藤枝蕗は逃げている

木村木下

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後遺症

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 その夜、また夢を見た。
長い金髪を緩く編んで背中に流したローラン様が、窓辺に座って外を見ている。頬杖をついた指先はインクで汚れていた。もう片方の手は膝に乗っている猫の毛を前に後ろにと撫でている。よく見れば、机の上には羊皮紙の束が溢れんばかりに積み重なっていた。机だけではない。床に置かれた箱や、本棚、ベッドの上にまで散乱している。そのどれもに、魔方陣が描かれていた。俺はゆっくりと彼に近づき、彼の膝の上に頭を寄せた。記憶よりも少し大人びた面持ち。まだ幼さのあった頬はすっかりと男らしく精悍になっている。
「ローラン殿下」
 部屋に入ってきたセディアスが、ローラン様に呼びかける。ローラン様は鼻歌を止めゆっくりと振り返った。
「やあ、宰相閣下だ。お仕事中ではないの」
「あなたこそ。勉強会に来ないと臣下が困っていますよ」
「役立たずでいることが私の仕事だもの」
 ローラン様が朗らかに笑った。セディアスが深くため息をつく。宰相が働き政務が正常に行われている今ローラン様が殿下と呼ばれているのなら彼は王にならなかったのだ。そうか、ロニーはついにユーリ殿下を王位まで押し上げたらしい。
「賢王と名高い叔父上を見習ってお前も仕事を頑張りなさい」
 毛足の長い白猫を撫でながらローラン様が言った。セディアスが嫌そうに眉を顰める。
「王族に剣を向けた一族です。忠誠など誓えません」
「困った男だ」
 穏やかに笑うローラン様の足元に、セディアスが膝をついた。親子ほど年の離れたローラン様相手に躊躇いなく頭を下げる。
「あなたが王になるべきだった」
「叔父様ほどじゃない」
 猫を抱き上げて、ローラン様が部屋を歩いた。セディアスが伏せていた頭を上げ、彼の動きを首で追う。ユーリ殿下を叔父と呼びながら、ローラン様は一瞬皮肉気に目を細めた。
「わたしは王になるために人を殺せないもの」
 セディアスの顔が一気に青くなる。彼は俯き、唇を強くかむと口早に断ってから部屋を出た。ローラン様がつまらなそうにその背中を見ている。彼は一人になると、また窓へと近寄った。椅子に腰かけ、頬杖をついて外を眺めている。見れば、そこにはドレスを着た女性がいた。侍女を大勢従え、腕に赤子を抱いている。豊かな金髪の、顔半分を仮面で覆った女。

 翌日、俺は身支度を整えるとロニーに会うために騎士団本部へと向かった。受付で名前を言うと、すぐに部屋に通される。昨日ほどは待たずに冷たい表情のロニーが部屋にあらわれ、着いてくるようにと言って歩き始めた。どうやら、城の方へと向かっているらしい。城門までつくと、ロニーの顔を見た衛兵が敬礼と共に道を開ける。
「これからお前をユーリ殿下の元へ連れて行く」
 歩きながら、ロニーが背を向けたまま言った。まさか直接会うことになるとは思わず、戸惑いながら返事をする。
「俺は会う必要なんかないと言ったんだけど、どうしても直接会いたいと仰せなんだ」
 ロニーは大きくため息をついた。肩が大げさに上下する。その背中を見ながら昨日の夢には、彼は出てこなかった、と考える。昨日の夢の最後に出てきたのは、おそらくミリアだろう。ローラン様に顔の皮を剥がれたせいで、顔半分に仮面をしているのだ。彼女はユーリ殿下と結婚し、子を儲け城で暮らしていた。でもロニーはいなかった。大勢の人の前で王妃を剣で貫いた彼は、そのあとどうなったのだろうか?
「守ってほしいことがある。それさえ守れば、薬が嘘だろうが許してやる」
「は、はい」
 薬は正真正銘本物だが、一応返事をしておく。ロニーはこちらを振り返り、軽く睨んでから鼻を鳴らした。ユーリ殿下と俺が対面することになったのがよほど不服らしい。
「殿下が仮面を外しても、決して悲鳴をあげるな。怖いなら舌を噛んでろ」
「……はい」
 話しているうちに目的の場所に着いたらしい。見れば、そこは城の東棟、王族の居住区だった。建物の一番奥へと進むと、離れのような場所がある。あちらの世界にも、こんな部屋があっただろうか。ロニーが戸を叩くと、中から女が出てきた。艶のある金髪に、思わず息を呑む。ミリアだ。彼女はロニーの顔を見ると、中へと戻ってユーリ殿下に取り次ぎをした。入室の許可が下り、彼らのあとに続いて部屋へと入る。奥まで行くと、部屋を覆い隠すように赤い紗の布が垂らされているのが見えた。その向こうに、黒い影がいる。
「お前たちは下がっていろ」
 ユーリ殿下の声だ。ミリアとロニーは互いに顔を見合わせ、躊躇う様子を見せたが中々退室しない彼らにユーリ殿下が「さっさとしろ」と声をかけると大きくため息をついて外へと出て行った。
 二人きりになり、俺はどう切り出して言いか分からず黙り込んで胸元にしまっている薬の小瓶を握りしめた。当初の予定では、ロニーに薬を渡し次の日くらいにお礼としてオルランドに会わせてもらうはずだったが、どんどんズレてきている。
「どうした?」
 立ち尽くしていると、紗の向こうから笑い交じりの声が聞こえた。黒い人影は、どうやら寝そべっているらしい。頭を腕で支えている様子が、燭台に照らされぼんやりと布に浮かび上がっている。
「そんなところにいては話もできない。こちらへ来い」
 命じることに慣れた、力強い声だ。似ても似つかないはずなのに、なぜだか夢の中のローラン様を思い出す。俺は息をつめ、思い切って紗を手でかきわけて進んだ。
 仮面をしていてなお、美しい男だ。寝そべった体の輪郭に沿って、艶やかな黒髪が流れている。身にまとった黒い衣は、燭台の光を反射して橙色に光っていた。彼は手袋に覆われた手をこちらへ向け「おいで」と言って俺を呼び寄せた。戸惑いながら近寄り、胸元から薬の瓶を取り出す。蜂蜜に似た液体の入った瓶を見ると、ユーリ殿下は「飲み薬か?」と聞いた。首を振って塗り薬だと返せば、唐突に手首をひかれる。俺は体勢を崩し、ユーリ殿下の寝台の上へと転んだ。
 顔を上げると、すぐ近くに銀色の仮面が見える。目の位置にある穴から、赤い瞳孔がこちらを見ているのが分かった。
「外して」
「え?」
「仮面を外して」
 言いながら、ユーリ殿下が俺の手を取り、自身の顔へと近づける。皮で出来た手袋は冷たく、俺は思わず体を強張らせた。しかし、ユーリ殿下の力は強かった。俺の手はあっという間に仮面に触れた。表面の繊細な彫りを指先に感じ、俺はどうすればいいかわからず赤い瞳を見つめた。
「傷が治るんだろう。お前が仮面を外して塗ってくれ」
 言われるがまま、仮面の縁に手をかける。ユーリ殿下が片腕を持ち上げ、頭の後ろにある、仮面の紐をほどいた。手の中に仮面が落ち、ユーリ殿下の素顔が明かりの元、露になる。
 そうか、流行り病のあばたはこれほどか。俺は思わず目を見開き、彼の顔をじっと見つめた。驚きの視線には慣れているのだろう、ユーリ殿下の目が細まる。
「もし薬が効かなければ、お前をどうしてやろうか」
そう言って目を細めた彼の素肌は、まるで今まさに傷を負ったばかりかのように赤くただれ、ところどころ膿んでいる。白や緑の体液が、はがれた皮膚の下からじんわりと滲んでいる様子もあった。
 痛むだろう。王になるよう期待された人が城の端っこでこんな傷を負ったまま、ずっと過ごしていたのだ。瞬間、俺はロニーの気持ちが不意にすとんと理解できた気がした。共に庭を駆けるほど仲の良かった主従が、主君のこんな姿を見て何も思わなかったはずがない。ユーリ殿下を王にしたいと願ったのは、ただ彼の笑う顔がもう一度見たかったからなのだ。
 握っていた小瓶の蓋を開け、手のひらに薬を垂らす。指先に着けた薬を、そっとユーリ殿下の肌につける。触れた瞬間、鋭く痛みが走ったのか、彼が眉を寄せ目を伏せた。薄く開いた唇から、細く息を吐く。頬のあたりは特に傷がひどく、皮膚が深くはがれてしまっている。なるだけ痛みのないよう、指先にたっぷりと薬を掬ってそっと触れる。顔全体に薬を塗り終えると、ユーリ殿下は体を起こし、身に着けていた衣の前を寛げた。ぎょっとしつつ見守れば、すぐに彼の真意が察せられる。病によるあばたは、顔だけではなく全身に及んでいたのだ。皮膚の柔らかい腹や、脇、腋窩、背中に至るまでが点々と赤くただれている。これでは横になるのもつらいだろう。
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