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1 開幕
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初めての長い夏休みが終わる間際に実家から大学に戻ってきた古川真琴は、後期の講義が始まる3日前の昼、学生棟のカウンターにいた。
「はい、たしかに受理しましたよ。これは新しい時間割、そしてこれが前期の成績表ね。後期もしっかり頑張って」
そう言って学生課の女性事務は一枚の紙と一通の封書を真琴に手渡した。真琴はその場で確認する。
時間割はほぼ講義で埋まっている。自分で選択して組んだとはいえ少し無理したかな、などと真琴は考えた。
そんな真琴の胸中を見抜いたのか、上品なサマーセーターを着た女性事務が優しい笑みを湛えて言う。
「大丈夫、へっちゃらよ。だいたいね、みんな高校まではびっしりの時間割で勉強してたはずなのに、大学に入って自分で時間割を組むとスカスカ。みんなの方がおかしいの。あなたが正しいのよ」
「はい、がんばります」
真琴はしっかりと女性事務の目を見て答えた。接する機会こそ少ないものの、真琴はこの白石という名の40歳前後の事務職員に少なからぬ好感を抱いていた。テキパキと業務をこなし、物言いは気が強そうであるが、発言にはいつも思いやりがあった。
まるで母親のよう……。真琴はそう思っていた。
真琴は学生棟のロビーでソファに腰掛け、携帯電話を手にする。
「あれ? 開かないや……」
真琴は、たった今仕上がった後期の時間割をスケジュールアプリに入力しようとしたが、立ち上げようとしたアプリケーション「カレン」は起動しなかった。
- 本日20時まで定期メンテ中 -
真琴がカレンをインストールしたのは半年前だが、これまでメンテナンスなど一度もなかった。
この時期に定期のメンテナンスということは、おそらく大学の前期、後期の切り替わりの時期にメンテナンスが行われるのだろうと真琴は理解した。
だが、やるなら予告くらいすればいいのに、と真琴は憤慨した。
困ったな……。カレンが使えないと。
困るのは、真琴がカレンというアプリケーションをかなり重宝して使っていたからだ。カレンは非常に多機能で優秀なスケジュール管理ソフトであり、SNSアプリであり、ブラウザでもあり、動画サイトでもあった。
洗練されたレイアウトで使い勝手がいいので、真琴は既存のSNSではなく、もっぱらカレンで学友と連絡をとっていた。他の大手SNSよろしくグループ機能があり、真琴は学科と卓球サークルだけでもそれぞれ複数のグループに入っているほか、ファーストフード店のバイト仲間のグループにも入っていた。
どのSNSでも同じであるが、学科全体などの大きなグループでは皆が当たり障りのない事務的な発言に終始する一方で、少人数の仲良しグループ内では専ら異性の話題で盛り上がるようだった。
真琴もその例に漏れず、仲の良いグループでは、画面がガールズトークで埋まっていた。
「あのオバさん、いちいちうるさくね?」
「マジ大きなお世話。ゼッタイ独身だよな」
傍らを通り過ぎていく男子学生の会話で真琴は我に返った。男子学生は白石さんのことを言っている。おそらく白石さんから時間割のことで小言を言われたのだろう。
仕方なく時間割の入力を諦めた真琴は、総合科学部近くの大学生協に寄って、新たに必要になる教科書を購入してから自転車でアパートに帰った。
かなり古い学生アパート、間取りは1DKだ。しかし真琴はこの自分だけの小さな空間を心底愛していた。なにもかも自分のもの……。
半年経った今でこそ慣れたが、入学当初、初めての一人暮らしの解放感は18年間生きてきた真琴が味わった最高の至福だった。
決して親が嫌いなわけではない。だが苦しい受験を終えた果てに与えられた自由な環境は、それまでの狭い境遇とのギャップも相まって真面目な真琴をして暫くの間、ひとしきり浮き足立たせた。
それでも生来の生真面目な性分と親から授かった良識により、真琴は大学デビューで遊び呆けるようなこともなく、至極まっとうな大学生活を送っていた。
講義はどれも高度で新鮮だったし、少し地味な卓球サークルに入り、両親のことを考えて学業に障らない程度のアルバイトを始めた。仲の良い友達もできたし、密かに想いを寄せる男の子もできた。
恥ずかしいので言葉にこそ出さないが、真琴は今の生活を「これぞ青春」と思っていた。
カレンが午後8時まで使えないとはいえ、友達と遊ぶならば電話をかければよい。
しかし、真琴は何故か電話をかける気になれなかった。
カレンが使えるなら絶対にメッセージを送るよな……。
なんでだろ。電話で話をすることを億劫に感じる……。
自分自身の気持ちなのに、真琴はそれを説明するに適当な言葉を持たなかった。そしてなんとなくテレビを見ながら午後を過ごした。
……午後8時を待ちわびながら。
テレビで午後8時からの歌番組が始まった。よし、カレンが使えるはずだ……。そう思って真琴は携帯電話でカレンを起動した。
アップデートがあったのだろう、いつもより起動に時間がかかっている。真琴はテレビに視線を戻した。
やがて携帯電話の液晶画面が明るくなったのを視界の端に捉えた真琴は再び携帯の画面を眼前に運ぶ。
「え……なに? これ……」
小さな液晶画面に表示されていたのはいつものカレンのホーム画面ではなく、動画が再生されていた。そして真琴はその動画に釘付けになった。一気に鼓動が早くなる。
「……なんで? 嘘でしょ……。ヤだ……イヤだ」
見たくはない。見たくはないのだが一瞬も目を離せない。
そのうち真琴の呼吸は浅く速くなり、やがて過呼吸の様相を帯びてきた。それでも真琴は目を離せない。
どんな操作をしても動画は止まらない。鼓動と呼吸は危険の度合いを増していくが、真琴の思考は目の前の画像のことで一杯になっており、身体の異常を心配する余裕はなかった。
やがて視界は暗転し、真琴は気を失った。
……ィーン ヴィーン ヴィーン
携帯が鳴ってる……。
……って、あれ? 私……ええと、携帯の画面を見て気が動転して……。
……もしかして、気を失ってた?
真琴はベッドに放り出された携帯を手に取る前に慌てて壁掛け時計を見る。時刻は20時11分だった。
どうやら気を失っていたのは5分間ほどらしい。
真琴は軽く首を回す。まだ思考がよく働かないが、幸いベッドの上に倒れたようで身体に怪我はない。
すっきりしない頭で真琴は携帯に手を延ばす。電話をかけてきているのは真琴が所属する卓球サークル「ピンポンパン」の1年生、清川理沙だった。
……理沙……一番の親友。少なくとも真琴の方はそう思っていた。真琴はすがるように親友からの電話に出る。
(真琴……見た?)
真琴は心臓が止まるかと思った。かすれた声でかろうじて答える。
「……見たって……何を?」
(何って、カレンに決まってるじゃん)
「……見た……よ」
(……どうする? 真琴)
どうするって……どうしよう。真琴は思い浮かぶまま答える。
「とにかく、お母さんに相談するよ」
電話口で理沙がちょっと黙る。
(……真琴のは、まだお母さんに言えるようなヤツだったんだね。私のは……言えないよ)
ん、どういう意味だ?
「理沙、それってどういう……」
(まあいいや。真琴、お母さんに相談するのが終わったら連絡してよ)
「え、うん……分かった」
(私は相談できないから、もう少しカレンをいじってみる。じゃあね、真琴)
電話が切られた……。真琴はいまいち状況が呑み込めないままだったが、理沙と話をしたことで少し気持ちが落ち着いた。意を決し、改めて携帯の画面を見る。
真琴を失神させた動画は既に終わったようで、画面にはカレンのトップページ……らしきものが表示されていた。
これはカレン……なのか? 真琴がそう疑うほどに、カレンのトップページは改変されていた。
綺麗だった文字は大昔のゲームのようなフォントに変わり、お洒落に着替えを楽しんでいたアバターも貧相なドット絵になっている。
そして、ドット絵のアバターの下に小さなウインドウがあり、そこには真琴のステータスのようなものが表示されていた。
287718B
優等生
徳:197
業:042
「これって……」
あまりの仕様の変わりように真琴は混乱する。よく見ると、お知らせのボタンに「NEW!」というマークが付いているのでそこをタップする。
それは仕様変更についての運営からの説明だった。
真琴は努めて動揺を抑えながらその説明を読む。
【H28度リニューアルについて】
平素から「カレン」をご愛顧いただきありがとうございます。
このたび、皆さんのキャンパスライフをより充実したものにするために、アプリの大幅リニューアルを実施しました。
主な改正点は下記のとおりです。
・ステータス名の変更
「STD」を「徳」
「ウェー」を「業」
にそれぞれ変更しました。
・SNS機能の廃止
新たに匿名掲示板機能を備えました。
・各種ボーナス特典の実施
徳と業のポイントに応じて実施します。
詳細はランキングページをご覧ください。
・アンケート機能の追加
便利なアンケート機能を追加しました。
(株)CURRENT
「…………。」
……これでどうなる? ……なにが起こるんだろう?
真琴が真っ先に思い付いたのは、これは困るぞ、ということだった。
SNS機能の廃止……。
真琴は、カレンをインストールした後で知り合った友達の大部分とはカレンを通じて連絡をしていた。つまり、カレンのIDを教え合っただけで携帯電話番号を交換していないのだ。そして、実際それで事足りていた。
理沙とはカレンをインストールする前に知り合ったので電話番号を知っている。大学の関係で電話番号を知っている友達は10人くらいだ。
カレンを通じてならば、少なく見積もってもその10倍……。100人くらいの学生と連絡が取れていた。その連絡手段を唐突に失ったのだ。
まあ、次に会ったときに教えてもらえばいいか、こんなことは些事……そう、あの動画の問題に比べれば取るに足らないことだ。
あの動画……。目に焼き付いた先ほどの光景がよみがえり、真琴は突然の吐き気に襲われた。口を押さえながらトイレに駆け込み、間髪入れずに嘔吐した。涙が込み上げてくる。……お母さん。
真琴はしばらく便器を抱いていたが、気持ちは一向に落ち着かず、焦燥と恐怖が心を埋め尽くしそうだった。
早く……早くお母さんに助けてもらわなきゃ……。真琴はトイレットペーパーで口を拭い、ベッドから携帯電話を拾い上げて母にダイヤルする。
お願い……出て……。
(めずらしいじゃない。どしたの? 忘れ物?)
母の声……。いつもと変わらぬ優しい声に、真琴の気持ちは一気に弛緩した。
「……おか……おかあさん、助けて。私……。うぅ……うっく」
上手く言葉が出ない、が、なんとか助けを求めることができた。このままもう一度気を失っても、母はきっと駆け付けてくれるだろう。
(どしたの真琴。赤ちゃんでもできた?)
……赤ちゃん? ……なんのこと?
そんなわけないじゃん。お母さんのバカ……。
胸の内で母に悪態をついたが、母の言葉によって真琴は一握りの冷静さを取り戻した。
赤ちゃんができた…か。それとどっちが深刻だろうか、と真琴は思案した。
「そんなんじゃない……けど、助けてほしいの。今から来られる?」
(ええ、もちろん。可愛い真琴のためならお母さんたち飛んでいくわよ。高速なら……一時間ちょっとね。真琴、一人で待てる?)
……助かった。実際は何も解決していないのだが、真琴の心は安心に包まれた。
「うん待てる。……あの、お母さん」
(なあに?)
「できればお母さんだけで来てほしいの。……ダメ?」
(…………分かった。じゃあ待っててね)
母との通話を終え、ようやく人心地が付いた真琴はカレンを操作してみることにした。
……さっき理沙は「自分のは相談できない」と言っていた。つまり、リニューアル後の初回起動で見せられた動画はユーザー毎に違うということだろう。
最悪の事態には至っていないとみてよさそうだ。
真琴はまず「徳」のランキングページを開く。そこには徳の上位50人の学籍番号が表示されていた。
入学式のときに聞いた知識では、真琴が通う広北大学は一学年の学生数が二千弱だ。大学院生を合わせて学生数は一万を切るくらいだろう。
そのうちどれほどの学生がカレンを使っているかは定かではないが、カレンは広大生にかなり浸透していた。
なにせ時間割とリンクして単位の取得状況を把握したり、大学生協のキャンペーン情報や割の良い短期アルバイト情報など、便利な機能が満載だったのだ。
その上SNSとしても大手に遜色ない使い勝手なのだから、少なくとも真琴の周りではカレンを使っていない人は見当たらなかった。
偏屈で他人と距離を置いているような一部の人はよく判らないけど……。
とにかく真琴の認識では、カレンは広大生の必携ツールだった。
その感覚で考えれば、上位50人というのは上位1%の更に上だ。
かといって雲の上の存在かというと、真琴にとってはそうでもなさそうだった。1位の人は学籍番号の頭が25で始まっているから4年生だろう、徳の数値は587だ。50位の人は徳が361……。
ランキングに1年生は一人もいない。そして真琴の徳は197だ。
喜んでいいのかどうなのか、真琴はカレン運営から「優等生」の称号を頂戴している。
なんの意味があるんだろう? そう思いながら真琴はページ上部の「徳の特典について」というボタンをタップした。
【徳の特典について】
徳を貯めるとカレンの中で様々な機能が使えるようになります。
新たな機能が使えるようになったとき「あなたへのお知らせ」で個別に通知します。
どんな機能が使えるかはお楽しみ!
「……フザけてる。なにがお楽しみよ」
独りごちながら真琴は次に「業」のランキングページを開く。そこには業の上位200人の学籍番号が表示されていた。今度はポイントの桁が大きい。1位の人は3年生で業の数値は4488、そして表示下限の200位の数値は1524だった。
業の数値が大きい理由は明らかだった。つい昨日まで、カレン上では「業」の前身である「ウェー」のランキングが掲載されていて、上位の人たちはその数値にしのぎを削っていたのだから。
その一方で「徳」の前身である「STD」については非公開で、それぞれ自分だけが知っているという性質のものだった。……陰徳。そんな言葉が真琴の脳裏に浮かんだ。
真琴は徳のページと同様に「業の特典について」を開く。
【業の特典について】
キャンパスライフを満喫している業の人たちにも素敵な特典がありますよ!
・業 500:意外な一面をみんなに公開
・業 800:ちょっと恥ずかしい秘密を公開
・業1000:「えっ?」まさかの秘密を公開
・業2000:それ……いいの? 見せても……
・業3000:これが業だ!背負わなきゃね
※業の特典はH28.10.10から順次執行します。
……すこし本質が見えてきたような気がする。
簡単に言えば、本業を疎かにして無駄に若さを浪費している学生を更正しようといったところか。
プライバシーを人質にして……。
それなら……自分はまだ安全圏なのだろう。だけど、カレン運営は卑劣だ。ただならぬ悪意を感じる。
特典と謳いながら「執行」などという言葉を使うあたり、悪意を隠すつもりもないらしい。
それに、昨日までの「ウェー」のランキングは、みんなの中では概ね人気者ランキングという認識だった。
「ウェー」はリアルの充実度の指標……真琴はそう思っていた。
そして、SNS機能の代わりに新設された匿名掲示板を開こうとしたとき、インターホンが母の到着を告げた。
真琴は足音を忍ばせて玄関に立つ。
「……おかあ……さん?」
(はいはいお母さんよ。開けてちょうだい)
ああ……ほんとにお母さんだ。お母さんが来てくれた。
真琴は錠を解き、ゆっくりとドアを開けて母を招き入れる。
母の顔を見た瞬間、真琴は全身から力が抜けてその場にへたり込んだ。
「おかあさん、ごめ……ごめんなさい。私……わたし……」
真琴は両手で顔を隠して嗚咽を漏らす。どうして謝っているのか自分でも解らない。頭ではなく心から絞り出された言葉だった。
そして小さく丸まった娘を、大きな母が無言のまま抱き締める……。それはあたたかく、力強い抱擁だった。
母性に包まれた娘は赤子のように泣き続ける。そこにはひとつの永遠があった。
やがて娘は泣き疲れ、時は再び動き出す。
娘が泣き止んでからも母の抱擁は終わらなかったが、娘が自らそれを解いたのだ。
「もう……大丈夫。ありがと、お母さん」
真琴は母の顔を見上げて言った。なぜか母も涙ぐんでいる。
「……なんでお母さんまで泣いてんの?」
母が笑って目頭を手で拭いながら答える。
「バカね、もらい泣きに決まってるじゃない」
「そっか……ゴメンね」
「さ、部屋に行こ。なにか飲ませて」
「うん」
真琴は部屋の真ん中に薄い座布団を敷いて母を座らせ、作り置きのほうじ茶を冷蔵庫から出してコップに注ぎ、小さなちゃぶ台の上に置く。その間、母は何も言わずに真琴を眺めていた。
お母さんは、私が切り出すのを待っている……。
真琴は自分も座って母と向き合い、深呼吸して覚悟を決めた。
「お母さん……あのね」
「うん」
母は笑顔だ。その表情は「なんでもこい」と言っている。
「私……の、その……私が映ってる動画が、私の携帯に、いきなり映ったの……」
「……真琴の……動画?」
「うん……」
「……なんの……動画なの?」
「え……と、その……ひとりで……エッチしてる……やつ」
母の顔が真剣になる。
「……それは、どこで?」
「この部屋の……ベッドの上」
「……つまり盗撮されたってこと?」
「……わからない、よ。でも、すごいハッキリ撮れてた。丸見え……だったし、声も……」
話しながら映像を思い出し、真琴の呼吸が再び浅くなる。軽く吐き気もしてきた。
自分のあられもない姿……。なにも着ないで、脚を開いて……。自分で乳首を弄びながら荒い息をして、声を出して。
あそこだけじゃない、そうだ、自分でも見たことないのにお尻の穴までハッキリ……うう、うわああ、ああああ……
「真琴、落ち着いて、真琴」
母に肩を揺すられて真琴は正気に返る。瞳から落ちた大粒の涙が太ももを濡らしていた。
真琴が正気を取り戻したのを確認してから母が尋ねる。
「いつ撮られたかは判らないの?」
「……わからない……ごめんなさい」
「真琴はなにも悪くないのよ。それで、なにか脅されたりしてるの?」
「……脅され? ……ううん、脅されてはない……かな。でも、私の名前も映ってたし……。あ、ああそうだ、右から左に文字がいっぱい流れてた。あああそうだ、ウヒョwww、とか、マジっすかwww、とか、あああ」
「落ち着いて真琴。それは編集だと思う。バラ撒かれたりはしてないわ」
編集……そう、そのはずだ。真琴は乱れた息を整える。
そうだ…カレンを見た限りでは、あの動画が晒されるのは、きっと、業を貯め過ぎたときなんだ。
でも、あんまりだ……こんなの。こんなことをされなきゃいけない覚えはない。
ヒドい……ヒドい……。
真琴の瞳は、またしても涙を溢れさせる。涙に渇れることなどないということを今日、真琴は身をもって知った。
真琴はすすり泣く。今度は取り乱しているのではない。いわれのない仕打ち……その悔しさと憤りで泣いていた。
母はしばらく真琴を眺めていたが、真琴の心がすでに冷静であることを読み取り、優しく真琴に尋ねる。
「それで真琴、いきなりって言ったけど、なにしてる時に動画が出てきたの?」
「……メンテナンスが終わってから、カレンを開いたとき。なかなか開かなくて、やっと起動したと思ったらそうじゃなくて、動画が表示されてたの」
「……カレン? ……カレンって何よ」
……ああ、そうだった。母は私がカレンを使っていることを知らないんだ。
「え……と、大学のみんなが使ってるアプリで……スケジュールを管理したり、SNSのメッセージを送ったり……するヤツ」
「SNS? ……あなた、私とはいつもラインでやり取りしてるじゃない」
「ラインのIDとも同期できるの。……私の方はカレンを通してラインのメッセージを送ってた」
母が少し考える。真琴は叱られる心構えをした。
「……真琴、それは安全なアプリなの?」
やっぱりそこを聞かれるよな……。真琴は正直に答える。
「結果的には……安全じゃなかった……んだと思う。でも、うちの大学ではみんなが使ってた」
「有名なアプリなの?」
「……たぶん違う。広大生のためだけのアプリみたい」
母の表情が少し険しくなる。
「でも、ちゃんとアプリマーケットにあるアプリなんでしょ? ……ま、アプリマーケットにも怪しいアプリはいっぱいあるみたいだけど」
「……違う」
「え?」
「カレントっていう会社のホームページから直接ダウンロードしてインストールするの。アプリマーケットには置いてない」
「そんな怪しげなアプリ、いったいどこで……あ、もしかして、あのときの?」
「……うん、そう」
母がため息をつく。そう、真琴がカレンを初めて知ったとき、母も一緒にいたのだ。……そして父も。
「あのとき、あなたお父さんから止められたじゃない」
「うん。あのときお父さんは『様子を見ろ』って言った。だから私、言われたとおりしばらくはインストールしなかったんだ。でも、大学が始まってみるとみんなが使ってた。みんな、便利だよって薦めてきた」
「……ま、今さら言っても仕方がないわね」
「……ごめんなさい」
そう、あのとき……構内の特設売場でアパート用の家電などを選び、会計をして配達先を記入し終わったときに売場のアルバイトのひとりが真琴に差し出した1枚の黄色いチラシ……そこにカレンが紹介されていたのだ。
チラシでは確か「広大生のマストアプリ」などと書かれていた。
真琴はすぐにでもダウンロードしようとしたが、そのチラシを見た父に「しばらく様子を見ろ」と言われたのだ。
……そのアプリはよく分からんぞ、と。
よく分からんぞ、というのが父の言葉だったが、父がカレンというアプリの信用性についてよく見極めろと言っていることは判った。
だが、大学が始まり、周りのみんな……上級生を含めてほとんどみんながカレンを使っていて「なんの問題もないし、便利だよ」と言うのに抗われず、4月の半ばに真琴はカレンをインストールした。
そして真琴は、カレンを自分のメインアプリとして今日まで使ってきた。みんなが言うとおり何の問題もなかったのだ。
……今日、ついさっきまでは。
「じゃ、盗撮の動画はそのカレンとかいうアプリが絡んでいるのね?」
「そう……なのかな。関係はあると思うけど、どう関係してるのかは判らない。それに、動画はこの部屋の中で撮られてた。……間違いなく」
「この部屋の……中?」
「うん」
「この部屋にあがった誰かがこっそり仕掛けていったってこと?」
「そう……なるのかな。でも、そんなことする友だちは部屋に入れてないよ」
母がちゃぶ台に視線を投げて思案顔になる。その顔は真剣そのものだ。そして、有無を言わさぬ力を込めて真琴に告げる。
「……真琴、これはしっかり考えないといけない。悪いけどお父さんを呼ぶわよ」
母の宣告に真琴の心臓が飛び上がる。
「……お父さん……来てるの?」
母は大きく息を吐いて脱力しながら答える。
「真琴……よく考えて。お父さんがあなたの一大事におとなしく家に残っていられると思う? 真琴が私だけ来てほしいって言うから、今は外に停めた車の中でやきもきしてるわ」
「そっか……。そうだよね」
真琴は諦めてうなだれる。
お父さんが来てる……。
「とにかくお父さんを呼んでくる。動画の中身はお母さんが上手く説明するから、ね?」
真琴はうなづくしかなかった。それを見届けた母は、父を呼びに玄関を出て車に向かう。真琴は正座をし、必死で動悸を堪えながら父を迎える態勢をとった。
玄関が開き、母に続いて父が入ってきた。父を正視することができず、真琴は俯く。
「盗撮とは穏やかじゃないな」
頭上から父の声がした。その言葉に真琴を責める響きはない。真琴が何も言えずにいると父が続けた。
「……真琴、顔を上げろ」
真琴は勇気を振り絞ってわずかに顔を上げ、上目遣いで父を見る。
「酒盛りくらい俺や母さんもやってた。……まあ、あまり誉められたことじゃないけどな。とにかく問題は盗撮した奴の目的だ」
……酒盛り? ……なんのことを言ってるんだ? 真琴は父の後ろに立つ母に視線を移す。
すると母がニッコリうなづいた。どうやら母は、撮られた内容を酒盛りだと説明したようだ。
真琴の動悸が少し治まる。真琴は母の心遣いに感謝した。
「それで、その動画はもう見られないんだな?」
真琴は落ち着きを取り戻して答える。
「うん。探してみたけど携帯には残ってなかった」
「じゃあ、その、なんとかいう怪しげなアプリを見せてみろ」
「……はい」
真琴はカレンを開き、携帯を父に手渡した。父は携帯を受け取ると、じっと黙ってカレンを操作する。
その間、母と真琴は何も言わずに父を見ていた。
10分以上はそうしていただろう。ひとしきりカレンの内容を見てから父が言う。
「……元からこんな、ショボいアプリだったのか?」
「ううん。今日の午後8時のアップデートが終わるまでは、今風のすごく洒落たアプリだった」
「そうか。じゃあ今日、その盗撮動画が流れたあと、こんなフザけた仕様に変わってたんだな?」
「……うん」
「で、盗撮の映像は、この部屋のどの辺りから撮られたものだったんだ?」
「え、え……と、ちょうどテレビのある方向と、壁の時計のある辺りから……だったと思う」
「1アングルじゃなかったんだな?」
「うん」
「……真琴」
「……はい」
「俺は、このアプリについて『しばらく様子を見ろ』と言ったはずだ」
「はい。……ごめんなさい」
「このアプリは野良、だな?」
「……うん」
「利用規約は読んだのか? ……いや、そもそも規約があったのか?」
「……よく憶えてない。ごめんなさい」
父が小さく溜め息を吐く。
「……まあ、アプリを入れずとも似たような結果になってかもしれないな。おい母さん、これは真琴だけのせいじゃない、俺たちにも責任がありそうだ」
突然に話を振られた母が驚く。
「え?」
「まんまと罠にはまったんだよ、俺たちは」
「……どういうこと?」
父はテレビ、そして壁掛け時計を順に指差してから、確信を持って言う。
「真琴が言ったとおりなら、あのテレビ、そして時計には隠しカメラが内蔵されている。つまり、春にあの特設テントで家電を買った学生は皆、同様の被害に遭っている。おそらくな」
「まさか……そんなこと」
母は信じられないようだが、自信に裏付けられた父の推論は続く。
「何年前からあの売場をやってるのか知らないが、おそらく今年に始まったことじゃないだろう。相当な数の学生が被害に遭っているはずだ。それに、アプリ単体でもプライベートは充分に集まる。つまりアプリを使っている学生全員が罠にかかったことになる」
「さすがに大袈裟じゃないの? だってあそこで買ったのは、型落ちが多かったけど、ちゃんとしたメーカーの新品よ」
母の言葉を受けて、父は真琴に話を振る。
「真琴、お前はどう思う?」
「私は、お父さんの言うとおりだと思う」
「真琴まで……。本気でそう思うの?」
「うん。だって、変わったあとのカレンを見ると明らかに悪意があるもん。それ以外に考えられないよ」
「…………。」
母が黙る。撮られた動画に込められた悪意は母も理解しているので、さすがに否定はできないようだ。
さらに父が続ける。
「流れた動画は酒盛りだったようだが、この線で考えるなら動画はおそらく1つじゃない。もっとプライベートなものがあるだろう。何年かにわたって周到に準備された悪意が、運の悪いことに真琴が入学した年に牙を剥いたんだ」
もっとプライベートなもの……か。さすがに父は鋭い。
母が父の推論を確認するように尋ねる。
「……じゃ、そのテレビにも時計にも、今でも隠しカメラが付いてるってことなの?」
「ああそうだ。液晶の裏とかに、巧妙にな。だが俺の予想では、カメラ自体は残っていても、もう機能していないと思うぞ。相手は充分な情報を握ったと判断してから行動に移したんだろうからな」
「……真琴もそう思うの?」
「……うん、そう思う。たぶん間違いないよ」
母は再び考え込み、真琴と父はその姿を見つめる。しばし部屋は沈黙に包まれた。やがて、すべてを認めた母が沈黙を破った。
「……それで、これからどうするの?」
母の言葉を待っていたように父が即答する。
「しばらく様子を見ろ」
「……冗談言ってる場合じゃないでしょ、あなた」
真琴も父の言葉の意を量りかね、顔を見上げて次の言葉を待つ。
「冗談なんかじゃない。今度こそ、注意深く慎重に様子を見るんだ。ヘタな動きは絶対に禁止だ」
真琴は父の言わんとすることが理解できた。だが母は納得できないようだ。父に反論する。
「だって……これって立派な犯罪でしょ。今すぐにでも警察に相談するのが一番じゃないの?」
「それは違うよ、お母さん」
真琴が割って入った。
「警察へ駆け込むのはリスクが大きいよ。それはたぶん同じ目に遭ってる他の誰かがする。そして、その人はきっヒドい目に遭わされる」
「よし、その理解でいい。アンインストールとか、携帯を替えてしまうのもナシだ。おそらく何らかの方法でペナルティが課せられる」
「……そだね」
「幸い、さっき覗いた限りじゃ真琴、お前は優等生だ。まず初めに、業とやらをたんまり抱えた連中が慌てふためいて自滅するだろう。それを注意深く観察するんだ。なにかいい方法……というか、これを企んだ奴の目的が判ってくるまではな」
「……うん、そうする。ありがと、お父さん」
今度は母が口を挟む。
「ね、それって、泣き寝入りするっていうことじゃないのよね?」
「ああ違う。もしかしたら警察が捜査したら意外と簡単に犯人が捕まるかもしれない。むしろそうであってほしい。ただ、警察に届け出るリスクを真琴が負う必要はない、ということだ。このアプリがとりあえず目の敵にしてるのは学業そっちのけで遊び呆けてる連中らしいからな。リスクはそいつらに背負ってもらえばいい」
「……そうね、分かったわ」
ようやく母も納得したようだ。
その後、しばらく3人で、これから予測される事態とその対応について話をし、真琴は平常心を取り戻した。
父は、最悪の事態になれば別の大学を受け直しても構わないとまで言ってくれた。
そして真琴が安心したのを確かめて、父と母は帰って行った。
父は帰り際に「くれぐれも目立つなよ。息を潜めて様子を見るんだぞ」と念を押した。
父と母を見送った真琴は、理沙に電話をしようと思ったが、その前に新設された匿名掲示板を見ようとしていたことを思い出し、カレンの匿名掲示板を開く。
そこには最初のサンプルとして、運営によって何個かの板が立ち上げられていた。そのなかに
〝どんどん書こう!あの人の片思い〟
という板を見つけ、真琴は「こんなの、誰も書き込むわけないじゃん」と思いながら開いてみる。
「……え?」
果たしてそこには真琴の予想に反して、既に100件を超える書き込みがあった。冒頭は板の趣旨が書いてある。
1)9/28/20:20
あの人の片思い、ここでみんなに教えちゃおう!
これであなたもキューピッド?
※名前と一緒に学科と学年を必ず書いてください。
※誰のことか判明しない書き込みは業を消費しません。
2)9/28/20:22
物理2年の早坂晃一は物理2年の浅海遥香が好き。
3)9/28/20:25
教国1年の吉富瑞希は土木1年の中野涼介に一目惚れ。
4)9/28/20:25
>>3
それみんな知ってるしwww
「……なんで? なんでわざわざ書き込むの? こんなこと」
真琴は信じられない気持ちになったが、冒頭にヒントがあったことにすぐに気が付いた。
業を消費……。これが理由なんだ、きっと。
業が多い人は早くもこの新しいカレンのルールを理解して、特典という名の罰が執行される前に業を消費しようとして動き出しているんだ。
これは……醜い。これこそまさに業、罪作りじゃないか。
これ……いったいなにが目的なの?
真琴は板の書き込みの勢いに驚きながら画面を下にスクロールさせていく。
「あ……」
92)9/28/20:41
教理1年の古川真琴は法学1年の島田直道が好き。
真琴は心の奥、猜疑の幕が開く重い音を確かに聴いた。
「はい、たしかに受理しましたよ。これは新しい時間割、そしてこれが前期の成績表ね。後期もしっかり頑張って」
そう言って学生課の女性事務は一枚の紙と一通の封書を真琴に手渡した。真琴はその場で確認する。
時間割はほぼ講義で埋まっている。自分で選択して組んだとはいえ少し無理したかな、などと真琴は考えた。
そんな真琴の胸中を見抜いたのか、上品なサマーセーターを着た女性事務が優しい笑みを湛えて言う。
「大丈夫、へっちゃらよ。だいたいね、みんな高校まではびっしりの時間割で勉強してたはずなのに、大学に入って自分で時間割を組むとスカスカ。みんなの方がおかしいの。あなたが正しいのよ」
「はい、がんばります」
真琴はしっかりと女性事務の目を見て答えた。接する機会こそ少ないものの、真琴はこの白石という名の40歳前後の事務職員に少なからぬ好感を抱いていた。テキパキと業務をこなし、物言いは気が強そうであるが、発言にはいつも思いやりがあった。
まるで母親のよう……。真琴はそう思っていた。
真琴は学生棟のロビーでソファに腰掛け、携帯電話を手にする。
「あれ? 開かないや……」
真琴は、たった今仕上がった後期の時間割をスケジュールアプリに入力しようとしたが、立ち上げようとしたアプリケーション「カレン」は起動しなかった。
- 本日20時まで定期メンテ中 -
真琴がカレンをインストールしたのは半年前だが、これまでメンテナンスなど一度もなかった。
この時期に定期のメンテナンスということは、おそらく大学の前期、後期の切り替わりの時期にメンテナンスが行われるのだろうと真琴は理解した。
だが、やるなら予告くらいすればいいのに、と真琴は憤慨した。
困ったな……。カレンが使えないと。
困るのは、真琴がカレンというアプリケーションをかなり重宝して使っていたからだ。カレンは非常に多機能で優秀なスケジュール管理ソフトであり、SNSアプリであり、ブラウザでもあり、動画サイトでもあった。
洗練されたレイアウトで使い勝手がいいので、真琴は既存のSNSではなく、もっぱらカレンで学友と連絡をとっていた。他の大手SNSよろしくグループ機能があり、真琴は学科と卓球サークルだけでもそれぞれ複数のグループに入っているほか、ファーストフード店のバイト仲間のグループにも入っていた。
どのSNSでも同じであるが、学科全体などの大きなグループでは皆が当たり障りのない事務的な発言に終始する一方で、少人数の仲良しグループ内では専ら異性の話題で盛り上がるようだった。
真琴もその例に漏れず、仲の良いグループでは、画面がガールズトークで埋まっていた。
「あのオバさん、いちいちうるさくね?」
「マジ大きなお世話。ゼッタイ独身だよな」
傍らを通り過ぎていく男子学生の会話で真琴は我に返った。男子学生は白石さんのことを言っている。おそらく白石さんから時間割のことで小言を言われたのだろう。
仕方なく時間割の入力を諦めた真琴は、総合科学部近くの大学生協に寄って、新たに必要になる教科書を購入してから自転車でアパートに帰った。
かなり古い学生アパート、間取りは1DKだ。しかし真琴はこの自分だけの小さな空間を心底愛していた。なにもかも自分のもの……。
半年経った今でこそ慣れたが、入学当初、初めての一人暮らしの解放感は18年間生きてきた真琴が味わった最高の至福だった。
決して親が嫌いなわけではない。だが苦しい受験を終えた果てに与えられた自由な環境は、それまでの狭い境遇とのギャップも相まって真面目な真琴をして暫くの間、ひとしきり浮き足立たせた。
それでも生来の生真面目な性分と親から授かった良識により、真琴は大学デビューで遊び呆けるようなこともなく、至極まっとうな大学生活を送っていた。
講義はどれも高度で新鮮だったし、少し地味な卓球サークルに入り、両親のことを考えて学業に障らない程度のアルバイトを始めた。仲の良い友達もできたし、密かに想いを寄せる男の子もできた。
恥ずかしいので言葉にこそ出さないが、真琴は今の生活を「これぞ青春」と思っていた。
カレンが午後8時まで使えないとはいえ、友達と遊ぶならば電話をかければよい。
しかし、真琴は何故か電話をかける気になれなかった。
カレンが使えるなら絶対にメッセージを送るよな……。
なんでだろ。電話で話をすることを億劫に感じる……。
自分自身の気持ちなのに、真琴はそれを説明するに適当な言葉を持たなかった。そしてなんとなくテレビを見ながら午後を過ごした。
……午後8時を待ちわびながら。
テレビで午後8時からの歌番組が始まった。よし、カレンが使えるはずだ……。そう思って真琴は携帯電話でカレンを起動した。
アップデートがあったのだろう、いつもより起動に時間がかかっている。真琴はテレビに視線を戻した。
やがて携帯電話の液晶画面が明るくなったのを視界の端に捉えた真琴は再び携帯の画面を眼前に運ぶ。
「え……なに? これ……」
小さな液晶画面に表示されていたのはいつものカレンのホーム画面ではなく、動画が再生されていた。そして真琴はその動画に釘付けになった。一気に鼓動が早くなる。
「……なんで? 嘘でしょ……。ヤだ……イヤだ」
見たくはない。見たくはないのだが一瞬も目を離せない。
そのうち真琴の呼吸は浅く速くなり、やがて過呼吸の様相を帯びてきた。それでも真琴は目を離せない。
どんな操作をしても動画は止まらない。鼓動と呼吸は危険の度合いを増していくが、真琴の思考は目の前の画像のことで一杯になっており、身体の異常を心配する余裕はなかった。
やがて視界は暗転し、真琴は気を失った。
……ィーン ヴィーン ヴィーン
携帯が鳴ってる……。
……って、あれ? 私……ええと、携帯の画面を見て気が動転して……。
……もしかして、気を失ってた?
真琴はベッドに放り出された携帯を手に取る前に慌てて壁掛け時計を見る。時刻は20時11分だった。
どうやら気を失っていたのは5分間ほどらしい。
真琴は軽く首を回す。まだ思考がよく働かないが、幸いベッドの上に倒れたようで身体に怪我はない。
すっきりしない頭で真琴は携帯に手を延ばす。電話をかけてきているのは真琴が所属する卓球サークル「ピンポンパン」の1年生、清川理沙だった。
……理沙……一番の親友。少なくとも真琴の方はそう思っていた。真琴はすがるように親友からの電話に出る。
(真琴……見た?)
真琴は心臓が止まるかと思った。かすれた声でかろうじて答える。
「……見たって……何を?」
(何って、カレンに決まってるじゃん)
「……見た……よ」
(……どうする? 真琴)
どうするって……どうしよう。真琴は思い浮かぶまま答える。
「とにかく、お母さんに相談するよ」
電話口で理沙がちょっと黙る。
(……真琴のは、まだお母さんに言えるようなヤツだったんだね。私のは……言えないよ)
ん、どういう意味だ?
「理沙、それってどういう……」
(まあいいや。真琴、お母さんに相談するのが終わったら連絡してよ)
「え、うん……分かった」
(私は相談できないから、もう少しカレンをいじってみる。じゃあね、真琴)
電話が切られた……。真琴はいまいち状況が呑み込めないままだったが、理沙と話をしたことで少し気持ちが落ち着いた。意を決し、改めて携帯の画面を見る。
真琴を失神させた動画は既に終わったようで、画面にはカレンのトップページ……らしきものが表示されていた。
これはカレン……なのか? 真琴がそう疑うほどに、カレンのトップページは改変されていた。
綺麗だった文字は大昔のゲームのようなフォントに変わり、お洒落に着替えを楽しんでいたアバターも貧相なドット絵になっている。
そして、ドット絵のアバターの下に小さなウインドウがあり、そこには真琴のステータスのようなものが表示されていた。
287718B
優等生
徳:197
業:042
「これって……」
あまりの仕様の変わりように真琴は混乱する。よく見ると、お知らせのボタンに「NEW!」というマークが付いているのでそこをタップする。
それは仕様変更についての運営からの説明だった。
真琴は努めて動揺を抑えながらその説明を読む。
【H28度リニューアルについて】
平素から「カレン」をご愛顧いただきありがとうございます。
このたび、皆さんのキャンパスライフをより充実したものにするために、アプリの大幅リニューアルを実施しました。
主な改正点は下記のとおりです。
・ステータス名の変更
「STD」を「徳」
「ウェー」を「業」
にそれぞれ変更しました。
・SNS機能の廃止
新たに匿名掲示板機能を備えました。
・各種ボーナス特典の実施
徳と業のポイントに応じて実施します。
詳細はランキングページをご覧ください。
・アンケート機能の追加
便利なアンケート機能を追加しました。
(株)CURRENT
「…………。」
……これでどうなる? ……なにが起こるんだろう?
真琴が真っ先に思い付いたのは、これは困るぞ、ということだった。
SNS機能の廃止……。
真琴は、カレンをインストールした後で知り合った友達の大部分とはカレンを通じて連絡をしていた。つまり、カレンのIDを教え合っただけで携帯電話番号を交換していないのだ。そして、実際それで事足りていた。
理沙とはカレンをインストールする前に知り合ったので電話番号を知っている。大学の関係で電話番号を知っている友達は10人くらいだ。
カレンを通じてならば、少なく見積もってもその10倍……。100人くらいの学生と連絡が取れていた。その連絡手段を唐突に失ったのだ。
まあ、次に会ったときに教えてもらえばいいか、こんなことは些事……そう、あの動画の問題に比べれば取るに足らないことだ。
あの動画……。目に焼き付いた先ほどの光景がよみがえり、真琴は突然の吐き気に襲われた。口を押さえながらトイレに駆け込み、間髪入れずに嘔吐した。涙が込み上げてくる。……お母さん。
真琴はしばらく便器を抱いていたが、気持ちは一向に落ち着かず、焦燥と恐怖が心を埋め尽くしそうだった。
早く……早くお母さんに助けてもらわなきゃ……。真琴はトイレットペーパーで口を拭い、ベッドから携帯電話を拾い上げて母にダイヤルする。
お願い……出て……。
(めずらしいじゃない。どしたの? 忘れ物?)
母の声……。いつもと変わらぬ優しい声に、真琴の気持ちは一気に弛緩した。
「……おか……おかあさん、助けて。私……。うぅ……うっく」
上手く言葉が出ない、が、なんとか助けを求めることができた。このままもう一度気を失っても、母はきっと駆け付けてくれるだろう。
(どしたの真琴。赤ちゃんでもできた?)
……赤ちゃん? ……なんのこと?
そんなわけないじゃん。お母さんのバカ……。
胸の内で母に悪態をついたが、母の言葉によって真琴は一握りの冷静さを取り戻した。
赤ちゃんができた…か。それとどっちが深刻だろうか、と真琴は思案した。
「そんなんじゃない……けど、助けてほしいの。今から来られる?」
(ええ、もちろん。可愛い真琴のためならお母さんたち飛んでいくわよ。高速なら……一時間ちょっとね。真琴、一人で待てる?)
……助かった。実際は何も解決していないのだが、真琴の心は安心に包まれた。
「うん待てる。……あの、お母さん」
(なあに?)
「できればお母さんだけで来てほしいの。……ダメ?」
(…………分かった。じゃあ待っててね)
母との通話を終え、ようやく人心地が付いた真琴はカレンを操作してみることにした。
……さっき理沙は「自分のは相談できない」と言っていた。つまり、リニューアル後の初回起動で見せられた動画はユーザー毎に違うということだろう。
最悪の事態には至っていないとみてよさそうだ。
真琴はまず「徳」のランキングページを開く。そこには徳の上位50人の学籍番号が表示されていた。
入学式のときに聞いた知識では、真琴が通う広北大学は一学年の学生数が二千弱だ。大学院生を合わせて学生数は一万を切るくらいだろう。
そのうちどれほどの学生がカレンを使っているかは定かではないが、カレンは広大生にかなり浸透していた。
なにせ時間割とリンクして単位の取得状況を把握したり、大学生協のキャンペーン情報や割の良い短期アルバイト情報など、便利な機能が満載だったのだ。
その上SNSとしても大手に遜色ない使い勝手なのだから、少なくとも真琴の周りではカレンを使っていない人は見当たらなかった。
偏屈で他人と距離を置いているような一部の人はよく判らないけど……。
とにかく真琴の認識では、カレンは広大生の必携ツールだった。
その感覚で考えれば、上位50人というのは上位1%の更に上だ。
かといって雲の上の存在かというと、真琴にとってはそうでもなさそうだった。1位の人は学籍番号の頭が25で始まっているから4年生だろう、徳の数値は587だ。50位の人は徳が361……。
ランキングに1年生は一人もいない。そして真琴の徳は197だ。
喜んでいいのかどうなのか、真琴はカレン運営から「優等生」の称号を頂戴している。
なんの意味があるんだろう? そう思いながら真琴はページ上部の「徳の特典について」というボタンをタップした。
【徳の特典について】
徳を貯めるとカレンの中で様々な機能が使えるようになります。
新たな機能が使えるようになったとき「あなたへのお知らせ」で個別に通知します。
どんな機能が使えるかはお楽しみ!
「……フザけてる。なにがお楽しみよ」
独りごちながら真琴は次に「業」のランキングページを開く。そこには業の上位200人の学籍番号が表示されていた。今度はポイントの桁が大きい。1位の人は3年生で業の数値は4488、そして表示下限の200位の数値は1524だった。
業の数値が大きい理由は明らかだった。つい昨日まで、カレン上では「業」の前身である「ウェー」のランキングが掲載されていて、上位の人たちはその数値にしのぎを削っていたのだから。
その一方で「徳」の前身である「STD」については非公開で、それぞれ自分だけが知っているという性質のものだった。……陰徳。そんな言葉が真琴の脳裏に浮かんだ。
真琴は徳のページと同様に「業の特典について」を開く。
【業の特典について】
キャンパスライフを満喫している業の人たちにも素敵な特典がありますよ!
・業 500:意外な一面をみんなに公開
・業 800:ちょっと恥ずかしい秘密を公開
・業1000:「えっ?」まさかの秘密を公開
・業2000:それ……いいの? 見せても……
・業3000:これが業だ!背負わなきゃね
※業の特典はH28.10.10から順次執行します。
……すこし本質が見えてきたような気がする。
簡単に言えば、本業を疎かにして無駄に若さを浪費している学生を更正しようといったところか。
プライバシーを人質にして……。
それなら……自分はまだ安全圏なのだろう。だけど、カレン運営は卑劣だ。ただならぬ悪意を感じる。
特典と謳いながら「執行」などという言葉を使うあたり、悪意を隠すつもりもないらしい。
それに、昨日までの「ウェー」のランキングは、みんなの中では概ね人気者ランキングという認識だった。
「ウェー」はリアルの充実度の指標……真琴はそう思っていた。
そして、SNS機能の代わりに新設された匿名掲示板を開こうとしたとき、インターホンが母の到着を告げた。
真琴は足音を忍ばせて玄関に立つ。
「……おかあ……さん?」
(はいはいお母さんよ。開けてちょうだい)
ああ……ほんとにお母さんだ。お母さんが来てくれた。
真琴は錠を解き、ゆっくりとドアを開けて母を招き入れる。
母の顔を見た瞬間、真琴は全身から力が抜けてその場にへたり込んだ。
「おかあさん、ごめ……ごめんなさい。私……わたし……」
真琴は両手で顔を隠して嗚咽を漏らす。どうして謝っているのか自分でも解らない。頭ではなく心から絞り出された言葉だった。
そして小さく丸まった娘を、大きな母が無言のまま抱き締める……。それはあたたかく、力強い抱擁だった。
母性に包まれた娘は赤子のように泣き続ける。そこにはひとつの永遠があった。
やがて娘は泣き疲れ、時は再び動き出す。
娘が泣き止んでからも母の抱擁は終わらなかったが、娘が自らそれを解いたのだ。
「もう……大丈夫。ありがと、お母さん」
真琴は母の顔を見上げて言った。なぜか母も涙ぐんでいる。
「……なんでお母さんまで泣いてんの?」
母が笑って目頭を手で拭いながら答える。
「バカね、もらい泣きに決まってるじゃない」
「そっか……ゴメンね」
「さ、部屋に行こ。なにか飲ませて」
「うん」
真琴は部屋の真ん中に薄い座布団を敷いて母を座らせ、作り置きのほうじ茶を冷蔵庫から出してコップに注ぎ、小さなちゃぶ台の上に置く。その間、母は何も言わずに真琴を眺めていた。
お母さんは、私が切り出すのを待っている……。
真琴は自分も座って母と向き合い、深呼吸して覚悟を決めた。
「お母さん……あのね」
「うん」
母は笑顔だ。その表情は「なんでもこい」と言っている。
「私……の、その……私が映ってる動画が、私の携帯に、いきなり映ったの……」
「……真琴の……動画?」
「うん……」
「……なんの……動画なの?」
「え……と、その……ひとりで……エッチしてる……やつ」
母の顔が真剣になる。
「……それは、どこで?」
「この部屋の……ベッドの上」
「……つまり盗撮されたってこと?」
「……わからない、よ。でも、すごいハッキリ撮れてた。丸見え……だったし、声も……」
話しながら映像を思い出し、真琴の呼吸が再び浅くなる。軽く吐き気もしてきた。
自分のあられもない姿……。なにも着ないで、脚を開いて……。自分で乳首を弄びながら荒い息をして、声を出して。
あそこだけじゃない、そうだ、自分でも見たことないのにお尻の穴までハッキリ……うう、うわああ、ああああ……
「真琴、落ち着いて、真琴」
母に肩を揺すられて真琴は正気に返る。瞳から落ちた大粒の涙が太ももを濡らしていた。
真琴が正気を取り戻したのを確認してから母が尋ねる。
「いつ撮られたかは判らないの?」
「……わからない……ごめんなさい」
「真琴はなにも悪くないのよ。それで、なにか脅されたりしてるの?」
「……脅され? ……ううん、脅されてはない……かな。でも、私の名前も映ってたし……。あ、ああそうだ、右から左に文字がいっぱい流れてた。あああそうだ、ウヒョwww、とか、マジっすかwww、とか、あああ」
「落ち着いて真琴。それは編集だと思う。バラ撒かれたりはしてないわ」
編集……そう、そのはずだ。真琴は乱れた息を整える。
そうだ…カレンを見た限りでは、あの動画が晒されるのは、きっと、業を貯め過ぎたときなんだ。
でも、あんまりだ……こんなの。こんなことをされなきゃいけない覚えはない。
ヒドい……ヒドい……。
真琴の瞳は、またしても涙を溢れさせる。涙に渇れることなどないということを今日、真琴は身をもって知った。
真琴はすすり泣く。今度は取り乱しているのではない。いわれのない仕打ち……その悔しさと憤りで泣いていた。
母はしばらく真琴を眺めていたが、真琴の心がすでに冷静であることを読み取り、優しく真琴に尋ねる。
「それで真琴、いきなりって言ったけど、なにしてる時に動画が出てきたの?」
「……メンテナンスが終わってから、カレンを開いたとき。なかなか開かなくて、やっと起動したと思ったらそうじゃなくて、動画が表示されてたの」
「……カレン? ……カレンって何よ」
……ああ、そうだった。母は私がカレンを使っていることを知らないんだ。
「え……と、大学のみんなが使ってるアプリで……スケジュールを管理したり、SNSのメッセージを送ったり……するヤツ」
「SNS? ……あなた、私とはいつもラインでやり取りしてるじゃない」
「ラインのIDとも同期できるの。……私の方はカレンを通してラインのメッセージを送ってた」
母が少し考える。真琴は叱られる心構えをした。
「……真琴、それは安全なアプリなの?」
やっぱりそこを聞かれるよな……。真琴は正直に答える。
「結果的には……安全じゃなかった……んだと思う。でも、うちの大学ではみんなが使ってた」
「有名なアプリなの?」
「……たぶん違う。広大生のためだけのアプリみたい」
母の表情が少し険しくなる。
「でも、ちゃんとアプリマーケットにあるアプリなんでしょ? ……ま、アプリマーケットにも怪しいアプリはいっぱいあるみたいだけど」
「……違う」
「え?」
「カレントっていう会社のホームページから直接ダウンロードしてインストールするの。アプリマーケットには置いてない」
「そんな怪しげなアプリ、いったいどこで……あ、もしかして、あのときの?」
「……うん、そう」
母がため息をつく。そう、真琴がカレンを初めて知ったとき、母も一緒にいたのだ。……そして父も。
「あのとき、あなたお父さんから止められたじゃない」
「うん。あのときお父さんは『様子を見ろ』って言った。だから私、言われたとおりしばらくはインストールしなかったんだ。でも、大学が始まってみるとみんなが使ってた。みんな、便利だよって薦めてきた」
「……ま、今さら言っても仕方がないわね」
「……ごめんなさい」
そう、あのとき……構内の特設売場でアパート用の家電などを選び、会計をして配達先を記入し終わったときに売場のアルバイトのひとりが真琴に差し出した1枚の黄色いチラシ……そこにカレンが紹介されていたのだ。
チラシでは確か「広大生のマストアプリ」などと書かれていた。
真琴はすぐにでもダウンロードしようとしたが、そのチラシを見た父に「しばらく様子を見ろ」と言われたのだ。
……そのアプリはよく分からんぞ、と。
よく分からんぞ、というのが父の言葉だったが、父がカレンというアプリの信用性についてよく見極めろと言っていることは判った。
だが、大学が始まり、周りのみんな……上級生を含めてほとんどみんながカレンを使っていて「なんの問題もないし、便利だよ」と言うのに抗われず、4月の半ばに真琴はカレンをインストールした。
そして真琴は、カレンを自分のメインアプリとして今日まで使ってきた。みんなが言うとおり何の問題もなかったのだ。
……今日、ついさっきまでは。
「じゃ、盗撮の動画はそのカレンとかいうアプリが絡んでいるのね?」
「そう……なのかな。関係はあると思うけど、どう関係してるのかは判らない。それに、動画はこの部屋の中で撮られてた。……間違いなく」
「この部屋の……中?」
「うん」
「この部屋にあがった誰かがこっそり仕掛けていったってこと?」
「そう……なるのかな。でも、そんなことする友だちは部屋に入れてないよ」
母がちゃぶ台に視線を投げて思案顔になる。その顔は真剣そのものだ。そして、有無を言わさぬ力を込めて真琴に告げる。
「……真琴、これはしっかり考えないといけない。悪いけどお父さんを呼ぶわよ」
母の宣告に真琴の心臓が飛び上がる。
「……お父さん……来てるの?」
母は大きく息を吐いて脱力しながら答える。
「真琴……よく考えて。お父さんがあなたの一大事におとなしく家に残っていられると思う? 真琴が私だけ来てほしいって言うから、今は外に停めた車の中でやきもきしてるわ」
「そっか……。そうだよね」
真琴は諦めてうなだれる。
お父さんが来てる……。
「とにかくお父さんを呼んでくる。動画の中身はお母さんが上手く説明するから、ね?」
真琴はうなづくしかなかった。それを見届けた母は、父を呼びに玄関を出て車に向かう。真琴は正座をし、必死で動悸を堪えながら父を迎える態勢をとった。
玄関が開き、母に続いて父が入ってきた。父を正視することができず、真琴は俯く。
「盗撮とは穏やかじゃないな」
頭上から父の声がした。その言葉に真琴を責める響きはない。真琴が何も言えずにいると父が続けた。
「……真琴、顔を上げろ」
真琴は勇気を振り絞ってわずかに顔を上げ、上目遣いで父を見る。
「酒盛りくらい俺や母さんもやってた。……まあ、あまり誉められたことじゃないけどな。とにかく問題は盗撮した奴の目的だ」
……酒盛り? ……なんのことを言ってるんだ? 真琴は父の後ろに立つ母に視線を移す。
すると母がニッコリうなづいた。どうやら母は、撮られた内容を酒盛りだと説明したようだ。
真琴の動悸が少し治まる。真琴は母の心遣いに感謝した。
「それで、その動画はもう見られないんだな?」
真琴は落ち着きを取り戻して答える。
「うん。探してみたけど携帯には残ってなかった」
「じゃあ、その、なんとかいう怪しげなアプリを見せてみろ」
「……はい」
真琴はカレンを開き、携帯を父に手渡した。父は携帯を受け取ると、じっと黙ってカレンを操作する。
その間、母と真琴は何も言わずに父を見ていた。
10分以上はそうしていただろう。ひとしきりカレンの内容を見てから父が言う。
「……元からこんな、ショボいアプリだったのか?」
「ううん。今日の午後8時のアップデートが終わるまでは、今風のすごく洒落たアプリだった」
「そうか。じゃあ今日、その盗撮動画が流れたあと、こんなフザけた仕様に変わってたんだな?」
「……うん」
「で、盗撮の映像は、この部屋のどの辺りから撮られたものだったんだ?」
「え、え……と、ちょうどテレビのある方向と、壁の時計のある辺りから……だったと思う」
「1アングルじゃなかったんだな?」
「うん」
「……真琴」
「……はい」
「俺は、このアプリについて『しばらく様子を見ろ』と言ったはずだ」
「はい。……ごめんなさい」
「このアプリは野良、だな?」
「……うん」
「利用規約は読んだのか? ……いや、そもそも規約があったのか?」
「……よく憶えてない。ごめんなさい」
父が小さく溜め息を吐く。
「……まあ、アプリを入れずとも似たような結果になってかもしれないな。おい母さん、これは真琴だけのせいじゃない、俺たちにも責任がありそうだ」
突然に話を振られた母が驚く。
「え?」
「まんまと罠にはまったんだよ、俺たちは」
「……どういうこと?」
父はテレビ、そして壁掛け時計を順に指差してから、確信を持って言う。
「真琴が言ったとおりなら、あのテレビ、そして時計には隠しカメラが内蔵されている。つまり、春にあの特設テントで家電を買った学生は皆、同様の被害に遭っている。おそらくな」
「まさか……そんなこと」
母は信じられないようだが、自信に裏付けられた父の推論は続く。
「何年前からあの売場をやってるのか知らないが、おそらく今年に始まったことじゃないだろう。相当な数の学生が被害に遭っているはずだ。それに、アプリ単体でもプライベートは充分に集まる。つまりアプリを使っている学生全員が罠にかかったことになる」
「さすがに大袈裟じゃないの? だってあそこで買ったのは、型落ちが多かったけど、ちゃんとしたメーカーの新品よ」
母の言葉を受けて、父は真琴に話を振る。
「真琴、お前はどう思う?」
「私は、お父さんの言うとおりだと思う」
「真琴まで……。本気でそう思うの?」
「うん。だって、変わったあとのカレンを見ると明らかに悪意があるもん。それ以外に考えられないよ」
「…………。」
母が黙る。撮られた動画に込められた悪意は母も理解しているので、さすがに否定はできないようだ。
さらに父が続ける。
「流れた動画は酒盛りだったようだが、この線で考えるなら動画はおそらく1つじゃない。もっとプライベートなものがあるだろう。何年かにわたって周到に準備された悪意が、運の悪いことに真琴が入学した年に牙を剥いたんだ」
もっとプライベートなもの……か。さすがに父は鋭い。
母が父の推論を確認するように尋ねる。
「……じゃ、そのテレビにも時計にも、今でも隠しカメラが付いてるってことなの?」
「ああそうだ。液晶の裏とかに、巧妙にな。だが俺の予想では、カメラ自体は残っていても、もう機能していないと思うぞ。相手は充分な情報を握ったと判断してから行動に移したんだろうからな」
「……真琴もそう思うの?」
「……うん、そう思う。たぶん間違いないよ」
母は再び考え込み、真琴と父はその姿を見つめる。しばし部屋は沈黙に包まれた。やがて、すべてを認めた母が沈黙を破った。
「……それで、これからどうするの?」
母の言葉を待っていたように父が即答する。
「しばらく様子を見ろ」
「……冗談言ってる場合じゃないでしょ、あなた」
真琴も父の言葉の意を量りかね、顔を見上げて次の言葉を待つ。
「冗談なんかじゃない。今度こそ、注意深く慎重に様子を見るんだ。ヘタな動きは絶対に禁止だ」
真琴は父の言わんとすることが理解できた。だが母は納得できないようだ。父に反論する。
「だって……これって立派な犯罪でしょ。今すぐにでも警察に相談するのが一番じゃないの?」
「それは違うよ、お母さん」
真琴が割って入った。
「警察へ駆け込むのはリスクが大きいよ。それはたぶん同じ目に遭ってる他の誰かがする。そして、その人はきっヒドい目に遭わされる」
「よし、その理解でいい。アンインストールとか、携帯を替えてしまうのもナシだ。おそらく何らかの方法でペナルティが課せられる」
「……そだね」
「幸い、さっき覗いた限りじゃ真琴、お前は優等生だ。まず初めに、業とやらをたんまり抱えた連中が慌てふためいて自滅するだろう。それを注意深く観察するんだ。なにかいい方法……というか、これを企んだ奴の目的が判ってくるまではな」
「……うん、そうする。ありがと、お父さん」
今度は母が口を挟む。
「ね、それって、泣き寝入りするっていうことじゃないのよね?」
「ああ違う。もしかしたら警察が捜査したら意外と簡単に犯人が捕まるかもしれない。むしろそうであってほしい。ただ、警察に届け出るリスクを真琴が負う必要はない、ということだ。このアプリがとりあえず目の敵にしてるのは学業そっちのけで遊び呆けてる連中らしいからな。リスクはそいつらに背負ってもらえばいい」
「……そうね、分かったわ」
ようやく母も納得したようだ。
その後、しばらく3人で、これから予測される事態とその対応について話をし、真琴は平常心を取り戻した。
父は、最悪の事態になれば別の大学を受け直しても構わないとまで言ってくれた。
そして真琴が安心したのを確かめて、父と母は帰って行った。
父は帰り際に「くれぐれも目立つなよ。息を潜めて様子を見るんだぞ」と念を押した。
父と母を見送った真琴は、理沙に電話をしようと思ったが、その前に新設された匿名掲示板を見ようとしていたことを思い出し、カレンの匿名掲示板を開く。
そこには最初のサンプルとして、運営によって何個かの板が立ち上げられていた。そのなかに
〝どんどん書こう!あの人の片思い〟
という板を見つけ、真琴は「こんなの、誰も書き込むわけないじゃん」と思いながら開いてみる。
「……え?」
果たしてそこには真琴の予想に反して、既に100件を超える書き込みがあった。冒頭は板の趣旨が書いてある。
1)9/28/20:20
あの人の片思い、ここでみんなに教えちゃおう!
これであなたもキューピッド?
※名前と一緒に学科と学年を必ず書いてください。
※誰のことか判明しない書き込みは業を消費しません。
2)9/28/20:22
物理2年の早坂晃一は物理2年の浅海遥香が好き。
3)9/28/20:25
教国1年の吉富瑞希は土木1年の中野涼介に一目惚れ。
4)9/28/20:25
>>3
それみんな知ってるしwww
「……なんで? なんでわざわざ書き込むの? こんなこと」
真琴は信じられない気持ちになったが、冒頭にヒントがあったことにすぐに気が付いた。
業を消費……。これが理由なんだ、きっと。
業が多い人は早くもこの新しいカレンのルールを理解して、特典という名の罰が執行される前に業を消費しようとして動き出しているんだ。
これは……醜い。これこそまさに業、罪作りじゃないか。
これ……いったいなにが目的なの?
真琴は板の書き込みの勢いに驚きながら画面を下にスクロールさせていく。
「あ……」
92)9/28/20:41
教理1年の古川真琴は法学1年の島田直道が好き。
真琴は心の奥、猜疑の幕が開く重い音を確かに聴いた。
応援ありがとうございます!
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