理されていた田中美月という学生の溺死の原因であると思われること。
 断じて許せないので、犯人を捕まえて処罰してもらいたいこと。
 それだけを記して完成した調書は、たったの2頁だった。
 書き終えた松下は「これでよし」と言ってネガと写真、それと調書を封筒に収める。

「じゃ……戻るよ。大学に」

「……はい」

「心配要らないよ。古川さんは、事件を知って警察に報せた『正義の告発者』なんだから」

「はい……わかりました」

 大学に戻る車中で真琴は、ふと思いついた疑問を松下に尋ねる。

「そういえば松下さん」

「うん? なに?」

「9月28日にこの騒ぎが始まること、知ってたんですか?」

「ああ、そのことね。知らなかったよ。今でもわからない」

「……そうなんですか?」

「うん。古川さんと初めて話した日にも言ったような気がするけど、今でも思ってるんだ。〝なんで今なんだろう〟ってね」

「そうなんですね……」

「けっこう考えたんだけど、理由が見当たらないんだ。きっと高山教授は知ってるんだろうけど、訊いてない」


 高山先生か……。

 そういえば、高山先生はどうして告発しないで、こんな手段を選んだんだろ……。

「松下さんが高山先生にネガを持ち込んでから、高山先生が警察署に来るまで3ヶ月くらいの間があった……。そう言ってましたよね」

「うん。正確じゃないけど、けっこう経ってから警察署に来たね」

「なにがあったんでしょうか。その間に」

「……なにかがあったんだろうね、きっと。並々ならぬ決意をさせることが」

 並々ならぬ決意か。たしかにそうだ。
 松下さんからネガと写真……いや違う、構内で発生した「悲劇」を知らされた高山先生は、何を考えただろう。
 警察署を訪ねて松下さんに携帯電話を預けたときには、もう計画を固めてたみたいだけど……。

 相当な期間、いろんな方法を模索した結果がこのカレン騒動……。

 ネガを受け取ったときの高山先生の言葉は「大学の問題として厳正に処理する」……。
 つまり厳正に処理しようとしたはずなんだ。……最初は。

 教育者、大学の現状を憂う人……か。

 真琴がとりとめのない思案に落ちているうち、車が大学に着いた。
 食堂……捜査本部の手前で松下が口を開く。

「じゃ古川さん。今日はありがとう」

「え……。私は行かなくていいんですか? ……中に」

「いいんだ。あ、でも僕からの連絡には応じられるようにしておいて」

「はい。それはもちろん構いませんけど……」

「僕は今から、個人的な目的を果たすんだ」

「え?」

「古川さん」

「はい」

「僕が中に入ってから3分もしないうちに……いや、もう始めておいた方がいいのか」

「なんの……ことですか?」

 問い返しながら、真琴は松下の表情にただならぬ覚悟を感じ、怖じ気づく。
 そして松下は、上着のポケットから携帯電話を取り出した。

「今から白い携帯電話にかけるから、出てくれる?」

 真琴は意味が理解できぬまま、松下から借りている白い携帯電話を手に取る。
 そして「まっちゃん」……松下からの着信がきたので電話を受け、通話状態にする。

「よし。じゃ、僕は中に入るから古川さんは聴いててよ。……今から中で交わされる言葉を」

 ドキン。
 普段と変わりなく穏やかに話す松下に、真琴は「覚悟を決めた者」の気配を感じた。

「あ……」

 そして、真琴がかける言葉を探しあぐね、なにも言えずにいるうちに松下は捜査本部に戻っていった。
 携帯電話はすぐに声を拾い始める。

(松下さん、お疲れ様です。……って、あれ? 捕まえた運営は?)

(ああ、心配ない。まずは班長に報告する)

 足音と布が擦れる音……。
 真琴は携帯電話を耳に押し当て、今、目の前の建物の中で起こっていることを聞き逃すまいとする。

(おい松下、班長の前に俺に報告するのが筋じゃねえのか?)

(すみません、今回はまず班長に)

 松下さん、まっすぐ班長の方に向かってる……。
 班長って、たしか大塚って人のことだよね……。

 そして松下が大塚の前に立つ。
 真琴には光景が目に浮かぶようだった。

(班長、ご報告が)

(……聴こうか)

(調べ室でいいですか? 運営からの預かり物もあるので)

(運営を確保した。それに間違いはないんだな?)

(はい。運営は逃げません)

(ならいい。調べ室に行こう)

 聞きながら真琴は、自分の体が震えていることに気が付いた。
 悪と対峙し続ける強い者たちの気迫は、電話越しでも真琴を圧倒していた。

 真琴は電話を耳に当てたまま、座る場所を探す。
 すると、真琴と別れて小一時間、真琴の指示を遂行しながらひたすら帰りを待っていた王佐、島田の姿を見つけた。
 真琴は早足で島田に近付くと、その手を引いて近くのベンチに腰掛けた。
 震える真琴を目の当たりにしても、島田は何も言わない。
 そうして電話の向こうでは、松下と大塚が二人で取調べ室に入ったようだった。

(これが運営から警察への要求です。班長)

 ガサガサという音がする。
 机の上に例の写真や調書を広げているのだと真琴は理解した。
 大塚の反応が聞こえない。島田の手を握る真琴の左手に力が入る。


(松下……。どうしてこれが出てくる?)

(わかりません)

(わかりません……だと?)

(はい)

(……なにを言ってるか解ってるんだろうな。松下)

(そのつもりです)


 松下さん、戦ってるんだ……。
 握りしめた掌に汗を感じ、真琴は島田の手を放す。

 取調べ室に入ってから、雑音が消えて音声が明瞭になった。
 真琴は無言のまま仕草で促し、島田にもこれを聴かせることにした。

 深夜の構内で顔を寄せ合う男女……。
 周囲からはシルエットしか見えないので、およそ非常時に似つかわしくない光景だった。

 しかし傍目に映る姿とは正反対に当人たちは真剣、そして集中していた。
 真琴と島田は音声に神経を研ぎ澄ます。


(俺は処分しろと言ったはずだ。違うか?)

(いえ、仰るとおりです)

(背いたのか? お前が)

(……処分したつもりでした)

(……通ると思うのか? それが)

(わかりません。ですが、これが運営からの要求です)


 ふたたび大塚が沈黙する。
 真琴は目を閉じ、電話から聞こえるノイズのような音にも耳を澄ました。
 雑音に紛れる小さな物音から戦況を読み取る。

 ……今、大塚っていう人が調書を見てるんだ。きっと。

(最低限の記載……これはお前の考えか?)

(はい。運営の指示ではありません)

(……まあ、告発そのものは独立した問題だ。わざわざカレンのことを書く必要はないな。たしかに)

(はい。それに告発者……「最後の運営」は善意の第三者……学生です)

(……つくづくみごとな手際だ。……松下)

(はい)

(お前はどこまで絡んでるんだ? この騒ぎに)

(……絡んでない……と言ったら信じますか?)

(……それでいくんだな? いいだろう。どのみち俺たちに選択の余地はない。こいつ……この告発された事件を早急に捜査するしかない。そうだな?)

(はい。そうです)

 電話の向こうで大塚が大きなため息を吐く。
 様々な感情が込められていることが伝わる。

(……なにがお前を動かした?)

(班長は、田中美月の事件に関係はないんですか?)

(あ? 俺が? この事件に?)

(はい。……4年前に班長が下した決断、事件の捜査の打ち切りに納得できません)

(……そういうことか。なるほど納得だ。よし、それなら全力でこの事件の犯人を挙げりゃいいんだな?)

(…………班長……は、関わってないんですか?)

(当たり前だ。こんな事件を起こしたことを秘して、それを抱えながら20年も刑事が続けられると思うのか?)

(罪滅ぼしという思いであれば……あるいは、と)

(とんだ思い違い……。まあしかし、この事件の被疑者を挙げるなら、俄然やる気が出る。……俺としても)

 え? ……やる気が出る?
 つまり大塚っていう人も、この事件を捜査したいってこと?
 そんな真琴の気持ちを、松下が代弁する。

(課長の決断じゃなかったんですか? あのときの……捜査の中止は)

(そうだ。上からの指示だ)

(上からって……あのときはたしか、木下署長……でしたよね)

(あ? お前な……。たしかに俺に指示をしたのは署長の口だ。だけど「上」なんてキリがないだろうが)

(それは……たしかにそうかもしれませんが……。じゃ、いったい誰なんですか? 捜査の中止を決めたのは)

(知らん)

(知らんって……。班長はそれで納得したんですか?)

(納得する必要はない。俺たちは組織の決定に従うんだ。……まだ青かったんだな、お前は)

(……いけませんか)

(……いや……いい。それも悪くない)

 大塚がそれきり黙る。
 松下も何も言わない。

 おそらく二人の心は4年前の西條署に戻っているんだ……。
 真琴はそれを感じ取り、電話の向こうの次の言葉を待つ。
 電話の会話が途切れ、傍らの島田の息づかいを感じる。

 先に口を開いたのは大塚だった。

(まあ……大したもんだ。田中美月の事件を潰した力がどれほどのものか知らんが、今回ばかりは天秤にかけられたものの方が大きいだろう。……これ、お前が考えたのか?)

(いえ、私には考えも及びません)

(そうか。……そうだよな。俺を疑ってたくらいだしな)

(……申し訳ありませんでした)

(よし。お前と運営との関わりは横に置いて、まずは捕まえてみせようじゃないか。20年前、田中美月を襲った連中を)

(……はい)

(お前のことは、ぜんぶ片が付いたら聴かせろ。……今日のところは、どうして俺がこのカレン事件の指揮官に選ばれたのかが判っただけでこらえてやる)

(……はい)

 松下さん、否定しない……。
 つまり捜査指揮官の指定は運営の指示、そこに松下さんの意思も働いたってことか。
 運営の中枢は高山先生……。
 松下さんがどれくらい関わってるかは……聴くのが憚られたしな……。

 そこから、電話を通して聞こえてくるのは、松下と大塚が西條署時代を懐かしむ会話、そして田中美月事件の解決に向けた検討だった。
 そこに「運営」の陰は消えていた。
 真琴は、大塚が真に田中美月事件の解決を望んでいることを感じた。

 これで松下さんの「個人的な目的」というのは解決したんだ。
 たぶん、いちばん望ましいかたちで。
 この取調べ室で密談をもって、警察は迷わず「正義」に邁進できる。
 真琴はそれに安堵しながら、しばらく音声を聴いた。

 松下たちの話が終わりかけたころ、唐突に話が真琴のことに及ぶ。

(で、告発した女の子……まあ、実質は運営と呼べないかもしれないが、連絡はいつでも取れるんだな?)

(はい。ですがその……窓口は……可能なら引き続き私にしていただきたいんですが……)

(それは構わない。いちばん肝心なのは、俺たちが田中美月の事件を解決したら学生たちが解放されるのかってことだ)

(ああ、つまりその権限が与えられているかどうか……ですね?)

(そうだ。明日中……いや、明日の朝の会議までにその点を確認しておけ。いずれにしても俺たちのやることに変わりはないが、学生の安全が約束されるなら飯場の士気がまったく違ってくる)

(たしかにそうですね。承知しました。確認しておきます)

(それにしても……どうしてその子が選ばれた?)

(純粋だから……だと思います)

(……なんだ、惚れたのか? 10以上も若い娘に)

(それは……ご想像にお任せします)

 この松下の言葉に大塚が「ふん」と短く返事をし、密談は終わった。
 ドアを開けた大塚が、大きな声で室内の捜査員に本日の解散と、明日……と言っても日付は今日なのだが……の会議の時刻を告げた。

 そして通話が切られた。
 これからどうしたらいいのか考えようとしたところに、詰所のドアが開き松下が出てきた。
 すっきりした笑顔で、まっすぐ真琴と島田の方に向かってくる。

「どう? うまく聞こえた?」

「はい、それはもう」

「じゃ、だいたい解ったろ? 僕の疑問はすっかり晴れた。そして今から警察は田中美月事件の捜査に全力を尽くす」

「はい。……よかったです」

「どんな奴が犯人なんだろね。班長は僕のことを『青い』って言ったけど、上からの指示で捜査を中止するなんてドラマみたいなこと、実際はないんだよ。僕はこの1件しか経験がない」

「それなら……気になりますよね」

「うん。その答えが事件解決の先にあると思うと、なんだか力が沸いてきたよ」

 ああ、やっぱり松下さんは純粋な正義なんだ。

 次の問題は、純粋じゃない正義……運営だ。
 田中美月の件は警察に任せるとして、カレン騒動の結末はまだ見えない。

「島田くんもお疲れ様だね」

 松下が島田に話しかける。

「いえ、そんなことないです。感動しました」

 島田の返事に松下が照れる。
 それを誤魔化すように松下が真琴に話を戻す。

「古川さん」

「はい」

「聴いてたと思うけど、班長が言ってた件……どう?」

「え? あ……もしかして、学生の安全……爆弾の消去の権限が私にあるかってことですか?」

「うん。僕ら警察が田中美月事件の犯人を捕まえたら学生のデータをぜんぶ消去できるなら、同時にカレン騒ぎも終わる」

「え……と、わかりません」

「……と、いうと?」

「その……私、カレコレを終わらせることが優先で、そのあとはネガのことがあったんで、まだ確認してないんです。……徳の特典」

「……じゃ、今のところ古川さんにそこまで委ねられてるかは判んないんだね」

「はい……。でも、新しい特典の数だけは見たんです。たしか5個来てたと思うので、もしかしたらその中にあるのかもしれませんけど……」

 松下は腕時計を見る。
 真琴もそれに倣って携帯電話で時刻を確認した。
 午前2時過ぎ……。しかし真琴はまったく疲労を感じなかった。

「もうこんな時間か……。その、古川さん……頼みにくいんだけど……」

「わかってます。朝の会議までに特典の中身を確認してお知らせします」

「うん。お願いするよ。……今がヤマなんだ。たぶん」

「私もそう思います。お役に立つならよろこんで」

「……ありがとう。じゃあ……どうしようか。家まで送っていこうか? 島田くんも一緒に」

「あ、え……と。どうする島田くん」

「今日は俺んち、かな。古川の家より近いし」

「……送っていかなくていい?」

「はい。どのみち僕たちも眠れませんよ。今日は」

「……そっか。うん。じゃ、お願いするよ」

 そうして松下の視線を受けながら、島田は原付を駐輪場に残し、真琴と連れだって家へと歩きだす。



 丑三つ時の降るような星空の下、真琴は島田と並んで歩く。
 急ぎ携帯電話を確認し、届いた特典の中身を確認した方が松下も助かるだろうと思ったが、真琴はそれをしなかった。
 それはこの時間……ひとまずの大役を果たし、島田とともに深夜の道を歩く時間がなにか大切なもののように感じたからだった。

 島田も似たような気分なのか、松下から依頼を受けた場に居合わせていたのにそれを催促しない。
 10月6日未明……。これを忙中の閑と呼んでよいのか真琴には判らなかったが、心はいつになく穏やかだった。

「……結局、どこにも悪者が見当たらないな」

 島田がポツリと言う。
 島田が言う「どこにも」というのは、9月28日に始まったカレン騒動のことだ。
 真琴は返事を返すことなく島田の言葉について考える。

 悪者が見当たらない……か。
 そう、言われてみればそうだ。
 これから警察はもう、田中美月の事件に集中する。
 20年前に田中美月を襲った犯人は「悪」だ。……どんな理由があろうとも。
 だけど連綿と繋がれてきたと思われるカレン運営の執念は、その悪を暴くことにあった。
 ただ手段に問題があっただけだ。

「……他に手段はなかったのかな」

 島田の言葉について考えたことを真琴がそのまま口にする。
 今度は島田が真琴の言葉を考える。
 ゆっくりと歩きながら。

「さっきの電話中継で聴いた内容からすると、田中美月の件は警察が捜査しようとしたけど、上からストップがかかったんだろ?」

「……うん、そうみたいだね」

「班長って呼ばれてる人が言ってたとおり、天秤に乗せるものが必要だったんだろうな」

 天秤……。天秤か……。
 ひとつの大学、その多くの学生の弱み……。その「人質」を見事に天秤に乗せてみせたんだよな、運営は。

「署名とかじゃダメだったのかな?」

 真琴は、ふと思いついたことを言う。

「それじゃ足りないんだろ、きっと。……それに田中美月の事件はデリケートだよ。署名には馴染まない」

「あ、そっか。……そうだよね」

「ホント、誰が思いついたんだろな。こんな方法」

 それは高山先生が……と言いかけて、真琴は思いとどまる。
 島田くんは、高山先生が運営の中枢だと知らないんだ。
 軽々しくは言えない……。だって、もしかしたら最後まで名前が出てこないで済む可能性があるんだ。
 ……あ、そっか。高山先生にネガを持ち込んだのが松下さんで、私はその本人から聞かされたんだ。その事実を。
 もしかしたら……いや、きっと警察もまだ知らないんだ。
 高山先生のことは……そう、警察でも松下さんだけしか知らないんだ。

「……運営が選んだこの方法、ベストだったのかな?」

 運営が採ったのは超法規的手段……。
 でも、人ひとりの命を奪う犯罪を野放しにはできないという高山先生の気持ちはよく解る。
 でも、なにか他の方法はなかったのかな……。

「……別の方法はあるかもしれない。だけど、もしかしたらこれがベストだったのかもしれない」

 島田が星を仰ぎながら答える。

「……そう……なのかな」

「うん。この事件、大騒ぎになってるのは大学だけで、世間では話題になってないだろ?」

「……そうだね」

「それは事件の性質、というか人質がデリケートで公にできないからだ」

「うん。あのアレ、報道協定っていうヤツになってるみたい」

「それでいて警察庁指定事件になっちゃう規模……。あ、それに学生説明会のときに言ってたな。内閣にも相談したって」

「ああ言ってたね。サーバが中国にあるから、その対応で相談したみたいなこと」

「いかに静かに、いかに一大事にするかを考えたら……。うん、これ考えた人はすごいよ。やっぱり」

 のんびりと歩きながら、なんとなく話をしていた真琴は、なんとなく考える。
 高山先生はたしかに優秀だろうけど、ここまで綿密な、政治的なことまで含む計画をひとりで立てられるとは思えない。
 かなりアドバイスしたんだろうな、松下さんも。
 松下さんのアドバイスでも足りないような気がする……。

 そうしているうち、ふたりは島田のアパートに着く。
 時刻は午前2時半を過ぎていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

紙の本のカバーをめくりたい話

みぅら
ミステリー
紙の本のカバーをめくろうとしたら、見ず知らずの人に「その本、カバーをめくらない方がいいですよ」と制止されて、モヤモヤしながら本を読む話。 男性向けでも女性向けでもありません。 カテゴリにその他がなかったのでミステリーにしていますが、全然ミステリーではありません。

雨の向こう側

サツキユキオ
ミステリー
山奥の保養所で行われるヨガの断食教室に参加した亀山佑月(かめやまゆづき)。他の参加者6人と共に独自ルールに支配された中での共同生活が始まるが────。

四人の女

もちもち蟹座
ミステリー
[  ] 時代は、昭和 [  ]  場所は、お茶屋の2階、四畳半の お座敷。 [  ] 登場人物、金持ちの男•4人の女

壊れた心はそのままで ~騙したのは貴方?それとも私?~

志波 連
恋愛
バージル王国の公爵令嬢として、優しい両親と兄に慈しまれ美しい淑女に育ったリリア・サザーランドは、貴族女子学園を卒業してすぐに、ジェラルド・パーシモン侯爵令息と結婚した。 政略結婚ではあったものの、二人はお互いを信頼し愛を深めていった。 社交界でも仲睦まじい夫婦として有名だった二人は、マーガレットという娘も授かり、順風満帆な生活を送っていた。 ある日、学生時代の友人と旅行に行った先でリリアは夫が自分でない女性と、夫にそっくりな男の子、そして娘のマーガレットと仲よく食事をしている場面に遭遇する。 ショックを受けて立ち去るリリアと、追いすがるジェラルド。 一緒にいた子供は確かにジェラルドの子供だったが、これには深い事情があるようで……。 リリアの心をなんとか取り戻そうと友人に相談していた時、リリアがバルコニーから転落したという知らせが飛び込んだ。 ジェラルドとマーガレットは、リリアの心を取り戻す決心をする。 そして関係者が頭を寄せ合って、ある破天荒な計画を遂行するのだった。 王家までも巻き込んだその作戦とは……。 他サイトでも掲載中です。 コメントありがとうございます。 タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。 必ず完結させますので、よろしくお願いします。

パラダイス・ロスト

真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。 ※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。

【完結】側妃は愛されるのをやめました

なか
恋愛
「君ではなく、彼女を正妃とする」  私は、貴方のためにこの国へと貢献してきた自負がある。  なのに……彼は。 「だが僕は、ラテシアを見捨てはしない。これから君には側妃になってもらうよ」  私のため。  そんな建前で……側妃へと下げる宣言をするのだ。    このような侮辱、恥を受けてなお……正妃を求めて抗議するか?  否。  そのような恥を晒す気は無い。 「承知いたしました。セリム陛下……私は側妃を受け入れます」  側妃を受けいれた私は、呼吸を挟まずに言葉を続ける。  今しがた決めた、たった一つの決意を込めて。 「ですが陛下。私はもう貴方を支える気はありません」  これから私は、『捨てられた妃』という汚名でなく、彼を『捨てた妃』となるために。  華々しく、私の人生を謳歌しよう。  全ては、廃妃となるために。    ◇◇◇  設定はゆるめです。  読んでくださると嬉しいです!

マクデブルクの半球

ナコイトオル
ミステリー
ある夜、電話がかかってきた。ただそれだけの、はずだった。 高校時代、自分と折り合いの付かなかった優等生からの唐突な電話。それが全てのはじまりだった。 電話をかけたのとほぼ同時刻、何者かに突き落とされ意識不明となった青年コウと、そんな彼と昔折り合いを付けることが出来なかった、容疑者となった女、ユキ。どうしてこうなったのかを調べていく内に、コウを突き落とした容疑者はどんどんと増えてきてしまう─── 「犯人を探そう。出来れば、彼が目を覚ますまでに」 自他共に認める在宅ストーカーを相棒に、誰かのために進む、犯人探し。

無限の迷路

葉羽
ミステリー
豪華なパーティーが開催された大邸宅で、一人の招待客が密室の中で死亡して発見される。部屋は内側から完全に施錠されており、窓も塞がれている。調査を進める中、次々と現れる証拠品や証言が事件をますます複雑にしていく。

処理中です...