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第一幕
鮮血の魔城 Chapter.1
しおりを挟むテムズ川沿いに格調高い貫禄を誇示する城塞〝ロンドン塔〟は、旧暦時代からイギリスの自尊的象徴だ。呼称上では〝塔〟とするものの、れっきとした〝城〟である。旧暦中世に於いて、戦争の要たる拠点は〝塔〟とも称されていたのが由縁だ。
イギリス王朝の栄華に刻まれた城の威風は、旧暦までロンドン市民の誇りでもあった。
だが同時に、血塗られた歴史に染められた霊城としても名高い。私欲と策謀が横行した旧暦中世のイギリス王朝に於いては、理不尽な死を課せられた者達の往生舞台と化していた経歴を持つからだ。
殊にエリザベス一世の母であるテューダー朝第二王妃〝アン・ブーリン〟は、その最たる例と言えるだろう。不貞の濡れ衣を着せられた彼女は、無情にも斬首刑に処せられたのだ。然れど、事の真相と噂されているのは、夫〝ヘンリー八世〟の悪癖たる情事萌芽の姦計だ。非業なる死罰を課せられた彼女の無念は、相当に根深かったに違いない。成仏できぬままに夜毎〈亡霊〉となり、後世まで城内を彷徨い続ける事となる──旧暦では有名な怪談話だ。
これは数多い逸話の一例に過ぎない。
だからと言っては不謹慎だが、兎にも角にもロンドン塔は、格調高い建築美と裏腹に絶えぬ不吉を孕む魔城ではあるのだ。
なればこそ、まさに〝吸血鬼の塒〟には相応しい。
白亜造りの城郭に、天を刺す角塔群──それらは荘厳な外観ながらも、堅固に囲う城壁は武骨で重々しい印象にあった。そもそも城壁部は古代ローマの実戦的な遺物であり、城郭は後世に建てられた増築だ。渾然一体とした反要素は無理からぬ事だろう。
闇暦現在に於いて、美と力の混在した城影は悪魔的風格にも映った。不吉に聳える威圧感は、領民に根深い畏怖を植え付けて止まない。
逆さ十字の意匠をあしらった赤木地の旗が、主要箇所で無数にはためく。赤は〝血〟を表し、逆さ十字は〝神への反逆〟を意味する。彼等〈不死十字軍〉のシンボルだ。
上空を舞う怪鳥の群は、かつて〝平和の象徴〟として城内飼育されていた鴉達の変異体。
正面道路を挟むと幅広いテムズ川の流れが在り、外濠の排水が地盤下で合流していた。そこから赤黒い廃血が濁々と垂れ流され、黒く淀む水面へと溶け混じる。噎せぶような鉄分臭と吐気を誘う汚泥臭が、例え難い新手の異臭を生んでいた。
次々と城門を潜り入る豪奢な馬車群。
殆どの馬車に御者の姿は無く、半透明に透ける霊馬が座席台車を黙々と牽引していた。まるで無人の意思に誘導されているかのように……。時折、珍しくも御者が手綱引く馬車もあったが、そういう場合は異様で醜怪な容姿の御者であった。
一度城門を潜ると、鮮やかな城内庭園が広がる。そこは綺麗に手入れされており、外界の荒廃とは無縁な別世界を演出していた。しかし同時に、闇の賜物としか映らぬ破滅的な華美を含んでいるのも事実だ。とりわけ艶やかな薔薇の赤は、彼等の象徴である〝血〟を想起させる。
次々と集う来賓勢は、無論〈吸血鬼〉だ。古今東西の吸血鬼から成る闇暦勢力〈不死十字軍〉の面子である。明後日に控えた定例召集会議へ参加するために、遙々遠方から来訪する者も多い。
それらを正面入口で出迎えるのは、痩せ型の中年騎士であった。鋭くも陰湿な印象の男で、頬が痩けた細面には病的な神経質を伺わせる。ギラつく眼光と細い口髭が相俟って、彼の攻撃的な性分を物語っていた。
一台……また一台と馬車が止まる度に、衛兵が来賓の名を読み上げる。その都度、この男は友好的な笑顔を繕いながら、降車に手を貸した。
「御待ちしておりましたぞ、バートリー夫人。ささ、どうぞ御手を」
儀礼的なエスコートに従って降車するのは、品格を醸す美貌の淑女である。
見た目に三〇代後半といったところか──実齢は不明だが。
黒い髪艶を帯びたワンレンヘアが、妖艶な美しさを醸している。それは腰丈まで伸びており、一挙一動の振舞いに後れ毛の色香を踊らせていた。紫色のフォーマルドレスが、上流社交に適した意匠に品格を保つ。胸元や背中・肩口から素肌を露出する造りながらも、決して低俗で安い印象に無い。無防備に覗ける胸元は色白く珠のような肌理であった。鼻筋の通った顔立ちに、冷たく切れ上がった目。薄い唇に栄える紅は、計らずとも吸血嗜好の現れにも思える。
整った線で形成された美貌ながらも、どこかおぞましい魔性を感受させる淑女であった。
名を〝エリザベート・バートリー〟という。
「これはこれは、ジル・ド・レ卿。今宵もわざわざ貴方が出迎えてくれるとは、夢にも思いませんでしたわ」
明らかに皮肉を含んだ世辞であった。
ジル・ド・レは小賢しく思いながらも、曖気にさえ表さず紳士然とエスコートする。
「カーミラ嬢は、どうされましたの?」
「いやはや面目次第もございませんが、カーミラ様は些か体調が宜しくないようでしてな。これは主の体調管理に気を配っていなかった側近である私目の責と感じまして、カーミラ様には暫し御休養頂き、私自らが来賓の皆々様を出迎えるが筋と老体に鞭打っている次第です」
「まあ、カーミラ嬢が?」
エリザベートは露骨な心配を飾った。あからさまな自己演出だ。
一方で、彼女の胸中は穏やかに無い。
あの貞淑さを装う小娘が、自分以外の吸血鬼を軽視しているのは重々承知だった。このような非礼は、毎度の事である──前回も──前々回も──それ以前の全てに於いても……だ。
「心配ですわね。大丈夫かしら?」
「いやなに、左程の大事にはありませんからな。後日の会議には、いつものように元気な姿を皆様へと御見せになられる事でしょう」
「カーミラ嬢は随分と虚弱でいらっしゃるようだから、心配で堪りませんの。不死になられた時、健康体ではなかったのかしら? そうすれば、このような煩わしさに悩まされる事もなかったでしょうに……本当に御気の毒だわ」
「ハッハッハッ……これは痛み入る御言葉ですな。我が主も胸を詰まらせるに違いありませんて。まあ、斯様な話はともかく、どうぞ先着の同胞達と共にゆるり御話しを興じられませ。定例会議までは、まだ日がありますからな。本日は我が故郷より、粒揃いの娘達を用意させて頂きました。我が故郷フランス産の生娘達は格別ですぞ」
「御気遣い、恐れ入りますわ」
悠々と大回廊を去る吸血夫人を見送りつつ、ジル・ド・レは独り毒突く。
「フン、何も知らぬ女狐が。本当に虚弱なら、ワシの気苦労もありはせんわい」
実際、彼の主君は虚弱どころか不調知らずだった。
伝説的存在である〝カーミラ・カルンスタイン〟は、この場に集う吸血鬼の誰よりも強大無比な魔物である。
だからこそ、かつて百年戦争へと出兵した自分ですら、容易に刃向かえない。その歯痒さを、ジル・ド・レ自身が常々苦々しく思っていた。
「それにしても因果なものよ。まさか仇敵国に身を置く事となろうとは……しかも、宰相としてな」
己が身の皮肉な運命には自嘲するしかない。
生前、百年戦争に於いて祖国フランスのためにイギリスと戦い抜いた彼が、死後は〈不死十字軍〉幹部としてイギリスで政治的統括に奔走する──皮肉な話ではある。
元来〈吸血鬼〉は、生前の故郷に固執しない。多くの〈怪物〉が発祥地に縛られる中で、これは希有な性質と言えるだろう。
そもそも〈怪物〉が生地に縛られるのは、その土地の風土や民俗が自己存在に対するダイレクトな発生背景となっているからである。
しかし、彼等〈吸血鬼〉の根本を構成するのは〝吸血欲求〟だけだ。
それを効率よく満たす事だけに重点を置き、そのためならば何処にだろうと根を張る──例えば伝説の吸血鬼〝ドラキュラ伯爵〟が、生地トランシルヴァニアからロンドンへと赴いたように。
逆に需要が低くなれば、惜しみなく活動地を離れた。
生地による縛りは眠りに要する〝棺の床土〟ぐらいであるが、それも現在では重要性が低い。慢性的に闇が支配する闇暦世界では、陽光による誘眠の呪縛は薄いからだ。
そうした背景故に、スチリア出身のカーミラ・カルンスタインが〝領主〟として居座り、フランス貴族たるジル・ド・レが仇敵国へ身を置くのも不自然ではなかった。先刻のエリザベート・バートリーにしても、わざわざハンガリーから訪れている。
このように雑多な国籍が一堂に会し、吸血鬼による一大勢力〈不死十字軍〉の本格的旗揚げに胎動していた。
だが、他の吸血鬼とは違い、ジル・ド・レの胸中は実に複雑であった。彼の場合、生前の誇りと遺恨が心底に根深く生きていたからだ。
「騎士の気位というものは厄介なものよ……未だ忘却に捨てられぬとはな」
自覚はある。現状では押し殺さねばならない。
最優先すべきは〈不死十字軍〉の盤石たる結束。
〈闇暦大戦〉の世では敵が違う。最早、イギリスだのフランスだのという矮小な小競り合いレベルではない。
見据えるは種族間戦争の覇権なのだ。
「セルビアよりペーテル・ブロゴヨヴィッチ様、御成ーーーー!」
新たな来賓を告げる衛兵の声を受け、宰相は黙想から醒める。
そして、歓待義務のために颯爽と踵を返すのであった。
「毎度ながら気が滅入るわね……望んで着いた地位にないだけに」
続々と階下へと集う来賓勢を窓越しに眺め、少女城主は憂鬱な気持ちを漏らした。
もっとも〝少女〟というのは外見上の事であり、実齢の方は遙かに高い。
憂いを含んだ鈴音のような声は、聞く者に清らかな慕情さえも抱かせた。それが生来のものか、或いは〈魅了〉の妖力によるものかは定かに無い。
浅く波掛かった金髪を撫で梳くと、彼女は純白のドレスを翻して絢爛な室内へと下がった。
意味を為さぬ高級鏡台へと腰掛けると、映らぬ己の鏡姿に独り言を語り掛ける。
「いい事、カーミラ・カルンスタイン? しばらくは、できるだけ部屋の外へは出ないようにね。会議の際には否応なく出席するしかないとしても、それ以外では誰にも会いたくはないでしょう?」
腹を見せぬ来賓勢と対面するのは、露骨な化かし合いばかりで煩わしい。カーミラが召集会議を嫌う理由は、議題の進展云々よりも実はそこにあった。
晴れぬ思いのまま、深い嘆息が零れる。
「せめて〝ローラ〟がいれば、気を紛らわせる話し相手にもなってくれたのだけれども……」
悶々と募る鬱積に、ふと遙か昔の〝想い人〟を恋しく懐古した。無い物ねだりの現実逃避である。彼女の〝想い人〝は、既にこの世にいない。不死と定命の格差による非業の恋火である。
気を許せる友人もいなければ、情欲に焦がれる対象もいない──ロンドン塔に於けるカーミラは、日がな虜囚に過ぎなかった。旧暦時代の自由気侭な日々が懐かしい。
彼女が思い出に慕情する中、不意に部屋の扉をノックする音が響いた。
またも深い溜め息。煩わしい展開が予見される。
「カーミラ様、おられますか?」
戸外からの凛然とした呼び掛けは、聞き慣れた女性の声であった。
それを察知すると、一転して眉根の曇りが晴れる。
嫌う相手ではない。
「ええ、どうぞ」
カーミラは親しい友人を誘うように答えていた。
畏まった一礼に入室してきたのは、声質同様に品格高い女性。深紅のロイヤルドレスで身を包み、細やかな金髪は頭頂に詰め纏めている。そこには宝石を散りばめた白金の髪留めを飾っていた。一目で高貴な血筋だという事が判る。端正な顔立ちに等しく内包されているのは、滲み出る厳格さと慈母性。些か気難しい一本気な性分と、聡明な優しさを物語っている。
「カーミラ様、御忙しかったでしょうか?」
「いいえ、メアリー一世。とりあえず、ジル・ド・レ卿ではなくてホッとしています」
軽口めいた冗談に、二人は苦笑を交わした。
シックに着こなした品格が示す通り、メアリー一世の生前は上流階層の身分だ。
それも旧暦中世のイングランド女王である。
彼女が王位にいたのは、疎むべき父・ヘンリー八世によって国家宗教がプロテスタント派へと改宗させられた時代であった。
元来、長らくカトリック政権であった国家宗教が半ば強引に改宗させられた目的は、父の再婚願望に依る部分が根として大きい。つまり、死別以外に伴侶との離婚を認めないカトリック体制が、ヘンリー八世の悪癖たる好色には障害であったという事実だ。
彼女の母である第一王妃〝キャサリン女王〟も、そうした裏事情から無実の死刑を処された贄である。
即位したメアリーが徹底したプロテスタント排斥によってカトリック政権を復権させた原動力には、そうした〝母の無念〟と同時に〝父への報復〟という仇討ち的感情も看過できないだろう。
ともあれメアリー女王は暴走めいた政策を強行し、プロテスタント信者を弾圧した!
老若男女関係なく!
有無を言わさず連行し、そして、多くは死刑である!
数え切れぬほどの血が流れ、罪無き命が絶たれた!
その数は三〇〇人とも云われている。
宛ら〈魔女狩り〉を彷彿させる赤の悪夢を、彼女は一代で展開したのだ!
いつしか民衆達は、恐怖と畏怖を込めて彼女を別称した──〝ブラッディ・メアリー〟と!
メアリーの場合は〝吸血欲求〟から吸血鬼と化したわけではない。
彼女の転生要因は、こうした尋常ならざる鮮血の怨鎖に拠るものだ。
つまり〝呪い〟と呼び替えてもいい。
だが、行為自体の残酷性はともかく、彼女には確固たる政策理念があったのは事実だ。
だからかもしれないが、彼女の品行方正な実直さは転生後も失われていなかった。
カーミラが特別視に好く理由である。
「それで、どういった用件かしら? まさか会議に関わる事ではないのでしょう?」
「まさか。それが禁則である事は、私とて重々承知しております」
「ええ。〈不死十字軍盟主〉という立場上、わたしは中立な心構えで会議へと臨まねばなりません。原則として、会議前に参列者と個人的に会うのは好ましくないのよ──この状況とかね。密通などという、あらぬ誤解を招きかねないでしょうから。それを承知で?」
「多少は賭けでしたが、霧化して訪れました。無論、皆に気付かれぬように細心の注意を払って行動しております。御心配なさらぬように」
霊的存在にも物質的存在にもなれる〈吸血鬼〉は、まさに千変万化だ。広く知られた蝙蝠や狼だけではなく、鼠や蛇──梟にも変身する事ができる。もっとも、そうした変幻自在ぶりを行使できるのは、妖力の底値が高い吸血鬼に限られるが……。
とりわけ異質なのは、気体である〝霧〟への不定形変身だろう。墓下から痕跡もなく抜け出したり、閉めきった室内へ造作もなく現れる神出鬼没ぶりは、この能力に拠る。霧化した吸血鬼は同属であっても感知しにくい。
とはいえ、根本的には感知側の魔力如何ではあるから、メアリー一世の賭けは運が良かったのだろう。そうでなくともロンドン塔には、ジル・ド・レを始めとして強力な魔力保持者が幾人か在城している。加えて、今宵は会議参列者が多々来賓していた。些か無謀な行動ではある。
一方で裏を返せば、彼女の度胸が据わっている立証でもあるが……。
「そこまでしての急用なのかしら?」
「いいえ。ただ、明後日に控えた会議を前にして、カーミラ様も気が滅入っておられるのではないか……と。口下手な私程度でも、話し相手として気晴らしになれば幸いと思いまして」
「まあまあまあ!」両手で口元を押さえ、カーミラは感激を露にした。「嬉しくってよ、メアリー! まさしく、その通りなの! 今回の会議も逃げ出したいくらい憂鬱よ!」
「心中、御察し致します」
カーミラの一喜一憂に反して、メアリー一世の対応は平静に徹している。彼女は元々イギリス王朝の一時代だ。そうした厳格な環境下が育んだ気質故だろう。
対してカーミラの生前時代は、メアリーよりも凡そ百年後になる。にも拘わらず、その言葉遣いや挙動は逐一時代掛かっていた。まるで文学作品に登場する貞淑な姫君宛らだ。王族たるメアリーから見ても、正直誇張臭い。
「足並み揃わぬ宰相勢を束ねるという役割は、本当に気苦労が多いものですとも。私自身も身に経験がありますが」
「それについてはね、メアリー。わたし、常々貴女に申し訳なく思っているの」
「私に?」
「ええ。だって、この城──ロンドン塔は本来、貴女の居城ですもの。本当ならば、貴女こそが正統な〝城主〟にして〝領主〟であるべきですものね。それをフラリと訪れただけのわたしが……」
多少気落ちした視線を落とすカーミラへ、メアリーが淡い微笑を含んで応える。
「それについては問題などありません。私自身が善かれと判断して明け渡したのですから」
「けれど」
「君主──束ねる者には、下層の者に有無を言わせぬほどの実力と、認めさせるだけの象徴性がなければなりません。貴女にはそれが備わっており、私には欠けていた。それだけの事です」
「でも、仮にも貴女は〈イングランド女王〉だった人物なのよ? 素質は充分だと思うわ。象徴性だって……」
「武力的な才が欠けています。私ではジル・ド・レ卿にも及びません。人間時代の政治的組織図ならばともかく、個の実力が重視される吸血鬼社会では象徴性だけでは束ねられないでしょう」
「そうかしら?」
「そうですとも」
慈しみが返す。
少女城主は観念を嘆息に乗せた。
「イングランド領主にして、ロンドン塔城主……加えて、不死十字軍盟主。正直、荷が重いのよね」指折り数える物々しい肩書きが、カーミラの自由を窮屈に呪縛していた。「とりわけ〈不死十字軍盟主〉という立場は不本意よ。別にわたしが立ち上げた組織でもなければ、先導を煽った覚えもないもの」
単に〝伝説の吸血姫〟という威光を、分かり易い旗頭と利用されているに過ぎない──常々そうは思いながらも、目に見えぬ圧力に流されたまま今日に至る。
「別にドラキュラ伯爵でも良かったんじゃないかしら?」
肩越しの下ろし髪を撫で梳きながら、カーミラは不満そうに口を尖らせた。
「確かに、実力・能力共に申し分ないのですが──」そこまで言って、メアリーは言葉尻を濁らせる。「──ちなみに、今回は?」
「例によって、事前通告が届いているわ。なんでも『教会の十字架で串刺しにされたので療養中』とかで……」
「その前は確か……」
「火山に落ちて全身火傷……」
素直に推薦できない理由が、これであった。
カーミラをも凌ぐ〝伝説の吸血王・ドラキュラ伯爵〟が定例会議に出席した試しは一度も無い。毎回、何かしらの不遇に見舞われているからだ。
脱力感漂う沈黙の中で、カーミラは不意に階下から聞こえる喧噪に気が付いた。
「あら? 騒がしいわね?」
「どうやら正面回廊からのようですね」
「何かあったのかしら……行ってみましょうか?」
カーミラの誘いに、メアリーは自身の引き際を悟る。
「いえ、私は失礼した方が宜しいかと……。行動を共にしている事が知れれば、それこそ、あらぬ噂を誘発しかねないですからね」
紅衣の淑女はスカート裾を軽く摘み上げて礼を払うと、そのまま霞んで消えた。霧化しての退室であった。
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