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第一幕
ともだち Chapter.8
しおりを挟む先代領主〈冥女帝〉──北欧冥界を統べる女神にして、悪神ロキの娘。
その禍々しい肩書に反して、理知的な美貌を刻む女神であった。
背高くも細身な肢体は、冥界属性も頷けるほど霊的に色白い。
細面には鼻筋が薄く通り、伏せ気味な眼差しは世を儚むような愁いを宿している。
常に後れ毛が零れる黒髪は地に届くほど長く、身に纏う黒色のロングドレスと相俟って、喪に服する亡者と錯覚させた。
自然摂理に反した〈完璧なる軍隊〉に敗退して以降、敵本拠地にて幽閉処遇の虜囚と化した日々が続く。
「科学……か」
重金属で囲われた房で独り呟いた。
四方5メートル弱の閑散とした部屋だ。
取り囲む鉄壁は無表情で、鬱積を逸らせてくれる叙情など何も無い。ただ白銀に似せた輝きを照り返すだけだ。
「然れど、如何に似せたところで、この光沢に滲み浮かぶ重厚さを隠し通す事など叶わぬ。この金属が追求した性質は〝美しさ〟よりも〝頑強さ〟だ」
石工知識に疎いヘルとて、その程度は感受できる──〈チタン合金〉という呼称は知らなかったが。
室内を見渡すも、在るのは己が腰掛けるベッドのみ。壁際に設置されたそれもまた鋼の房室に相応しく、温もりが感じられない代物であった。マットレス云々の話ではない。同金属による簡素な造りは、飾り気も人の手も感じられない〝淡白な鉄台〟でしかなかった。横たわるだけで侘しくなる。
「確かに鉄尽くしの牢獄は、我が身の幽閉に合理的か」
虚しく自嘲を携えた。
総ての〈怪物〉に適応される法則ではないが、民間伝承的に〈魔〉は〈鉄〉に弱いと伝えられる。
殊に〈悪魔〉は、そうだ。
欧州圏に於いて蹄鉄を〝魔除け〟として玄関扉へと飾る風習は、これに由来する。
そもそも、この退魔法則は『キリスト教』によってもたらされた。
そして『キリスト教』が定義する〈悪魔〉には、土着神属も含まれている──〈魔神〉と括られている存在がそれだ。
「なればこそ〈北欧神〉の一角を担う我が、その法則に組み敷かれるのも当然か。況してや、我は〈冥女帝〉──死者の世界を統べる女神──その性質は、極力〈魔〉に近い」
ヘルは倦怠感ながらに立ち上がると、房室の境界へと歩き進んだ。
鉄格子は無い。
奥まった暗がりまで見通しよく通路が延びている。
にも拘わらず、彼女は逃亡を試みない。
無駄だからだ。
幾度となく試した。
半歩近付くと、まるで牽制するかのようにエネルギー奔流が小踊りを見せた。
「賢しいな」
確かに鉄格子こそ無い。
しかし、不可視なる障壁が、そこには在った。
「魔術結界にも似た強力な力場──確か、人間共は『霊子バリア』とか呼んだか」
「ほう? 少しは学習したようだな?」
不意に反響した声に、彼女は鎮静化していた警戒心を露にする!
反響する硬い靴音は、やはり怨敵であった!
「……ウォルフガング・ゲルハルト!」
押し殺す歯噛みに睨み据える!
二名の科学武装兵士を護衛と従え、新領主は旧領主と対面した。
「逃亡は不可能。貴様の能力も封じてある。かつては、この地に領主として君臨した〈冥女帝〉も堕ちたものだな」
「……ならば、一思いに殺すがいい。斯様な辱しめを受けてまで生き長らえようとは思わぬ」
静かに込める呪怨。
しかしウォルフガングは、それさえも絶対的優位に蔑笑する。
「フン、貴様に生死の選択権は無い! それは私が決める事だ!」
顎で背後の護衛兵へと指示を出す。
兵士が差し出したのは、一枚の写真であった。交戦データとして記録した物だ。
それをヘルに見せ、ウォルフガングは訊う。
「コイツに見覚えは無いか?」
ヘルは一瞥に済ませるも、それだけで〝異質な存在〟だと認識した。
電光を呑み纏う黒髪の大女──一見には荒々しく粗暴に見えたが、かといって彼女にしてみれば嫌悪を抱かせる下卑な印象には無い。むしろ繊細な顔立ちのせいか、知性的にも感じられた。
だが、全身を刻む縫合痕は何だというのだ?
少なくとも〝人間〟でない事は明らかだった。
何よりも──これは〈冥女帝〉たるヘルだからこそ看破出来るのであるが──〝生者 〟とも〝死者〟とも取れない不確定な雰囲気を醸している。
初めて見る〈怪物〉であった。
「知っているか?」
ウォルフガングが、強く問い質す。
「……いいや」
ヘルは醒めて答えた。
「嘘ではなかろうな?」
「つく意味が無い」
背後の兵士へと黙視で確認を促すウォルフガング。
ややあってから、兵士は無言の頷きで肯定した。
心拍数──発汗成分──瞳孔の動き──微々たる表情の変化────どれひとつ取っても、計測データからは『嘘』の要素は検出されない。
「フン、無駄足か……まあ、いい」
踵を返す軍服の背を、ヘルが呼び止める。
「待て、その者が何だというのだ?」
「貴様が知る必要は無い」
語気に押し殺した苛立ち。
それを感受して、虜囚は含み笑った。
「ク……フフフフフ…………」
「何だ? 何が可笑しい!」
「さては、貴様に仇為す者が現れたな?」
「何だと!」
ギョロリとした睨み返しが、ヘルに確信を抱かせる。
「図星か」
「黙れ!」
拘束の際に課せられた〝機械の腕輪〟から激しい電流がほとばしる!
不可視の棘が、全身を貫いた!
「うあぁぁぁーーーーっ!」
「たかだか神話時代の偶像如きが! 調子に乗るな!」
懲罰だ!
独裁者による独裁者の為の懲罰である!
「ハァ……ハァ……」
「いいか! 貴様を生かしてあるのは、まだ我々に〈魔神〉級への解析技術が乏しいからだ! それさえ確立すれば、細胞レベルで切り刻んでやる! それまでの余生……せいぜい、いまの内に噛み締めておけ!」
「ハァ……ハァ……フフフ……ウォルフガングよ、ひとつ警告しておいてやろう。我にも素性が判らぬ〈怪物〉が現れたのだ。そいつが、こうして牙を剥く……貴様が心酔する〈科学〉とやらにも臆する事無くな。やがて、貴様の支配は瓦解するだろう──蟻の穴から堤防が決壊するように。我が〈科学〉なる未知に下されたのと同じように、貴様自身もまた未知によって下されるのだ。努々忘れるなよ」
「貴様ァァァッ!」
「うあああぁぁぁーーーーっ!」
ウォルフガングの憤怒が電罰へと憑依する!
それまでよりも増した電圧だ!
だが、鋭く蝕む痛みに悶えながらも、ヘルは歓びを得ていた──「この唾棄すべき下郎へと一矢報いる者が、ようやく現れたのだ」と。
「ハァ……ハァ……ハァ…………」
ウォルフガングが去ってから、ややあって電刑は鎮まった。
苦しみ跪いたヘルは、脂汗を拭いつつも思索を巡らせる。
(それにしても、あの女怪は何者だ? 容姿こそ〝人間〟に酷似していたが……その残酷なほど醜い容姿は明らかに異なる。かといって〈怪物〉と呼ぶには、滲み出る妖気が稀薄過ぎる)
生者でもなければ、死者でもない……。
人間でもなければ、怪物でもない……。
あまりにも不確定で未知な異質だ。
(否、そもそも〈怪物〉というのは、そういう存在か……)
人智及ばぬ怪異の具象こそ〈怪物〉──。
既存知識で理解出来ぬ不可解な存在こそが〈怪物〉────。
なれば、あの〈娘〉こそ、真正の〈怪物〉やもしれない。
「よお、久しぶりだな……我が娘よ」
不意に男の声が聞こえた。
固い涼気が反響させる声質は、耳心地良く男臭い。
聞き覚えのある声に、ヘルは顔を上げた。
通路の奥まった暗がりから、コツリコツリと靴音が近付いて来る。
やがて浮かび上がった姿は、若くも粗野な印象の男──。
「……父上」
久しい再会に実の娘が向けた目は、しかし喜んではいない。
「ヒャーッハッハッ! 〈冥女帝〉とも呼ばれたオマエが、ずいぶんとゴキゲンなトコへ住んでるじゃねぇか? ええ?」
後ろへと流した蒼い長髪を手櫛で鋤き、ロキは周囲を眺め回した嘲笑へと溺れる。
その品性無き挙動は棄て措いて、ヘルは立ち上がり面と向かった。
「……主神の〈神力〉によって、何処かへと幽閉されていたのでは?」
「ハッ! ダークエーテルが蔓延した闇暦世界で、クソジジイの拘束なんざ維持されるかよ」軽く肩を竦めて嘲た。「おまけに、アイツが〈神力〉を遮ってくれている……いい時代だぜ」
「黒月……ですか」
天井を仰ぐ悪神が見据えているのは、間違いなく天空に居座る闇暦支配者だ──ヘルは、そう察する。
「それで? 私に何用で?」
「……出してやろうか?」
「何ですと?」
「だからよぉ、出してやるって言ってんだよ」
懐から取り出した煙草を蒸かし、悪神は娘を見据えた。
「対価は何です?」
「ほう? 呑み込みが早いじゃねぇか?」
「貴方が無償で動くはずもありませんから」
「ヘッ……実の娘のクセに、寂しい事言うねぇ?」
空々しくおどけを飾りながらも、続け様に向けた正視は秘めたる野心を彩る。
紫煙越しに覗く瞳は〝情〟ではなく〝交渉〟だ。
「オマエの力を貸せ」
「何故に?」
「……〝神魔狼〟を解き放つ」
「ッ!」
慄然と息を呑む!
神魔狼〈フェンリル〉──北欧神話きっての〈大怪物〉!
主神によって予言された〈神々の黄昏〉に於いては、他ならぬ彼自身と相討ちになるとまで伝えられた強大な怪物だ。
「神魔狼を解き放ち、何を為さろうというのです? アレが復活すれば、この世界に多大な犠牲を産み落とす事となるは明白!」
「オイオイ? 実の兄貴をアレ呼ばわりかよ? 偉くなったもんじゃねぇか! ヒャハハハハッ!」
嘲笑いに溺れる悪神の様を、疎ましさに睨み据える。
件の魔獣は、悪神の息子──即ち、彼女の兄に当たるのだ……。
だからこそ、忌まわしい。
「やはり主神への復讐……ですか」
「あん?」
静かなる不快感に、嘲笑が止んだ。
「〈北欧神族〉の宿敵〈霜の巨人〉として生まれながらも〈主神〉と義兄弟の関係に在った貴方は、〈北欧神族〉の一員として迎え入れられた。にも拘わらず貴方は、悪意のままに神々を撹乱し続ける──その最たる悪行が『光神殺害』の罪。故に主神の怒りを買い、永きに渡って幽閉され続けた。この地上へ更なる絶望をもたらそうとするのは、その報復──違いますか?」
ロキは辟易とした態度に耳の穴をほじりながら、苛立つ心境を吐き捨てた。
「ったく、女ってのはベラベラと邪推を語りたがるぜ。ピーチクパーチクうるせぇモンだ。生憎、オレには〈霜の巨人〉も〈北欧神族〉も、どうでもいい事なんだよ──もちろん〈オーディン〉のクソジジイもな!」
「では、目的は何です?」
「楽しいからだよ! モラルも信仰も破綻した混沌が楽しいからだ! 希望もクソも無いままくたばる人間共──そいつを為す術無く眺めるしかない神々の無力感──最高に愉快じゃねぇかよ! どうせブッ壊れた世界だ! もっともっとド派手にブッ壊しても構やしねぇだろ! 最高にイカれた世界──最高にイカした世界を、オレがプレゼンしてやるよ! ヒャハハハハッ!」
狂喜染みた高笑いに溺れる!
これが実の父親だと思うと、憐れみに情けなくなった。
さりとも、その忌むべき血は、彼女の中に脈々と受け継がれているのも事実だ。
彼女にしてみれば疎ましい呪いだ。
本来ならば、彼女とて悪神の下卑たる性格を受け継いで当然であった──兄が、そうであるように。
しかしながら〈冥女帝〉という立場が、彼女の心情に強い変化をもたらしていた。
実の父親は、その事をまだ悟れない。
「……私は〈冥女帝〉として、数えきれぬほどの〝魂〟と接してきました」
「あん?」
静かに紡ぎ出された娘の吐露に、ロキの陶酔が妨げられる。
「その有り様は千差万別……善人もいれば、悪人もいる。ですが、総じて共通するものがひとつだけ有る。何か御解りですか?」
「何だってんだ? 唐突によぉ?」
「それは〝生きる事〟です! たったひとつしかない己の〈生命〉を大切に感じ、悦び、嘆き、怒り、謳歌する事です! その前には、善人も悪人も無い! 仮に他者の〈生命〉を軽んじる悪人でさえ、己の〈生命〉は尊ぶのです!」
「……で?」
「私は……〈生命〉が愛しい」そう言い残して、冥女帝は踵を返した。「御帰り下さい、父上……如何なる〈生命〉とて、享楽のチップと弄ぶぐらいなら、私は此処で朽ち果てるが本望」
謁見の中断とばかりに黒髪のベールが揺れる──その気高き背中に、卒爾として浴びせられる怒号!
「テメェの意見なんざ訊いちゃいねえぇぇぇーーッ!」
ロキが吠えた!
腹の底から絞り出すかのような憤怒で!
「子供は親の意見だけ聞いてりゃいいんだ! テメェの信念だのプライドだのは、どうでもいいんだよ! んなモン糞だ! いいか! テメェを生んでやったのは、このオレだ! オレがいなけりゃ、テメェはこの世に生まれもしなかった! そいつを忘れてエラそうに御託並べやがって……分をわきまえやがれ! 子供は親の物に過ぎねぇんだ! その事を忘れんじゃねえ!」
「……ち……父上?」
烈火の如く喚き散らす癇癪に、ヘルは唖然と見つ返すしかなかった。
ロキが内包した激しい気性を覗かせた事は、神話時代を遡っても滅多に無い。
神々すら翻弄する讒言の策士たる彼は、その性質から己の本性を看破される事を嫌っていたからだ。
その彼が我を忘れ、エゴイズムに凝り固まった姿を露呈している。
驚くなという方が無理であろう。
一頻り吐き乱れると、ややあってロキは荒げた息を鎮めた。
「ハァハァ……ハァ……判ったな!」
親という立場の威厳だけで、意の儘に組敷かんとする浅ましい姿──そこに娘が痛感したのは、決して〝親子〟という名の主従関係でもなければ服従の承諾でもない。
(嗚呼、同じだ……この親は──)
湧き出るのは、悲しくも虚しい感情のみ。
(──あの〝ウォルフガング・ゲルハルト〟と)
それは、人知れず覚悟に定める〝心の決別〟でもあった。
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