かれん

青木ぬかり

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10月4日(火)

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 久しぶりに落ち着いた気分で部屋に入った真琴は、棚から出したコップを片手に冷蔵庫を開けてほうじ茶を注ぐ。
 1杯目を一気に飲み干してから、もう一度茶を注いでちゃぶ台の前に座る。

 時計を見ると時刻は午後4時過ぎ、バイトまで2時間近くある。
 ちょっとでもサークルに顔出せばよかったかな。
 いや、こんな時間……そうだよ、こんなゆっくりした時間は久しぶり……。だからちょっと、ゆっくりしよう。

 真琴は、なんの気なしにテレビを点けた。
 そしてコップのお茶を一口飲んでから携帯電話を手に取ってフラフラとベッドに向かう。

 バタンとベッドに倒れこむと、布団が優しく真琴を迎えた。
 あ、ヤバい。このままだと……寝る。
 そうだ、アラーム……セットしとこ。

 真琴は携帯電話のアラームを午後5時20分にセットしてから、うつぶせのまま目を閉じた。



(……ック歌手の不倫に非難が集まって……)

(……なら99.9パーセント除菌が……)

(……で起きた無差別殺傷事件で遺族が……)


 ニュースか……。世間からしたら、自分に起こってることなんてちっちゃいよな。
 ……ちっちゃい……かな。あれ? けっこうおっきいかも……。
 歌手の不倫よりは……うん、おっきい。
 てか、なんで他人の不倫でこんなに騒いでんの?
 無差別殺人の方がはるかにでっかいのに、なんか……おんなじくらいに聞こえる。
 画面見てないから……なのかな。

 99.9パーセント除菌って…。それさ…もともとの汚れ方によるんじゃないの?
 10000汚れてたら……10も残るよ。
 1しか汚れてなかったら……0.001なの?

 不倫ってさ、結局エッチしてたんでしょ?
 つまり「この人とこの人はスッポンポンでエッチしましたよ」ってことでしょ?
 そんな話……なに澄ました声で喋ってんの?

 じゃあ私の恥ずかしい画像も……オブラートに包めるの?
 教育学部生、自慰行為の実録……とか?
 ……なんか卑猥だな。かえって。

 テレビの人って、悲しいニュースは悲しい顔で、楽しいニュースは明るい顔で言うよな。
 ……じゃあ不倫とかは……恥ずかしい顔?
 ……違うな。あれ? じゃあ……どんな顔?

 あれ? よくあるどっかの抗議とか、どんな顔で喋ってるっけ……。


(…大統領選挙もいよいよ大詰め、混戦が…)


 ああ、海の向こうは大統領選挙なんだ。
 そういえば私が子供のころノーベル平和賞もらってたよな、オバマ大統領。

 ノーベル平和賞って、誰が決めてんの?


 まどろみながらテレビの声を聞き、分からないことが分からないまま消えていく……。
 普段なら疑問にも思わないことが妙に心に引っ掛かる。

 そして真琴に残った確かな感覚、それは己の「無知」だった。

 学校で習い、自分で努力して積み上げてきたはずの知識……それが役に立たないようで、危機感に似た感覚が真琴を襲う。
 それに促され、次第に意識が冴えてきた。

 ……知らないことが多すぎる。
 知らないなら……知らなきゃ。
 失うことはセットじゃない。

 まずは自分のこと……そう、我が身の危険を正確に知るんだ。
 島田くんや松下さんに頼ってばかりじゃダメ、自分で知ったことが真実なんだ。きっと。

 冴えた意識と裏腹に体は重く、真琴は寝そべったまま携帯電話でカレンを立ち上げた。

 バイトまであと1時間。なにか探そう、カレンで。


 そうして真琴はカレンのアプリで「運営からのお知らせ」や掲示板で有用な情報を探す。
 板の数は増え続けていて、もはやカレンとは関係なさそうなタイトルのものまである。

 〝警察って何してんの? バカなの?〟

 〝パチンコってさ……〟

 〝危険! こいつには近付くな!〟

 〝チーム交渉の場〟

 〝もうヤダこんな大学〟

 混沌と乱立する掲示板のタイトルが、現状を知ろうとする真琴の心を折りにかかる。
 でも、これが現実……。混沌としてるんだ、身辺は。
 真琴は挫けず、まだ目を通していない板を手当たり次第に開く。
 板の中身も案の定で、めぼしい書き込みはなかなか見つからない。

 1年生のチームが上級生チームと現金の交渉をしていたり、それが単なるイタズラだったり。
 チームを抜けたいのにチームメイトが承認しないから徹底的に悪口を書いてたり……。
 いがみ合ってるサークル同士が掲示板で罵り合ってたり……。

 殺人予告に爆破予告。運営が野放しなので、普段のネットではお目にかかれないような物騒な言葉や汚い言葉のオンパレードだった。
 酷い……。これが人間の本性だとは思いたくない。
 真琴をしてそんな嫌悪を抱かせた。

 昨日までは、まだマシ……ここまでじゃなかった。
 急に殺伐としてきてる。

 胸が悪くなるような言葉の渦の中、建設的な情報は砂金のように埋もれていた。
 真琴は目を凝らしてそれを拾う。

 結局、参考になりそうなことはほとんどなく、新たに知ったことは徳の高い人たち……徳のランキングで上位にいる人たちは何故か多くを語らないので怪しまれていること、そして「賢者」という肩書きの人が運営の手先だとする書き込みを見つけたことくらいだった。

 あとは、パチンコ屋の左上の壁に話しかけると返事があるだの、執行期限ギリギリでカルマトール1000を買えば初日の処刑は免れるだの、どう捉えていいのか判らないものばかりだった。

 でも、どこから仕入れたのか分からないけど「賢者」を運営の手先とする書き込みは見過ごせない。
 下手をすれば1年狩りの次に「賢者狩り」が始まる。
 賢者は単に、先に被害に遭ってた人なのに……。

 隊長はたぶん「賢者」の肩書きが持つ意味を理解してたから大丈夫。だけど愛は……。
 愛は初め、肩書きを明かすことに無警戒だった。
 誰に話しただろう……。大丈夫かな、愛。

 真琴は考えた末、ショートメールで愛に伝えることにした。

『賢者が運営の手先っていう書き込みがある。気を付けて』

 返信はすぐに来た。

『マジ? わかった。ありがと』

『うん。このメールも削除して。念のため』

『おけー』

 よし、これで愛なら大丈夫だろう。

 時計を見るとバイトの時間が迫っていた。
 真琴は準備をして玄関を出る。
 今日は隊長は入ってないから、隊長のことはまだ考えなくていいし……。


 もっすバーガーに着いた真琴はいつもどおりの笑顔で裏口を開ける。

「おつかれさまで……す。あれ?」

 そこには今日はシフトに入っていないはずのバイト隊長、伊東がいた。
 伊東は制服に着替えている。
 心の準備を先送りにしていた真琴は面食らう。

「おお古川……。……来たのか」

「隊長……なんで……」


 複雑な心を映して真琴の表情は鈍色になる。
 そんな真琴を見る伊東の顔も相応に複雑だった。

「もしかしたら今日は来ないかもしれないな……と思ってな」

 伊東の言葉の意味を理解するのに少し時間を要した。

「来ないかもって……私が、ですか?」

「うん」

「そんな……無断で休んだりしませんよ。私」

「まあ……そうだよな」

「そんなことより、隊長が来てるなんて思ってなかったから、その……ビックリしました」

「ああ、そうだよな。……うん」

 伊東の表情が一層複雑になる。
 会う用意がなかった真琴は慌てる。
 どうしたらいいの? こんなとき。

 昨日アプ研の部屋で知った事実、告白、そして……。
 でも、それでも私は隊長を嫌いにはなれない。
 でも、隊長の気持ちに応えることはできない。
 でも、でも……。

 頭の中に「でも」が溢れるばかり……。処し方は一向に定まらない。

「怒ってるか? 古川」

「……いえ、そんなこと……ないです」

「嫌われたか? 俺は」

「いえ、嫌いじゃないです。でも……」

 でも……。そのあとに続ける言葉が見つからない。
 たぶん、どんな言葉を選んでも隊長は傷付く……。
 きっと、どんなに上手く言っても伝わらない……。

「……嫌われてはいない……のか?」

「……はい」

 真琴の答えを聞いて伊東は目を伏せた。

「俺……は、古川に謝るつもりはない」

 そう言いながら放つ言葉の色は自責に染まっていた。

 謝るつもりはない……か。
 ……うん、そうだよ。それでいいんだ。

「はい、隊長」

「そうか」

「はい」

 伊東は顔を上げて真琴を見据える。
 心持ちすっきりしたような顔だ。

 そして伊東は、バイト仲間の物置と化している事務机の上から1枚の紙を拾って真琴に差し出した。
 真琴はそれを受け取って確認する。

「え? これ……」

 それは10月のシフト表だった。そういえばシフト変わるかもって言ってたな……。

 新しいシフト表を見ると、今日……10月4日に載っていたはずの「古川」が「伊東」に替わっていた。
 さらに日を追っていくと、次の予定……木曜日にも真琴の名前はなく、別の先輩に替わっていた。
 ん? あれ? 土日も入ってない……。
 週明け……10月11日まできて、ようやく真琴は自分の名を見つけた。
 改めてよく見ると10月10日まで、土日を含めて全ての日に「伊東」の名がある。

「隊長……なんですか? これ……」

「新しいシフト表だよ」

「いえ、そうじゃなくて……」

「古川」

「……はい」

「古川に何を言ったらいいのか、自分でもよく分かんないんだけどな、それとは別に……だ」

「……何を言ってるんですか? 隊長……」

「うん? いや……その、あのな古川」

「はい」

「俺の個人的なことはさておき、俺は1年生に希望を託す」

 希望を……託す? ……自分がフルにバイトに入って私を外して?
 つまり、カレンをなんとかしろってこと?

「希望って、カレンのことですか?」

 伊東はまっすぐ真琴を見て、ゆっくりとうなづいた。

「そうだ。運営を成仏させてくれ」

 成仏……。……成仏か。
 インパクトあるな……。普段あんまり聞かない単語だけに。
 でも、端的だけど……方向性は解る。
 そして、本意か否かはともかくカレンのことを考え続けていた隊長が言うんだから、たぶん間違いないんだ。

「隊長は、なにもしないんですか?」

「役目は終わったんだ。俺は無力。あとは、誰かがなにかをするんだよ。たぶんな」

「誰かがなにかをって……あんまりじゃないですか? それ」

「……言われりゃそうだな。でも、ホントだしな」

「運営と話せないんですか? ……誰も」

「うん、たぶんな」

「ていうか、隊長はみんなより知ってますよね。いろいろ」

「それは、賢者だから……ってことか?」

「はい、それもずっと……2年もですよね」

「古川」

「はい」

「例えば……例えばだ、2年間続けてるオンラインゲームがあったとして、ただ続けてるだけじゃプレイヤー以外の存在にはなれないだろ、俺たち」

「……まあ、そうですね」

「つまりそういうことだ。運営を探るのもリスキーだったし、な」

「ホントになにも知らないんですか?」

「そうだ。情けないことにな」

「でもみんな、運営を憎んでないですよね」

「………みんなって……誰のことだ?」

 ……しまった、口が滑った。
 今、巷……大学は「運営憎し」の一色なんだ。
 そんなこと、掲示板を見れば明らかなのに。
 自分の周辺の方が異端なんだ……。

「……もしかして、みんな、そこまで憎んでないのか?」

「あ、いえ、憎んでると思います。けど、単純じゃないな……とも思います」

 伊東は真琴の顔を見つめて考えている。

「単純じゃない……か。うん、なるほどな。ちょっと冷静ならそう感じられるんだな」

「なんか嬉しそうですね、隊長」

「あ、ああ……いや、ほら、俺の周りの連中とか掲示板とかだとさ、もう冷静じゃないんだよ。運営は悪、だから早く捕まえろ、早く捕まえないと俺たちヤバいだろってな」

「でも、それはそのとおりですよね」

「ま、そうだ。でも俺は、誰がなんのためにやってるにしろ見届けたい。できれば救いがある結末をだ」

「……それがつまり、成仏ですね?」

「そう。確かに運営は許されない。でもな、そんなこと承知の上でやってんだよ運営は。だから俺は運営の気持ちが知りたい。運営の思いが見えないままの結末は嫌だ」

「それこそガッカリするようなものかもしれないじゃないですか」

「……そう思うのか? ……古川は」

「……判りません。まだ」

「手段は卑劣極まりない、だけど目的に理はある。俺はそう思う」

「……それで、1年生に何を託すんですか?」

「なにかを、だよ」

「……それはまた、アレですね」

「なあ、ホントはもう俺なんかよりよっぽど近いところにいるんじゃないのか? 古川は」

 不意を突く言葉で真琴の胸に動揺が走る。
 近いところってなによ……どこよ。
 自問しても心は誤魔化せず、反論もできない。

「俺はホントになにも知らないんだ。俺にできるのは、俺の希望に時間を与えることだ。ほらアレだ、誰かが世界を救ってくれるのを待ってるだけのヤツ」

「その誰かは、みんなを救って、そのうえ運営を成仏させるんですか?」

「ああそうだ。たぶんその2つは両立できる」

 ……本当だろうか。
 そんな予想をするくらいなら、私よりよっぽど真相を知ってんじゃないの?

 いや、本当に知らないんだ。
 期間の長短はあれど隊長と愛は同じ……。
 今の大学じゃ公言できないけど、知らないまま運営に惹かれてるんだ。

「じゃあつまり、本当に9月28日のことは賢者にとっても突然だった。……そうですね?」

「そう、だから運営の目的なんてものについて考え始めたのは古川たちと同時なんだ。今まではずっと……うん、『悪い子にお灸をすえてるんだな』くらいに考えてた」

 悪い子にお灸……か。
 きっと運営は、そう受け入れるしかない人間を取り込んでたんだろう。

「鍵は結局、カレコレなんですね?」

「たぶんな。またプレイヤー側から誰かが選ばれる。今の運営からな」

 プレイヤー側から……また。
 つまり賢者のときのようにってことか……。

 ん。あれ? なんだ? なんか引っ掛かる……。

 あ、ああ、分かった。
 真琴は気付いたまま口にする。

「その……今の運営の『今の』ってなんですか?」

 そういえば松下さんも言ったんだ。『今の』運営の目的が知りたいって。

 真琴の質問に伊東が口を結ぶ。
 隊長、考えてる……。何を?

「……古川」

「はい」

「小暮は考えてた。今回の騒動の裏を」

 小暮? ……ああ、アプ研の小暮先輩か。
 まあ、私にも言ってたしな。昨日はなんの話も聞けなかったけど。

「アプ研の知識を活かして、ですね?」

「それもあるし、いろいろだ。……俺のことも含めて」

 ああ、なるほど。隊長がカレンに固執した理由も知りたかったんだ、きっと。

「それで、なにか分かったんですか?」

「推測は生まれた。でも不確かだ」

「……聞かせてくださいよ」

「うん……」

「信じる信じないは分かりません。けど、他言はしませんよ」

「いや、邪魔にならないかな。半端な推測なんて……」

「なりません。ひとつの可能性と理解します」

「分かった。でも、こう考えるに至った経緯は言えないぞ」

「分かりました」

 そして伊東は目を閉じ、黙る。
 語るべきことを整理しているらしい。

「運営は入れ替わったんだ。9月28日に」

「………え?」

「この事件の本当の犯人、つまりすべてを準備してきた運営は、9月28日にすべての情報……といっても人質までは渡してないだろうけど……とにかくこの騒ぎの行方を丸投げしたんだ」

「……誰にですか?」

「おそらく、徳の上位集団に」

「…………。」

「バカな発想か?」

「……いえ、あり得ると思います」

 掲示板にもあったし、その前に松下さんも言ってた。
 徳の高い学生が口を閉ざして警察を拒んでるって。

「何人いるのか分かんないけど、それがたぶん……今の運営、だよ」

「何をさせられてるんですか? その人たちは」

「期限内に答えを出すことを求められてんだろ」

「期限内に……答え?」

「ぼんやりとした推測で悪いな。たぶんそいつらは運営から課題を突き付けられて、そして、運営から押し付けられたルールに従って答えを出すよう強いられてんだよ、今」

「徳のトップ集団というのは、ホントに真面目な人たちですよね」

「うん。学生の本分を地で行く人間だろう。二流大学とはいえ、かなりの学識を備えてるはずだ」

 ……つまり運営は、真面目な学生に判断を委ねた。
 そういうことなのか?

 真琴がさらに伊東に尋ねようとしたとき、出入口のドアが開いた。
 そっちを見ると、今日バイトに入っている3年生の先輩だった。伊東と真琴の姿を見て微妙な顔をする。

「……ちぃ~す。って……もしかして邪魔か? 伊東」

「いや、そんなことない。シフト変えたことを古川に説明してたんだ」

「おお、俺たちの希望……だな?」

 先輩の言葉を聞いて、真琴は伊東に目を戻す。

「そういうことだ、古川。この1週間は余裕がある2年と3年でしのぐ。お前はカレコレをやるんだ。そしてたどり着け。……なにかに」

「それは……隊長命令、ですね?」

 ここで伊東は、今日初めての笑顔を真琴に見せた。

「そう、これは……厳命だ」

「最善を尽くしますっ。隊長」

 真琴は従前と同じく敬礼をしてみせた。

「うん」

「……じゃ、失礼します」

「ああ、おつかれ」

「まこっちゃんバイバ~イ」

 そして真琴が荷物を持って部屋を出ようとしたとき、思い出したように伊東が真琴を呼び止めた。

「なんですか? 隊長」

「追加の話があるはずだから、今日カレコレ始める前に小暮と連絡を取ってみてくれ」

「はい、分かりました」

 真琴は踵を返して部屋を出た。


 店の裏口を出た真琴は、自転車に鍵を挿しながら今日これからの行動を練る。

 まだ午後6時前……。ほとんどフルにカレコレができる。
 島田くんと理沙は5時半にサークルが終わって……今、どうしてるだろう。
 気になるけど……うん、まずは家に帰ろう。
 それから隊長に言われたとおり小暮先輩に電話するんだ。
 島田くんと理沙のことはそれからだ。

 それにしても……正しいのかな? 隊長の推測って。
 徳の上位学生が今の運営だなんて……。
 掲示板の書き込みや松下さんの話では、たしかに徳のランキング上位の人たちは他の学生と違う動きをしてるみたいだけど……。

 きっと半分くらい合ってる……。真琴にはそう思えた。
 どこがどう半分なのかは判らないけど、何もかもを運営が手放したとは思えない。
 だからイメージとしては、運営が徳の高い学生に重い宿題を出した……。そんな感じなんじゃないかな。

 そして……徳の特典……。

 警察の協力者で徳が400を超えてる人は、掲示板の書き込みすべてが実名らしい。
 きっと他にもまだ特典はあるんだ。
 徳の高い人たちは運営を知ってる……。いや、これも正確じゃないかも。
 うん。運営の正体は知らなくても運営の心は理解してる……ような気がする。
 ……たぶん特典の効果によって。

 私には……まだ見えない。

 よし、と気持ちに踏ん切りを付けてペダルに足をかけ、真琴は自分に言い聞かせる。〝大丈夫、私は何も失ってなんかない〟と。
 不意討ちとはいえ伊東の心に触れ、昨日の真琴に芽生えた喪失感は消えた。

 心は理屈じゃない。だから理屈じゃ言えないけど、まだ私は何も失ってないんだ。

 そして今は、運営を怖れたり恨んだりするべきじゃないんだ。
 そんな気持ちは、いたずらに遠回りするだけ……。
 みんなさんざん言ってるじゃないか、鍵はカレコレだって。
 進む道はカレコレ。カレコレを解くことで運営の企みを知るんだ。
 そしてたぶん、行き着けばそこで運営の目的の一端を担うことになる……。

 ……それでもいい。成仏させてやろうじゃないか。
 みんなが助かることと両立できればの話だけど……。


 アパートに帰り着いた真琴は息を整えながら小暮に電話をかける。
 呼び出しの間がもどかしい。急に時間が貴重なものに思えてきた。

(……どうしたんだ? 今度は)

「隊長から言われてかけました。聞かせてください。先輩が考えてること」

 真琴は先刻にもっすバーガーで伊東と話したことを小暮に伝え、話の続きを小暮に求めた。

(そう……か。伊東がな)

「隊長は私にカレコレを進めろと言ってます。替わりに自分がバイトに入ってまで」

(ん、まあ、それは……解る)

「隊長だけじゃなくて、私の周りの人たち……結局みんなカレコレですよ。私はとにかくカレコレ進めればいいんですか?」

(……まあ、そうだ。たぶん。っていうか、それしか道はないと思う。いや、話はそれから……って言った方がいいのかもしれない)

「頑張れば終わるんですか? カレコレ」

(まあ落ち着けよ古川。たぶん終わる。ていうか、終らなせなきゃなんないんだ)

 そして真琴は小暮から、伊東と小暮、つまり古い賢者とアプ研の中核が導き出した推測……この騒動のあらすじを聞いた。

 小暮の話、それは真琴にとって決して突飛なものではなかった。

 つまり運営というのは、今の大学の有り様になにかしら大きな憤りを持つ者ないしその集団で、その憤りの因を大学側ではなく学生に自覚させようとしていること。
 そして大学の変革が必要であると考えている運営は、変革の骨子を大学の主体、つまり学生に考えさせようとしていると思われること。
 その責を担う者を選別する手段がこれまでのカレンであり、今のカレコレだということ。
 学生の大半を身代に取られている広大は、よほど無理な申し出でない限りは運営に従うほかないだろうと小暮は言った。

「なんでウチの大学だけ……。あ、そうか、ウチだけかどうかは分からないですよね」

(ええと、いや、たぶんウチだけだ。なにしろカレンはウチの大学だけで広まってたからな)

「あ、そっか、そうですよね。じゃ、なんかウチの大学だけ問題なことってあるんですか? そんな悪いところじゃないと思うんですけど……」

(う~ん……。言われりゃそうだな。もしかしたらウチの大学に拘った理由が別にあんのかもしれないけど、とにかく大まかな推理は今言ったとおりだ。それにな、古川)

「はい」

(時間がないんだ。……たぶん)

「ああ、10日まで……ですね」

(違う)

「……え?」

(大学の秩序が臨界に近いんだよ。今日から私服の若い警察官が構内をウジャウジャし始めた)

「ああ、掲示板も急にヤバい感じになりましたしね」

(そう、保ってあと2、3日だ。でないと事件が起こる。それにな古川)

「なんですか?」

(警察はもう運営の正体を突き止めてる)

 …………え?

「……それ、ホントですか?」

(これも推測だ。でもな古川、俺はそう確信してる。元々のカレンのアプリはたぶんプロの業者が作ってた。でな、プログラムにはある程度クセが残るんだよ。作った人間のな)

「つまり、そこからたどれるってことですか?」

(そう。それもあるし、サーバが中国にあるってヤツ、たしかに障害にはなるけど、全力でかかって突破できないことはないと思うんだ)

「……じゃあ、どういう状況なんですか? 今」

(警察は運営と交渉してる。……人質の解放条件を。そしてどっちも焦ってる。早く結論出せよってな)

「結論って……運営が要求するんじゃ……あ、そうか)

(そ、運営は結論を学生に投げたんだ)

「なんでそんな……めんどくさいこと」

(いろいろあるんだろうけど、ひとことで言えば……美学、なんじゃねえの?)

 美学……。なるほどあり得るけど……。
 小暮の話、その大筋を真琴はすんなり呑み込んだが、この点については何故か引っ掛かった。
 でもまあ、時間がないのはどうやら本当のようだし、私がやるべきことに変わりはない。

「分かりました、進めてみます。カレコレを」

(うん。ああそうだ、俺な、今、カレコレのプログラム解析してんだ。なんかヒントが欲しかったらまた電話してくれ。役に立てるかもしれない)

「はい、ありがとうございます」

(それと古川……あのな)

「はい」

(伊東はその……いいヤツなんだ。ホントに)

 ああ、隊長とこの人は親友なんだ、ホントに……。
 真琴は小暮の言葉にわずかに胸が熱くなるのを感じた。

「分かってますよそんなこと。でも私は、その……」

(分かってる。できたてホヤホヤの彼氏がいるんだろ? 伊東だって知ってる)

「……はい」

(叶わぬことを承知でやったんだ、あいつは。そしてあいつの中では完結したんだ)

「完結……したんですか?」

(そう。あいつも言ってたろ?『最後に』って。あれで報われたんだ。男なんて……いや、あいつはそういうヤツだ)

「……分かりました。よく分かりませんけど」

(じゃあな。彼氏と二人で大学を救え)

 電話が切れた。カレコレの解析してるんだ、小暮先輩。
 でも……たぶん小暮先輩の解析結果を頼ることはない。
 私はもう、完璧な解析結果を持ってる。見てないけど。

 さて次は……島田くんだ。
 真琴は続けて島田に電話をかけようとして、思い留まる。
 ……メッセージにしよう。今、むこうがどんな状況か分かんないんだから。

 真琴は島田にショートメールを送った。

『今日バイトなくなった。今家にいる』

 ややあって返信がくる。

『マジ? じゃあすぐ行く』

『理沙、どうする?』

『清川は22時に呼ぼう。バイトなくなったのは内緒だ』

『大丈夫かな』

『大丈夫だろ』

 大丈夫かな、ホントに。でも、たしかに島田くんと二人の方がカレコレを進めるのには都合がいい。
 ちょっとの後ろめたさを感じながら真琴は島田の提案に乗ることにした。

『わかった。で、私は次にどこに行ったらいいの?』

『カレコレのこと?』

『そう』

『やけにヤル気なんだな。まあいいや。次は大学の西側、雨が降ってるとこだ』

『わかった。じゃあカレコレしながら待ってる。あ、なんか晩ごはん買ってきてよ』

『オケー』


 ……よし、やろう。
 まずは大学の西側、雨が降ってるところか。

 真琴は携帯電話でカレンを開き、カレコレを立ち上げた。


 起動したカレンコレクションの画面では、夜の教育学部前にチーム「つるぺた」の3人が並んでいた。
 真琴はステータスを眺める。

  つるぺたまこと
  ¥:319480円
  ☆:889個
  ○:①②③

 おカネも星も、今のところ私たちには重要じゃない。
 必要になるのかな? 進めていくうちに。

 でも、おカネはすぐに使っちゃう人がたくさんいるから、たぶんクリアするのにあんまり関係ないんだろうな。
 みんなが飛び付いて買う麻薬のようなアイテム……カルマトールが売られてたり、パチンコ屋があったり……。
 カレコレのお金はシナリオの進行と関係ない不確定な要素が多い。

 それは星も然りか。星だってカレコレ内の食堂で徳に替えてしまえる。

 そうだよ。問題はこれが「徳」と「業」というカレン上の個人ステータス、つまり現実の権限や脅威にリンクしているのに、カレコレではあくまでチームの共有物だという点だ。

 だからカレコレのお金と星の消費についてはチーム内での話し合いが欠かせない。
 そして追い詰められた人たちで意思統一がうまくいくはずないから至るところで内輪揉めや裏切りが起きて、それで自暴自棄になった人たちが今の大学を危険な場所にしてるんだ。

 個人ステータスか……。あんまり気にしなくなってたな、そういえば。
 大丈夫かな。なんか変わってたりしないかな……。

 急に気になった真琴は、一旦カレコレを閉じてカレンのメインアプリに戻り、自分のステータスを確認する。

  287718B
  優等生
  徳:256
  業:063

 ……ん、微妙に増えてる……よな。どっちも。
 まあ、たいした増えかたじゃないけど……なんだこれ?
 う~ん……。業が増えたのはたぶん、カレコレで敵が出す問題で不正解があったんだろう。間違えると業が増えるって書き込みがあったし。
 でも、徳はなんで増えてんの?
 考えられるのは……アンケート、かな?
 分かんないな……。徳が増えるのは悪いことじゃないんだろうけど。

 まあ肩書きは変わらず「優等生」、そして徳も業も微増、なんの危険もない……はず。
 そういえば、今から徳を増やすのは無駄なのかな?
 星を全部使えば、けっこう増えるんじゃない? 私の……徳。
 徳の特典には、運営を知るヒントもあるような気もする。

 いいか、こんなことは後回し……。島田くんと相談しよう。
 真琴は再びカレコレを立ち上げた。

 もう慣れたチープなBGMを聞きながら真琴は二頭身の分身「まこと」を西に向かわせる。
 教育学部ステージが終わったはずなのに行動範囲が広がっていないことに少し疑問を感じた。
 そして大学の敷地を西側に出たが、道路を挟んで林が広がっているだけで雨など降っていない。

 どこよ……。雨が降ってるとこって……。

 真琴は「まこと」を上の方……北に動かしてみる。

 あ。……これ、か。

 真琴は画面の上に「それ」を見つけた。
 キャラひとつ分の大きさしかない灰色の雲……「まこと」と同じ大きさの可愛い雲がチョロチョロと動いており、その雲の下……1マスの影に小雨を降らせていた。
 この雨にあたれってこと?
 ……そういうことだろう、たぶん。周りには何もないし。

 真琴は「まこと」を雲の影に重ねる。
 すると、途端に雨が強くなり、「まこと」の左側に水溜まりを作る。
 そして一閃の雷光が走ったあとで、画面の下の方から自転車に乗ったキャラクターがツーっと走ってきて「まこと」の左側、水溜まりの上を通りかかった。

  あ……。

 自転車のキャラは水溜まりの水を豪快に跳ね、「まこと」は水浸しになった。
 そのあと自転車のキャラは画面の上端で『!』という吹き出しを吐いて停まった。
 自転車を置いて「まこと」に近付いてくる。
 そしてウインドウにセリフが流れた。



『すいません。ごめんなさい』

  ・はい
  ・いいえ


 ……………。

 「はい」「いいえ」って……。
 ホント、これしか語彙がないのか「まこと」は。どういう意思表示よ? これ。

 え~と、このキャラは男……そして、若い。
 上下とも黒いこの服は学生服のように見える。
 ……高校生かな?
 ともあれ、どっちを答えても大差が無いように思える。

 そしてちょっと悩んでから、真琴は「はい」を選んだ。

 『ああよかった。本当にごめんなさい。あ、そうだ、僕んちで暖まっていってよ』

  ・はい
  ・いいえ


 え……どうしよう、断りたい。

 これまでのカレコレの流れからすると、この誘いに乗ったら「まこと」はロクな目に遭わない。
 断って話が進むのかは判らないけど……。
 真琴は不安ながらも「いいえ」を選んだ。


『そんなこと言わないでよ。ね、ウチのお母さんのご飯食べていってよ。そのうち服も乾くよ。ね?』

  ・はい
  ・いいえ


 お母さんの……ご飯?
 ああ、この人はホントに高校生くらいなんだ。
 でも、そこまでしてもらわなくていい。
 絶対に安全とは限らないし。
 真琴はもう一度「いいえ」を選ぶ。

『そんなこと言わないでよ。ね、お母さんのご飯食べていってよ。そのうち服も乾くよ。ね?』

  ・はい
  ・いいえ


 繰り返しか……。
 それでも真琴は何度も「いいえ」を繰り返した。

『ああもう! よし、じゃあ……こうだ!』

  ・はい
  ・よろこんで


 うわあ、ベタすぎる……。
 ここまできたら仕方がない。諦めた真琴は「よろこんで」を選んだ。

『よし決まり! 行こ。すぐ近くなんだ、僕んち』

 そうして「まこと」は男の子のキャラに連れられて、二人で自転車に乗って消える。
 あ~あ。二人乗りしてるし……。

 そして置き去りの「りさ」と「なおっち」が佇む画面がゆっくり暗転した。

『はい、これタオル』

 次に表示されたのは男の子の家の中、リビングのようだった。
 テレビの前のソファにいる「まこと」に男の子がタオルを渡している。
 画面の下の方、台所ではエプロン姿のキャラが忙しく動きまわっている。
 これは……この子のお母さんか。
 ……そして……この人は?

 部屋には「まこと」と男の子、そして母親の他にもう一人いた。「まこと」と対面するかたちでソファに寝そべっている。
 風貌から察するに、男の子の父親と思われた。
 寝てるのか? お父さんは。

『今日はハンバーグだって。ウチのハンバーグ、美味いんだよ!』

 ハンバーグ……。ま、なんにせよ真琴はこのお宅で晩ごはんをご馳走になることになったらしい。

 リビングのテレビ画面では、なんだか男のキャラと女のキャラが動いている。
 なにかのドラマのようだけど、小さくてサッパリ分からない。

『ねえ、お姉さんは広大生でしょ?』

  ・はい
  ・いいえ


 ……そういえばこれ、「まこと」が女だから男子高校生が出てきたのかな?
 島田くん……「なおっち」の場合は女子高生が出てくんの?
 そんなどうでもいいことを考えながら真琴は「はい」と答えた。
 そもそも広大生だけじゃん。……カレコレやってんの。

『やっぱり。僕も受けるんだ。広大』

『けっ、受かりゃいいけどな』
 ブッ!

 ここで初めて父親らしきキャラが喋った。
 喋ったあとに、「ブッ!」という音と共にお尻の辺りに黄色い吹き出しが出た。
 お父さん……今、オナラした?

『ごめんねお姉さん、愛想ないんだ、ウチの父ちゃん』

『なんだとこの野郎。そもそもお前は何しに広大に行くんだ』
 ブッ!

 またオナラした……。

『なにって……勉強するために決まってんだろ』

『けっ。……んで? 将来なにをするんだ?』
 ブッ!

『……それは勉強しながら考えるよ』

『はっ! まだそんなこと言ってんのか。姉ちゃん、あんた将来の道は決めてんのか?』

  ・はい
  ・いいえ


 この子は何年生なんだろ……。
 今回はこの親子の進学論争に意見を求められるのか?
 え……と、まあ、とりあえず私は教諭になるべく広大に入ったから、「はい」と答えていいだろう。

『ほらな、分かったか? 大学ってのはな、ちゃんと将来を考えてる人が行くんだ。お前みたいな浮わついたヤツが行っても意味なんかない』
 ブッ!

『そんなことないよ。大学で勉強しながら世の中を知って、やりたい仕事を見つけるんだ。そういうのだっていいよね?お姉さん』

  ・はい
  ・いいえ


 それは……まあ、そうだろう。
 生涯の仕事を決めるのに時間をかけてもいい。

 いや、そうだろうか。
 私は教壇に立つために大学を出る必要がある。
 そして理想の「先生」を目指してこの大学を選んだ。

 でも、私はむしろ少数派かもしれない……。他のみんなは……うん、この男の子と同じで、大学にいる間に将来を決めようとしてる人の方が多いかも。
 いや、でも……学科を選んで受験してるんだから、たとえ大まかでも、みんなある程度の将来像は描いてる……はず。


 あ……。これ……逆かもしれない。
 大学は学科を「選べる」んじゃない。「選ばなきゃいけない」んだ。
 どれかを選ばなきゃいけないから、必然的に専門を持つ。
 「なんとなく興味ある」「なんだか得意」……そんな理由で学科を選んでる人も多い。
 それに……ほとんど仕事に関係ない学科だってある。

 まあ、ともあれこの男の子の質問に限っては、個人的にはアリだと思う。
 運営の意に沿わない気もするけど……。
 いろいろ考えた末、真琴は「はい」と答えた。

『へっ、悠長なこった。そんな決意で大学に入るヤツが勉強するわけがない』
 ブッ!

『そんなことないよ。ちゃんと勉強するよ、僕』

『……まあ、お前はそうかもな。ちょっと勉強ができるだけのバカだもんな、お前は』
 ブブッ!

『なんだよ。なに言ってんのか分かんないよ父ちゃん。ねえお姉さん』

  ・はい
  ・いいえ


 ちょっと勉強ができるだけのバカ……。
 勉強ができる……けど、バカ……。
 これ……は、単純じゃないぞ。
 このお父さん、いい加減に言ってるわけじゃない。

 勉強ができるかどうか……。それと「バカ」……。
 バカ……。ここでいう「バカ」にどんな意味が込められてるのかは定かじゃない。
 でも……いる。それはなんとなく分かる。
 勉強ができても人間としてダメな人はいる。
 真琴は「いいえ」を選んだ。

『なんだよお姉さんまで……。僕、バカじゃないし』

『ふん、自覚がないもんなんだよ、バカは』
 ブッ!

 ……なんだか険悪だけど、これがこの家族の「日常」なのかな。
 少なくともこの男の子は素直だ。
 お父さんは……なんか、ちょっと拗ねたカンジだけど。

 そこに、台所で動き回っていた母親が寄ってくる。

『おまたせ。ごめんなさいね、ウチの人……口が悪いのよ』

『悪くない。正直なだけだ』

『はいはい、ごめんなさいね。ウチの人、正直なのよ』

『……まあいい、食うぞ』

『『『『いただきま~す』』』』

 食卓に料理が並び、4人でご飯を食べる。
 モソモソとキャラが食べている動きが滑稽だ。
 男の子はおかわりをしに台所に行ったりしている。
 ああ、お母さんは穏やかなんだ。

 テレビを点けたまま、慎ましい晩餐が進む。

『そういえばこのドラマ、苦情が殺到してるらしいよ』

 ん? これは誰のセリフだ?
 ドラマって、テレビのこと?

『あ? 苦情? どこが悪いんだ?』

『ん~、なんかね、事実とかけ離れ過ぎてるとか、偏見がなんとかとか』

『現実と違うに決まってるだろ。フィクションなんだから』
 ブッ!

 食事中でもオナラしてる。
 豪気な人だなあ。

『でもね、実在の仕事を採り上げたドラマだから、変なイメージ与えるなって。でね、内容修正するんだって』

『相手にしなきゃいいのにな。そうやってつまんなくなってきたんだ、テレビは』

『ホント、ずいぶん変わったわね、テレビも』

 おや、お母さんも同意みたいだ。
 真琴はこの控えめな母親の言葉を意外に思い、そして考える。
 ……テレビって、変わったの?

『じゃあ昔はどうだったの?』

 男の子が問う。
 そうよ、昔はどうだったってのよ。

『あ? 昔? 昔……昔は……うん、面白かった』

『お父さんが歳とっただけじゃないの?』

 うわ……大丈夫なのか? この気が短そうなお父さんにこんなこと言って。

『なんだとこの野郎。昔のテレビは面白かった。それは間違いない。強かったんだよ、テレビは』
 ブブッ!

『え? 強かった? どういう意味?』

『どういう意味もへったくれもない。そのまんまの意味だ。お嬢さんは解るよな?』

  ・はい
  ・いいえ


 解るよな? って……。解んないし。
 うーん……。でも、いつだったか私のお父さんも似たようなこと言ってた気がする。
 そういえば私のお父さんに近いような気がする。……このお父さんは。

 でも意味は解らない。教えてくれるなら教えてもらいたいくらいだ。
 真琴は「いいえ」と答える。

『……あなた、お客さんにあんまり変なこと聞かないで』

『変なこととはなんだ! 変じゃない! 常識だろうが』

『僕は知らないよ。そんな常識』

『だからバカだって言ってんだ。学校で習ったか? 「常識」を』

『……習ってないよ。じゃ、教えてよ。なんで昔のテレビは強くて、そんで面白かったの?』

『それは自分で調べて考えろ。これを考えるだけでも世の中の見えかたが変わるぞ。まあヒントは……テレビでの「表現の自由」なんてものは、もうテレビ局……てか番組を作る側にはないってことだな』

『テレビ局にないって……。じゃ、どこにあんの?』

『だから自分で考えろ。簡単じゃねえんだよ。なんなら4年間、大学で追究してもいいくらいだ』
 ブッ!

『……ホントは分かんないんじゃないの?」

『調子に乗んな! ……でも、まあ、単純じゃないんだ』
 プ~

『ふふ……。大学でそれを考えるのも面白いかもね』

『なに? お母さんまでそんなこと言うの?』

『だって面白いわよ、きっと。あんただってもう子供じゃないんだから、いろいろ考えなさいな。テレビ、ネット、マンガ……あとは活字……かな。今、それぞれが許されてる表現の範囲は明らかに差があるわ。いちばん過激なのは活字。口にするのが憚られるような描写がなんで許されてるの? 残虐だったり、犯罪的な変態嗜好だったり。ねえ? お姉さん』

  ・はい
  ・いいえ


 ……お母さんも、か。
 ホント、なんだか自分の家みたいだ。
 この問答……これが松下さんが言ってた「人間性を問う」質問なの?
 判んないけど可能性はある。だけど私は運営の意図を計算して答えるつもりはない。
 だけど、この問いについては事実だ。あんまり考えたことないけど、そのとおりだと思う。
 真琴は「はい」を選ぶ。

『でしょ? なにもね、今のマンガとか小説が教育上よくないとか野暮を言うつもりはないの。でも、なんでこうなってるのかは考える価値があるわ』

 考える価値がある……か。
 たしかに答えは単純じゃない。それはなんとなく分かる。
 複雑すぎて、答えがあるのかどうかも分からない。

『いいか、お前はもう「教わる」のを卒業するんだ。「考える」ために大学に行くんだぞ』

 考えるため……。断言しちゃってるけど、そうなの?
 私、まだまだ「教わる」段階なんだけどな。

 そうしているうち、母親は食卓の皿を片付け始めた。
 手伝えよ、まこと……。
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