藤枝蕗は逃げている

木村木下

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風邪

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 最後に風邪をひいたのは、まだ森にいた頃だったように思う。咳が出て苦しかった。あの頃は食べるものもなくいつも腹が減っていたし、安心して眠れる場所もなかった。最初のうちはランドセルを片時も放さず持ち続けて、さみしくなると教科書を開いていた。あめんぼ、かきのき、ささのは、ひらがなを指でなぞりながら声に出して読む。裏表紙には母が書いてくれた名前があり、それを見るとどんなに寒くて腹が空いていても気が紛れた。ふじえだふき、という名前だけは、絶対に忘れないでいられると思った。そのおかげか、いつのまにかランドセルはどこかへ行ってしまい、教科書も失くしたが、ちゃんと名前は憶えていられた。
 あの頃は、風邪を引いただけで死ぬのかもしれないと怖かった。生きるのに必死で、とにかくつらくて、さみしくて、だから老爺に抱き上げられたとき、すごく嬉しかった。知らない大人だったが気にならず、俺は彼についていき、白く柔らかなパンを食べさせてもらったときは、この世で一番おいしいと思ったものだった。俺を抱き上げてくれた老爺とやさしく頬を撫でてくれた老婆が死んだときは、また森に戻ることになるのかと怖かった。
 面倒を見てくれたシェード家には、返しても返し切れない恩がある。優しかった旦那様と奥様。身分の差など感じさせず、時には抱き上げてくれさえもした。俺は安心して飯を食べ、眠り、遊ぶことができた。冒険小説も読んだ。剣も習った。
 二人の大切なローラン様。かわいい赤ちゃん。俺が命をかけて守る人。ローラン様を守れるなら、なんだってする。旦那様や奥様に与えられたものを全部お返しするのだ。


 咳をして目が覚めた。体が重い。窓から入る光は西日が強くなってきていた。持っていた短剣を握り直しながら体を起こす。アーシャが用意してくれたらしい水を飲む。頭がひどく痛んだ。汗をかいて、服が湿っているのが分かる。手の甲を首筋に当てると、まだ熱い気がした。
 階段を降りると、ちょうどアーシャの後姿が見えた。開いた玄関の戸の前に立って、誰かと話している。
「驚いた、アンタ、ひとりでやったのかい」
「これで俺もフキも、あんたに対して貸し借りはなしだ」
 ローラン様だ。帰ってきたのだ。階段を急いで降りると、物音に気付いたらしいアーシャが振り返って俺の名を呼んだ。まだ外にいたローラン様は、はっとしたように目を見開いた。持っていたものを放り投げ、アーシャの横をするりと抜けてこちらへ来る。彼は俺の腰に手を当て、支えるようにぐっと抱き寄せた。
「なんで起きてる。風邪をひいてるんだから、大人しく寝てろ」
 咳をしながら頷く。
「おかえりなさい、ローラン様」
 そう言うと、ローラン様はうろたえて口を閉ざした。気まずそうに視線をそらし、かすかに頷く。彼はつけていた手袋を取り、俺の額にそっと触れて「まだ熱がある」と言った。後ろで鍵をかけていたアーシャが「熱冷ましは二番目の棚だよ」と言う。ローラン様に促されるまま椅子に腰かけると、彼は流れるような手つきで棚を開け、中の薬を検めた。
「それで、いつまでいるつもりなんだい」
 隣の椅子に腰かけたアーシャがコップに水を注ぎながら聞く。ローラン様は粉薬を少量の水で練り、丸くしながら「熱が下がったら」と答えた。相槌のような咳が出る。アーシャは頬杖をついて俺の方を見た。
「フキ、アンタの主人が約束を守ったよ」
 約束? 小さく続く咳をしながら首をかしげると、アーシャが「チオンジーさ。外に転がってる」と付け加えた。驚いて立ち上がり、窓の外を見る。すると、玄関のすぐそばに見間違えるはずもない巨体が倒れているのが見えた。慌ててローラン様の傍へ行き、彼の体に触れ怪我がないか確かめる。ローラン様は丸薬を持ったまま「おい、やめろ!」と慌てて逃げた。アーシャが声を上げて笑う。いつの間にか、赤い果実酒を出して飲み始めていた。
「あたしの薬はよく効くから、今日が最後の夜になりそうだね」
「アーシャ」
 ローラン様の傍から戻り、彼女に頭を下げる。
「助けてくれて本当にありがとう。アーシャが困っていたら、必ず助ける」
 匿ってもらうだけのつもりだったのに、彼女は薬や食事をくれ、おまけに風邪を引いた俺に優しくしてくれた。感謝してもしきれない。酒を飲みながら、アーシャが口元をやわらげた。
「魔女と約束するな」
 ローラン様が冷たい声を出した。俺の手に丸薬を握らせ、コップに少なくなっていた水を注ぐ。アーシャはひょい、と片方の眉をあげて肩を竦めた。それからすぐに真剣な表情でローラン様を見る。
「気をつけな。胸の印は消しても、油断すればすぐに見つかるよ」
 ぐっと眉間に皴を寄せ、ローラン様が頷く。彼は俺が薬を飲んだのを見ると、チオンジーを片付けると言ってまた外へ出た。その背中を見送りながら、アーシャに尋ねる。
「魔女に見つかったら、どうなる?」
「そりゃ、殺されるだろうね」
 あっさりと返されて、体が固くなる。俺はなるべく早く元の世界に戻らなければいけないが、命を狙われているこの世界のローラン様を置いていくわけにはいかない。
 玄関の戸が軋みながら開き、ローラン様が戻ってくる。彼は汚れた手を払いながらこちらを見た。
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