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王妃
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王妃の胸にじんわりと赤い液体が滲む。彼女は何が起こったのかわからない様子で、混乱の中立ち上がったまま自身の胸に突き刺さった剣を見ていた。一瞬の静寂の後、オルランド騎士団長がロニーを押さえつける。ロニーは荒々しく腕を背にまとめられ、頬を地面に打ち付けていた。貴賓席に座っていたセディアス宰相が階段を駆け上ってこちらへ来る。彼は今にも倒れそうな王妃の体を抱きとめると、泣いている傍付きの侍女に医師を呼ぶよう指示した。
「セディアスさま」
王妃の声だ。彼女はセディアスの腕の中にたよりなく身を預け、白く華奢な手を持ち上げてセディアスの頬に触れた。周囲に厳しく指示を飛ばしていたセディアスが、視線を彼女に戻す。
「セディアスさまだわ」
少女のような声だった。死の淵に瀕していると言うのに、彼女の顔に喜色が浮かぶ。セディアスは戸惑ったように息を呑んだ。彼女の背に添えられている腕は、とめどなく流れてくる血潮のせいで真っ赤に染まり、その下には大きな血だまりが出来ている。しかし、王妃の表情だけ見れば、彼女はまさに幸福のさなかにいるようだった。
「お気を強くお持ちください。すぐに医官が参ります」
「セディアスさま、手を握って」
彼女が言い終わるのとほとんど同時に、ごぽりという音がして唇から血が溢れる。そうなって初めて、王妃は自分が剣で貫かれたことに気づいたようだった。セディアスが彼女の手を握る。王妃の大きな目に、みるみる間に涙の膜が張った。彼女は大粒の涙をあとからあとから零しながら、セディアスに「手を握ってほしいの」とねだった。
「ずっと手を握っていて欲しかったの」
「王妃様、どうか今はもう話さないで。傷に障ります」
オルランドがセディアスに指示され、拘束したロニーを引きずって歩く。顔面を蒼白にして立ち尽くしていたユーリ殿下が、はっとしたように顔をあげてそれを止めた。
「待ってくれ、私の友だ」
オルランドの腕に手をかけ、必死に言い募る。しかし、ロニーが王妃に刃を向けるところをこの場にいるすべての人間が見ていたのだ。オルランドはにべなく首を振った。
騒ぎの中、ローラン様だけが椅子から立ち上がりもせずに事態を傍観していた。唇はやはり笑みの形で、彼だけを見ればなんの異常もなく迎花宴が続いているのかと錯覚してしまいそうなほどだった。
オルランドに引きずられるロニーが、不意に顔を上げて縋るようにしてローラン様を見る。その一瞬の表情で、俺にはすべてが分かってしまった。俺だけではない。ユーリ殿下もまた察したのだろう、驚きに目を見開き、猛然とローラン様に詰め寄る。
「お前が命じたのか?」
声が怒りに震えている。聞きながら、ユーリ殿下は確信しているようだった。ローラン様がゆっくりと視線を彼に向ける。
「命じた? 彼はあなたの従僕だろう。あなたが命じたことではないの」
声が聞こえたのか、オルランドに両腕をきつく締め上げられているロニーが激しく首を振って怒鳴った。
「違う! 俺がひとりでやったことです!」
ローラン様がつまらなそうに眼を細める。彼は優雅に立ち上がると、肩にかかっていた長い金髪を後ろに払った。ロニーの言葉に凍り付くユーリ殿下の傍を通り、セディアスと王妃がいる場所へと近づく。彼は静かに座り込むと、やや高い場所から王妃の顔を覗き込んだ。セディアスを見つめていた王妃が、瞬きをしながらローラン様を見上げる。血に濡れたその顔を見て、ローラン様はつまらなそうに言った。
「あなたの血も赤いのか」
俺は呆然とその様子を見ていた。血を流しすぎたのか、王妃の顔色は真っ青で、呼吸は荒くなってきている。彼女はローラン様の顔を見て、憎々し気に眉を寄せた。セディアスの胸に置いていた手を、服を巻き込んでぎゅっと握る。
「あなたの思い通りにはなりません、私が死んでもあなたの使用人は戻ってこないもの……!」
「そう」
ローラン様は無感動に答えた。興味を失ったのか、立ち上がり王妃に背を向ける。その背に向かって、王妃が叫んだ。
「あなたの顔が嫌いよ! あの女にそっくりの顔が……!」
胃の腑からせりあがってきた血が、ごぼっと音を立てて彼女の口から零れる。瞳がぐるんと上に登り、王妃の体が小刻みに痙攣する。ようやく医師が駆け付け、セディアスが王妃を懸命に呼ぶ。その喧騒を背に、ローラン様はゆっくりと階段を下りていた。薄青色の袖が揺れ、木から落ちた花びらが、彼の靴の先についていた。
起きると、まだローラン様は膝で眠っていた。痛む頭と、早鐘を打つ心臓をどうにか落ち着けようと深く息を吸う。ローラン様の黒い髪を梳くと、冷えて震える指の間をさらさらと流れた。
汗をかいていた。夢で見た内容を整理しようと必死に思い出すが、混乱してうまくいかない。ローラン様は、ロニーに命じて王妃を殺した。ついに決定的に運命を違えてしまった予感がして、じわじわと落ち着かない。それよりも気にかかるのは、季節が進んでいるということだった。俺がこちらの世界に来てから、まだひと月も経っていない。季節は夏のままだ。だというのに、あちらの世界では雪解けの祝祭が行われ、今日は迎花宴だった。時間の流れが違うのだ。あちらの方が、早く進む。
「フキ?」
目を覚ましたのか、ローラン様が膝の上から体を起こす。こちらを見上げる顔は、どこか不安げだった。俺は取り繕って微笑むと、彼の乱れた前髪を指で伸ばした。ローラン様はくすぐったそうに微笑んだ。
「セディアスさま」
王妃の声だ。彼女はセディアスの腕の中にたよりなく身を預け、白く華奢な手を持ち上げてセディアスの頬に触れた。周囲に厳しく指示を飛ばしていたセディアスが、視線を彼女に戻す。
「セディアスさまだわ」
少女のような声だった。死の淵に瀕していると言うのに、彼女の顔に喜色が浮かぶ。セディアスは戸惑ったように息を呑んだ。彼女の背に添えられている腕は、とめどなく流れてくる血潮のせいで真っ赤に染まり、その下には大きな血だまりが出来ている。しかし、王妃の表情だけ見れば、彼女はまさに幸福のさなかにいるようだった。
「お気を強くお持ちください。すぐに医官が参ります」
「セディアスさま、手を握って」
彼女が言い終わるのとほとんど同時に、ごぽりという音がして唇から血が溢れる。そうなって初めて、王妃は自分が剣で貫かれたことに気づいたようだった。セディアスが彼女の手を握る。王妃の大きな目に、みるみる間に涙の膜が張った。彼女は大粒の涙をあとからあとから零しながら、セディアスに「手を握ってほしいの」とねだった。
「ずっと手を握っていて欲しかったの」
「王妃様、どうか今はもう話さないで。傷に障ります」
オルランドがセディアスに指示され、拘束したロニーを引きずって歩く。顔面を蒼白にして立ち尽くしていたユーリ殿下が、はっとしたように顔をあげてそれを止めた。
「待ってくれ、私の友だ」
オルランドの腕に手をかけ、必死に言い募る。しかし、ロニーが王妃に刃を向けるところをこの場にいるすべての人間が見ていたのだ。オルランドはにべなく首を振った。
騒ぎの中、ローラン様だけが椅子から立ち上がりもせずに事態を傍観していた。唇はやはり笑みの形で、彼だけを見ればなんの異常もなく迎花宴が続いているのかと錯覚してしまいそうなほどだった。
オルランドに引きずられるロニーが、不意に顔を上げて縋るようにしてローラン様を見る。その一瞬の表情で、俺にはすべてが分かってしまった。俺だけではない。ユーリ殿下もまた察したのだろう、驚きに目を見開き、猛然とローラン様に詰め寄る。
「お前が命じたのか?」
声が怒りに震えている。聞きながら、ユーリ殿下は確信しているようだった。ローラン様がゆっくりと視線を彼に向ける。
「命じた? 彼はあなたの従僕だろう。あなたが命じたことではないの」
声が聞こえたのか、オルランドに両腕をきつく締め上げられているロニーが激しく首を振って怒鳴った。
「違う! 俺がひとりでやったことです!」
ローラン様がつまらなそうに眼を細める。彼は優雅に立ち上がると、肩にかかっていた長い金髪を後ろに払った。ロニーの言葉に凍り付くユーリ殿下の傍を通り、セディアスと王妃がいる場所へと近づく。彼は静かに座り込むと、やや高い場所から王妃の顔を覗き込んだ。セディアスを見つめていた王妃が、瞬きをしながらローラン様を見上げる。血に濡れたその顔を見て、ローラン様はつまらなそうに言った。
「あなたの血も赤いのか」
俺は呆然とその様子を見ていた。血を流しすぎたのか、王妃の顔色は真っ青で、呼吸は荒くなってきている。彼女はローラン様の顔を見て、憎々し気に眉を寄せた。セディアスの胸に置いていた手を、服を巻き込んでぎゅっと握る。
「あなたの思い通りにはなりません、私が死んでもあなたの使用人は戻ってこないもの……!」
「そう」
ローラン様は無感動に答えた。興味を失ったのか、立ち上がり王妃に背を向ける。その背に向かって、王妃が叫んだ。
「あなたの顔が嫌いよ! あの女にそっくりの顔が……!」
胃の腑からせりあがってきた血が、ごぼっと音を立てて彼女の口から零れる。瞳がぐるんと上に登り、王妃の体が小刻みに痙攣する。ようやく医師が駆け付け、セディアスが王妃を懸命に呼ぶ。その喧騒を背に、ローラン様はゆっくりと階段を下りていた。薄青色の袖が揺れ、木から落ちた花びらが、彼の靴の先についていた。
起きると、まだローラン様は膝で眠っていた。痛む頭と、早鐘を打つ心臓をどうにか落ち着けようと深く息を吸う。ローラン様の黒い髪を梳くと、冷えて震える指の間をさらさらと流れた。
汗をかいていた。夢で見た内容を整理しようと必死に思い出すが、混乱してうまくいかない。ローラン様は、ロニーに命じて王妃を殺した。ついに決定的に運命を違えてしまった予感がして、じわじわと落ち着かない。それよりも気にかかるのは、季節が進んでいるということだった。俺がこちらの世界に来てから、まだひと月も経っていない。季節は夏のままだ。だというのに、あちらの世界では雪解けの祝祭が行われ、今日は迎花宴だった。時間の流れが違うのだ。あちらの方が、早く進む。
「フキ?」
目を覚ましたのか、ローラン様が膝の上から体を起こす。こちらを見上げる顔は、どこか不安げだった。俺は取り繕って微笑むと、彼の乱れた前髪を指で伸ばした。ローラン様はくすぐったそうに微笑んだ。
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