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第一幕
ともだち Chapter.3
しおりを挟む満身創痍の〈戦乙女〉を庇うかのように、〈娘〉はおおらかな胸へと抱いた。
ゆっくりと周囲を展望し、状況把握に努める。
「……何があった?」
静かに低い美声が、誰に言うとでもなく訊う。
答える者はいない。
「ぅ……ぁぁ……貴公は? うぅ!」
霞む意識に、ブリュンヒルドが苦悶を喘いだ。
羽根兜から零れた銀糸を優しく撫で鋤き、〈娘〉は安心を促す。
「大丈夫、大丈夫。痛いけど、痛くない」
「ハァハァ……な……何を?」
「母親がこう言うと、子供は〝痛み〟を我慢できる。街の公園で見た。人間は不思議だ」
「……早……く御逃げなさい……貴公も殺されてしまう……私なんかに構ってはいけない……うぅ!」
「そうか、ありがとう」
「な……何を?」
「心配してくれた」
意思疏通も怪しいままに〈娘〉はブリュンヒルドを慰め続けた。
その間抜けた様子に、ウォルフガングが憤慨を吠える!
「貴様、何者だ!」
問い掛けに応じるべく、戦乙女を寝かせて立ち上がった。
「……知らない」
「な……何?」
嘘は言っていない。
素直な返答だ。
事実、これは彼女にとって命題でもあるのだから。
自分が何者か──フランケンシュタイン城に居た頃から、それだけを追究してきた。
だが、未だに答は見えない。
「フン……何処の馬の骨だか知らんが──」
「私には〝馬の骨〟は使われていない。うん、それは確かだ」
「黙れ!」
激昂に怒気を強める!
別段〈娘〉は茶化しているわけではない。
ただ無知故に、朴訥・朴念仁なだけだ。
さりながらウォルフガングにしてみれば、逐一低俗な挑発を返されているようにしか感じられなかった。
常識人の視点からすれば、無理からぬ事ではあるが……。
(それにしても……)
ウォルフガングは持ち前の観察眼で、上から下まで〈娘〉を嘗めるように眺めた。
感情に左右されながらも、一方では理知的な分析を怠らない──彼が骨髄まで〈科学者〉たる証である。
(コイツは何者だ? あの尋常ではない縫合痕からして〈怪物〉には違いないだろうが、こんな〈怪物〉は見た事も無いぞ? 別段〈怪物〉に関する雑学を網羅しているわけではないが……)
包囲網の真っ只中に居るにも拘わらず〈娘〉は焦燥感も動揺も抱いている様子が無い。ただ無垢な子供のように、周囲の奇異性へと好奇心を向けているだけだ。
「フン……まあ、いい。貴様が如何なる〈怪物〉だとしても、我が〈完璧なる軍隊〉の敵ではない! 不穏分子は排除すればいいだけの事!」声高に誇示を吐いて、ウォルフガングは右手を挙げた。「コードV!」
ゴーグル越しの眼が、一斉に不気味な赤を点す!
悪夢の再起動!
一転した雰囲気を感じ取り、〈娘〉は周囲の科学武装兵士を見渡した。
これから浴びせられる残忍な攻撃を知らぬままに。
「いけない!」
痛みを押して身を動かすブリュンヒルド!
(巻き込んでは、いけない! 無関係な者を巻き込んでは!)
必死な想いで〈娘〉を射程から突き飛ばす──はずが、その頑強なる体躯差によって弾き出されたのは、自分自身の方であった!
直後、夥しい光蛇が〈娘〉へと群がる!
「ダメェェェーーーーッ!」
戦乙女の悲痛なる叫び!
射程外へと免れた彼女の眼前で、夥しい光蛇が贄を呑んだ!
「あ……ああ……そんな……」
結果として救われたのは、またも自分だ。
そして、見ず知らずの彼女を巻き込んだのも自分。
固より〈戦乙女〉は〝死〟と密接な関係に在る。
勇猛なる戦士の魂を〈英霊〉として〈北欧神館〉へと迎え入れ、主神〈オーディン〉の戦士として育て上げるのが使命なのだから。
そして、その地に於いても〈英霊〉達は、日々、切磋琢磨に殺しあう。
〈戦乙女〉〈神界の聖戦士〉などと呼べば聞こえはいいが、実質は〈死神〉と紙一重──血塗られた存在でしかない。
だからこそ、ブリュンヒルドは苦悩してきた。
そんな宿命を覆そうと抗い続けてきた。
しかし──「また、私のせいで……」──零れ落ちる一滴。
自分と関わった者は死ぬ。
かつて神話時代に愛した英雄──彼を巡った恋敵──その家系〝ギューキ王家〟──我が身が人間であった頃の生家〝ブズリ王家〟──敬愛する兄〝アトリ王〟──総てが〝死の運命〟に取り込まれた。
今度は彼女だ!
見ず知らずながらも、身を呈して救ってくれた〝命の恩人〟だ!
「所詮〈宿命〉を覆す事など叶わないのですか……オーディンよ……」
深い失望が心を抉る。
流れる涙のままに顔を伏せた。
酷い断末魔を正視する事など、到底できない。
が、次の瞬間!
「ば……馬鹿な?」
ウォルフガングの驚愕に、ブリュンヒルドは顔を上げた。
眩く激しい光球の中核──そこに〈娘〉は生きていた!
喰らいつかんとする青光の蛇を、戯れとばかりに掌で掬っている。
やがて次第に電光は弱まり、完全に消え失せた。
その余韻は、彼女の身体に小さく纏われた帯電と生まれ変わる。
何が起きたのか……ブリュンヒルドに解るはずもなかった。
科学者たるウォルフガングが指摘するまでは!
「吸収しただと? あれほどの電撃を!」
「うん、ありがとう」
「な……何?」
「電気をくれた」
何事も無かったかのように、邪気無く答える〈娘〉。
「ふざけるな! くれてやった覚えは無い!」
「そうか、ごめん。いま、返す」
淡白に結論付くと、右拳に意識を集中した!
体内から涌き出る電流が活性力を滾らせ、拳を電塊へと胎動させる!
「ふんっ!」
大地を殴り付つけた!
渾身の拳圧に地面が砕け割れ、そこを起点として放射状に衝撃が走る!
それは同時に、無数の電撃竜を解き放った!
先刻までの〝青い光蛇〟などという矮小な代物ではない!
逞しくも荒々しい〝電光の竜〟だ!
電竜は地表を割り進み、余すことなく包囲網を喰らい抜ける!
過剰な高電圧を浴び、次々と機能停止に陥る科学武装兵士達!
体内から煙を吐いて、悲鳴を上げるでもなく崩れ倒れた!
「こ……これは! 貴様、これは!」
狼狽に怒りを孕むウォルフガング!
その憤慨を無視して〈娘〉はブリュンヒルドを抱き上げた。
「電気、返した。じゃあ、さようなら」
一応『別れの挨拶』を置いて、地を蹴る!
乱入時と同等の勢いが、今度は逆方向へと効果を発揮した!
「ああぁぁぁーーっ?」
あまりに力強い跳躍!
然しものブリュンヒルドも、思わず声を上げてしまうほどだ!
無理もない。
滞空は御手の物であるものの、彼女と〈娘〉のそれは対極過ぎる。
ブリュンヒルドを始めとした〈戦乙女〉は、軽やかに舞うかのような飛翔だ。
それに対して〈娘〉の跳躍は、暴力任せに宙を射抜くかの如き勢いであった。
黒月の巨眼に、獣の影が呑まれ去る!
「ク……クソッ!」
完膚無きまでに私兵を潰されたウォルフガングには、忌々しくも睨み送るしか術が無かった。
とりあえず雑木林で〈戦乙女〉を下ろした。
鬱蒼とした樹林には、普段から人気が無い。梟が寂寥と鳴き、小動物が気配を遊ばせるだけである。そうした情景は、闇暦に於いても一際薄気味悪い。
大樹の根に休息の身体を預け、ブリュンヒルドは〝命の恩人〟へと礼を述べた。
「あ……有難う」
片膝着きに顔を覗き込んだ〈娘〉は、素直な思いで応える。
「うん、ありがとう」
「貴公が、何を『有難う』なのです?」
「ありがとうと言ってくれた。だから、ありがとう」
突飛な理由が返ってきた。
どうにも調子が狂う相手だ……あの〝高慢な将校〟でなくとも。
「痛むか?」
「いいえ、平気です。それよりも、貴公は一体何者なのです?」
「知らない」
先刻と同じ返答であった。
さりとも、嘘では無いのであろう。
それは真摯な表情が物語っている。
「何故、私を?」
「うん」
真顔で頷き、ジッと見つめていた。
沈黙が続く。
「あの?」
「何だ?」
「ですから、何故、私を?」
「うん」
頷く正視に、またも沈黙──。
「あの? 御返答頂けませんか?」
「まだ質問されていない」
その言葉に、ブリュンヒルドは思い当たった──「何故、私を?」──この後に続く文脈を、彼女は待っていたらしい。
徹底した朴訥ぶりに困惑を覚えつつも、ブリュンヒルドは呑み込んだ。
改めて質問を紡ぎ直す。
「貴公は、何故、私を救けたのですか?」
「痛そうだったから」
ようやくにして望んだ回答が返ってきた。
想像していたよりもシンプルではあったが……。
「……それだけの理由ですか?」
「うん」
「たったそれだけの理由で、あのような危険を冒したのですか?」
「危険は知らない。でも、誰かが傷付くのは嫌」
肩へと駆け登った栗鼠に木の実を拾い与えながら、抑揚乏しい〈娘〉はそう言った。
小動物になつかれる様に、ブリュンヒルドは思う。
(悪しき者では、なさそうですが……)
そうは推察するものの邪な心象が拭えないのは、やはり見た目の奇怪さ故だろうか。
左上腕と左手首、右腿……長外套の脇から窺える裸身にも、生々しく縫合痕が刻まれている。おそらく見えない部位にも、まだ無数にある事は想像に難くない。
何よりも生理的な忌避感を誘発するのは、その顔だ。
長い前髪を垂らし隠しているものの、右顔面は表皮がないまま筋肉繊維が剥き出している。落ち窪んだ目元には前髪がベールと陰るも、時折ギョロリとした眼球が奥から覗いていた。
正常に機能する左顔面が聡明な美貌にあるせいで、左右非対称な醜美が際立っている。
端的に言えば、不気味であった。
命の恩人へ注ぐべき感情ではないが……。
その心根が純粋であるからこそ、余計に得体が知れなくなる。
ブリュンヒルドは密かに意識を集中した。
この〈娘〉は何者か──その正体を探る手掛かりを得たい。
仄かな霊力を青く帯びる瞳。
(これは?)
先刻の〈科学武装兵士〉とやらに似通っていた。
内在する〝感情の波動〟は稀薄である。
然れども、まったく同じというわけではない。
潜在している〝生命の波動〟は、比にならないほど強烈だ。稲光のように激しく、荒々しく、緩急的な〝生命力〟が潮流している……。
(やはり、彼女は──)
忌むべき〈怪物〉の類──古より廃絶すべき敵対存在──そう結論着きながらも、ブリュンヒルドは躊躇した。
仮に〈怪物〉だとしても、彼女が〝恩人〟である事は間違いない。
何よりも眼前で小動物からなつかれる無垢さは、到底〝邪悪〟には見えなかった。
「くすぐったい」
襟元を遊び場と駆ける栗鼠を掬い置くと、再び〈娘〉は〈戦乙女〉へと関心を戻す。
「歩けるか?」
「え……ええ」
「そうか。じゃあ、行こう」
のそりと起き上がる巨体。
「行く? どちらへです?」
「オマエの家。送る」
「……在りません。そのような場所は」
寂しくも渇いた苦笑で首を振る。
この闇暦世界に、彼女の安息地など在りはしない。
帰るべき場所は、永遠の黒雲に閉ざされたのだから……。
「家、無いのか?」
「ええ」
暫く〈娘〉はジッと見入った。
そして、ややあってから道程へと顔を上げる。
「そうか。じゃあ、行こう」
「はい?」
呆気に捕らわれるブリュンヒルド。
数秒前のデジャヴを覚える台詞であった。
意思疏通の不確定さには、そこはかとなく不安を覚える。
「行く……って、私の話を聞いてましたか?」
「うん」
「私には帰る家など無いのですよ?」
「うん」
「では、何処へ連れて行こうと言うのです?」
「アンファーレンの所」
簡潔に言い残して〈娘〉は歩き出した。
「ど……どなたです? それは?」
聞こえていないのか、大きな背中が掻き分ける枝に消える。
「ま……待って下さい!」
ブリュンヒルドは慌てて武具を拾い、後を追い駆けた。
足場の悪い獣道を〈娘〉は黙々と進む。
この時、何故追ったのか──それはブリュンヒルド自身にも分からない。
行く宛が無かったのは事実だ。
自戒的な心構えに野宿を覚悟しながらも、本音では寝食を欲していたのも事実である。
しかしながら〈怪物〉に恩恵を縋るなどとは、誇り高い〈戦乙女〉にあるまじき愚行だ。恥ずべき選択だ。
にも拘わらず、何故?
この〈娘〉が純朴だからであろうか?
信用に足る相手だと感じたからであろうか?
否、あってはならない。
相手は〈怪物〉──忌むべき〈魔物〉なのだから。
そして、自分は〈戦乙女〉──気高くも誇り高い〈北欧神館の聖戦士〉だ。
大いなる〈主神〉の名に於いて廃絶する使命こそあれ、心許す事などあってはならない!
では、何故?
(これは監視です……そう、彼女が如何なる〈怪物〉であるかを見定め、人間達に実害を及ぼすのを未然に防ぐ為の……そう、監視ですとも)
己へと言い聞かせる。
ややあってブリュンヒルドは、先行する〈娘〉へと質問を向けた。
「貴公、御名前は?」
「無い」
「御冗談を? この世に〝名前〟の無い者など在りません」
「そうか。ありがとう」
「何がです?」
「教えてくれた」
「はい?」
どうやら「ありがとう」は、彼女の口癖のようだ。
しかし、それが朴念仁ぶりに拍車を掛け、悉く話題を明後日の方向へと空振りさせてしまう。
どうにも苦手な相性かもしれない。
「ま……まあ、いいでしょう。それで、貴公の御名前は?」
「無い」
振り出しへ戻った。
「では、私は貴公の事を、何と呼べば良いのです?」
質問に足を止めた〈娘〉は、暫らく相手の顔を眺めつつ思索へと浸る。
そして、馴染みある候補を思い浮かべた。
「〝娘さん〟」
「……それは〝名前〟ではありません」
「〝お姉ちゃん〟でもいい」
「……御断りします」
「ただいま」
ようやく帰った〈娘〉が扉を開けたと同時に、アンファーレン老は待ち侘びた様子で出迎えた。
「おお、娘さん 無事で良かった!」
「うん」
盲目の手を優しく引き、元居た席へと連れ戻す。
「少々遅く感じたのでな、心配しておったのじゃが……いやはや、本当に無事で良かった」
「うん、ごめんなさい」
「いやいや、無事ならばそれで──おや、珍しい。お客さんかい?」
閉ざされし闇に培った鋭敏さが、もう一人の気配を感じ取った。
「突然に来訪して申し訳ありません。私は〝ブリュンヒルド〟という者で、そちらの〈娘〉さんに連れて来られまして……」
穏便且つ丁寧な物腰に名乗る戦乙女。必要以上に畏縮させない為にも、敢えて素性は伏せる事とした。
「ふむ?」
白い顎髭を撫でつつ、物見えぬ目が観察意識を傾ける。
真っ暗な視界に浮かび上がる白く眩い光──それは神々しくも感じられ、老人は軽い畏敬すら覚えた。
と、唐突に〈娘〉が説明を挟む。
「寝床が無い」
「ふむ?」
撫でる顎髭が、声の方へと振り向いた。
「食事も無い」
「ほう? だから、連れて来たのかい?」
「うん」
「そうかい、そうかい」
何故だか喜ぶかのように納得する老人。
が、〈娘〉は自身の不手際を思い至る。
「勝手に連れて来た……ダメだったか?」
「ダメなもんかい!」シュンと沈む抑揚に、老人はわざと明るく声を張った。「娘さんは、放っておけなかったんじゃろう?」
「うん」
「だったら、泊めてあげなさい。食事も構わんよ。娘さんが『してあげたい』と思う通りに……な」
「うん、ありがとう」
嬉しそうな微笑。
盲目の老人と〈怪物〉──まるで〝父娘〟のように微笑ましい関係ではある。
しかしながら、傍目のブリュンヒルドには、奇妙で不自然な関係性にしか感じられなかった。
(まさか? 人間と〈怪物〉が和解? 到底、信じ難い……有り得ない……)
だが、現実として、眼前に展開している。
これは、どういう事なのであろうか?
そんな彼女の困惑を他所に、老人は勝手な解釈に頷きだした。
「そうかい、そうかい……娘さんに〝友達〟が出来たかい……」
「あ、いえ……私は……」
しどろもどろになる戦乙女。
直後〈娘〉が簡潔に説明した。
「違う。拾った」
「違いますけどッ?」
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