藤枝蕗は逃げている

木村木下

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よくない夢

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 体が熱い。下半身がじんじんと痺れている。腰骨を掴んでいた大きな手が親指を腹に、残りの指を背中に当てて圧をかけながら肌を撫で上げた。ざらついた手の感触。俺の全身は汗ばんでいて、服を着ていない。ベッドにあお向けて寝転がっており、両膝は立てている。ぐっと力の入った両手で胴を掴まれているせいで、背中とシーツの間にはアーチのような空洞ができていた。
 俺の体を掴み、のしかかるようにしている人は背を丸めて屈みながらその冷ややかな唇をちょうど肋骨の下あたりに押し当てた。肌はさらりと冷たいのに、その間から漏れ出る吐息は火傷しそうに熱い。両手を彼の肩に当てて、逃れるように体を反らすと唇が薄く開き中から真っ赤な舌が出てきた。それは最初脇腹のあたりにべったりと押し当てられ、やや窪んだ広い面を使ってへそのあたりまで移動した。唾液はぬらぬらと光って、舌が離れるとすぐにひんやりとする。全身が茹りそうに熱いのに、彼の舌が舐めた部分だけが冷える。その感触は俺の背筋をぞくぞくと這い上がり、怯えさせた。目じりに涙が滲む。くすぐったいような、今すぐに暴れだしたいような感覚が腰のあたりに溜まり、肩を掴む手が震える。わけもなく首を振ると、髪がぱさぱさと音を立ててシーツを叩いた。
「フキ」
 俺の上にいる人は、胸の中央に唇を当て、背に当てた指にぐっと力を入れながら囁いた。持ち上げられるようにして、肌と唇が擦れる。いつのまにか尻までシーツから浮き上がり、俺はつま先と肩で体を支えていた。緊張を強いられた太ももがぶるぶると震える。
「感じているの? 可愛い」
 優しい声だ。喉薬のように甘い。彼は俺の胸から顔を上げると、右手を完全に背中へと回し、左手を下へ伸ばした。長い指が蛇のように動いて前腿、膝を通り、ふくらはぎの裏を撫でた。その手はふくらはぎの筋肉をぐっと掴むと、今度は足の裏を通って上へ上へと移動していく。やがて足の付け根に辿り着くと、五本の指が大きく広がり、尻を揉みこむように動く。そうされると、俺は羞恥からか燃えるように顔が赤くなって、悲しくもないのに泣いた。いつの間にか両腕はしがみつくように彼の首を抱きしめていて、長い金髪が頬や額に触れる。
 ローランさま。


 はっとして飛び起きると、隣にはローラン様が寝ていた。隣で激しく動かれたので目をつぶったまま顔を顰めて「フキ、まだ寝てなさい」と言う。確かに、夜明け前だった。
 当然ながら、俺はしっかりと服を着ていた。心臓がばくばくとうるさい。あと少しでも刺激したら弾け飛びそうなほどだ。嫌な予感を覚えながら、おそるおそるかけ布を動かして下半身を見る。思わずうめき声が漏れた。
 良くないことに、反応している。性器が布を押し上げるのは、久しぶりに見る光景だった。二十八くらいから徐々に性欲は減退しつつあると思っていたが、最近疲れて自己処理もしていないからだろうか。主人を起こさないようにそっとベッドから降り、体を冷やそうとバルコニーに出る。夜風は冷たく、外は一面真っ暗だった。音を立てないようにそっと扉を閉め、石畳の隅に座る。膝の上に両腕を組んで、さきほどの夢を思い出す。
(ローラン様だったよな)
 馬鹿になってしまった。もともとそれほど賢かったわけではないが、完全にいかれた。徐々に闇に慣れてきた目で、じっと目の前の床を睨みつける。大恩あるシェード家の若君に、夢とはいえあんな淫らな真似をさせるなんて、俺は完全にいかれてしまった。
 だが、それはローラン様がキスなんてするからなのだ。どうしてかはわからないが、とにかくキスなんてされたものだから、俺はキスが初めてだったので、体の方が勘違いしてしまった。情けなくて泣きそうだった。
 自己嫌悪に陥っていると、いつのまにか性器は落ち着きを取り戻していた。暗澹たる気持ちで部屋の中へ戻り、寝ている主人の横にそっと滑り込む。見るとローラン様は顔に手を乗せたまま寝てしまっていたので、そっとどけてやる。ついでに乱れた前髪を直すと、惚れ惚れするほど美しい顔が露になる。暗闇の中でしばらくその顔を見つめた。見つめすぎるあまり、気づけば空が白み始めて慌てて横になった。


 朝の身支度を終えると、ローラン様は侍女に向かって「そろそろ陛下にお会いしても良いよ」と言った。机の棚には王がローラン様の身を案じたり、いつ会いに行ってもよいかと機嫌を窺う内容の手紙が溢れるほど入っている。断食していた一か月間で、王や宰相が近くにいる間は水の一滴すら口にしなかったので、王と言えど気軽には会いに来れないようだった。さすがローラン様だ。お優しそうな見た目だが、いやになるほど我の強いところがある。
 侍女はローラン様の言葉を聞くと、慌てて部屋を出て行った。半刻もしないうちに廊下が騒がしくなり、慌ただしい足音と布を引きずるような音がして、扉が勢い良く開いた。
 国王だ。身丈は侍女よりやや大きく、太っていて、冠の乗った髪は豊かだが白い。赤く長いマントを身に着けている。彼は部屋に入ると、椅子に座って紅茶を飲んでいるローラン様を見て目を潤ませた。勢いよく近づいてきて、大きく広げた腕で抱き着く。ローラン様はそれをすっと避けてそつなく手を添えて王を自分の座っていた椅子に座らせた。
「お久しぶりです、陛下」
「お、おお、ローラン。やっと元気になったのだな」
 王は面食らったものの、すぐに相好を崩してローラン様に話しかけた。俺はできるだけ身を小さくして、カーテンの陰に隠れるようにしてそれを見ていた。誰に指示されたわけでもないのだが、堂々と立っているのが難しかった。よく見ると、王を守るために着いてきた騎士たちの中には、オルランドとロニーもいた。ロニーは部屋の入口に、オルランドは国王の傍に立っている。
「はい。陛下がフキを返してくれたのですっかり元気になりました」
 ローラン様はにっこりと微笑んで言った。目を細めて笑うと、涙袋がぷっくりと浮かび上がり、どこか幼く愛らしい印象だ。男らしく凛々しい眉や洗練して通った鼻筋、整った歯並びと絶妙なバランスで、異様に人を引き付ける魅力がある。
 国王も己の孫の魅力的な笑顔に一瞬目を奪われたようだった。彼はローラン様の手をしわだらけの手でそっと握ると「ああ、セレスティナ」と呟いた。
「許しておくれ、わしが分らず屋だったせいで、セレスティナは死に、お前は十六年も行方知れずだった」
「陛下のせいで?」
 ローラン様は穏やかな声で尋ねた。一瞬の朗らかな微笑みは消え、どこかひんやりとした微笑を湛えている。王は深く項垂れながら答えた。
「そうだ、わしが結婚を許していれば今頃は……」
「陛下」
 遮ったのはオルランドだった。彼は相変わらずの無表情で、眉一つ動かさず言った。
「許しも得ず発言する無礼をお許しください。恐れながら戸の外に誰かがいます」
「おお、そうじゃ、セディアスを呼んでおったんじゃ」
 王が扉を開けるように命じると、宰相であるセディアスが現れた。彼は長い銀の髪を揺らしながら部屋へ入ると、国王に向かって頭を下げ、次いでローランさまにも腰を折った。
「殿下。お元気になられたようでなによりでございます」
「ありがとう」
 ローラン様が笑って礼を言う。セディアスは切れ長の目でさっとあたりを見回すと、ちょうど俺がいるカーテンのあたりをほんの一瞬見つめて、すぐにローラン様に視線を戻した。
「城での生活にも慣れて頂けているようで、安心いたしました。最近はよく王宮の中を散歩なさっているとか」
「うん。フキを返してくれてありがとう」
 ローラン様の言葉に、セディアスが笑みを深める。彼は視線を俺の方に向けながら「殿下の従者は、優秀ですね」と誉め言葉を言った。ロニーの『ローラン様にくっついていると面倒』という言葉を思い出す。戸の方にいるロニーを見たが、彼は興味なさげに立っているだけだった。セディアスも自分から話を振っておいてすぐに興味をなくしたようで、俺から視線を外して国王へと話しかける。
「陛下、ローラン様はすっかり回復されたご様子。そろそろ話を進めても良い頃では?」
「そうじゃな、わしもそう思っておった。なにしろユーリがあんな様子なのだ。かわいそうに、最近は塔にこもってばかりで、」
「ええ陛下。お気の毒です。だからなおさら早く胸のつかえを取って差し上げなくては」
「それはわたしを王太子にしたいという話なの?」
 セディアスが不意を突かれたように、目を丸くしてローラン様の顔を見つめる。国王も驚いたようだった。ローラン様は手を背で組み、軽く首をかしげて、いたずらっぽく笑った。
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