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第一章 14歳の真実
3 決心
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東警察署の応接ソファで仮眠をとって朝を迎えた岩崎は、一階の署長室、警部以上を集めた幹部会議の場にいた。
睡眠が短いことは日常なので眠くはない。むしろ友人を襲った悲劇のせいで神経は研ぎ澄まされていた。
交通課長の報告を一言も漏らすまいと、目を閉じて聴覚だけを働かせる。
「……ですので、現行犯逮捕した中西については、一両日中、引き伸ばしても明日の夜には釈放になります。……以上です」
釈放……。致し方ないだろう。勾留を請求したところで検察か裁判所、どちらかの段階で却下されることは明白だ。
報告を受けて署長が口を開く。
「……まあそうなるな。……となると、最大の問題は遺族対応だ。それはどうなっている?」
「はい……。遺族は死者の同居の父、加藤仁さんですが、事故の状況などはまだ一切説明しておりません」
署長の表情が険しさを増す。
「……どういうことだ? むこうからは何も聞いてきていないのか?」
「加藤さん本人から当直に連絡がありました……未明に。ですが警察からの説明は今日の昼過ぎまで待ってもらっています」
「状況を説明していないなら、加藤さんは一人娘を轢き殺されたという認識でいるということだ。それを待ってもらっているのか」
「はい。状況が状況なだけに、こちらも説明に準備が要ります」
「……確かにな。しかし黙って待てるものなのか? ……信じられんな。……まあ仕方がない。それで、誰に担当させる?」
「はい……。通常どおり、現場の見分をした島村係長に任せようと思います」
「島村さんか……。確かにベテランだが相手が相手だけにな……。事故そのものは単純なんだ。交通課長、あんた自ら担当しろ」
「それも考えました。ですが、この加藤さんには、肩書きを用意するよりも年長者を充てるほうが上手くいくのではないかと思います」
交通課長は明らかに及び腰だ。
はなから加藤の肩書きに負けている。
「場合によっては俺が出て行っても構わんが、最初から署長が顔を出すのも不自然だろう。かえって疑念を抱かれる。……警備課長は加藤さんと面識はないのか?」
「あります。……3回ほど。落ち着いた良識ある人物です。ですが先方は私のことなど憶えていないかもしれません」
「そうか……そうだろうな。じゃあ、やっぱり島村さんに任せるのが自然か。その結果次第ですぐに副署長か俺が対応しよう」
結論が出されつつある中で岩崎は考える。
……事故担当の係長は確かにこれまで数多くの遺族対応を忍耐強くこなしてきたベテランで、実績も信頼もある物腰の柔らかい人だ。
これ以上の適任者はいないように思われる。しかし、それは通常の交通事故の場合だ。
署長の心配は、この事故が通常の事故ではないことにある……。
それにしても、この場にいる全員が加藤という人物を肩書きで捉えている。
加藤は確かに優秀で相応の地位にあるが、特別な人間ではないのだ。
業を煮やした岩崎は肚を決めた。
「署長」
「なんだ岩崎」
「この件、私に担当させてください」
「……岩崎、今は冗談を言う時ではない」
「解っています。冗談ではありません」
「俺には、お前に最も向かない類いの仕事のように思えるぞ」
「私もそう思います」
「じゃあ、どういうことだ?」
「確認しますが、懸念されるのは、最初の説明に失敗して、やり場のない怒りの矛先が署の対応に向けられることですよね」
「簡単に言えば……そうだ。署に落ち度はないが、たやすく納得してもらえるとも思えない」
「私なら……少なくともこの場にいる誰よりも、加藤の心情に添うことができます」
「どういう意味だ」
「あいつ……加藤は、中学の同級生です」
「……付き合いがあるのか?」
「ほとんどありません。ですが、信用はある……と思います」
「そうか……」
署長は思案する。そこに、助かりたい一心の交通課長が追い打ちをする。
「署長、私も岩崎課長に任せるのが最良と思います。最初の加藤さんからの連絡に対応して時間稼ぎ……いえ、昼過ぎまでの猶予をもらってくれたのも岩崎課長です」
「……そうか。岩崎、難しい仕事だぞ」
「解っています」
これで結論は出た。
「よし、最初の説明は岩崎に任せる。交通課長はすぐに全部の資料を刑事課長に」
「分かりました」
「それと、最初の説明がどう転んでもすぐに対処できるように特に少年課長と総務課長は備えを。……岩崎」
「はい」
「先方が署長を出せというならすぐに連絡しろ。一人任せにはしない」
「ありがとうございます。ですが、そんなに心配は要らないと思います。あいつは賢いから、すぐに呑み込むはずです」
「その時はしっかりと、加藤さんの心情に寄り添ってくれ。それが一番の仕事だ。よし、散会だ」
会議が散会して一時間後、岩崎は刑事課の自席で一枚の資料を睨んでいた。
昨日、加藤が居酒屋で探していたものがここにある……。
これを見せれば加藤は一瞬ですべてを悟るだろうか。
いや、さすがの加藤でもおそらく無理だ。これを見せるには前置きが要る。
岩崎は腕を組んで背もたれに身を預け、机上を睨み続ける。
そうしてその資料と問答をする。
「課長、寝るときは目を閉じてください」
軽口を言ってきたのは刑事課の若手女性、富永だった。
「……もう一度言ってみろ」
物怖じするようでは勤まらないのだが、富永はなかなか見どころがある、岩崎はそう思っている。
「失礼しました。……これ、昨日の事故ですよね。どうしてここにあるんですか?」
「俺が遺族対応の窓口になった」
「えっ」
富永は絶句した。……その反応こそが失礼だ。
「課長、まさか……くじ引きか何かで……」
「いや違う。ちゃんと検討した結果だ」
ここでようやく、富永も真剣になる。
「課長が遺族対応ということは、早くも火消しが要る状況なんですか?」
「そうじゃない。俺がたまたま遺族と知り合いだった、それだけだ」
「知り合いって……。通常、むしろ知り合いは外しますよね」
「まあな。つまりは通常じゃないってこった。今日の昼過ぎには遺族と接触しなきゃならん。で、作戦を練ってるところだ」
「課長、私でよければ一緒に考えましょうか?」
「……お前がか?」
「私はこれでも、被害者支援と遺族対応の研修を受けてるんですよ」
そういえばそうだった。富永は若いが、女性として凶悪犯罪の遺族や、性犯罪被害者の心のケアを受け持っている。
知恵を借りる価値はありそうだ。
「そうだな……。よし富永、場所を変えるぞ」
空いていた取調べ室に移動し、岩崎は富永に概要を説明した。
「これは……お父さんのショックは並大抵ではないでしょうね」
「ああ……そして、状況を呑み込んでもらったうえで、冷静な判断を求める必要がある」
「私はいつも、相手を苛立たせないことと……受けるショックの大きさを考えて、説明する事実の順番を決めるようにしてます。メモ書き程度のシナリオですね。この件も説明する順番が大事になると思います」
「ああ、そして最後にこれを見せることになる」
「……そうですね。説明には登場させますが、見てもらうのは最後にした方がいいと思います」
そう言って二人は、問題となっている資料に目を落とし、これを見せたときの加藤の反応を思い煩う。
それは加藤が居酒屋で探していた名刺、その両面を一枚にコピーしたものだった。表は加藤の肩書きと名前が
外務省 総合外交政策局 国連政策課
課長 加藤 仁
と記された、ごく普通の名刺だ。
ただ、事故現場にあったこの一枚は裏面が普通ではなかったのだ。
岩崎は、これを見て加藤の心が折れないことを祈った。
岩崎は富永との作戦会議を終えて自席に戻り、今度は時計を見つめていた。……午後0時40分。
よし、頃合いだ。一時になる前に電話して、こちらがペースを握る……。
岩崎は意を決して、席上の公用電話で加藤の携帯電話番号をダイヤルする。
「はい、加藤です」
「俺だ。……加藤、大丈夫か?」
「なんだ岩崎か、ああ、まだ大丈夫だ。今は事故の担当者からの連絡を待ってる」
「待つ時間ってのは長いもんだよな」
「今のところはそうでもない。午前中は中学校から電話があったり、葬儀屋の手配をしたり、思いのほか気が紛れた。やっと一息ついたところだ」
「……学校から電話があったのか?」
「ああ。ニュースでも大きく流れたからな。通夜と葬儀の日程が知りたかったらしい。学校がどうかしたのか?」
「いや。……で、日程は決まったのか?」
「ああ。今日の夜7時から通夜、明日の11時から葬儀だ。場所は中学校の近くにある斎場だ。で、岩崎、署の担当者からの連絡はいつ来るんだ?」
「……それなんだが、俺が担当することになった」
「なんだと? まさか東警察署ってのは、お前と電話番しかいないのか?」
「まあそう言うなよ。みんな、お前の肩書きに呑まれちまってるみたいだから俺が引き受けたんだ」
「……みんな?」
「そう、署長以下、みんなだ」
「官僚とはいえ一介の公務員だ。俺がそんなに有名なはずはないだろう」
さすがに鋭い。……だが、その辺の説明はまだできない。
「まあいいじゃねえか。友達だから俺がやるって言ったんだ」
自分で口にしながら、安っぽいと思う。
「……こういうのは、事務的にしてもらった方がむしろ気が楽だと思うんだが……」
「決まっちまったもんは仕方ないだろ。引き受けた俺の顔を潰す気か?」
「そんなつもりは、ない」
「じゃあ決まりだ。お前も早く状況を知りたいだろう。今から時間がとれるか?」
「ああ。夕方に斎場に行くまでは空いてる」
「じゃあ今から俺がお前の家に迎えに行く。家の前に着いたらまた連絡する」
「……それからどうするんだ?」
「まずは現場に案内する。説明はそれからだ」
「わかった」
「15分くらいで着く。待っててくれ」
岩崎は受話器を置いた。
……ふう、と岩崎は軽く息を吐く。まずは台本どおりだ。
それに加藤も予想していたより落ち着いていた。
岩崎は公用車のエンジンキーを手に取り、席を立った。
「まずは現場に行くぞ。説明はそこでする」
「分かった。俺もまず現場を知りたい」
マンションの前で加藤を助手席に乗せ、岩崎は車を発進させた。
現場までは五分ほどで着くだろう。
「……加藤、お前も苦労してたんだな」
「なんのことだ?」
「いや……警備課の資料では家族の欄に美咲ちゃんしか載ってなかった。奥さんとは別れたのか?」
「死別だ。5年前にな。ガンだった」
「……そうか。大変だったろうな」
「まあそれなりに……な。そのぶん美咲が割としっかり家事をしてくれていたんだが、ついに俺ひとりになっちまった」
「……そうか」
岩崎は繋ぐ言葉を探すが見つからない。
そうして一時の沈黙の後、車は事故現場である跨線橋の手前にさしかかる。
「加藤、この橋の真ん中辺りが現場だ。いっぺん通り過ぎるぞ」
「……分かった」
加藤の顔に緊張が浮かぶ。岩崎は速度を落とし、ゆっくりと車を登らせていく。
やがて左側……ガードレール越しの歩道に、いくつかの花束が見えてきた。
「もう誰かが花を置いてくれてるんだな」
「みたいだな。……加藤、登り切って下り始めたところが現場だ」
加藤は前方に集中する。やがて車は橋の最上部に達し、下りの道路が視界に入った。
そこはまだ惨劇の跡を残していた。途切れたブレーキ跡、そして大量の血を洗い流した上に撒かれた白い砂……。
加藤の表情は動きを止めている。
おそらく頭のなかで事故のイメージを描こうとしているのだろう。
車はゆっくりと橋を渡り終え、岩崎は先にあったスーパーの駐車場で車を停めると、後部座席に用意していた小さな花束、それと一つの茶封筒を手に取った。
「加藤、降りて現場を見に行くぞ」
岩崎は加藤を連れて、今度は反対側から歩道を歩いて跨線橋を登った。
しゃがんで花束を供え、目を閉じて手を合わせる。
目を開けて振り返ると、加藤が車道を凝視していた。
おそらく今、加藤の頭は情報を渇望しているだろう……。
ひとつ間を置いて、岩崎は切り出す。
「加藤、事故の説明をしていいか?」
「もちろんだ。頼む」
加藤は即答した。
「今回の事故を説明するには、トラックを運転していた中西の目線で追うのが一番解りやすい。……気分は悪いかもしれんが」
「構わんよ。それでいい」
「分かった。この橋はな、昼はそれなりの交通量だが、夜、それも10時過ぎともなると車はまばらだ。そんな中で中西は昨夜、4tトラックに満杯の荷物を積んで、さっき俺たちが車で登ったように、あっちの方向からこの橋を登り始めた」
言いながら岩崎は少し歩いて、トラックが登って来た方向に加藤の視線を促す。
「うん」
「中西は割とゆっくりとした速度で登ってきたと思われる。上り坂の頂上付近は徐行義務があるんだが、それとは関係ない。中西のトラックは、それだけ重い荷を積んでいたんだ」
「ああ……なるほどな」
「そしててっぺんまで来たとき、まず中西は、歩道に一台の自転車が停められているのに気が付く」
「…………。」
加藤が沈黙する。岩崎は注意深く言葉を選んで続ける。
「時間は深夜に近い。……加藤、上り坂から下り坂に転じるとき、車のライトは後輪が登り切ってようやく地面を照らすんだ。つまり一瞬、路面が見えにくくなる。それはイメージできるか?」
「ああ、解る」
「ましてや中西の車はトラックだ。下り始めてから路上を照らすまでの間が普通車よりも長い。そしてライトが前方の路面を照らしたとき、中西の目に飛び込んできたのは車道に寝そべった美咲ちゃんの姿だ」
「待て」
「中西は急ブレーキをかけ、タイヤはロックした。だが重い車体は止まりきれず、中西がブレーキを踏みしめたまま左前輪がゆっくりと、美咲ちゃんの体を乗り越えた」
「岩崎、待て」
「…………。」
「……美咲が、車道に寝そべっていた……だと?」
「……ああ、そうだ」
「美咲は自転車に乗っていて事故に遭ったんじゃないのか?」
「違う。自転車は歩道に停められていた。無傷だ」
「どういうことだ? 美咲は車道に落とし物でもして、それを取りに車道に出たってことか?」
「理由はさておき、中西の側から見た事故の状況は、俺が今言ったとおりだ。そして、事実もほぼそのとおりだというのが検証の結果だ。ブレーキの跡が途切れてたろ? そこに美咲ちゃんが横たわっていたんだ。ヘルメットをかぶってな」
「…………。」
「ここから先は、どちらかと言うと美咲ちゃんがなぜ車道に寝そべっていたか、という話になる。……車がようやく停まり、急いで降りた中西は自分が轢いてしまった美咲ちゃんを見て、パニックになりながら110番通報をした」
「110番? 119番じゃないのか?」
「ああ、中西はまず110番に通報した。その通報の中で、怪我人はどんな人かと聞かれ、ヘルメットをかぶった女の子だと答えながら、中西がふと歩道の自転車に目をやるとサドルの上に何かがあった。……加藤、お前の名刺だ」
「……なに?」
「名刺が置かれていたんだよ。名刺は血飛沫を浴びていた」
加藤が沈黙する。
岩崎が続ける。
「名刺を手に取った中西は、裏返してお前の名前があるのを見て、反射的に名刺を読み上げて直感的に言ったんだ。『この人がお父さんだと思います。すぐに連絡してください』ってな」
「裏返して……俺の名前を、見た?」
「そうだ。その名刺は、名刺としては裏返しで置かれていたんだよ」
「名刺としては……だと?」
岩崎は加藤の目を見据えて考える。台本では今がこれを見せる場面だ。
ここまでの説明に不足はなかっただろうか……。
加藤に心構えをさせることができただろうか……。
しばし互いの目を見ながら、思いが交錯する。
やがて岩崎は、迷いながらも封筒から資料を取り出して加藤に手渡す。
「……これが、その名刺のコピーだ」
受け取った加藤の目が見開かれる。しかしそれは一瞬のことで、すぐに加藤はきつく目を閉じた。眉間に深い縦が浮かぶ。
岩崎は加藤の心中を思い、胸を締め付けられる気持ちで加藤を見守る。そして加藤は、大きく溜め息をしてから目を開けた。
「自殺……ということだな?」
「……ああ、それが警察の結論だ。名刺の裏に書いてある言葉は、警察としては遺書のようなものとみている。これは辞世の句である、とな」
「辞世の句……確かにな。これは美咲が書いたものに間違いない」
そう言いながら加藤は岩崎に資料を返す。
名刺の裏……コピーなので血に染まった部分は黒ずんでいる。
かなうなら
なくせみとして
こときれん
14歳で死を選んだ加藤美咲の辞世の句が、黒に塗れていた。
「まだ伝えておかなきゃならないことがある」
「……なんだ?」
「逮捕した中西は今日か明日には釈放になる。……結果は大きいが、過失が小さいんだ。了解してくれ」
「……ああ、そうか、そうなるのか。……分かった。了解した」
「あと、これからもこの事故の警察の窓口は俺だ」
「分かった。よろしく頼む。……じゃあ早速で悪いが、ひとつ頼まれてくれないか」
「ああ、言ってくれ」
「その釈放になる中西……いや、中西さんか……には、俺の気持ちの整理がつくまで、できれば会いたくないんだが……可能か?」
「……そうだな。分かった。そのように伝える。なあ加藤、聞いてもいいか?」
「ああ」
「美咲ちゃんが……その……」
「自殺するような心当たりがあるかってことか?」
「……ああ、そうだ」
「正直言ってさっぱり分からん。美咲は前の晩も俺と一緒にテレビを観たし、事故の日も朝、俺に弁当を持たせてくれたんだ。同窓会に行く前、荷物を置きに家に寄ったときも家に居た。飲み過ぎないでね、と言ってくれたんだぞ」
「そうか……」
加藤は再び車道に目を落とし、思案にふける。
岩崎はただ見守るほかなかった。
睡眠が短いことは日常なので眠くはない。むしろ友人を襲った悲劇のせいで神経は研ぎ澄まされていた。
交通課長の報告を一言も漏らすまいと、目を閉じて聴覚だけを働かせる。
「……ですので、現行犯逮捕した中西については、一両日中、引き伸ばしても明日の夜には釈放になります。……以上です」
釈放……。致し方ないだろう。勾留を請求したところで検察か裁判所、どちらかの段階で却下されることは明白だ。
報告を受けて署長が口を開く。
「……まあそうなるな。……となると、最大の問題は遺族対応だ。それはどうなっている?」
「はい……。遺族は死者の同居の父、加藤仁さんですが、事故の状況などはまだ一切説明しておりません」
署長の表情が険しさを増す。
「……どういうことだ? むこうからは何も聞いてきていないのか?」
「加藤さん本人から当直に連絡がありました……未明に。ですが警察からの説明は今日の昼過ぎまで待ってもらっています」
「状況を説明していないなら、加藤さんは一人娘を轢き殺されたという認識でいるということだ。それを待ってもらっているのか」
「はい。状況が状況なだけに、こちらも説明に準備が要ります」
「……確かにな。しかし黙って待てるものなのか? ……信じられんな。……まあ仕方がない。それで、誰に担当させる?」
「はい……。通常どおり、現場の見分をした島村係長に任せようと思います」
「島村さんか……。確かにベテランだが相手が相手だけにな……。事故そのものは単純なんだ。交通課長、あんた自ら担当しろ」
「それも考えました。ですが、この加藤さんには、肩書きを用意するよりも年長者を充てるほうが上手くいくのではないかと思います」
交通課長は明らかに及び腰だ。
はなから加藤の肩書きに負けている。
「場合によっては俺が出て行っても構わんが、最初から署長が顔を出すのも不自然だろう。かえって疑念を抱かれる。……警備課長は加藤さんと面識はないのか?」
「あります。……3回ほど。落ち着いた良識ある人物です。ですが先方は私のことなど憶えていないかもしれません」
「そうか……そうだろうな。じゃあ、やっぱり島村さんに任せるのが自然か。その結果次第ですぐに副署長か俺が対応しよう」
結論が出されつつある中で岩崎は考える。
……事故担当の係長は確かにこれまで数多くの遺族対応を忍耐強くこなしてきたベテランで、実績も信頼もある物腰の柔らかい人だ。
これ以上の適任者はいないように思われる。しかし、それは通常の交通事故の場合だ。
署長の心配は、この事故が通常の事故ではないことにある……。
それにしても、この場にいる全員が加藤という人物を肩書きで捉えている。
加藤は確かに優秀で相応の地位にあるが、特別な人間ではないのだ。
業を煮やした岩崎は肚を決めた。
「署長」
「なんだ岩崎」
「この件、私に担当させてください」
「……岩崎、今は冗談を言う時ではない」
「解っています。冗談ではありません」
「俺には、お前に最も向かない類いの仕事のように思えるぞ」
「私もそう思います」
「じゃあ、どういうことだ?」
「確認しますが、懸念されるのは、最初の説明に失敗して、やり場のない怒りの矛先が署の対応に向けられることですよね」
「簡単に言えば……そうだ。署に落ち度はないが、たやすく納得してもらえるとも思えない」
「私なら……少なくともこの場にいる誰よりも、加藤の心情に添うことができます」
「どういう意味だ」
「あいつ……加藤は、中学の同級生です」
「……付き合いがあるのか?」
「ほとんどありません。ですが、信用はある……と思います」
「そうか……」
署長は思案する。そこに、助かりたい一心の交通課長が追い打ちをする。
「署長、私も岩崎課長に任せるのが最良と思います。最初の加藤さんからの連絡に対応して時間稼ぎ……いえ、昼過ぎまでの猶予をもらってくれたのも岩崎課長です」
「……そうか。岩崎、難しい仕事だぞ」
「解っています」
これで結論は出た。
「よし、最初の説明は岩崎に任せる。交通課長はすぐに全部の資料を刑事課長に」
「分かりました」
「それと、最初の説明がどう転んでもすぐに対処できるように特に少年課長と総務課長は備えを。……岩崎」
「はい」
「先方が署長を出せというならすぐに連絡しろ。一人任せにはしない」
「ありがとうございます。ですが、そんなに心配は要らないと思います。あいつは賢いから、すぐに呑み込むはずです」
「その時はしっかりと、加藤さんの心情に寄り添ってくれ。それが一番の仕事だ。よし、散会だ」
会議が散会して一時間後、岩崎は刑事課の自席で一枚の資料を睨んでいた。
昨日、加藤が居酒屋で探していたものがここにある……。
これを見せれば加藤は一瞬ですべてを悟るだろうか。
いや、さすがの加藤でもおそらく無理だ。これを見せるには前置きが要る。
岩崎は腕を組んで背もたれに身を預け、机上を睨み続ける。
そうしてその資料と問答をする。
「課長、寝るときは目を閉じてください」
軽口を言ってきたのは刑事課の若手女性、富永だった。
「……もう一度言ってみろ」
物怖じするようでは勤まらないのだが、富永はなかなか見どころがある、岩崎はそう思っている。
「失礼しました。……これ、昨日の事故ですよね。どうしてここにあるんですか?」
「俺が遺族対応の窓口になった」
「えっ」
富永は絶句した。……その反応こそが失礼だ。
「課長、まさか……くじ引きか何かで……」
「いや違う。ちゃんと検討した結果だ」
ここでようやく、富永も真剣になる。
「課長が遺族対応ということは、早くも火消しが要る状況なんですか?」
「そうじゃない。俺がたまたま遺族と知り合いだった、それだけだ」
「知り合いって……。通常、むしろ知り合いは外しますよね」
「まあな。つまりは通常じゃないってこった。今日の昼過ぎには遺族と接触しなきゃならん。で、作戦を練ってるところだ」
「課長、私でよければ一緒に考えましょうか?」
「……お前がか?」
「私はこれでも、被害者支援と遺族対応の研修を受けてるんですよ」
そういえばそうだった。富永は若いが、女性として凶悪犯罪の遺族や、性犯罪被害者の心のケアを受け持っている。
知恵を借りる価値はありそうだ。
「そうだな……。よし富永、場所を変えるぞ」
空いていた取調べ室に移動し、岩崎は富永に概要を説明した。
「これは……お父さんのショックは並大抵ではないでしょうね」
「ああ……そして、状況を呑み込んでもらったうえで、冷静な判断を求める必要がある」
「私はいつも、相手を苛立たせないことと……受けるショックの大きさを考えて、説明する事実の順番を決めるようにしてます。メモ書き程度のシナリオですね。この件も説明する順番が大事になると思います」
「ああ、そして最後にこれを見せることになる」
「……そうですね。説明には登場させますが、見てもらうのは最後にした方がいいと思います」
そう言って二人は、問題となっている資料に目を落とし、これを見せたときの加藤の反応を思い煩う。
それは加藤が居酒屋で探していた名刺、その両面を一枚にコピーしたものだった。表は加藤の肩書きと名前が
外務省 総合外交政策局 国連政策課
課長 加藤 仁
と記された、ごく普通の名刺だ。
ただ、事故現場にあったこの一枚は裏面が普通ではなかったのだ。
岩崎は、これを見て加藤の心が折れないことを祈った。
岩崎は富永との作戦会議を終えて自席に戻り、今度は時計を見つめていた。……午後0時40分。
よし、頃合いだ。一時になる前に電話して、こちらがペースを握る……。
岩崎は意を決して、席上の公用電話で加藤の携帯電話番号をダイヤルする。
「はい、加藤です」
「俺だ。……加藤、大丈夫か?」
「なんだ岩崎か、ああ、まだ大丈夫だ。今は事故の担当者からの連絡を待ってる」
「待つ時間ってのは長いもんだよな」
「今のところはそうでもない。午前中は中学校から電話があったり、葬儀屋の手配をしたり、思いのほか気が紛れた。やっと一息ついたところだ」
「……学校から電話があったのか?」
「ああ。ニュースでも大きく流れたからな。通夜と葬儀の日程が知りたかったらしい。学校がどうかしたのか?」
「いや。……で、日程は決まったのか?」
「ああ。今日の夜7時から通夜、明日の11時から葬儀だ。場所は中学校の近くにある斎場だ。で、岩崎、署の担当者からの連絡はいつ来るんだ?」
「……それなんだが、俺が担当することになった」
「なんだと? まさか東警察署ってのは、お前と電話番しかいないのか?」
「まあそう言うなよ。みんな、お前の肩書きに呑まれちまってるみたいだから俺が引き受けたんだ」
「……みんな?」
「そう、署長以下、みんなだ」
「官僚とはいえ一介の公務員だ。俺がそんなに有名なはずはないだろう」
さすがに鋭い。……だが、その辺の説明はまだできない。
「まあいいじゃねえか。友達だから俺がやるって言ったんだ」
自分で口にしながら、安っぽいと思う。
「……こういうのは、事務的にしてもらった方がむしろ気が楽だと思うんだが……」
「決まっちまったもんは仕方ないだろ。引き受けた俺の顔を潰す気か?」
「そんなつもりは、ない」
「じゃあ決まりだ。お前も早く状況を知りたいだろう。今から時間がとれるか?」
「ああ。夕方に斎場に行くまでは空いてる」
「じゃあ今から俺がお前の家に迎えに行く。家の前に着いたらまた連絡する」
「……それからどうするんだ?」
「まずは現場に案内する。説明はそれからだ」
「わかった」
「15分くらいで着く。待っててくれ」
岩崎は受話器を置いた。
……ふう、と岩崎は軽く息を吐く。まずは台本どおりだ。
それに加藤も予想していたより落ち着いていた。
岩崎は公用車のエンジンキーを手に取り、席を立った。
「まずは現場に行くぞ。説明はそこでする」
「分かった。俺もまず現場を知りたい」
マンションの前で加藤を助手席に乗せ、岩崎は車を発進させた。
現場までは五分ほどで着くだろう。
「……加藤、お前も苦労してたんだな」
「なんのことだ?」
「いや……警備課の資料では家族の欄に美咲ちゃんしか載ってなかった。奥さんとは別れたのか?」
「死別だ。5年前にな。ガンだった」
「……そうか。大変だったろうな」
「まあそれなりに……な。そのぶん美咲が割としっかり家事をしてくれていたんだが、ついに俺ひとりになっちまった」
「……そうか」
岩崎は繋ぐ言葉を探すが見つからない。
そうして一時の沈黙の後、車は事故現場である跨線橋の手前にさしかかる。
「加藤、この橋の真ん中辺りが現場だ。いっぺん通り過ぎるぞ」
「……分かった」
加藤の顔に緊張が浮かぶ。岩崎は速度を落とし、ゆっくりと車を登らせていく。
やがて左側……ガードレール越しの歩道に、いくつかの花束が見えてきた。
「もう誰かが花を置いてくれてるんだな」
「みたいだな。……加藤、登り切って下り始めたところが現場だ」
加藤は前方に集中する。やがて車は橋の最上部に達し、下りの道路が視界に入った。
そこはまだ惨劇の跡を残していた。途切れたブレーキ跡、そして大量の血を洗い流した上に撒かれた白い砂……。
加藤の表情は動きを止めている。
おそらく頭のなかで事故のイメージを描こうとしているのだろう。
車はゆっくりと橋を渡り終え、岩崎は先にあったスーパーの駐車場で車を停めると、後部座席に用意していた小さな花束、それと一つの茶封筒を手に取った。
「加藤、降りて現場を見に行くぞ」
岩崎は加藤を連れて、今度は反対側から歩道を歩いて跨線橋を登った。
しゃがんで花束を供え、目を閉じて手を合わせる。
目を開けて振り返ると、加藤が車道を凝視していた。
おそらく今、加藤の頭は情報を渇望しているだろう……。
ひとつ間を置いて、岩崎は切り出す。
「加藤、事故の説明をしていいか?」
「もちろんだ。頼む」
加藤は即答した。
「今回の事故を説明するには、トラックを運転していた中西の目線で追うのが一番解りやすい。……気分は悪いかもしれんが」
「構わんよ。それでいい」
「分かった。この橋はな、昼はそれなりの交通量だが、夜、それも10時過ぎともなると車はまばらだ。そんな中で中西は昨夜、4tトラックに満杯の荷物を積んで、さっき俺たちが車で登ったように、あっちの方向からこの橋を登り始めた」
言いながら岩崎は少し歩いて、トラックが登って来た方向に加藤の視線を促す。
「うん」
「中西は割とゆっくりとした速度で登ってきたと思われる。上り坂の頂上付近は徐行義務があるんだが、それとは関係ない。中西のトラックは、それだけ重い荷を積んでいたんだ」
「ああ……なるほどな」
「そしててっぺんまで来たとき、まず中西は、歩道に一台の自転車が停められているのに気が付く」
「…………。」
加藤が沈黙する。岩崎は注意深く言葉を選んで続ける。
「時間は深夜に近い。……加藤、上り坂から下り坂に転じるとき、車のライトは後輪が登り切ってようやく地面を照らすんだ。つまり一瞬、路面が見えにくくなる。それはイメージできるか?」
「ああ、解る」
「ましてや中西の車はトラックだ。下り始めてから路上を照らすまでの間が普通車よりも長い。そしてライトが前方の路面を照らしたとき、中西の目に飛び込んできたのは車道に寝そべった美咲ちゃんの姿だ」
「待て」
「中西は急ブレーキをかけ、タイヤはロックした。だが重い車体は止まりきれず、中西がブレーキを踏みしめたまま左前輪がゆっくりと、美咲ちゃんの体を乗り越えた」
「岩崎、待て」
「…………。」
「……美咲が、車道に寝そべっていた……だと?」
「……ああ、そうだ」
「美咲は自転車に乗っていて事故に遭ったんじゃないのか?」
「違う。自転車は歩道に停められていた。無傷だ」
「どういうことだ? 美咲は車道に落とし物でもして、それを取りに車道に出たってことか?」
「理由はさておき、中西の側から見た事故の状況は、俺が今言ったとおりだ。そして、事実もほぼそのとおりだというのが検証の結果だ。ブレーキの跡が途切れてたろ? そこに美咲ちゃんが横たわっていたんだ。ヘルメットをかぶってな」
「…………。」
「ここから先は、どちらかと言うと美咲ちゃんがなぜ車道に寝そべっていたか、という話になる。……車がようやく停まり、急いで降りた中西は自分が轢いてしまった美咲ちゃんを見て、パニックになりながら110番通報をした」
「110番? 119番じゃないのか?」
「ああ、中西はまず110番に通報した。その通報の中で、怪我人はどんな人かと聞かれ、ヘルメットをかぶった女の子だと答えながら、中西がふと歩道の自転車に目をやるとサドルの上に何かがあった。……加藤、お前の名刺だ」
「……なに?」
「名刺が置かれていたんだよ。名刺は血飛沫を浴びていた」
加藤が沈黙する。
岩崎が続ける。
「名刺を手に取った中西は、裏返してお前の名前があるのを見て、反射的に名刺を読み上げて直感的に言ったんだ。『この人がお父さんだと思います。すぐに連絡してください』ってな」
「裏返して……俺の名前を、見た?」
「そうだ。その名刺は、名刺としては裏返しで置かれていたんだよ」
「名刺としては……だと?」
岩崎は加藤の目を見据えて考える。台本では今がこれを見せる場面だ。
ここまでの説明に不足はなかっただろうか……。
加藤に心構えをさせることができただろうか……。
しばし互いの目を見ながら、思いが交錯する。
やがて岩崎は、迷いながらも封筒から資料を取り出して加藤に手渡す。
「……これが、その名刺のコピーだ」
受け取った加藤の目が見開かれる。しかしそれは一瞬のことで、すぐに加藤はきつく目を閉じた。眉間に深い縦が浮かぶ。
岩崎は加藤の心中を思い、胸を締め付けられる気持ちで加藤を見守る。そして加藤は、大きく溜め息をしてから目を開けた。
「自殺……ということだな?」
「……ああ、それが警察の結論だ。名刺の裏に書いてある言葉は、警察としては遺書のようなものとみている。これは辞世の句である、とな」
「辞世の句……確かにな。これは美咲が書いたものに間違いない」
そう言いながら加藤は岩崎に資料を返す。
名刺の裏……コピーなので血に染まった部分は黒ずんでいる。
かなうなら
なくせみとして
こときれん
14歳で死を選んだ加藤美咲の辞世の句が、黒に塗れていた。
「まだ伝えておかなきゃならないことがある」
「……なんだ?」
「逮捕した中西は今日か明日には釈放になる。……結果は大きいが、過失が小さいんだ。了解してくれ」
「……ああ、そうか、そうなるのか。……分かった。了解した」
「あと、これからもこの事故の警察の窓口は俺だ」
「分かった。よろしく頼む。……じゃあ早速で悪いが、ひとつ頼まれてくれないか」
「ああ、言ってくれ」
「その釈放になる中西……いや、中西さんか……には、俺の気持ちの整理がつくまで、できれば会いたくないんだが……可能か?」
「……そうだな。分かった。そのように伝える。なあ加藤、聞いてもいいか?」
「ああ」
「美咲ちゃんが……その……」
「自殺するような心当たりがあるかってことか?」
「……ああ、そうだ」
「正直言ってさっぱり分からん。美咲は前の晩も俺と一緒にテレビを観たし、事故の日も朝、俺に弁当を持たせてくれたんだ。同窓会に行く前、荷物を置きに家に寄ったときも家に居た。飲み過ぎないでね、と言ってくれたんだぞ」
「そうか……」
加藤は再び車道に目を落とし、思案にふける。
岩崎はただ見守るほかなかった。
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