ハイブリッド・ブレイン

青木ぬかり

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第一章 14歳の真実

2 受難

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 加藤を乗せた捜査車両は、赤い灯を周囲に撒き散らしながら、歳末で混み合う大通りをサイレンで切り裂いて中央病院へと走る。
 岩崎は居酒屋の前で運転席の刑事に何か一言告げただけで同乗しなかった。
 ハンドルを握っている刑事は岩崎の部下だろうか、一言も喋らずに硬い表情で車を駆る。
 おそらく気を遣っているのだろう。
 加藤は思いのほか静かな車中の後部座席でひとり、娘と対面したときに狼狽せぬよう、これから自分が目にする光景……それも想像が及ぶ限りの惨状を思い描いて覚悟を固めることに専心した。

 そうして5分も経たぬうち、フロントガラス越しに中央病院の白く大きな建物が見えてきた。
 近代的で充実した設備を持つ、この地域で随一の総合病院だ。
 その重厚で圧倒的な存在感を放つ建物は頼もしげで、加藤の胸中に僅かな希望を忍ばせた。
 そうして車は緊急搬送口を入り、間もなく停車した。
 刑事が加藤に「着きました、どうぞ」と告げる。

 礼を言って車を降りた加藤は、目の前にある救急外来の入口に早足で向かう。
 加藤の視線は自動ドアの奥、建物の中を見据えていた。その時、加藤を迎え撃つように一人の女性看護師が廊下を走ってくるのが見えた。
 端正な顔立ちは緊迫した表情で、凛々しいプロの顔をしている。
 看護師は自動ドアが開く時間も待てない様子で、横にある手押しのガラス扉を押し開けて飛び出した。

「お父さんですね、急いで下さい」

 そう言って看護師は、ノブを握り、扉を開いたままで加藤を急かした。

 加藤を招き入れるとすぐ

「こっちです。急ぎます」

と言って、加藤が返事をする間もなく再び走り出した。
 加藤もそのあとに続く。

 目の前で、看護師が息を切らして走っている。
 平素、廊下を走ることなどないはずの看護師がだ。
 その背中は事態の深刻さを雄弁に語っていた。
 先ほど胸に湧いた僅かな希望などは瞬く間に消え去り、加藤は必死に、無心で看護師を追いかける。
 ……硬い靴音を院内に響かせながら。

 すぐに息があがってきた加藤の脳裏に、そういえば全力で走るのはいつ以来だろうか、などと場違いな思いがよぎり、加藤は非常事態に臨んで混乱していることを自覚した。


 やがて看護師は突き当たりでようやく足を止めた。そして振り返って加藤を待つ。
 足がもつれそうになりながら追い付いた加藤は両膝に手を乗せ、荒い息のまま上目遣いで眼前の重そうな扉に目をやる。
 扉の上には「手術中」の表示が灯っていた。

「いいですか、入りますよ」

 そう言って看護師は、またもや加藤の返事を待たずに「お父さん、着きました」と言いながら勢いよく扉を開けた。


 手術室には医師と看護師合わせて10名ほどの人間がおり、その視線が一斉に加藤に注がれた。
 しかし、その視線を浴びる加藤の意識は、一瞬にして室内中央に鎮座するベッドの上に吸い寄せられて固まった。

  美咲……。

 ベッドの上に横たわる美咲は、小さな乳房をあらわにし、胸から下は白い布で覆われていた。
 蒼白な顔面は、一見すると無傷である。
 しかし、状況が絶望的であることは即座に理解できた。
 下半身を覆う白い布は、美咲の細い体から流れ出ている鮮血に染まり、今もなお、その赤の領域を増している。
 そのうえ布に覆われた部分は、明らかに人の体としての厚さを欠いていた。
 ……美咲が死んだ。加藤がそう理解しようとしたとき、白衣と手袋を赤く濡らした医師の一人が加藤に言った。

「お父さん、呼びかけてあげてください」

 ……なんだと。
 まさか美咲は生きているのか、この状態で……。
 それとも娘の亡骸にすがって泣く親を演じろというのか、この医師は。
 加藤は睨むように医師を見つめ返した。
 しかし加藤の視線に臆することなく、医師は

「お嬢さんに声をかけてください。早く」

と、もう一度加藤を促した。
 加藤は医師の真意を量りきれぬまま、美咲が横たわるベッドの側に立ち、美咲の顔を見下ろしながら

「美咲、俺だ。起きろ」

と呼び掛けた。
 ……やはり何の反応もない……と思ったとき、加藤の視界の端で、血糊に塗れて力なく垂れていた美咲の右腕、その指の先が僅かに動いた。
 ……まだ生きている。
 加藤は反射的に美咲の右手を両手ですくい上げ、力を込めてもう一度呼び掛ける。

「起きろ美咲、おい起きるんだ」

 すると、すでに血色が失せている美咲の顔、その睫毛が細かく震え、ゆっくりとまぶたが開かれた。
 視線は天井に向けられ、焦点は定まらない。

「美咲、俺だ、分かるか。お父さんだ」

声に反応して美咲の瞳が右に流れ、流し目で加藤を捉えた。

「……美咲、よく頑張った。俺が来たからもう大丈夫だ、安心しろ。なにも心配いらないぞ」

 そうして父親と娘はしばし見つめ合い、瞳で最期の言葉を交わす。

「よく頑張った。……お前は俺の宝だ……美咲」

 やがて、泣き笑いの父の姿を瞳に焼き付けたまま娘のまぶたがゆっくりと降りていく。
 そうして瞳が閉じられたとき、溢れた涙が一筋、娘の頬を伝い、娘の口元が満足そうな微笑みを浮かべた。

「……美咲? ……おい………美咲」

 父の呼びかけに娘が再び応じることはなく、握りしめていた娘の手から命の気配が抜け落ちたのを感じ、父親は娘の手を離した。


 呆然と立ち尽くす加藤の肩に、手袋を外した医師の手が優しく置かれた。

「お父さん、ありがとうございました。……よく間に合ってくださいました」

 医師も泣いていた。
 加藤よりも若く見えるが、職業として多くの人の死に立ち会ってきたであろう大病院の医師が、溢れるままに涙を流していた。
 そして、医師は泣きながら職務を遂行する。
 美咲の頬に一回手をあててから、胸のポケットからペンライトを抜き、閉じられた美咲のまぶたを開いて照らし、のぞきこむ。

「午後10時52分、ご臨終です」

 医師のその宣告を合図に、手術室内にいた人間が水色のキャップを脱ぎ手袋を外し、美咲に黙礼してから一人、また一人と手術室を出ていく。
 気が付けば加藤のほかは男性医師二名だけとなった。
 医師は何も言わない。

 ……これは……配慮だ。ここで遠慮なく泣き崩れていいですよ、という配慮なのだ。
 加藤がその心遣いを甘受して、まさに膝を折ろうとしたその時

     ウィーン  ウィーン

と、胸ポケットに納められた加藤の携帯電話が着信を告げた。
 まるで美咲が転生したかのようなタイミングに、加藤はもとより、その場にいた二人の医師も一瞬、硬直した。
 この最悪のタイミングで電話をしてきた間の悪い奴は一体誰だ。
 ……まあ誰であろうと一生忘れまい、などと考えながら携帯電話の画面を見た加藤は、戦慄で背筋が凍った。

   #BNB/931+zdy4

 ……なんだこれは。電話番号なのか? ……非通知ではない。

 しかし、加藤の常識はこのような電話番号の存在を認めていないし、そのような電話番号から、今この特殊な時に電話がかかるということが美咲の死と無関係とは思えない。
 まさか天国からの電話ではあるまいが。……出るべきか。
 逡巡し、少年のような勇気を振り絞って、加藤は電話に出た。

「……はい、加藤です」

 電話の相手は釈迦でも閻魔でもなく、加藤もよく知る世界的IT企業の日本法人からだった。
 東京本社の専務取締役の村田と名乗った。
 なるほど今の時代のIT企業ならば、この妙な電話番号もあり得そうな気がした。
 しかし、インターネット屋が何の用だ。
 訝しがる加藤に、村田という男が用件を告げる。

(美咲ちゃんと、もう一度話したいと思いませんか?)

 なんだ、たちの悪い悪戯か。美咲はたった今死んだのだ……この目の前で。

「何の嫌がらせだ。ただじゃ済まんさんぞ」

(いえ、嫌がらせでも冗談でもありません)

「美咲は死んだ。いましがた……な」

(はい、ですから申し上げています。もう一度、美咲ちゃんと話したくはありませんか)

「あんたが生き返らせてくれるっていうのか」

(厳密に言うと、違います。もう一度話ができる可能性を残すという意味です)

「あんたは何を言ってるんだ?」

(今は詳しく説明してる時間がありません。急ぐんです。どうしますか)

 やはり悪戯の類いだ、とは思ったが、断るには気分が悪い問いだ。

「できることがあるなら何でもやってくれ。で、何をしてくれるんだ?」

(詳しいことは落ち着いたころに、こちらからご連絡します。加藤さんは、うちの医療チームが持ってきた書類に署名をお願いします。時間がありません。早速ですが、今、まだ手術室ですか?)

「ああ、そうだ」

(では、そこにいる医師に替わってください)

 加藤は言われるまま、美咲を看取った医師に携帯電話を差し出す。

「替われと言われました」

 医師も怪訝な顔で電話を受け取る。

「替わりました。はい……ええ、そうです。……ありません、はい。……え? ええ、それは……はい、わかりました」

 医師の顔が真剣になった。
 医師は電話を切って加藤に返すと、加藤が何か言うよりも早く、もう一人の医師に「心マ再開」と告げた。

 言われた方の若い医師が聞き返すと、医師は「心マ再開だ。さっさと始めろ」と一喝してから加藤に

「美咲ちゃんの血液型はA型で間違いありませんね?」

と確認してから壁の内線電話を取り

「三オペだ、放送して三オペに人間を戻せ。あとA血、それから……酸素だ。急げ」

と早口でまくし立てた。

 ベッドでは、一喝された医師が美咲の遺体に心臓マッサージを始めている。

 ……なんだ? いったい何が始まったというのだ?
 事態が飲み込めずにいる加藤に、内線電話を終えた医師が言う。

「お父さんは、ひとまず退室願います」

「先生、あの……いったい何が」

「私からは申し上げられません。ロビーでお待ち下さい」

 柔らかだが有無を言わさぬ口調、そして真剣な顔だ。
 美咲のために涙を見せたこの医師に言われては、さすがの加藤も素直に従うほかなかった。
 加藤は手術室を出て、病院の入口近くにあるロビーへ向かう。
 その途中で、先刻まで手術室にいた他の医師、看護師らが慌ただしく手術室の方へ戻っていくのとすれ違ったが、事態を尋ねる雰囲気ではなかった。


 ロビーで柔らかなソファを見つけ、加藤は深く身を沈める。
 ……美咲が死んだ。
 妙な電話で妙なことを言われて邪魔をされたが、冷静に考えて美咲は死んだのだ……この目の前で。
 東署から受けた電話では、美咲はトラックに轢かれたとのことだったが、轢かれたと思われる下半身は布に覆われていたものの、まさに「轢かれた」としか表しようがないほどに薄かった。
 そこに体があるとは思えないほどに、だ。
 腹部から下はおそらく手の施しようがなかったのではないか。
 とすれば、美咲が息を引き取る前に加藤が病院に着くことができたのは、岩崎のお陰に他ならない。
 岩崎のお陰で美咲は最期に父親に見守られて逝くことができたのだ。
 微笑みを浮かべながら……。

 岩崎に大きな借りができた。
 加藤はそんなことを考えた。


 加藤が虚空を見つめ、目に焼き付いた美咲の死に顔で頭中を満たしていると、緊急車両が近付いてくる音が聞こえてきた。
 そしてその車両は加藤がいる中央病院の救急外来の入口で停車した。

 また急患か……。人の生活における非日常が夜の病院の日常なのだ。
 自動ドアが開き、ガラガラと台車を鳴らしながら5~6人の一団が入ってきた。
 他人事とはいえ気になった加藤がそちらに目をやると、台車は人を乗せたものではなく何かの機材が積まれたもので、入ってきた男の一人は加藤の姿を認めると、他の者を先に行かせて加藤の方に近付いてきた。
 ……なんだ? これがさっき妙な電話をしてきたインターネット屋、村田といったか……がほざいてた「医療チーム」なのか?

「加藤仁さん、ですね。村田からの連絡にあったと思いますが、ここに署名をお願いします」

 男はそう言って、A4サイズのクリップボードに留められた一枚の書類を差し出した。

「何の書類か知らないが、あいにく手遅れだ」

「詳しいことは追って村田が説明しますので、署名をお願いします」

 男が食い下がるので加藤が書類を一瞥すると、細かい文字がびっしり詰まっており、辛うじて何か同意書の類いであるらしいことが分かった。

「これを読んで、確認してから署名しろってのか。たった今、一人娘を失ったんだぞ俺は」

「ですから内容まで目を通していただかなくて構いません。署名をお願いします」

「……信用しろってのか」

「そう申し上げるほかありません。時間がないんです」

 書類の内容をあらためる猶予はないらしい。
 ならば……人だ。人間で判断するしかない。俺に署名を請うこの男、この人間は信じていいのか? と、加藤は改めてこの正悪定かでない男を見据える。
 すると男は加藤の視線を真正面から受け止め

「お願いします。加藤さん」

と繰り返した。
 少なくともこの男に邪な気配はない。……あとは、不利益の有無を確かめなければならないか。

「確認するが、娘の遺体をそっくり拐っていくという話ではないんだな?」

「はい、違います」

「……分かった」

 加藤はペンを受け取り、署名欄に名前を書く。
 書類を男に返しながら、加藤は言う。

「おたくらも名の通った組織だ。どのみちさっきの電話で〝契約〟は成立しちまってるんだろう。この紙切れは仕事をスムーズに進めるためと、後の紛議への備えに過ぎない。違うか?」

 書類を受け取りながら男が応える。

「ご高察恐れ入ります。……はい、確かに頂きました。では全力を尽くします」

「全力を尽くす……だと?」

「はい、もちろんです」

「……まあいい、なんだか知らんが頑張ってくれ」

「はい、それでは失礼します」

 加藤は、手術室へと駆けていく男の背中を見送った。
 ……あの男も使命を帯びて動いている。
 決して敵ではないのだ、おそらくは。


 再び静かになったロビーで、加藤にようやく喪失感が訪れてきた。
 それは例えていうなら暗黒であり、気を抜けば思考の全てを黒く塗りつぶし、加藤を絶望にいざなおうとするものだった。
 加藤は徐々に胸が苦しくなり、呼吸が浅く、そして早くなってきた。
 ……このままではいけない、何か……逃避でもいい、何かをしていなければ思考を失う。
 そうだ、とりあえずなにか飲み物を……。
 加藤は救いを求めるように立ち上がり、よろけながら清涼飲料水の自動販売機に向かう。
 小刻みに震える手で、なんとか正気を保ちながら温かい缶コーヒーを買い一口すすると、わずかに呼吸が楽になった。
 加藤はそのまま一旦自動ドアを出て、外の空気を吸う。
 師走の深夜、空は凍りつくような星空で、肌を刺すような風が加藤に鮮明な思考を取り戻した。
 そしてその場で煙草に火をつけ、紫煙とともに頭の中の暗黒を吐き出すと、加藤はようやく人心地が付いた。


 回り始めた加藤の頭はすぐに、情報に飢えていることに思い至る。
 ……そうだ、美咲は事故に遭ったのだ。何処で、どのような事故に遭ったのか。
 そして……誰が美咲を殺したのか。

 岩崎に電話をするべきか、あるいは東警察署か。
 ……いや、まずはニュースだ。重大事故なのだから、必ずニュースで流れるはずだ。
 加藤は院内に戻りロビーを見渡してテレビを探した。
 しかし、テレビは見つかったものの、壁の高い位置に取り付けられており、電源スイッチには手が届かない。
 リモコンはおそらく病院が管理しているのだろう。
 テレビを諦めた加藤は、ソファ座り自分の携帯電話で検索する。

 ……あった、これだ。

〝12月17日午後10時20分ころ、船川市内の県道で、中学二年生の女の子が4tトラックに撥ねられて死亡した。事故があった場所は線路を跨ぐ跨線橋の最上部分で、亡くなったのは市内の中学校に通う加藤美咲ちゃん(一四歳)。この事故で警察は、トラックを運転していた会社員の中西正一容疑者(三四歳)を過失運転致死の疑いで現行犯逮捕し、事故の詳しい状況を調べている。亡くなった美咲ちゃんは全身を強く打ち、ほぼ即死であったとみられ、搬送先の病院で死亡を確認した〟

 ……即死だと? 美咲は俺が病院に着くまで生きていたのだ、断じて即死ではない。
 いい加減な報道をしやがって、と加藤は一瞬苛立ちを覚えたが、すぐに冷静になり、そして考え始めた。
 事故があったのが午後10時20分ころ、そして美咲の臨終が告げられたのが午後10時52分……。約30分間だ。
 即死という文字は、事故の現場で絶命した状況を連想させるが、当事者感情を排すれば、この30分間という時間は即死の範囲内なのかもしれない。
 致命傷を負っても、実際に死亡するまでにはそれなりの時間がある場合の方が多いと思われる。
 つまりこの記事が物語っているのは、現場の時点で既に手の施しようがないことが明らかで、救急車で病院に運んだものの、予想どおり間もなく死亡が確認された、ということだ。

 俺は、美咲が息を引き取る5分前には病院に着いていた。だから5分引いて約25分……。

 加藤は順を追って考える。……午後10時20分に凄惨な事故がおき、突然の出来事に平常心を奪われた者から通報がなされ、通報を受けた警察や消防が事故の現場に向かい、現場に着き、動かない美咲を救急車に乗せ、病院へ向かう……そして病院に着く。
 加藤が手術室に入った時には既になすべき処置を終えていたのだから、さらに5分引いて約20分……。

 事故の発生から約20分で美咲は病院に着いたのだ。そして、その濃密な20分間に東署は、加藤へ連絡するという配意を挟んだ。

 ……東署にはよほど気が利いた人間がいるのか、いや、そもそもどうやって美咲の身元が判明し、手際よく加藤の連絡先にたどり着いたのか。

 ……まだ情報が足りない。記事では事故現場である跨線橋の場所も分からないのだ。
 そして、嫌でも向き合わなければならないのが、美咲を轢いた男への感情の持ちようだ。

 34歳のトラック運転手、中西正一という男が美咲の命を奪ったのだ。
 この男は警察署で何を語っているのか。……知りたい、知らなければならない。
 そして、どんな状況であったとしても、罪のない美咲に無惨な死をもたらしたこの中西という男に報いを受けさせなければならない。
 病院から解放されたらタクシーで東警察署に乗り込もうか。いや、まずは電話をするべきか。
 加藤は時計を見る。
 時刻は午前一時になろうとしていた。


 加藤が悶々と考えているところに、美咲を看取ってくれた医師が優しい顔をしてやってきた。加藤の隣に腰掛ける。

「加藤さん、大丈夫ですか?」

「……分かりません。どうなんでしょう」

「美咲ちゃんは、きっと最期にお父さんの顔を見て安心できたと思います」

「それも分かりません。もう、確かめることもできませんし」

「私も数え切れないほどの臨終に立ち会ってきましたが、あれ程の交通事故で、息を引き取る前に御家族が間に合ったケースはあまり記憶にありません。きっと美咲ちゃんはお父さんを待っていたんだと思いますよ」

「……ありがとうございます」

「お辛いでしょうが、どうか心を折らないでください」

「これを……辛い、というんですかね。まだ実感が付いてこないです。これから、ですかね。辛くなるのは」

「そうですか。……加藤さん」

 それまで床に目を落として話していた医師が、加藤に向き直る。

「なんでしょう」

「加藤さんが仰るとおり、これからが辛いかもしれません。……いえ、必ず辛いと思います。ですが、美咲ちゃんの最期は微笑んでいたことだけは、どうか忘れないでください」

「そうですね……分かりました」

 この医師はどこまでも誠実だ。加藤は心からそう思った。


「それで先生、私はこれからどうすればいいんでしょう? ……あ、その、手続きとしては」

「美咲ちゃんの御遺体は、ひとまずこの病院に安置します。ですので葬儀社が決まりましたら御連絡ください。それまでに死亡診断書を作っておきます」

「……そういえば、死因は何になるんですか?」

「乏血による心不全、いわゆる失血性ショック死です」

「分かりました。じゃあ……私は、ひとまず帰って構わないということですか」

「はい、そうなります」

「そうですか……。じゃあ、もう少し休んだら帰ります」

「わかりました。……加藤さん」

「はい」

「あ……いえ、気を付けて帰ってください」

「ありがとうございます。本当にお世話になりました」

「いえ、では失礼します」

 医師は再び手術室がある方へ戻っていった。

 ……さて、これからどうするべきか。こういった場合、警察から何か連絡があってもよさそうなものだが、そうでもないのか。

 こちらから連絡するのもなんだか不自然な気もするが……。いずれにしても美咲を轢いた中西とかいう男の言い分は聞かねば気が済まない。
 加藤は東警察署に電話をすることに決め、携帯電話の着信履歴をたどる。
 そのとき、例のインターネット屋の奇妙な電話番号が目に止まった。

 ……そういえば、この話はどうなるんだ? 結局、美咲は生き返ることなどなく、医師も何も言わなかった。やはり無駄だったのだろう。
 しかし気味が悪いので、確認するために加藤はその奇怪な電話番号に電話をかける。しかし加藤の携帯電話は即座に、その電話番号が現在使われていないことを告げた。

  ……なんだったのだ。いったい。

 加藤は気を取り直して東警察署に電話をかけた。


「はい、東警察署です」

「あの、加藤といいます。……事故で死んだ加藤美咲の父です」

「あ、はいっ。失礼しました。お繋ぎします」

 電話口に保留のメロディが流れる。
 なんだ? 今のやりとりのどこに失礼があったんだ?
 ただ、電話に出た人間が相当に面食らったのだということだけは理解できた。
 そしてすぐに電話が繋がれた。

「……加藤、大変なことになったな。大丈夫か?」

 今度は加藤が面食らった。
 まさか岩崎に繋がれるとは思わなかった。

「……なんだ? お前は刑事課長じゃなかったのか?」

「ああ、いや、そうなんだが……。とりあえず署に出てきた」

「まあいい、手間が省けた。岩崎、お前のお陰で美咲の死に際に間に合った。ありがとう」

「ん、そうか……」

「で、こういった事故のとき、遺族はどうしたらいいんだ?」

「いや……すまない。普通なら担当の交通課員がすぐに連絡して、病院に向かったり事故の状況を説明したりするんだ」

「つまり……普通じゃないんだな?」

「あ、いや……普通じゃないというか、なんというのか」

「お前、ほんとに岩崎か? 歯切れが悪いぞ」

「それだ」

「なに?」

「歯切れが悪いんだよ、今回の事故は。まだよく分かんねえんだ」

「中西とかいう男が美咲を轢いた、それで警察が逮捕した。何が分からないんだ?」

「……事故の状況、がだ」

「解せんな。まあいい、今からその中西に会わせろ」

「それはできない」

「何故だ」

「逮捕した警察の身柄だからだ。それに、会ってどうする」

「知れたことだ。直接話を聞く」

「聞いて、それからどうするんだ」

「まあ……ただではおかないだろうな」

「そうだ、それが遺族として当然の感情だ。だからこそ、今は直接会わせるわけにはいかない。……なあ加藤、お前の怒りはもっともだ。だが、俺に免じて、もうしばらく……担当者から連絡が来るのを待ってくれ」

「……お前がそう言うのなら、待とう。いつまで待てばいい?」

「今が2時過ぎだから……そうだな、昼過ぎには、なにかしらの連絡をさせる」

「わかった、家で待つ。俺も少々疲れた」

「そうか、助かる。……加藤、必ず連絡する。だから、その……」

「心配するな。早まった行動はしない」

「ああ、頼む」

「連絡を待つ。じゃあな」

 加藤は電話を切った。

 そして、一大事の最中に生じた、ただ連絡を待つという永い時間をどうやってやり過ごせばいいのか、と途方に暮れた。
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