かれん

青木ぬかり

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10月1日(土)

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「まだ続けてもいいのかな? 世間話」

「え、あ……」

 そうだった。サークルに行くんだった。真琴は慌てて腕時計を見る。
 もう始まっちゃってる……。でも、まあいいか。遅れて行っても。

「はい、大丈夫です。バイトじゃないんで、遅れても怒られませんし」

「そう? ならいいんだけど」

「はい、松下さんの話、興味深いです」

「ホントに? 古川さんの気分を害することしか言ってないような気がするけど」

 真琴の反応が意外だったらしく、松下が少し驚きの表情をする。

「楽しい話ではないですけど、大事なこと…そう思います」

「じゃ、調子に乗って続けるよ。いい?」

「はい」

「古川さん、古川さんは去年まで受験生だったんだから、いろんな大学があるのは知ってるよね」

「……どういう意味ですか?」

「今、世の中には、入試なんて形式だけで、おカネさえちゃんと納めるなら誰でも入れるような大学がある」

「ありますね。……たしかに」

「そういう大学にとって学生は純粋に『お客様』だよね。勉強なんてしない。そもそも高校の時点で勉強してきてない。『大卒』という肩書きを売るだけの商売だよ。それもかなりの高額で」

「それはさすがに……ちょっと言い過ぎなんじゃ……」

「言い過ぎじゃない。それにね、これは大学にとっては仕方のないことなんだ。大学を存続させるためにね」

「…………。」

「結局日本は、第二次ベビーブームの世代が学生になるころに無計画に大学を乱立させ過ぎたんだ。つまり国の失策だよ、これは。学生集めに奔走するような惨めな状況に陥った大学だって、建てたときには崇高な建学理念があったんだから」

「失策……ですか」

「僕だってそんな高尚な考えは持ってなかった。だけど昨日、大学関係者と警察の会議に出て、初めて真剣に考えたんだ。やっぱりこれは失策だよ、うん」

「……どんな会議だったんですか?」

「愚痴の言い合いだよ」

「……え?」

「肝心のカレンの情報が少ないから、運営の目的についていろんな推測が飛び交った。カレンの掲示板みたいな話だよ。で、広大側も県警側も、今の日本の大学の在り方を愚痴ってた」

「え? 警察も、ですか?」

「うん。古川さん、いわゆるその、言葉は悪いけど……底辺と呼ばれる大学のお客さんは今、外国人留学生が増えてるんだ」

「……そうなんですか?」

「うん。さっき、誰でも入れる大学って言ったけど、事態はさらに進んでて、詳しく言うと『日本人なら誰でも』から『外国人でも誰でも』になってるんだ。おカネさえ納めればね」

「その外国の人たちは、何をしに来てるんですか?」

「それは想像におまかせするよ。ま、勉強のためじゃあないよね。20年前は中国人の密入国が流行ったけど、今はそんな危険なことしなくても、容れ物が余ってるから堂々と日本に来られるんだ。しかも〝密入国者〟じゃなく、ちゃんと〝留学生〟という身分を持ってね。昔の密入国は蛇頭におカネを払ってたから、支払い先が変わっただけ。利害が一致しちゃったんだ。経営難の大学と、日本に来たい外国人のね。ある意味では犯罪インフラだよ、ハッキリ言って」

「それが……警察側の愚痴、なんですね」

「それだけじゃないんだ」

「まだあるんですか?」

「ほんとに学力の低い大学の講義は、内容もそれに準じる。義務教育の復習みたいな講義内容で、しかも肝心の学生はろくに出席しないで遊びまわってる。そして、そこに目を付けたのが反体制だよ」

「反体制……ですか」

「過激思想や反社会的思想の団体。それと僕は立場上、政治的なことはあんまり言えないんだけど……一部の政党もね。そういう輩が、この名ばかりの、ほんとに名ばかりの〝学生〟を取り込み始めた」

「……ああ、はい」

「古川さん、きっと君はちゃんと判断能力のある大人になるよ。でも、大人になるのは早くていいんだ。周りに合わせてゆっくり歩く必要なんかない」

「それはどういう……」

「早く社会を把握しないと、悪い大人に踊らされる。この反体制の戦略……いわゆる勉強しない学生を懐柔しようという狙い……これがまた、学生は面白いほど踊らされてるんだ。無知という自覚がないから、吹き込まれた話をまるで自分の主張であるかのように勘違いする。いや、単純な理論でプライドを充たすって感じかな。うまく言えないけど。そして彼ら若者は絵になるからメディアに露出させる。顕示欲と功名心は一人前だからね。裏で糸を引いているのが何者なのかは見え見えなのに、ね」

「……そうですね」

「古川さん、日本に政党はいくつもあるけど『日本の政党』というのと『日本のための政党』というのは同義じゃないよ。日本のためにない政党が天下をとったら、日本は中国の属国、あるいはアメリカの1つの州になりかねない」

「そんな大袈裟なことは……ないんじゃないですか?」

「日本という場所での自分の地位が保証されるなら国を売る……。いろんな言葉で誤魔化しながらそう言ってる人たちは少なくないよ。聞く耳は鍛えなきゃ」

「……反米保守」

「……驚いた。そんな言葉知ってるんだ。古川さん、ホントは何歳?」

「いえ、前に……去年だったと思いますけど、ニュースを見ながら父が言ってたんです。たしかそれに続けて『あからさまだな、目指すところが』とか言ってました。意味は……よく解りません」

「お父さんは……何者?」

 何者……か。お父さんにも聞かれたな。でも、さすがに家族のことまで松下さんに言う必要はない、お父さんは関係ないんだから。
 真琴は考えた挙げ句に

「ただの……偏屈者です」

と答えた。家族のことまで触れたくないという真琴の意を汲んだのだろう。松下はそれ以上追及してこなかった。

「それにしても反米保守か……。それはそれで反対側に偏ってるかもしれないね。肚の中はさておいて、外国とは〝反〟の付かない関係を維持しなくちゃいけない。少なくとも表面上は」

「でも、滅茶苦茶なことを言ってるのは周りの外国じゃないんですか? あ、よく解りませんけど」

「それが外交だよ。全部……とは言い切れないけど、ほとんどが作戦だ。これも視る目と聴く耳を鍛えなきゃホントのところは見えない」

「じゃ、大学側の愚痴はどんなことだったんですか?」

「そうだね……。質問で返して悪いけど、国立大学の名門、歴史と伝統ある広北大学の学生は、みんな勉学に勤しんでる?」

 ああ……なるほど。わずか半年でも大学の空気は真琴にも分かる。

「……勉強する人と、勉強しない人、両方います」

「だよね。でも、これも昔からのことで、なにも今の学生が特別に悪いんじゃない。ただ、大学が余るようになった今、それじゃ困るんだ」

「誰が困るんですか?」

「もちろん大学が一番だね。この先、最高学府としての存在意義を示せない大学は淘汰される。国立公立、私立を問わずにね」

「国立も、ですか?」

「そうだよ。だって学生が足りなくなるんだもん。小学校や中学校の閉鎖と同じだよ。そんな、なんとしても大学の威信を保たなきゃならない時代に、国立の、それも一つの地方を代表する大学の学生でさえ勉強したりしなかったりじゃ将来心配だよね」

「はい……」

「笛吹けど踊らず……。大学側の出席者は、学生の向学心の低さを嘆いていたよ。今まで甘すぎたってね」

「そうかも……しれませんね」

「そして、卒業後の受け入れ先…企業や官公庁もバカじゃない。というか、自分たちも学生だったから身をもって知ってるんだ。もはや大学のブランドにはほとんど意味がないって。だから、どこの大学を出たかということは、これからの社会では武器にならない。ホントの実力が必要な時代になってきてるんだ。古川さんは……そうか、教育学部だから教員免許が取れるけど、他の学部で、なんの資格も取らずに大学を卒業するのは、後々かなり後悔するよ」

「そうですね、わかるような気がします」

 松下は、言いたいことを伝え終えたように軽くため息をつく。

「さ、お説教みたいになったけど、古川さんには無用だったね。君はしっかりしてるよ。胸を張っていい」

 お説教……。まあ、耳が痛い話ばかりだけど、松下さんの言うとおりだ。それなりの評価を持つ広大でさえ、明らかに勉強を放棄してる人がいる。まして誰でも入れる大学なら、その実態は推して知るべしだ。

 大学教育に対する警告……。カレン運営の目的として、あり得なくはない。
 あり得なくはないけど、たぶん違う。真琴は漠然とそう感じた。


 それにしても、こんな説教をする松下さんこそ、いったい何歳なんだろう?

「……松下さん」

「うん?」

「松下さんは、いったい何歳なんですか?」

「僕? ……なんで?」

「いえ、その、なんとなく……です」

「32だよ」

「32……。私も32歳になる頃にはちゃんとした大人になってるんでしょうか?」

 松下が笑う。最初に会ったときと同じ爽やかな笑顔で。

「もちろん。きっと古川さんは僕なんかより遥かに立派な人格者になってるよ。僕が保証する」

「そうですか……」

「さ、もうサークルに行かなくちゃ。また来てよ。……世間話に」

「はい、ぜひ。あ、世間話といえば、カレン運営に一瞬だけ人間味を感じたときがあるんです」

「運営に……人間味?」

「はい、運営から受けてる肩書き……私でいえば〝優等生〟っていうヤツですけど、一番の友達が〝普通の人〟だったんです」

「うん」

「だから私、これは徳と業から算出される格付けだと思ってたんです」

「……違うの?」

「はい。学科の友達に聞いたら〝賢者〟だったり〝わんぱく〟だったり……。なんか、運営の遊び心を見たような感じでした」

 松下の顔が真剣になる。

「〝賢者〟? ……それは何年生?」

「え? 私と同じ1年生……ですよ」

「その子は何者?」

 あれ? お父さんと同じところに食い付いた。
 なんでだろ?

「……ただの、同じ学科の友達……です」

「その子の徳とか業は?」

「あ、いえ、そこまで聞いてません。松下さん、何が気になるんですか?」

「いや、だって、1年生の頂点にいる古川さんが〝優等生〟なのに〝賢者〟なんて、さらに特別な感じじゃないか」

「でも、その子は、たしかにクールな感じの子ですけど、特別じゃないです」

「そう……か。う~ん……なんかひっかかるなあ。まあいいや、ありがとう。そんな話、これからも聞かせてよ」

「はい、わかりました。じゃあ失礼します」

 真琴はスポーツバッグを持ち上げ席を立つ。

 建物を出て、真琴が自転車に手をかけたとき、松下が思い出したように言う。

「あ、そうだ。古川さん、カレンのアプリに今夜、新しい機能が加わるみたいだよ」

 ……なに、それ。どうしてそんなこと知ってるの?

「……どうして、そんなこと知ってるんですか? もしかして警察は、運営と対話できてるんですか?」

 真琴の不信が伝わったようで、松下が慌てて打ち消す。

「違うんだ古川さん。警察は、運営からの一方的な通知を受けてるだけだよ。それも鮮やかな手口でね」

「…………。」

「ホントだよ、ホント。そうだな、う~ん、どうしても信じられないなら、古川さんに話してもいいか班長に聞いておくよ。断じて警察は運営と裏で交渉してたりはしない」

 松下さんの言葉に嘘はなさそうだけど……。警察にだけそんな重要な情報が入るのはどういう仕組みだろう。

 それに愛の〝賢者〟という肩書きに強い関心を示したのも引っかかるし……。
 そうだ、サークルが終わったらお父さんに聞いてみようかな。

 そう考えてから、真琴は自転車に跨がって「また来ます」と挨拶してからペダルに足をかけた。


 松下の話に惹かれてすっかり遅くなってしまった真琴は、東体育館までのわずかな距離、風を切る。
 久しぶりのサークル……。中学時代の夏休み明け、新学期にみんなと顔を合わせる前の緊張感に似た感覚で、自然と鼓動が速まる。
 真琴はそれを誤魔化すように腰を浮かせて全力でペダルを漕ぎ、心と体の鼓動を同調させた。

 自転車置場に理沙の自転車を認めて少し緊張が和らいだが、体育館の引き戸を開くときは無意識に気配を殺した。そろっと開いて中を窺う。

 少ないな、来てる人……。20人もいないみたい。

 理沙は……いた。 ……島田くんは……いないみたいだ。

 真琴がそうしてフロアの端で顔だけ覗かせていると、理沙がそれに気付いた。なんだかお化けでも見たような顔をしている。
 理沙、なによその顔は……。

 真琴がフロアに入り、スポーツバッグから取り出した体育館シューズを履いていると理沙が駆け寄ってきた。

「真琴……アンタなにしてんの?」

 ……それを聞くなら「何してたの」じゃないのか?
 こんなに遅れて来たんだから。

「なにって……サークルでしょ?」

「……もしかして、ダメだった?」

 話が噛み合わない。理沙は何を言ってるんだろう。

「理沙、アンタ……なに言ってんの?」

「え? なにって……。会ってたんじゃないの? 島田くんと」

「……会ってないし。島田くん、来てないじゃん」

「あ、うん。だからてっきり、二人で逢い引きしてるんだと……」

 真琴は理沙の頭を小突いた。思いのほか力が入り、いい音がした。理沙が頭を押さえて大袈裟に痛がる。

「いっ……た~い。真琴ヒドい、ヒドいよ真琴」

「なにが逢い引きよ。こっちはドキドキしながらやって来たってのに」

「だって二人揃っていないから……。だから、邪魔しちゃいけないと思ってラインも送らないでいたのに」

 そういえばそうだ。時間になっても私が来ないんだから、いつもの理沙ならラインを送ってくるはずだ。

「とにかく、理沙が考えてるようなことはないよ」

「な~んだ、つまんないの。もう私、頭ん中で妄想がスパークしてたのに……」

 仮に会ってたとしても、その妄想とやらのような展開にはなっていないだろう。
 どんな妄想か知らないけど、そんな……スパークするような展開には。

「それにしても少ないね、今日」

「うん。まあ、まだ講義が始まってないからね。みんな来るのは月曜からじゃない?」

 まだ講義が始まってないから……か。

 たしかに、後期初日とはいえ土曜日だから、体育館までの道のりにも構内に学生の姿は少なかった。
 大学の運行にカレンがどんな規模で影響するのか、実際のところは月曜日の本格始動まで判らない。

 軟着陸……。真琴はそんな言葉を思い浮かべた。

 体育館シューズを履いた真琴はラケットとタオルを持ち、理沙と連れ立って卓球台に向かう。

「……この人数で6面も出してんの?」

「うん。基本打ちまでは3面だったけど、『久しぶりだから遊ぼうか』って、大島さんが」

「ああ、そういうことね。……そういえば3年生で来てるの大島さんと野崎さんだけだね。あとは2年と1年ばっか」

「うん。だ~か~ら……ね、聞いて聞いて、今ね、私ね……Aクラス」

「Aクラス? ……理沙が?」

「ふっふっふ。さ、遅刻の真琴はBクラス、6番台からどうぞ~」

「よし、私が行くまで待っときな理沙。……できるもんならね」

 いくら上級生が少ないとはいえ、理沙が、あの理沙がAクラス……上位の台にいるなんて、今まであっただろうか。

 まあいい、どうせすぐに落ちてくるだろう。
 よし、じゃあ私は一番下……6番台からだ。

 この少人数でこの練習は楽しい……。それぞれの台で11点先取の勝負をして、勝てば上の台に、負ければ下の台へと移動する。
 今、1番台で勝ちを続けてるのは……野崎さんか。
 一度も行ったことのない1番台。今日なら届くかも……。
 密かに胸を踊らせて真琴は6番台に並ぶ。カレンのことは頭から消えていた。


 果たして真琴はまず6番台で勝ち、5番台でも勝った。どちらも圧勝だ。
 今までこの練習をするとき、真琴は5番台と6番台の常連だった。

 今日の私は違う。今日はイケる……。真琴は確かな手応えを感じ始めていた。

 この真琴の自信は、実は夏休みの特訓に裏付けられていた。
 特訓の相手は父と母……二人とも卓球部に籍を置いたことはない。ないのだが卓球が〝できる〟のだ。
 両親は二人とも学生時代にかなり本格的にテニスをしている。そして父曰く「テニス部の合宿の夜は卓球大会が定番だ。みんな独自の理論と打ち方で見た目はひどいが、実はかなりレベルの高いシビアな勝負をする」らしいのだ。
 そして、卓球サークルに入ったことを母に報告したとき、しばらくしてそれを耳にした父が電話口で言ったのだ。

『お前が帰ってきたら俺が相手になってやろう。俺に勝てたら車でもなんでも買ってやる。御予算の範囲でな』

 お父さん、たいした自信だな、元卓球部でもないのに……。真琴はそう思っていた。
 そしてわずかな期間とはいえ真面目に卓球に取り組んだ真琴は、父の鼻をへし折ってやろうという気持ちで夏休みの初め、家族で市の体育館に行ったのだ。


 だが父は強かった。初めの勝負、真琴は1ポイントも取らせてもらえなかった。……そして母にも。

 運動センスにそれなりの自信を持っていた真琴だったが、その自信はいとも容易く打ち砕かれた。
 それから夏休みの間、週末は欠かさずに、そして父の帰りが早い日は平日までも体育館に行き、家族で卓球をした。

 あれは楽しかったな……かなり。
 中学、そして高校と上がるにつれて少しずつ減っていた親子の時間を一気に取り戻したようだった。

 そして夏休みが終わりに近付き、真琴が大学に戻る頃には、勝てないながらも父や母とかなりのいい勝負をするようになった。
 ラケットは相変わらず初心者用……ツルツルだ。


 真琴が4番台で順番待ちをしていると、3番台で負けた理沙が来た。

「あら、Aクラスの清川さんじゃありませんこと?」

「……うう、くそう。すぐに戻るよ。真琴、アンタに勝ってね」

 真琴は目を閉じ、ゆっくりと首を横に振る。

「それは無理だよ……理沙」

「なにその哀れみ、真琴のくせに」

「……私はもう、今までの私じゃない」

「うわあ、なんかムカつく」

「残念だけど清川さん、あなたは私には勝てない。……もう二度と」

「ムキーッ。アンタ私に負け越してるくせに、なにその自信」

「……やれば判るわ理沙。さあ、私たちの番よ」

 真琴と理沙は4番台を挟んで向かい合う。最初のサーブ権は上から落ちてきた方……理沙だ。

「なんか知らないけど、そのフザけた口、黙らせるよ」

「……どうぞ」

「うわあぁぁん真琴が壊れた~。こんなの真琴じゃない~。目を覚ますんだ真琴。……とうっ」

 理沙のサーブが放たれる。

 放たれた鼻垂れサーブ……。真琴はそれをショートで軽く捌く。
 理沙のバックに向けて……深く。

「うわっ……と。……え?」

 予測にない品質のリターンに、理沙が驚きの顔で真琴を見る。
 真琴はそんな理沙を静かに見つめ返して首を振る。

「……理沙」

「ああっ、なにその悲しそうな顔。なんのキャラよ。ていうか今のなによ」

「まぐれではないのよ、理沙」

「くそう。真琴なんかに……」

「無駄よ……理沙」



 試合が終わった……。11対2……真琴の圧勝だった。
 理沙は大袈裟に崩れ落ち、うなだれている。
 その理沙を見下ろして真琴は言う。

「さようなら理沙。私は征くわ……Aクラスに」

「真琴……どうしてそんなに上手くなってんのよ?」

「……これが、古川式卓球術……よ」

「古川式卓球術……。……ダサい、ダサすぎる」

 くっ……コイツめ。

「そんなダサいものに貴女は手も足も出ない。それが現実よ、理沙」

「うぅ……くそう」

 そうして真琴はAクラス……3番台でも勝ち、2番台でも勝った。
 さすがにこのあたりになると腕に覚えのある人たちばかりなのだが、なにしろ相手が初心者マークをおでこに貼ってあるはずの真琴なので「あれ? あれ?」という感じで相手が油断しているうちに勝った。
 さあ、いよいよ1番台だ。


「……なん……だと?」

 今日の首位……3年生の野崎さんは、真琴の顔を見るなりそう言った。

「そんなに驚かないでくださいよ。野崎さん」

「古川、ここはお前みたいなツルペ……ツルツルが来るところじゃない。どうやってここまで来たんだ」

「闘ってみれば分かりますよ。……私は、ツルツルを極めました」

「ツルツルを……極めた……だと?」

 とうとうここまで来た……。たとえ瞬間的にでも、私が首位に立つことは偉業だ。
 だけど今日は人数も少ないし、みんなには2ヶ月のブランクがある……。いけるかもしれない。

 こんなチャンスは二度とない。
 ……この勝負、負けられない。

「……そういえば野崎さん、なんで今日は少ないんですか? 3年生」

 野崎の顔がわずかに曇る。

「……3年はそれどころじゃない。カレンのせいでな」

 そうだろう。基本的には徳も業も、カレンを長く使っているほど多い。
 一番大変なのは、初めから使い続けていた3年生なんだ。

「野崎さんは大丈夫なんですか?」

「……その手には乗らない。始めるぞ古川、お前に1番台は早すぎる」

 気が付けば他の台は試合を中断し、みんなが1番台を囲んでいた。


 野崎さんは前陣速攻……ツルツルとの相性は抜群だ。
 一方的な試合にはならない……少なくとも。


 野崎が真上に高く放った白球が頂点に達し、落下を始める。真琴にはそれがスローモーションに見えた。
 そして乾いた音とともに、真琴にとっての大一番が始まった。


 真琴の予想どおり、トリックのない野崎のスタイルは真琴のツルツルラケットの格好の相手だった。
 速さにだけ気を付ければいい……。真琴は集中した。

 一本目、野崎は真琴の正体を探っているのか、真琴のフォアにだけ返しながら少しずつピッチを上げる。真琴はただそれに合わせる。
 表面がツルツルの真琴のラケットが返す球はドライブが小さいのでバウンドが低く、ラリーは自然と軌道が低く、そして速くなる。
 その奇妙な感覚は、真琴にとっての普通、相手にとっての異常だ。傍目から見ればこの試合、一本目から激しい凌ぎ合いに見えた。
 単に相手に合わせているだけの真琴の心中をよそに。
 そして外見上の激しいラリーの末、真琴は軌道を野崎のバックに逸らし、一本目を終わらせた。
 一本目を真琴が取ったのでギャラリーが沸く。

「お前、ホントに古川か? 中の人は誰だ?」

「夏休みに特訓してきました」

「……どこで?」

「……内緒です」

「なんだそりゃ。いや……でも気になるな。お前、上手くなったっていうより、素人のまま強くなってないか?」

 さすがに3年生だ。たった一本で見抜いたらしい。
 まずいな……。野崎さんが付け焼き刃でもスタイルを変えてきたら私は負ける。……簡単に。

「よし、このままとことん付き合ってやるよ。その方が楽しいもんな」

 よかった……。野崎さんは自分のスタイルのまま戦ってくれるらしい。

 それからは野崎も手加減なしにコースを打ち分け、試合は白熱した。なにしろ勝手にテンポが上がるのだ。
 そして、技術に勝る野崎の方だけが違和感と戦う。

 試合はもつれにもつれ、ついに真琴のアドバンテージとなった。
 ここまで、ほとんどすべてのポイントが長いラリーの末の決着…誰が見ても好勝負、名試合だった。

 そしてこのマッチポイントの一本、野崎の深い打球が真琴の正面を突き、真琴はフォアともバックとも言えないへんてこな姿勢で、高く浮いた球を返す。
 これでまたデュース……。真琴はもちろん野崎も、そしてギャラリーもそう思った。

 しかし真琴のツルツルラケットはここでも思わぬ効果を出す。ツルツルのラケットが返す球の回転は相手の打球に大きく依存するが、ときに完全なフラット……無回転を生む。
 野崎がスマッシュの動作を開始したとき、球は揺れたのだ。……見事なナックルボールのように。

 そして野崎のラケットは下端で球を叩き、球は真下……つまり野崎側の卓上に叩きつけられて大きく上に跳ねた。


 ……勝った。私が、3年生に……。


 真琴が勝ちを実感するより早く、ギャラリーが大歓声を上げた。
 真琴と同じ初心者は驚きを、そして実力のある人たちは大笑いをしていた。そして野崎が真琴に言う。

「なんだよそれ。どうやったらそんな方向に伸びんだよ。たしかにツルツルならではの卓球だ。サークルならそれもアリだよ、面白すぎる」

 誉められた……のか? いや、うん、誉められたんだ、きっと。

「真琴すごい。すごいよ古川式たっ……き……む」

 駆け寄って来た理沙の口を慌てて塞ぐ。これ以上の笑いは要らない。

「さあ、古川がてっぺんでオチが付いた。ちょっと早いけど今日は終わろう。3面残して解散な」

 この日来ていたもう一人の3年生、大島が解散を告げた。みんなが台を片付け始める。
 3面は残して、続けたい人はまだ残る。

 真琴も片付けに加わろうとしたとき、野崎が真琴を呼び止めた。

「なんですか?」

「預かりものだよ。ほい」

 淡い黄色の封筒だった。ちゃんと封がしてあるけど、表も裏も何も書いてない。

「……なんですか? これ」

「学生説明会のとき、島田から預かった。初日は欠席するから古川に渡してくださいってな」

「え……島田くんから……ですか?」

「うん、一緒だったんだ、説明会。学部同じだしな」

「はい……ありがとうございます」

「確かに渡したぞ。野暮なことは言いたくないけど、連絡待ってんだよ、あいつ」

「はい……」

「ま、カレンのせいで連絡できないのを口実に、いつまでも顔合わせないのも変だしな」

 そう言い残して野崎は卓球台の方に去った。真琴は立ち尽くして託された封書を見つめる。


 島田くんからの手紙……か。


「真琴、なにサボってんのよ」

 卓球台の片付けを終えた理沙が後ろから声をかけてきた。真琴は反射的に封書を胸に抱く。
 ……どうしよう。

「ねえ真琴、ねえってば」

 理沙の声がすぐ近くに迫る。真琴は慌てて首もとからシャツの内側に封書を忍ばせ、そして振り返る。

「ああ、ごめん理沙。ちょっと考えごとしてた」

「……なに隠したの?今」

 マズい、見られたか……。

「ん? べつに何も」

 真琴の声色を確かめ、真琴の顔を眺めてから理沙がニヤリとする。

「……真琴、跳びな」

「え?」

「やましいことがないなら跳ぶんだ。はいジャンプジャンプ」

「…………。」

 真琴はおそるおそる、その場で1回、小さくジャンプをした。
 その仕草を見た理沙の目が怪しく光る。

「……真琴、出しな」

「隠してないし、なにも」

「じゃあもっともっと元気よく。さあご一緒に、レツゴー」

 理沙が真琴の手を取って歌い始める。そして真琴は理沙に合わせてリズムよく跳ぶ。
 慌てて忍ばせた封書は、真琴の小さな胸元をあえなく滑り落ち、Tシャツの裾から床に落ちた。

「わんわんっ」

 理沙が素早く床に手をついて封書を拾い上げ、口に咥える。
 咥えるなよ、理沙……。

 そして犬になった理沙は封書を咥えたまま真琴を見上げる。その目はキラキラと嬉しそうに「これなに?」と言っていた。
 真琴は観念する。

「……わかった。わかったから返しなさい。このバカ犬」

 真琴は理沙の口から封書を奪い返す。理沙はしゃがんだまま真琴を見上げる。
 ワクワクが止まらない……。顔にそう書いてある。

「ね、野崎さんからもらったそれ、なあに?」

 コイツ……。もらったのを見てたのか。

「見てたなら、はじめからそう言いなよ」

「だって……まさか真琴が私に隠し事するなんて思わなかったし……」

「今さらしおらしくしても無駄よ。理沙、アンタ私で遊んだね」

「だって……真琴がTシャツの中に隠すから……」

「だから、なによ」

「落とさずにどこまで頑張れるか見たくなったの。真琴の……ペチャパぶっ」

 言い終える前に真琴の拳が理沙の頭上に落ちた。

「うう……真琴アンタ、まさか……怒ってるの?」

 なんだその、怒ってる方が悪いような物言いは。

「怒ってないとでも思うの?」

「だってそれ、いい物でしょ? その手紙」

「分かんないよ、そんなこと」

「野崎さんからラブレター……のわけないよね」

「預かりものだって。……島田くんから」

「ぎゃー。キターッ」

 理沙がはしゃぐ。立場が逆だったとしても、私はこんなに騒がない……と思う。
 理沙は心底楽しそうだ。

「それでそれで? 島田くんはなんて?」

「……まだ見てないよ」

「は・や・く、は・や・く」

「え……ダメだよ。見せないよ」

 たとえ親友でもこれは見せられない。人に見せてはいけない類いのものだ。
 ……そこに何が書かれていたとしても。

「ええ~、見ようよぉ、一緒に」

「ダメ、絶対ダメ。家に帰って一人で見ます」

「はぁ~い。じゃあさ、じゃあさ、早く帰って見てよ」

「見ても教えないよ。これは……絶対」

 力がこもった真琴の宣言に理沙が肩を落とす。

「ぷ~んだ。でも、まあ仕方ないね。だけど真琴、どうにかなったら真っ先に教えてよね」

 よってたかって見るものじゃないことは理沙も分かっているようだ。
 常識を備えないわけじゃない。

「どうしよっかな。理沙、おしゃべりだしな~」

「う……。まだ根に持ってる。あ、そうだ。わたし、それで責任感じてんだよ。だから気になって気になって」

 真琴が拳を振り上げるフリをすると、理沙は「キャイ~ン、キャンキャン」と、また犬になって逃げた。
 距離を取ってこちらを見ているバカ犬に真琴は告げる。

「とにかく私、今日はまっすぐ帰るよ。いいね」

「クゥ~ン」

 主人に捨てられた犬のように寂しげな声をあげる理沙を残して真琴は道具をバッグに納め、そそくさと体育館を出た。

 淡い黄色の封筒はバッグに入れず、大切に右手に持ったまま自転車に跨る。

 帰り道、全身で自転車を駆りながら、真琴の心は右手にあった。


 アパートに帰った真琴は封書をちゃぶ台に置く。そして正座をしてそれを見つめ、封を切る決意を固めようとする。

 私……ドキドキしてる。ホントに中学生みたいだな、これじゃ。
 理沙のように表に出さないだけ……。ホントは気が気ではない。いや、気が気ではなかったんだ、掲示板を見てから……ずっと。
 カレンのことがあったから、カレンのせいで連絡する術を奪われていたから向き合わずにいられた。……心の隅でなんとなく期待しながら。
 だけど…もう逃げられない。この封書の中身に何が書かれていても。

 島田くん……。生真面目で謙虚、それでいて人のことをよく視ている島田くんは、この状況で私に宛てて何を書いているんだろう。
 島田くんは、カレンの掲示板に書かれたことをどう思ってるんだろう。
 そして島田くんは、カレンの騒動をどう考えているんだろう。
 話したい。話したいけど怖い。何から話していいのか分からない。いつもサークルでどんな話をしていたのかも思い出せない。
 平常心とは程遠い、ざわついた心が真琴の思考を停止させる。

 ……とにかく開けよう。こんな気持ちじゃいつまで考えても前に進まない。
 真琴は意を決してハサミを手に取り、ゆっくり、丁寧に封書の一辺を切った。切り取られた細長い切れ端がちゃぶ台に落ちる。

 そして真琴は封筒の中にある白い紙を抜き出し、二つ折りにされたその紙を開く。


   島田直道は古川真琴が好き
   準備ができたらワン切りな


 文章は二行だけ、そしてそのあとに携帯電話の番号が記されていた。
 島田直道は古川真琴が好き……。掲示板の書き込みは他人の仕業だったけど、これは間違いなく島田くん本人の言葉だ。真琴は、想い人が自らの手で綴った文字を指でなぞり、その意味を噛みしめた。
 不本意なかたちで大勢に晒された告白……。島田くんはその仕切り直しをしたんだ、この短い言葉で。

 であれば準備というのは私の心の準備、顔を合わせて話をする覚悟だ。

 覚悟なんか要らないはず……。だって私が望んでいた、それこそ飛び上がって大喜びしたいような言葉が、こうして本人から届けられたんだから。
 〝私も大好き〟ショートメールでそう送ればいい……。
 でもそうじゃない。この人……島田くんはそんなものを望んではいないんだ。それでワン切り……か。

 うん、島田くんらしいじゃないか。
 私だって、いつも島田くんを見ていたんだ。そう、いつも……。
 早紀の言う〝ガチ乙女〟の目で。
 だから島田くんの考えそうなことは分かる。

 〝電話をくれ〟ではなく〝ワン切り〟を指示した島田の意図を推し量り、真琴は汗に濡れたTシャツを脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。
 程よい冷たさの水は真琴の雑念を洗い流すようだった。
 そうだよ。身構えて覚悟なんか要らない。力を抜いて準備をするだけでいいんだ。

 短い髪を乾かしてさっぱりした真琴は、ネイビーのYシャツを羽織りモスグリーンのキュロットを履いた。靴は……少し踵のあるサンダルで行こう。
 よし、準備できたよ、島田くん……。

 真琴は携帯電話を手に取り、再びちゃぶ台の前で正座して島田の携帯番号を確認する。覚悟など無用と理解しつつも、ダイヤルする指は震えていた。

 ワン切り……ワン切り……よし、できたよ島田くん。

 お願い……早く来て。早くしないと私、喋れなくなりそう。

 そして真琴の予想どおり、ほどなくしてインターホンが鳴った。

 真琴はゆっくりと、しかし気合いを込めて立ち上がり玄関に向かう。
 そして履き慣れないサンダルを履き、ひとつ深呼吸をしてからドアを開け、まっすぐに来訪者を見つめる。

「いいかな? こんなカッコで……」

「さすが古川、完璧だよ」

「……よかった」

「出よう」

「うん」

 短いやり取りのあと、真琴は島田の後に続く。
 こんなに大きかったっけ、島田くんの背中……。

 先を行く島田は、アパートの駐輪場の前を過ぎる。
 ……あれ? 自転車じゃないの?

 戸惑う真琴をよそに、先を行く島田はポケットから鍵を取り出し、アパートの敷地前に駐められた車の助手席を開けた。
 左手をドアに沿え、そして右腕を腰の前で折る。

「さあどうぞ、お姫様」

「……クルマ買ったの? ていうか免許取ったの?」

「そんな話はあと。早く乗ってよ、けっこう恥ずかしいんだよ。このポーズ」

「……じゃ、お言葉に甘えて」

 真琴は助手席に乗る。島田は素早くドアを閉めると運転席に乗り込んで車を発進させた。そしてハンドルを握りながら真琴の疑問に答える。

「免許は夏休みに取った。この車は借り物」

「……今日のために借りたの?」

「うん。……お気に召さない?」

「そんなこと……ないけど、私、こんな車に乗ることなんて一生ないと思ってた」

「それが狙いだよ。記憶に残るだろ? 間違いなく」

「確かにね」

「自分の車にするには……違うよな、さすがに」

「記憶に残すなら、軽トラとかの方がよかったんじゃないの?」

 島田が笑いながら首を横に振る。

「あのな古川、ぶっちゃけ今の俺たちに必要なのは……ムード。違うか?」

「……ぶっちゃけちゃったね、ホントに」

「……気に入らなかったか? この演出」

 この演出……か。手紙のことといい、たしかにいろいろ考えてくれたんだろうな、島田くんは。
 自分がオープンカーの助手席に乗るなんて想像もしなかった。
 真琴は帆を開けた赤いオープンカーの助手席で風を浴びながら、島田の心中に思いを馳せた。

「悪くない……けど、似合わないね。なんか」

「うわあ、ひでえ」

「でも、ありがとう。……うん、絶対に忘れないね。これは」

「そう、どう転んでもね」

「……どういう意味?」

「……古川。俺はまだ、古川本人の言葉をもらってない」

 え……なに? なんのこと? まさか「私も好きです」って言わなきゃいけないルール?

「……言わなきゃ……ダメなの?」

「あれ? 言ってくれないの?」

 顔が真っ赤になっていくのが自分でも分かる。
 言わなきゃダメなんだ。じゃあ……言わなきゃ……ちゃんと。

 真琴は決心を固めようとして林檎のような顔でうつむく。
 島田がルームミラーを動かして、ミラー越しに真琴を見る。

 真琴の困った顔を見て、島田が救いを出す。

「そうだな……。夏目漱石風でもよしとしよう」

 ……漱石風、か。うん、それなら……なんとかイケるかも。
 考えた末に真琴は答えを口にする。

「……風が気持ちいいですね」

 真琴の答えを聞いて、島田が満足そうな顔をする。
 これで勘弁してもらえそうだ。

「じゃあ次、清川理沙風で」

 え……理沙風って……。それはなんだか、口にするのが憚られそうなワードしか思い浮かばないぞ。
 それでも真琴は考える。そして島田の注文に応える。


「……これからは毎日がエブリデイだね、島田くん」

 島田が吹き出す。
 よかったみたいだよ、理沙……。

「よし、どこ行く? 古川」

 ひとしきり笑ってから島田が言った。

「え……決めてないの?」

「決めてないよ」

「なによ、お姫様をエスコートしてくれるんじゃなかったの?」

「そんな器用なこと俺にできると思うのか?」

「……それもそうだね」

「そして、そんな気取ったの、古川は望まない……はず」

「え~? 素敵だと思うよ。ピシャッとエスコートされるのも」

「でも無理だ。諦めてもらおう」

「分かった。……うん、らしくないもんね」

「それで、どこ行きたい?」

 行きたいところか……。う~ん……どこでもいいけど、たぶん島田くんは「決めてない」とは言いながらもいろいろ考えたはずだ。
 それに私たちは、どこかに行くのが目的じゃない。そんな些細なことは島田くんに任せていい。
 自分たちが求めているのは、穏やかに同じ時間を共有すること……それだけだ。
 真琴はシフトレバーに置かれた島田の左手に自分の右手を重ねた。

「……どこでもいいよ。島田くんと一緒なら」

 今、心が重なった……。真琴はその手応えに浸る。
 島田は何も言わないが、その表情は優しい。

 しばらく二人で甘い沈黙を味わってから、真琴が島田に尋ねた。

「ねえ島田くん。島田くんはその……私なんかの……どこがいいの?」

「全部」

 また顔が赤くなりそうだ。聞かなきゃよかった。

「そんなんじゃ……わかんないよ」

「ん? ああ、まあ……そうだよな。全部を知ってるわけでもないしな。じゃ、俺が知ってる全部……だな」

「だから全部ってなによ」

「……いいのか? 言っても」

「なにその返し」

 島田が小さく笑う。

「ホントは言いたくて仕方なかったくらいなんだ。全部って言ったら全部……古川の声も、賢いところも、気が強いところも、それでいて純粋なところも……」

 またしても顔が火照りだす。湯気が出そうだ。そんな真琴に構わず島田は淡々と続ける。

「髪も眼も、仕草も言葉も、華奢な首も、細い腕……」

「あああああああ」

「…………。」

「……わかった。もういいよ。……ありがと」

「……怒った?」

「え? ううん、怒ってない。……嬉しい。でも……恥ずかしい」

「そう? 俺はスッキリしたぞ。さあ古川の番な」

「え……私は……いいよ」

「聞かないと心配だなぁ、俺」

 真琴は迷う。私も全部、で済ませたいけど、それは無理だろう。自分が島田くんに言わせたんだから。

 真琴は考えた末、この話題から逃げることにした。

「じゃ、私と勝負して島田くんが勝ったら言うよ」

「……なんの勝負?」

「……卓球」

 島田が少し興ざめしたような顔をする。

「古川らしくない冗談だな」

「だって冗談じゃないし」

「古川が俺に勝てるわけないだろ。俺は遠慮しないよ、聞くためなら」

「島田くん。島田くんは1番台で勝ったこと、ある?」

「え? いや、ないよ。行ったことなら1回だけあるけど、あそこに行くのと、あそこで勝つのは意味が違う。まぐれで行けてもまぐれじゃ勝てない」

「島田くん、わたし今日、1番台のトップになった」

「……え?」

「野崎さんに勝って、私がトップで終わったんだよ。今日のサークル」

「……マジで?」

「マジで」

「どうやって?」

「戦ってみれば分かるよ」

「……わかった。じゃあこれはお楽しみにしとこう」

 よし、なんとか逃げた。

「古川がどこでもいいって言うなら……じゃ、海に行こうか、夜の海」

「うん、いいよ。大事なのはムードだね」

 そして二人を乗せたオープンカーの赤は、夕闇の田園に溶けた。
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