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~第一幕~
はじまりの幻夢 Chapter.6
しおりを挟む正直、オリンポス神信望者にとって〈エジプト考古学博物館〉は居心地のいい場所ではない。
とりわけ、この〈考古発掘品解析研究室〉という一室は……。
所狭しと陳列された発掘品は、総て〈エジプト神〉の息が掛かった代物だ。大小様々あるものの多くは極彩色や金細工であり、その眩さは室内の仄暗さを微力ながら排斥に照らしていた。
しかしながら時代を越えた高貴な息吹は、まるで四方八方から呪怨に観察されているかのような錯覚すら覚えさせる。ともすれば、仇敵の隙を虎視眈々と見定めようとしているようにも思えるのだ。顎の胎動にも……。
さりとも、メディアは〈ギリシア勇軍〉の幹部である。
肩書きが〈魔女〉とはいえ、彼女もまた〈勇者〉の端くれだ。
オリンポス神に選ばれし身なればこそ、如何なる畏敬を強要されようとも異教神に臆して屈する事など決して無い。
「久しぶりね? 何年ぶりかしら?」
「十八年ぶりだ」
朗々とした魔女の抑揚に反して、アンドリュー・アルターナは変わらぬ憮然で答える。
樫卓を挟んでの再会は、然れど彼にとっては感慨呼び起こすものでもないようだ。
「この前に会ったのはスペインだったわよね。まさか領地エジプトで再会するなんてね」
「わざわざ昔話へと浸る為に来たわけでもあるまい」事務的対応に珈琲を差し出しつつ、責任者アンドリュー・アルターナは切り出した。「それで? 訊きたい事とは?」
既知の観察視が探りあう。
ぞんざいな歓待に孕まれる警戒心を感じながらも、メディアはおどけた肩竦めに砕けて返した。
「件の〈古文書〉よ。現状で知り得る情報だけでも提供して欲しいの」
「それは命令かね?」
「御望みとあらば」
睨み据える値踏みを涼しく流しつつ、メディアは卓上のクッキーをしれっとひとつまみ。
暫し牽制の静けさが場を支配すると、やがてアンドリューは承諾を示した。
「いいだろう。そもそも闇暦に於いて、アンタ等は此処〈エジプト考古学博物館〉のオーナーだ。絶対的なVIPに対して、雇用人が拒否権を行使する筋もあるまいよ」
「あら、嬉しい優待だこと」
メディアは微笑を露骨めいて飾る。
安い皮肉だ。
(少なくとも、彼は私達〈ギリシア勇軍〉を快く思ってはいない。けれど、それは〈エジプト神〉に義理立てたものでもない。理由は至極単純──つまり己の研究を邪魔立てされたくない)
その障害となろうものならば、例え〈エジプト神〉であっても敵視するであろう。
彼の瞳にギラつき宿るものが、それを主張している。
が、同じ〝知識探求者〟としては判らぬではない。
(探究者という者は、概ね偏執的な性質。至高と崇めるは〈研究対象〉と〈知識〉なのだから、その前に於いては万人平等……というワケね。例え〈領軍〉といえど……)
メディアは含む苦笑に納得する。
この男〝アンドリュー・アルターナ〟も、そうした輩だ……と。
いくら知り合いとはいえ、メディアは〈ギリシア勇軍幹部〉だ。
その彼女を前にしても、まったく物怖じする様子が無いのだから肝が座っている。
「アレが何かは未だ不明だよ。現在、解析中なのでな」
「確か〈ツタンカーメンの王墓〉から発掘された……と、聞いたけれど?」
「うむ。だから〈第十八王朝縁〉という事は間違いなく、また〈古代エジプト王家〉との因縁も確実視して良い。でなければ、わざわざ〈王墓〉になど埋葬せん」
「内容は?」
「解析中と言ったが?」
「解っている範囲でいいわ」
「……何故だ?」
「何が?」
「何故、そこまで固執する? 考古発掘品の〈古文書〉など珍しくもあるまい? これまでも解析後は、此処〈エジプト考古学博物館〉から幾つも献上されていたはずだが?」
「ええ、至極有益な情報よ──敵を知る糸口には。私達〈ギリシア勢〉にとっても〈エジプト神〉という存在は強大で未知過ぎるもの」
「そのために、此処を存続させている……か?」
「不服?」
「いいや。私にしてみれば解析研究に没頭させてさえ貰えればいい。その土壌として、此処〈エジプト考古学博物館〉は理想郷だ。バックが〈ギリシア〉だろうが〈エジプト〉だろうが関係無い」珈琲啜りの値踏みが切り込む。「で、何故かね? 何を隠蔽しておる?」
正直、内心感嘆した。
あまりにも貪欲な探究欲にして、あまりにも鋭敏な観察眼である。
微かにゾッとさせる正視。
改めて危険な男にも思えた。
人間でありながらも……。
啜るほろ苦さに意を定めると、魔女は打算を呈してみる事とした。
「いいわ。本来は他言無用の極秘事項だけれど……既知の好で詳細を打ち明けても。況してや、貴方は此処の責任者であるしね」
「交渉成立……か」
「あ、ところで──」
「何だ?」
「──林檎は、まだ持っている?」
邪教徒集団〈黒き栄光〉の襲撃から三日経過した。再襲撃は無い。
馴染みの酒場〈ザリーフ〉にて、ヴァレリアは解答を模索していた。
イスラム教は禁酒戒律であるから、見据える客層はイスラム教徒以外となる。
無論、ヴァレリアも常連だ。
うらぶれた路地裏にひっそりと構えた小規模な店。外観からは健在か潰れたかも定かに無く、ともすれば在る事自体も見落とすような侘しい店。
が、逆に人目に着かないからこそ、キナ臭い話題を交わすには丁度良い。
「コイツが〈マァトの羽根〉って事は断定できた……アイツら自身が、そう呼んだんだからな」
醒めた観察眼で見定めつつ、ワイングラスの湖面を慌てさせる。
手悪戯に眺める黄金の羽根は控えめなきらびやかさを反射に遊び、ようやく〈謎〉のひとつが確定した事実を肯定していた。
「が、何のためだ? 何の意味がある?」
そこは依然として解らない。
「意味が無いはずはない。そんな酔狂をするはずがない。わざわざ〝隠し埋葬〟としていたんだからな。少なくとも、ヤツラが欲しがるだけの価値があるのは確実だ」
「なぁ?」ジョッキの生ビールを呷りながら、隣席の粗雑が訊ねてきた。「何で妹に預けなかった?」
カウンターでの隣席。尚の事、密談に適している。
「さて……ね」
覇気無く苦笑うヴァレリア。
「妹の申し出は理に叶っていたぜ?」
「だろうね。ベターな案だ」
「じゃあ、何で?」
何故、そうしたのか……。
ヴァレリア自身にも分からない。
にも拘わらず、何故そうしたのか?
分からない。
分からないが──「女の勘」──自嘲のジョークに赤を喉へと潤した。
そうする事が安牌にも思えたのだ。
根拠は無い。
さりとも先の襲撃を振り返れば、奇しくも正解であったと言えるのであろう。
結果論とはいえ……。
「マァトの羽根……死者の良心……ねぇ?」
赤の湖面に写る表情は、釈然としない黙想に曇りを孕んでいた。
絡まる紐を丁寧に解きほぐしてみる。
と、この何気ない呟きが、失念していた盲点を再自覚させた。
「……そういう事か」
ようやく炙り出せた!
違和感の正体を!
「あ? 何がだよ?」
「ようやく解った! ずっと何が引っ掛かっていたかすら解らなかったが……ようやく解った! 不自然なのさ! 何故、コレが……〈マァトの羽根〉が〝アンケセナーメンの王墓〟に埋葬されている?」
「どういう意味だ?」
「いいか? この〈マァトの羽根〉ってのは、あくまでも〝概念的要素〟に過ぎない! 現物化する必要は無い! そして、コイツは埋葬者当人の良心を具象化したものだ! つまりは崩御した時点で持って行っている事になる! 現世に……後世に〈形〉として遺す意味は無ぇ!」
「そうなのか? だとすりゃあ……何でだ?」
少しはテメェで考えろ! この脳筋!
そうは思いつつも、ヴァレリアにしても明答は浮かばない。
ここまでだ。
「ふむ?」
再び刻まれる黙考。
黄金は黙して語らない。
「……何故、ヤツラはコレを欲しがった?」
「ヤツラ? 〈黒き栄光〉か?」
「ああ」
「欲しいからだろ?」
この脳筋!
「この〈マァトの羽根〉ってのは、万人共有アイテムじゃねえ。さっきも言ったが、対象個人の〈良心〉を具象化した意味合いになる。つまり、コイツは当人だけに意味を為す。だから、ヤツラが所有する意味など無い……本来ならばな」
「へぇ? じゃあ、何でだ?」
脳筋!
「価値だ! 何らかの価値か意味があるって事だ! それも、わざわざ姿を現して強襲するだけのな!」
「それって何だよ?」
どこまで脳筋だ!
「妥当に考えるならば『財宝的価値』か『歴史的価値』──だが、これらとは考え難い。ヤツラの根は、あくまでも〝エジプト神への狂信〟であり、求めるのは金銭的利潤じゃねぇ。もっと信仰めいた価値のはずだ。ともすれば〈マァト〉自体への崇敬や、或いは〈オシリス神〉への崇敬が動機って考え方も出来るが……だとしても、何を為す物だ?」
「だから、結局のところ何なんだよ?」
「……呪具性」
「呪具?」
「盲信教団って事は〈オカルティズム〉だ。元来、古代エジプトってのは驚嘆的先進文化であると同時に〈オカルティズム〉が根深い──ミイラ作りの概念にしろな。必ずと言っていいほど背景には〈神〉や〈魂〉への畏敬概念がある」
「って事は、つまり……」
「ああ」と、改めて黄金羽根へと関心を注ぐ。「コイツには、何かしら〈呪具〉としての意味合いがあるって事だ。それも、ヤツラが形振り構わず欲するだけの……な」
眩さは妖しさに見えた。
思いがけない個人的訪問のせいで今日はゴタついた。
到底、通常スケジュールでは遅れを取り戻す事は難しい。
だから、アンドリュー・アルターナは独り解析作業に没頭する。
いつ終わるやも知れぬ消化量を憂慮し、娘の早期帰宅を認めた。
否、今回はその方が善い。
自分独りで没頭した方が集中力も捗るというものだ。
もちろん助手は欠いたが、退館時間ギリギリまでは粘るつもりだ。
研究室は相変わらず時間旅行のセピアに呼吸し、所狭しと居座る発掘品が好奇の視線を注ぐ。
そんな異質環境にて僅かな見落としも許さじとばかりに、アンドリュー教授は貪るかのように研究対象へと食い入っていた。
件の古文書だ。
「……〈呪后〉か」
コイツを見た際、魔女が零した驚愕を想起した。
「闇暦以前──遥か古代に実在したという超自然存在。あまりにも強大な不死の女。世が旧暦ならば、私とて一笑に伏していただろうな」
休憩がてらに椅子へと沈む。
仰ぎ眺める傘電球に浅い疲労感を投じつつも、好奇心依存の考察は止まない。
「だが、現在は闇暦……人知及ばぬ〈怪物〉が跋扈する現世魔界だ。いまさら否定する方が、どうかしている」
とはいえ、彼の本分はエジプト考古学者だ。
その視点をブレさせる事など無い。
求めるは〈真実〉のみ。
仮に、そのような史実常識を覆す者が実存していたとしても、それならば現実と加えて再考察するまでである。
「しかし、生憎と真名は解らない。あの〈呪后〉というのも結局は便宜的な通り名だ。それに〈古文書〉の内容──はたして何を集約したものだ? 過去か? 未来か? それとも、その脅威存在を後世へ伝えんとした警鐘か?」
虚空に未だ見ぬ存在を投影して、古代のロマンを夢想した。
「はたして何者であろうか? 王族縁には間違いない。そして、第十八王朝と何らかの関係にあった者で間違いないのだ」
黙考を巡らせる。
歴史に呼ばれたかのように意識を逃せば、こちらをジッと見つめる彫像と目が合った。
腰丈程の高さを持つ黒猫頭の女神像──エジプト神の一柱〈バステト〉の像であった。
「殺戮と弾劾……」
この女神の前身は雌獅子女神〈セクメト〉──人間達の不敬を罰するべく〈太陽神ラー〉によって生み落とされた。後に根幹たる〈憎悪〉を取り除かれて〈善神バステト〉へと新生したが、殺戮の女神として荒ぶる頃には陰惨な大虐殺を繰り広げて民衆を恐怖のドン底へと叩き落とした。古代エジプト神話きっての血腥い殺戮者である。
意識は疲労感にたゆとうままに、柄でもない回顧へと逃避する。
「林檎……か」
襟元を崩して取り出したのは、林檎の金細工ネックレス。
かつて、あの〈魔女〉から授けられた代物だ。
聞けば〈護符〉だと言う。
以来、片時も外した事は無かった。
自分の主義ではない。
安い神頼みはしない主義だ。
偏に〈約束事〉と課せられたからに過ぎない。
あの〈魔女〉から「片時も肌身離さず持っていろ」と……。
はたして、どんな意味があるのかは知らないが、取引の交換条件なのだから仕方無い。
と、部屋の片隅に気配を感じた。
いつの間にやら……だ。
毎度の事ながら……。
「……オマエか」
然も知己とばかりに語り掛ける。
背後とはいえ、その特異な存在感は見ずして何者かを覚らせた。
「まだ進展は無いぞ」
重い腰を上げて珈琲を煎れるも、接客の持て成しではない。自己休憩の為だ。
疲労感蓄積もあって歓迎取り繕う対応すらも面倒臭い。
さりながら、この横柄な態度は言わずして語るのだ──両者の力関係が対等の立ち位置である事実を。
漆黒獣面の使者であった。
口数少ない対話が紡がれる。
バステトは眺め続けた。
日頃から拘束紛いの補佐活動に従事するエレンにとって、別行動の自由を与えられるのは貴重な出来事だ。
父が何に囚われて心変わりしたかは知らないが、どのみち例の解析には間違いない。
という事は、父なりに進展の糸口を見出だしたという事であろうか。
いずれにせよ久々のフリータイムを得た。
「……部屋片付けでもしようかな?」
自室を見渡し呟く。
取り立てて散らかってはいない。
むしろ性分から整理整頓されていた。
が、いざこうしてみると暇を持て余しもする。
姉を呼んでの御茶会もいいが、どうせ来ない──父との鉢合わせを忌避して。
かといって滞っていた家事は手際よくこなしたから、ますます以て〝やる事〟は無い。
だから、逃避的な選択に落ち着いた。
本棚の並び替えに、机上書類の整理。化粧台の鏡面を拭き、ベッドの皺を伸ばす。
テキパキとした手順に働けば部屋は、ますます以て生気を色濃くした。
と、ベッド脇のキャビネットに違和感を感受する。
「うん?」
下段収納が微かに開いていた。
「おかしいわね? 最近は使っていないけれど?」
開けてみる。
そこに押し詰められていた品々を視認したエレンは、軽い困惑に翻弄された。
「え? 何これ?」
眩き金色を照り返す彫像品の数々──古代エジプトに関連した歴史遺品であった。
身に覚えが無い。
買った覚えも無い。
かといって、博物館から持ち帰った品でも無い。
皆、初見だ。
「こんな物が……何で?」
早鐘を圧し殺しつつ、手に取って観察を向ける。
掌サイズの彫像に、小箱……首飾り……メダル…………形態は様々ではあったが、総じて黄金製であり、その瑞々しい輝きは経年の汚れを斥けていた。
「ホルスにバステト……セト……セベクすら有る」
どれもこれも名だたる〈エジプト神〉だ。
それを意匠として作られている。
「何? 何なの? コレは!」
得体知れない焦燥が強まる。
何故、このような品々が自分の部屋に有るのか?
いや、それ以前に、そもそもコレは何であろうか?
「見て解る。到底、安物や模造品じゃない。発掘品なら博物館へと納品される……私だって見ているはず。だけど、見覚えが無い」
となれば有力な可能性が思いつく。
そうとしか思えない可能性が……。
「まさか……盗品?」
零れる呟きが結論づく。
「だ……誰が?」
父ではない。
立場的に発掘品への権限は自由自在だ。
盗み隠す意味など無い。
「まさか、イムリス?」
連鎖的に思い浮かんだ近辺者は彼だった。
しかし──「いいえ、有り得ない。彼の実直さは知っているもの。何よりも、彼は〈エジプト考古学〉には関心が薄い。アルターナ家の使用人という特異な立場上、軽く携わってしまうだけ」──己の軽薄さを戒めるかのように頭を振る。
そして、不可解な点もあった。
「わたし自身が不在の際には部屋の鍵を掛けてある。それに何故、ココへ?」
キャビネットはベッドと壁の狭間に据えてある。
しかも、その最下段収納に隠してあった。
エレンですら、そこを使う際には面倒臭いので最近は使用していない。
仮に引き摺り出そうものなら、ベッド上のシーツやタオルケットはグチャグチャだ。
「なのに、取り立てて荒らされた形跡も無い……」
不可解である。
そして、疑わしき品々の中に埋もれていた存在感が、彼女を殊更得体の知れない不安へと貶めるのである!
「え?」
ある──それだけは──見覚えがある!
「こ……これは……アヌビス?」
間違いない!
あの〈夢〉の中で見た物だ!
血の池から摘まみ拾った物だ!
殺戮の代償と奪い取った物だ!
「う……そ? な……何で?」
ワナワナと震える呆然。
思考放棄をしたくとも、それを許さぬ現実。
あれは〈夢〉だったはずだ!
血腥くとも……陰惨であろうとも……あれは〈夢〉だった!
夢であったはずなのだ!
「嘘よ……嘘嘘嘘嘘嘘!」
混乱に頭を振る!
狂ったかのように拒絶を吐き散らす!
──まだだ……。
「え?」
ゾッとした!
突然、何者かの声がしたのだ!
背後から──頭上から──隣から──何処からか定かにない位置から、しかし、いずれの方向とも取れる位置から!
──まだ〈オシリス〉がある……。
「だ……誰!」
慄然と呼ばれるままに立ち上がり、警戒滑りに周囲を見渡した!
……誰もいない。
然れど、確かに聞いた!
聞いたのである!
幻聴などではない!
女の声であった。
暗い深淵から木霊するかのような……。
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