藤枝蕗は逃げている

木村木下

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騎士から逃げろ

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 アーシャの仕事は主に星占いで、星占いには宝石を使う。宿賃替わりに薪を割ったり、掃除をしたりしていると、ちょうど彼女が外から返ってきた。口元しか見えないほど大きなローブを脱ぎ、腰を押さえながら椅子に座る。
「退治してもらえそう?」
 一番近くにある騎士団の詰め所まで、魔物の退治を頼みに行ってきたのだ。温めたミルクに彼女の好きな果実酒を小さじ三杯入れる。コップを差し出すと、アーシャは受け取りながら「だめだね」と言った。
「ここらの下っ端騎士たちには荷の勝ちすぎる相手だよ。せっついて死なれたら寝覚めが悪いしね。別の洞窟を探すしかない」
 洞窟に居ついてしまった魔物は、人を食うらしい。アーシャ曰く、大きな猫の全身に鋭い棘が無数についている魔物だという。想像するだけでこわい。
 彼女は手持ちの宝石を数えながら、別の洞窟の近くに居を移さなければならない、と話した。
「着いてくるかい?」
「え?」
 聞かれて、思わず戸惑ってしまった。気づけばもう一月も居候していたが、彼女にくっついて引っ越しまでするのは変な気がした。言葉に困っていると、彼女が白い歯を見せて笑う。
「なんだ、いつまでも居るから弟子になるつもりかと思ったよ」
 魔女の弟子になったら、いずれは魔法使いになるのだろうか? それは少し面白そうだった。考えてみれば、別にしなければならないことも、することもない。ここを出ればまた根無し草に戻るのだし、だったらアーシャと一緒にいた方が楽しいかもしれない。
 頷こうとした俺の手を、一瞬激しい痛みが襲う。見ると、鼠が指を噛んでいた。思わずにらみつけると、青いリボンを揺らしながら必死に首を振っている。アーシャは首を伸ばして俺の手元を見ると「ジョンは反対みたいだね」と言った。


 午後は窯の掃除をした。晴れていて天気が良かったので、外に出て桶に汲んだ水をかけながら窯の内側をたわしで擦る。アーシャは中で作業していたが、ひと段落すると外へ出てきて、椅子に腰かけて本を読み始めた。
「そういえばあんた、王都にいたんだってね」
 頷く。彼女が俺の個人的なことについて質問してきたのは初めてだった。
「都ではなにをしてたんだい」
「薬草を売ったり、獣の肉や毛皮を売ったりしていた」
「あんたが抱えてた赤ん坊はいくつになった」
「十六だ」
 アーシャが椅子をぎこぎこ揺らしながら「十六か、もう立派な男だね」と言う。桶の水をかけて泡を洗い流しながら、俺はローラン様について久しぶりに思い出すことを自分に許した。別れた時、彼の目線は俺と同じくらいで、手のひらは少し大きいほどだった。まだどんどん大きくなると自分で言っていたが、もう背は伸びただろうか。
「あの赤ん坊とずっと暮らしてたんだね、苦労したろう」
 苦労じゃなかった。そりゃ、奥様や旦那様が生きていれば、と考えることはたくさんあったが、ローラン様の世話を嫌だと思ったことは一度もなかった。俺は今でも、あの方を腕に抱いて揺らしながら夜を過ごしたいと思うことがある。
「苦労して育てた子を奪われるなんて、かわいそうにね」
 手が止まる。俺はアーシャを振り返った。彼女はもう本を読んでいなかった。俺をまっすぐに見つめて、微笑んでいる。
「……奪われたなんて、思ってない」
「奪われたも同然じゃないか。急に大勢で家に押し掛けてきて、身分を笠に着てあんたを追い出した。金だけ渡してさ」
「金を誰からもらったかなんて、アーシャに話してない」
「悪いね、フキ」
 椅子からゆっくり立ち上がり、アーシャが近づいてくる。足元で鼠が忙しなく鳴いている。
「詰め所に行ったら、胸に傷のある、フキって名前の黒髪の若い男を知らないかって聞かれたもんだから、正直に話したんだよ」
 彼女の視線は、俺の胸元を見ていた。ローラン様と別れた日、騎士団長だと言う男につけられた傷だ。水仕事をするから、濡れるのが嫌で上の服は脱いでいた。
 騎士団が俺を探しているのか? 戸惑ってアーシャの顔を見つめる。背後からがしゃん、という音が聞こえる。はっとして振り向くと、まだ遠くに馬に乗った騎士の姿が見えた。剣が馬具に擦れる音だ。
 迷っている暇はなかった。俺は足元にいた鼠を掴むと大釜から飛び出し、地面に置いていた服だけを持って靴を履かずに駆けだした。
 よくよく考えれば何も悪いことはしていないのだから逃げる必要もないのだが、とにかく逃げたかった。俺にとって騎士という生き物はカエルほどではないが嫌な記憶と強く結びついていて、関わりたくなかったのだ。後ろからアーシャが大きな声で「ごめんねえ、フキ! 元気でねえ!」と叫ぶ声が聞こえる。その声を受けてか、馬のいななきと、騎士たちの「いたぞ!」「逃げた、捕まえろ」と話す声がした。


 運よくここは湿地で、馬が走るのに向かない。おまけに少し行けば深い森があり、ここはほとんど俺のフィールドだと言って良かった。深い茂みに隠れ、ようやく服を身に着ける。握っていた手から落ちた鼠はまるで「つぶされるかと思った」とでもいうように肩で息をし、ぐったりしていた。桃色の舌が出ている。
 しっかりと服を着こむと、周囲を警戒しながら森を進む。半刻ほど歩くと、道は行きどまりで、奥に洞窟があるのを見つけた。経験上、こういう洞窟には近寄らないのが賢い。後戻りしようと振り向いたところで、金属のこすれる音と騎士らしき男たちの話す声が聞こえた。反射的に洞窟へ飛び込む。暗がりの中で息をひそめる。鼠はいつの間にかポケットの中に入り込み、警戒するように鼻をひくひくさせている。
(なんで俺を探しているんだろう?)
 場合によっては、逃げたりせず姿を現すべきなのかもしれない。たとえば、ローラン様が熱を出してヒナ桃蜂蜜が食べたいと言っているとか。レシピが知りたいなら、出ていくべきだろう。あの方は意外と頑健で熱を出しても一晩寝れば治るのだが、夜の間はずっとぐずって我がままを言う。俺はポケットの鼠に向かって「出て行ったほうが良いと思うか?」と聞いた。
 その時だった。不意に、後ろになにか大きな気配を感じる。自分以外の、なにか大きな存在が息を吸って、吐く音。生温かく、湿った空気。全身が強張る。ポケットの中の鼠が、何を見たのか「チュー!」と絶叫した。
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