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第一幕
鮮血の魔城 Chapter.8
しおりを挟む「なんだ、食べてないのか?」
自室へと戻ったカリナは、卓上の配膳を見て拍子抜けした。
レマリアの食事である。
柔らかなロールパンに、温かなコーンスープとホットミルク……チキンやマリネ、ホールトマトも添えてある。決して贅沢な品々ではないし、吸血鬼には食欲をそそる物でもない。
それでも、闇暦の人間にとっては御馳走だ。
にも関わらず、それが手つかずのまま置いてある。
行儀良く椅子へと座るレマリアは、顔を俯かせているだけだった。カリナの訊いには答えようともしない。微かに覗ける表情は、ふてているようにも映った。
ふと子守役へと目を遣る。
暖炉前のロッキングチェアに揺られるサリーは、うたた寝でもしているかのように緩やかだった。
しかしながら編み物を為す鉤針は、緩々と定期的な交差を刻んでいる。寝てはいない。
「おい、サリー」
「はいはい、なんでございましょう? カリナ様?」
カリナに呼ばれ、穏和な笑みが返された。
「ずっとこうなのか?」
「左様でございますな。カリナ様が城内散策へと赴かれてから、暫くして暇潰しの編み物を始めたのですが……どうにも下手の横好きというものでして」
「そうではない」
思わず苛立ち気味の困惑が涌いた。
まるで主旨違いな返答である。
それを噛み殺して、カリナは明言化する。
「私が訊ねているのは、レマリアの事だ」
「はて、レマリア──様?」老婆は記憶を探るように思索すると、やがて納得気に答えた。「ええ、ええ、左様でございますな。レマリア様に至りましては、カリナ様が出て行かれてから、ずっと斯様な御様子で……実におとなしいものでしたとも」
「食が進んでいないようだが?」
カリナの視線に促され、卓上の膳盆を見遣る。
「あれま? 左様で」柔らかな細目が、穏やかな驚きに剥き開いた。「いやはや気付きませんで、面目次第もございません。何せレマリア様は、おとなしゅうて、おとなしゅうて」
「おとなしい……か」
確かにレマリアは人見知りが強い。マセた勝ち気を見せるのは、カリナに対してだけ──いや、天敵のゲテへ対しても……か。
しかし、その二人に対してだけだ。
それ以外には心を閉ざす態度が顕著であった。
だから、おそらくサリーと二人きりの環境下では、ずっと緊張していたに違いない。借りてきた猫のように萎縮した光景が、容易に想像できた。
けれども、それが食欲減退の原因とも思えない。
基本、レマリアは食と睡眠に関しては素直に準じる。腹が減れば食べるし、眠くなれば寝る。まかり通らないと駄々をこねる。子供故の無遠慮さだ。
一方で、サリーに何らかの非──例えば豹変した恫喝等が、あるとも思えなかった。
初対面時ならともかく、現在では信頼を抱いている。彼女の転生背景を知ったからだ。故にサリーは女子供を絶対に襲わない。そればかりか、子供に対して人一倍強い母性を持ち合わせている。その事も確信していた。
(そうなると……皆目見当もつかんな)
カリナは隠す心配に歩み寄り、レマリアの不機嫌そうな顔を覗き込んだ。
「食欲が無いのか?」
諭し解すような口調で訊う。
女児は首を強く振った。
「メニューか? 好きじゃないのか?」
これにも首を振る。
「じゃあ、どこか具合でも悪いのか?」
首を振る。
無言の否定が累積するほど、見通しのつかない懸念が強まった。
表情にこそ露呈させていないが、カリナの胸中には心配が募っていく。
病気の類となれば医者が必要となる。
だが、この闇暦では医者は貴重な人材だ。
金の問題ではない。
根本的に生存数の問題である。
当てにならない薮医者やペテン師こそ横行しているが、確固たる医学知識精通者は稀なのだ。
「理由を話してみろ? 黙っていては判らんぞ?」
「……だって、いないのだもん」
「ん?」
「おはよしたら、カリナいないのだもん」
「ああ、城内を散策がてらに偵察していた」
「でも、いないのだもん」
「私達の──いや、オマエの安全を守るには、この城の主要人材を見極める必要があるからな。ま、敵情視察と言ったところさ」
「いないのだもん!」
「………………」
「………………」
「……もしかして、それが理由か?」
やや呆れた気持ちで確認すると、レマリアはコクリと頷いた。その面持ちは心無しか、いまにも泣きそうな印象すらある。
蓋を開けてみれば、実に些細な理由であった。
要するに一人きりで置かれた事が不服だったらしい。
しかしながら、レマリアが寂しさと不安に怯えていたのは、紛れもない事実だ。訴える幼女の顔は、堪えていた感情を懸命に押し殺していたのだから。
「悪かったよ」軽い謝罪に頭を撫でてやり、カリナは隣へと相席した。「これからは一緒にいてやる。それでいいだろう?」
レマリアの大きな瞳が、恨めしさと疑わしさに見つめ返す。
「やくそく?」
「ああ、約束だ」
「ホント?」
「ああ、本当だ」
「ホントのホント?」
「……案外しつこいな? 本当に本当だ」
呆れた投げやりにカリナが宣誓すると、すかさずレマリアが小指を立てて差し出した。
「ゆうきいよ?」
「……指切りな」
ふっくらと小さな指に、しなやかな指を絡ませる。
幼稚で信頼性皆無な宣誓儀式だ──と、カリナは思う。
が、この宣誓儀式は何よりも誠実で尊いものだ。
そう、神への信仰や、悪魔との契約以上に……。
とりあえずの確約に満足したのか、レマリアは一転して破顔一笑を彩った。
同時に、その笑顔を見ると、カリナの心中にも安らいだ癒しが芽生える。
「さあ、食べるがいい」
「うん!」
よほどお腹も空いていたのか、レマリアは堰を切ったように食べ始めた。品行方正さなど御構いなしにがっつく様は、上辺を気取った輩には下品と映るだろう。
だが、カリナには愛しい。
それは逞しく生きている証であり、紡がれる生命力の存在感なのだから。
ひたすら頬張る女児を、母性に満ちた眼差しが頬杖に眺める。
頬に付いた食べ滓を取ってやると、自身も柘榴を嗜んで付き合った。
守るから癒される──癒されるために守る──究極のギブ&テイクだと、カリナは思っている。
これに比べれば吸血鬼達の〈血液嗜好症〉など、永遠に満たされぬまやかしでしかないのだ。
心満たされる術を自覚している自分は、なんと恵まれているのだろうか。
質素な卓上が、堅実な家庭へと変わる。
と、レマリアが不意に頓狂な声を上げた。
「あ!」
「どうした?」
幼女は困惑した顔を向ける。
「いたらきます、してないのよ」
暫し、絶句の末……カリナは吹き笑った。
そんな慎ましい幸福を、老婆は優しく見守っていた。
かつての自分と娘を重ね見るように……。
ゆらゆらと揺れるチェアは、まるで過去と現在を時間の波に繋げているようであった。
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