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第一幕
ともだち Chapter.7
しおりを挟むアンファーレン宅の敷地裏には、木造仕立ての納屋が在る。
農作業道具や薪が収納されているものの、老人自身は盲の為、滅多に訪れる事がなくなった小屋だ。
そこが〈娘〉の寝床になる。
そして、最近は同居人が一人増えた。
戦乙女だ。
中央に山積みとなった藁が、二人のベッドであった。その量は共有しても余りある。
一応、アンファーレン老の名誉の為に付記しておく。
彼は家屋での睡眠を勧めてくれた。
しかしながら、ブリュンヒルド自身が丁重に辞退したのだ。
屋内の造りは御世辞にも広いとは言えず、来客用の個室も無い。
そんな環境では、否応無く〈娘〉と共に居間で〝鰻の寝床〟状態だ。それでは盲目の老人が歩くにも障害物と成り兼ねない。
何よりも先客である〈娘〉が頑なに拒み続け、納屋での寝起きに従事しているのだから、新参者の自分がぬくぬくと温床に預かるわけにもいくまい。
「野宿よりマシなのですから、贅沢は言えませんね。それにしても……」
積まれた藁へと腰を沈めて、ブリュンヒルドは感慨を漏らす。
物憂い宿す視線の先には、藁束を寝台と整え続ける巨体が在った。
「どうした?」
「あ、いえ」気付かれたばつの悪さに、慌てて取り繕う。「意外と柔らかい物だ……と。それに肌触りも、思っていたより不快ではありません」
「うん、藁はフカフカ」
「ええ、保温性も思っていたより悪くありません」
「藁は温かい。冷たい洞窟で寝るよりも温かい」
「……そこまで極端な比較はしていません」
「そうか」
相変わらずの噛み違いに困惑するも、ブリュンヒルドは会話に含まれていた違和感に気付く。
「え? 洞窟に? そんな場所で野宿した経験があるのですか?」
「うん」無関心に返事をしつつ〈娘〉は作業を続けた。「アンファーレンに会う前は、色々な場所で寝た」
「そう……ですか」
「寒かった。そして、固かった」
いそいそと働く巨体を見つめていると、何故だか侘しい感情が込み上げてくる。
相手は〈怪物〉だというのに……。
(……随分と苦労したのでしょうか)
神界の戦士として禁忌とは知りながらも、ブリュンヒルドは〈娘〉への同情を抑えられない。
やがて就寝準備を終えた〈娘〉は、真顔を向けて言った。
「ブリュンヒルド、寒かったら言え」
「え?」
「抱っこする。体温、温かい」
「……遠慮しておきます」
並んで横たわる。
ジージーと夜虫が鳴き、天井板の僅かな隙間が風と月明かりを誘い込んだ。
倦怠的な疲労感に反して、ブリュンヒルドは寝つけなかった。
横臥に冴える意識が、物憂いを巡らせる。
(下界は、ここまで混沌としていたのですか……)
完璧なる軍隊──。
ウォルフガング・ゲルハルト──。
アンファーレン老人と、孫娘のマリー──。
ハリー・クラーヴァル──。
そして、正体不明の〈娘〉────。
此処数日で、目まぐるしい体験をした。
脳内整理だけでも一苦労だ。
何よりも日中に体験したばかりの惨劇は、彼女の心に悪夢として刻まれた。
恰も〈怪物〉としての本性を曝け出したかのような〈娘〉の姿は……。
(いったい貴女は、どちら側なのですか……)
何故だか寂しさにも似た感情に想う。
優しく無垢な〈娘〉──。
恐ろしくも忌むべき〈怪物〉──。
その両極端な側面を知ってしまったが故に、彼女は〝奇怪な隣人〟への心象を持て余すのだ。
(もしも、あの〝殺戮の化身〟が彼女本来の姿だとしたら、私は……私が為すべき事は…………)
己の在り方を自問する。
さりながら如何なる選択であろうと、自分自身で決断せねばなるまい。
闇暦の彼女は北欧神界の助力を断たれ、孤立無援の身なのだから……。
旧暦一九九九年七の月──地上は突如発生した魔界の気〈ダークエーテル〉によって侵食された。
青い生命の泉は奇病に侵されたかのように黒ずんでいき、甦った死人が人々を襲い喰らう──五感を放棄したくなるような阿鼻叫喚が繰り広げられた。
前代未聞の地獄絵図を天界より見ていたブリュンヒルドは、胸が張り裂けんばかりの想いを噛み締める。
(地上が……私の愛する地上が〈魔〉に侵される!)
それは耐え難いものであった。
だから、独断に地上へと降り立ったのだ!
仲間達の制止を振り切ってまで……。
だが、ブリュンヒルドの降臨から数時間後、地上は完全に〝闇の世界〟と変わり果ててしまった。
新世界の法則と蔓延する魔気は神界との交流を遮蔽し、絶対的支配者と君臨する黒月が救世の停滞を促す。
そして、闇暦世界が完成した。
彼女独りを〝篭の鳥〟と堕とし……。
俗に〈終末の日〉と呼ばれる大災厄の体現であった。
北欧神界へと帰る術を失った。
故に、流浪を続ける。
さりとも、目的を抱かぬままに彷徨する事を善しとしていたわけではない。
主神の加護が地上に及ばぬのならば、自らが〝加護〟と成れば良い。
この現世魔界に於いて嘆き苦しむ人々を守り、その剣と成りて〈怪物〉達から救えば良い。
それが、彼女の宛無き旅路の目的と化した。
如何に現世魔界に身を置こうとも、自分は誇り高き〈戦乙女〉なのだ──その自覚を拠とする現実逃避だと、薄々気付いていながらも……。
とりとめのない黙想に、どれだけの時間が経過したであろうか。
やがて背中合わせの巨体が、のそりと身を起こした。
(こんな夜更けに? 何を?)
ブリュンヒルドは緊迫の中で、寝入る芝居に徹する。
内心は穏やかにない。
昼間の暴走ぶりが悪夢と想起され、彼女の胸中に戦慄と警戒心を呼び起こしたからだ!
(まさか? いえ、やはり人知れず悪行を?)
闇夜を味方した不審な行動が、情に殺していた敵対視の方を傾かせた!
はたして、それは殺人であろうか?
はたまた人食いであろうか?
(やはり〈怪物〉は〈怪物〉! 同情など抱くべき対象ではなかったのです!)
自らのアマさを悔いた!
狙いは、盲目の老人?
いや、もしかしたら、この瞬間に我が身へと襲い来るのやもしれない!
(私は〈戦乙女〉……偉大なる主神の戦士! みすみす殺られなどしません!)
高揚が確信を煽り、失望が虚しさを刻む。
失望?
何故?
相手は〈怪物〉だ。
この闇暦で人々を支配し、苦しめ、その命すら軽んじる〝神の敵〟だ。
(如何に善良の仮面で擬装しようとも、所詮は〈怪物〉──ようやく本性を曝けだしたに過ぎないだけ!)
なのに、何故……こうも胸が冷たくも痛い?
触れれば壊れる繊細な氷細工ように……。
上体を起こした〈娘〉は、暫し隣の戦乙女の様子を観察していた。
背中一杯に視線を感じ、鼓動が早鐘を打つ!
が、熟睡していると感受したか、ゆっくりと寝床から起き上がった。
いよいよ来る──ブリュンヒルドが予測するも、その展開は一向に訪れない。
(何故?)
警戒心を裏切るかのように〈娘〉は表へと出て行った。
両手に軽く分けられる程度の藁束を抱えて……。
距離は左程ではない。
歩いて一〇分程度の道程だ。
とはいえ、不確かな獣道しかない悪路は歩き難い。常人であるならば……だが。
闇暦特有の暗さは夜闇の祝福によってますます深く染まり、雑木林を魔樹の森と繁らせていた。
その中を黙々と進む〈娘〉は、追跡に気付いた様子が無い。
適当な間合いを取って──或いは、樹の陰へと身を隠しながら──ブリュンヒルドは追った。
無論、鎧装束は装着済みだ。
(一体、何処へ?)
晴れぬ疑念に洞察する。
そう、未だ潔白が証明されたわけではない。
確かに自分を襲いはしなかった。
アンファーレン老も……。
さりとも、彼女が悪行を働かぬという立証にはならない。
尾行は続いた。
更に一〇分といったところか。
完全に街からは外れ、領域外となっている。
足下に泥濘する黒霧が、その立証だ。
この魔気〈ダークエーテル〉は、人工領域には侵入出来ない。
ダルムシュタット内部に〈デッド〉が発生しない理由が、それだ。
裏返せば、こうも黒い霧が発生しているという事は、それだけ街から離れたという事でもある。
いつ〈デッド〉と遭遇してもおかしくない。
そんな危うい環境で、二人の追跡劇は続いた。
もっとも万ヶ一〈デッド〉に襲われたとしても、両者にとって敵ではないが……。
(例えば、あの藁束を種火と使って、山火事を引き起こそうと企んでいるとしたら? 何よりも、皆が寝静まったこんな夜更けに、見計らったかのような行動は怪し過ぎます!)
鼓舞めいて、自分へと言い聞かせる。
相手は狡賢い〈怪物〉……情に絆されて気を許しては、姦計を見抜く事など出来ない!
だが……そうだとしたら、この後ろめたさは何だというのであろうか?
揺らぐ。
(私は……本当に正しいのでしょうか)
その自失に注視を逸らした一瞬、忽然として〈娘〉が消えた!
「しまった!」
慌てて〈娘〉が居た場所まで駆け出し、周囲を見渡す!
「ど……何処へ?」
滞る黒霧は視界を霞ませ、覆い繁る樹々が〈娘〉の味方と索敵を阻んだ。
「……た……て……だ……ある……て……」
微かに聞こえた〈娘〉の発声を頼りに、ようやくブリュンヒルドは居場所を突き止めた。
気取られない程度の距離で、繁みへと隠れて様子を窺う。
岸壁を行き止まりとする拓けた場所であった。
周囲は樹々の緑に囲われながらも、そこだけは土肌に禿げている。
そこに〈娘〉は居た。
拾った枝を薪として暖を取り、その前で地面に直接座っている。
彼女の奥に見えるのは、岩壁を抉った浅い穴。一見には祠にも見えた。
はたして自然に刻まれた物か、はたまた〈娘〉が怪力任せに砕いたのか……それは判らない。
ただ、その中には納屋に劣らずの量で藁が積み上げられていた。おそらくコツコツと持って来ていたのだろう。だとしたら、寝床だ。
他にも古びた鍋やら斧やらが無造作に放置され、貧しくも荒れた生活臭を演出している。
(隠れ家……なのでしょうか?)
状況から、そう推測した。
(もしかしたら、此処で人間に反旗を翻す算段を画策しているのかもしれません)
そんなブリュンヒルドの疑念を知る由もなく、当の〈娘〉は焚き火の明かりを頼りとして本に読み耽っていた。
「……た……か……が……の……」
先程から聞こえてきた意味不明な発声は、どうやらコレの朗読である。
まだ難解な文面は解読できないようだ。
(いったい何を読んでいるのでしょう? 呪文書の類ではなさそうですが……)
というよりは〝魔術〟などという高等知性的な技能を扱えるとは思えない。
どちらかといえば〈魔獣〉と同じく〝生態として備わった魔力を行使するタイプ〟だ。
いや、それ以前に……。
(彼女からは、いわゆる〝魔力〟というものを感じないのですよね……近しい禍々しさは感受するものの…………)
不思議な感覚であった。
怪物──魔物──人間為らざる者────そうした存在には間違いない。
にも拘わらず、この〈娘〉からは前提条件たる〈魔力〉が感知出来なかったのだ。
「……から……で……」
奇妙な音読は続く。
(本当に、一体何を?)
好奇心に突き動かされて身を乗り出す。
それが抜かりであった!
手前の足場が段差となっている事に気付けず、ブリュンヒルドは滑り落ちる!
「きゃ!」
短い悲鳴に尻餅をついた!
「いたたたた……!」
自分の間抜けさに苦笑したくも、摩る尻の痛みが涙を誘う。
と、自らに被さる暗さで、ブリュンヒルドは慄然とした!
眼前を見上げれば、白い月明かりを背負った巨躯の影が!
「あ……あ……」
威圧的なシルエットに戦慄する!
完全に不意を突かれた!
応戦しようにも万全の状態に無い!
武器は転げ落ち、腕を伸ばしても届かない位置に有る!
圧倒的に不利な体勢で発見されてしまった!
「ブリュンヒルド、来た」
「あ……あの……こ……これは……!」
大きい掌がユラリと迫る!
(殺られる?)
恐怖に瞼を綴じ、竦む身体を縮めた!
しかし──「え?」──彼女の予測を裏切り、大柄な手は優しく頭を撫でる。
その挙動に添えられた言葉は、穏やかな抑揚であった。
「大丈夫。痛いけど痛くない」
「な? 何を?」
「ブリュンヒルド、まだ痛いか?」
「い……いえ」
「尻、摩ってやる」
「結構です!」
「では、此処は貴女の新しい家だと?」
「うん」
パチパチとはぜる焚き火の前に座り込み、二人は事の真相を語り合った。
「……いずれ出ていくつもりだったのですか? アンファーレン老人の所を?」
「うん」
膝を抱えて座る〈娘〉は、踊る炎を眺めながら答える。
ブリュンヒルドは、茜の陰影を遊ばせる横顔を見つめ続けた。
相変わらず感情の機微は無い。
だが、物悲しそうにも映るのは、ブリュンヒルド自身が憐れみの念を抱いてしまったせいだろうか。
不覚にも、この怪物に……。
「いつまでも居てはいけない。私が居たら迷惑」
「アンファーレン殿は、そんな風に思っていないのでは?」
「うん」
「でしたら、もう少し考えてみては……」
「ダメ。私が居たら、きっと不幸を呼ぶ」
「不幸を?」
愁いたかのような眼差しで闇空を仰いだ〈娘〉は、胸中に秘めた想いを吐露する。
「私は〈怪物〉だから……」
「ッ!」
「〈怪物〉は、人間と一緒に居てはダメ。いつか不幸にしてしまう。誰も傷付けたくない」
「あ……貴女は……」
胸が締め付けられた。
己の偏見を恥じた。
どこまでも無垢で、優しく、寂しい〈娘〉……。
どこまでも憐れな〈娘〉……。
ブリュンヒルドは初めて知った。
こんな〈怪物〉もいるのだ……と。
ふと我へ返ると、こちらをジッと見つめる〈娘〉の視線に気付く。
「な……何です?」
「ブリュンヒルド、まだ痛いか?」
「え?」
「泣いている」
指摘されて、ようやく自覚した。
自分の頬を伝う雫に……。
「い……いえ、これは……目にゴミが……」
ばつ悪く指で拭い、努めて明るく話題を転化する。
「ところで、先程、本を読んでいらっしゃいましたね?」
「うん」
素直に頷く〈娘〉は、外套の中から対象物を取り出した。
それは〝本〟ではなく〝手帳〟だ。
革製の表紙で装丁されているものの、年季からか些かボロボロになりつつある。
「城から持ってきた」
「城?」
怪訝に鸚鵡返しを口にしたものの、ブリュンヒルドはそれ以上追求しなかった。
一応、彼女が以前に居た生活環境だと察しはつく。
「これで言葉を勉強してる」
「言葉を?」
「うん」
預かった手帳を開いてみる。
「こ……これは!」
閲覧して、すぐさまゾッとした!
魔術書ではない。
しかし、もっとおぞましい代物だ!
身の毛がよだつ忌まわしい書物だ!
数頁捲っただけで、不快な吐き気すら催す!
人間を部位解剖した挿し絵に、事細かな注釈が殴り書かれていた!
全頁が、それだ!
「これは……これは!」
悪夢に魅入られたかのように、ブリュンヒルドは荒く読み進める!
筋肉の解剖図──眼球の断面図──神経組織の展開図──そして、脳の解体図!
「これはこれはこれはこれは!」
記述されていたのは、狂気ともいえる手記!
外道極まりない人体実験の記録!
「そんな……そんな……そんな!」
「ブリュンヒルド、そんなに面白いか?」
不意に呼び掛けられ、現実へと呼び戻された。
途端、精気を吸いとられたかのような憔悴感に支配される。
呆然自失とした虚脱の瞳が、憐れな〈娘〉を捉えるなり潤んだ。
「どうした? 悲しいお話だったのか?」
無垢な好奇心が何を指しているかは理解している。
然れど、もはや拭うつもりは無い。
その術も無い。
頬を伝う涙を……。
「私も、早く読めるようになりたい」
未体験の楽しみへと浮かべる微笑。
その愚かしい様に、戦乙女は哀しく首を振る。
そして、心の底から込み上げる激情に突き動かされていた!
報われぬ魂を……神にさえ見放された魂を抱き締める!
愛のままに!
強く!
力強く!
「ブリュンヒルド、苦しい」
その胸に埋められた頭が、唐突な抱擁に困惑する。
「この本は……私が預かります! もう……もう絶対に……この本は読まないで下さい!」
堪えきれずに叫んだ!
「ぅ……ぅぅ……ぅぁぁ……」
噛み殺していた嗚咽が漏れる。
汚らわしい無垢なる手が、泣き濡れる頬を優しく撫で宥めた。
「ブリュンヒルド、大丈夫……痛いけど痛くない」
如何なる『魔術書』よりも、彼の『邪神召喚書』よりも、禍々しき呪われし手記『Fの書』──。
ブリュンヒルドは理解したのだ……。
この〈娘〉は、死体の繋ぎ合わせ!
手記に記載されていた忌まわしい人体実験の産物!
黄色く淀んだ単眼が見下ろす夜闇に、無情なる哀しみが痛みを刻んだ。
それは、決して無には還せぬ人類の大罪であった……。
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