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ローラン様は忙しいので
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宰相は本気でローラン様を王にするつもりのようだった。王になる気はないと宣言したのにも関わらず、ローラン様には様々な教師がつけられ、暇という暇がなくなってしまった。俺なら受けたくもない勉強をさせられれば「やってられるか!」と逃げ出すだろうが、ローラン様はお優しいのでわざわざやってきた教師を追い返すこともできず、穏やかな顔で歴史や教養の勉強をなさっている。
ローラン様の暇がなくなったのに比例して、もともと暇だった俺はますます暇になってしまった。もはや、することがないと言った方が正しい。本当であれば今すぐにでも月光百合を採りに行きたいのだが、採ったとてまだ渡せなくて腐ってしまうよ、と主人にたしなめられた。
とはいえ、ローラン様の授業が終わるのを日がな一日まつわけにもいかない。俺は城の人間の目を盗み、洗濯場や厨房で下働きをした。幸い、俺の顔や存在は、ごく一部の人間しか知らないようだった。今日も使用人にまざってシーツを洗濯板で擦っていると、となりで作業をしていた少女がはあ、と悩まし気なため息をついた。鼻のあたりにそばかすの散った、まだ城で働き始めてひとつきも立っていない勝気な女の子だ。
「どうしたの」
聞くと、彼女は泡をあちこちに飛び跳ねさせながら答えた。
「今日、東棟にシーツを取りに行ったらローラン王子をみかけたの。私に気づいてくださって、お疲れさまって言ったのよ」
ローラン様は挨拶も得意だ。最近、彼になにも教えられず十六年という時間を無為に過ごさせたということに気づき落ち込んでいた俺は、少し嬉しくなった。身分や親交の深さに分け隔てなく挨拶をするお人柄は天性のものだが、一般的な言葉を彼に伝えたのは俺だ。
「なんて素敵なんだろう。自分と同じ人間だなんて信じられないわ。金のおぐしがきらきらして、まるで春の女神さまみたいに綺麗よ」
すごく良くわかる。俺は頷いた。金の髪、青い目、白い肌、ローラン様にはこの国で美人に必要なものがすべてそろってらっしゃる。俺たちがいかにローラン様が美しいかということについて話していると、隣で服の泡をすすいでいた女性が「ユーリさまだって以前はそりゃお綺麗な方だったけどねえ」と話に入ってきた。彼女はもう二十年以上も城に務めている。
「ユーリ様って?」
そばかすの少女が聞いた。
「王太子殿下さ。背が高くって、髪は黒くてつやつやしてらして、いつも溌剌と笑ってらっしゃったんだよ」
街でも大人気だった。
「ご病気さえしなけりゃねえ。ローラン様にだって負けない貴公子だったのに」
なんにんかの女たちが揃って頷く。聞けば、病気をする前は城中を駆け回るような活発な人だったらしい。
「騎士団にロニー様っていう方がいてね。いつも一緒に走り回ってらっしゃった。私らにも気安く声をかけてくださって……」
女の隣で桶の水を捨てていた男が心配そうに言った。足元で遊んでいた使用人の子供達が跳ねる水に声をあげて喜ぶ。
「後遺症ってのは、そんなに悪いのかねえ。立てないほどなんだろうか」
すすぎ終わったシーツを固く絞りながら、俺はユーリ殿下について考えた。すっかりあばたを治せばよいだけだと考えていたが、後遺症がひとつだとは限らない。もし、彼が起き上がれないほどひどい状態だったら、治せるだろうか? 治せなかったら、やはりローラン様はこの国の王になってしまうのだろうか?
次の日もローラン様は朝から晩まで授業を詰め込まれてお忙しい様子だった。が、今日は俺にもやることがあった。
南棟にある、あの木の扉の向こうに行くのだ。前に行った時はさすがに城の木に登るなんてとしり込みしたが、躊躇っている場合ではない。このままでは、ローラン様はあっという間に王にされてしまう。あの方は信じられないほど賢くて、あらゆることをあっという間に覚えてしまうのだ。勉強なんてあと数日もすれば必要なくなるだろう。
いつも通り洗濯を手伝ってくると部屋を出た俺はさも何も企んでいませんよ、という顔をし、トゲ木苺を摘みに来たふりをして歩いた。木の扉の前まで来ると、周囲に人がいないのをさっと確認し、すばやく枝に手をかける。幹を蹴るようにして、勢いよく体を引き上げた。
幸い、太い枝が何本かあり、俺は難なく木の上に登ることができた。針葉樹なのもあり、葉が体を隠してくれるのも助かった。木々の後ろにはレンガの塀があり、それを越えるとひらけた場所になっていた。遠くに、たしかに塔のようなものが見える。足を延ばして塀に飛び乗り、音を立てないよう慎重に体を地面に下ろす。
無事に木の戸の向こうへ来ることができた。俺は走って塔に向かった。近づいてみてわかったが、塔はすごく大きかった。全体的に白く古ぼけており、窓が二つ、てっぺんに近いところにある。ところどころにツタが這っていた。ふもとまで来ると、やはり木の扉があり、鍵がかかっていた。
流石の俺も、こんなに高い塔を登るわけにはいかず、途方に暮れてしまう。せっかくここまで来たが、無駄足だったかもしれない。肩を落として、引き返そうと体を回転させると、すぐそこに人が立っていた。飛び上がるほど驚き、思わず後ろに数歩下がる。
背の高い男だった。ゆったりとした作りの、紺色の衣を着ていて、手には本を持っている。一番目を引くのは、その顔を隠すようにつけられている銀の仮面だった。
「誰だ」
低い声が問う。俺は背中を塔の外壁にぴたっとくっつけながら「お、俺の名前は藤枝蕗です」と答えた。驚きすぎて、自分が日本語を話していることにも気づかなかった。相手は当然俺の言葉がわからなかったようだが、かえってそれが良かったのか、張り詰めていた雰囲気がふっと緩んだ。
「城にきたばかりで迷ったのか? こんなところに来るな」
俺の格好をちらりと見ると「洗濯係だな」と言う。何度も必死にうなずく。彼はついて来いと言うように俺の手首を掴むと、城への戻り方を教えてくれた。おかげで、木を登らずとも西棟のはずれから容易に出入りできることに気づいた。一人で戻れるところまで俺を案内した男は、自分はそこで足を止めて「もう来るなよ」と俺の背を叩いた。
多分だが、この人がユーリ殿下だった。
ローラン様の暇がなくなったのに比例して、もともと暇だった俺はますます暇になってしまった。もはや、することがないと言った方が正しい。本当であれば今すぐにでも月光百合を採りに行きたいのだが、採ったとてまだ渡せなくて腐ってしまうよ、と主人にたしなめられた。
とはいえ、ローラン様の授業が終わるのを日がな一日まつわけにもいかない。俺は城の人間の目を盗み、洗濯場や厨房で下働きをした。幸い、俺の顔や存在は、ごく一部の人間しか知らないようだった。今日も使用人にまざってシーツを洗濯板で擦っていると、となりで作業をしていた少女がはあ、と悩まし気なため息をついた。鼻のあたりにそばかすの散った、まだ城で働き始めてひとつきも立っていない勝気な女の子だ。
「どうしたの」
聞くと、彼女は泡をあちこちに飛び跳ねさせながら答えた。
「今日、東棟にシーツを取りに行ったらローラン王子をみかけたの。私に気づいてくださって、お疲れさまって言ったのよ」
ローラン様は挨拶も得意だ。最近、彼になにも教えられず十六年という時間を無為に過ごさせたということに気づき落ち込んでいた俺は、少し嬉しくなった。身分や親交の深さに分け隔てなく挨拶をするお人柄は天性のものだが、一般的な言葉を彼に伝えたのは俺だ。
「なんて素敵なんだろう。自分と同じ人間だなんて信じられないわ。金のおぐしがきらきらして、まるで春の女神さまみたいに綺麗よ」
すごく良くわかる。俺は頷いた。金の髪、青い目、白い肌、ローラン様にはこの国で美人に必要なものがすべてそろってらっしゃる。俺たちがいかにローラン様が美しいかということについて話していると、隣で服の泡をすすいでいた女性が「ユーリさまだって以前はそりゃお綺麗な方だったけどねえ」と話に入ってきた。彼女はもう二十年以上も城に務めている。
「ユーリ様って?」
そばかすの少女が聞いた。
「王太子殿下さ。背が高くって、髪は黒くてつやつやしてらして、いつも溌剌と笑ってらっしゃったんだよ」
街でも大人気だった。
「ご病気さえしなけりゃねえ。ローラン様にだって負けない貴公子だったのに」
なんにんかの女たちが揃って頷く。聞けば、病気をする前は城中を駆け回るような活発な人だったらしい。
「騎士団にロニー様っていう方がいてね。いつも一緒に走り回ってらっしゃった。私らにも気安く声をかけてくださって……」
女の隣で桶の水を捨てていた男が心配そうに言った。足元で遊んでいた使用人の子供達が跳ねる水に声をあげて喜ぶ。
「後遺症ってのは、そんなに悪いのかねえ。立てないほどなんだろうか」
すすぎ終わったシーツを固く絞りながら、俺はユーリ殿下について考えた。すっかりあばたを治せばよいだけだと考えていたが、後遺症がひとつだとは限らない。もし、彼が起き上がれないほどひどい状態だったら、治せるだろうか? 治せなかったら、やはりローラン様はこの国の王になってしまうのだろうか?
次の日もローラン様は朝から晩まで授業を詰め込まれてお忙しい様子だった。が、今日は俺にもやることがあった。
南棟にある、あの木の扉の向こうに行くのだ。前に行った時はさすがに城の木に登るなんてとしり込みしたが、躊躇っている場合ではない。このままでは、ローラン様はあっという間に王にされてしまう。あの方は信じられないほど賢くて、あらゆることをあっという間に覚えてしまうのだ。勉強なんてあと数日もすれば必要なくなるだろう。
いつも通り洗濯を手伝ってくると部屋を出た俺はさも何も企んでいませんよ、という顔をし、トゲ木苺を摘みに来たふりをして歩いた。木の扉の前まで来ると、周囲に人がいないのをさっと確認し、すばやく枝に手をかける。幹を蹴るようにして、勢いよく体を引き上げた。
幸い、太い枝が何本かあり、俺は難なく木の上に登ることができた。針葉樹なのもあり、葉が体を隠してくれるのも助かった。木々の後ろにはレンガの塀があり、それを越えるとひらけた場所になっていた。遠くに、たしかに塔のようなものが見える。足を延ばして塀に飛び乗り、音を立てないよう慎重に体を地面に下ろす。
無事に木の戸の向こうへ来ることができた。俺は走って塔に向かった。近づいてみてわかったが、塔はすごく大きかった。全体的に白く古ぼけており、窓が二つ、てっぺんに近いところにある。ところどころにツタが這っていた。ふもとまで来ると、やはり木の扉があり、鍵がかかっていた。
流石の俺も、こんなに高い塔を登るわけにはいかず、途方に暮れてしまう。せっかくここまで来たが、無駄足だったかもしれない。肩を落として、引き返そうと体を回転させると、すぐそこに人が立っていた。飛び上がるほど驚き、思わず後ろに数歩下がる。
背の高い男だった。ゆったりとした作りの、紺色の衣を着ていて、手には本を持っている。一番目を引くのは、その顔を隠すようにつけられている銀の仮面だった。
「誰だ」
低い声が問う。俺は背中を塔の外壁にぴたっとくっつけながら「お、俺の名前は藤枝蕗です」と答えた。驚きすぎて、自分が日本語を話していることにも気づかなかった。相手は当然俺の言葉がわからなかったようだが、かえってそれが良かったのか、張り詰めていた雰囲気がふっと緩んだ。
「城にきたばかりで迷ったのか? こんなところに来るな」
俺の格好をちらりと見ると「洗濯係だな」と言う。何度も必死にうなずく。彼はついて来いと言うように俺の手首を掴むと、城への戻り方を教えてくれた。おかげで、木を登らずとも西棟のはずれから容易に出入りできることに気づいた。一人で戻れるところまで俺を案内した男は、自分はそこで足を止めて「もう来るなよ」と俺の背を叩いた。
多分だが、この人がユーリ殿下だった。
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