藤枝蕗は逃げている

木村木下

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魔女の家

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 俺は旅に出た。ローラン様と離れ、ひとりになったばかりの時は自分が何をしたらいいのかわからず、宙に放り出されたような気分だったが、すぐにするべきことを思い出したのだ。
 アーシャだ。かつて、王都へ逃げる道でローラン様に乳をくれた女。彼女にまだ恩を返していない。宿屋の女将と大家に金貨を十枚ずつ置いてきたので、手元には三十枚の金貨がある。これをアーシャに届けよう。
 当然、旅はひとりでするつもりだった。が、荷馬車の後ろに乗せてもらうと、不意に横になにか小さなものがいることに気づいた。見ると、それはネズミだった。灰色の毛皮に、小さな桃色の手足。首には青く光沢のあるリボンが巻かれている。ローラン様の友だ。鼠の見分けがつかない俺のために「青いのがジョンだよ」と目印をつけてくれたのだった。
 俺は眉を寄せ、鼠に向かって「おい、着いてくるのはやめろ」と言った。人目を気にして小声だった。が、鼠は俺に向かってチューチュー鳴く。後ろ足で立ち、前足をしきりに動かしている。なにかを伝えようとしているのだろうとしばらく見守ったが、何を伝えようとしているのかは全く分からなかった。
 その時点で、王都まで大人の足で一日ほどの距離に来ていた。放っておいたら、家に帰りつくまでにこの小さな獣の一生は終わってしまうかもしれない。ローラン様の友人を見捨てられない。俺は仕方なくこの鼠をつまみ上げ、外套のフードの中に放り込んだ。
 十六年前にあった女の行方を探すのは、骨が折れた。俺は彼女と別れた場所を正確に記憶していて、そこで手あたり次第、虱潰しにアーシャの行方を聞いて回ったが、十六年前にいた赤毛の女など、誰も覚えていなかった。
 意気消沈しつつ、その日の宿を取り手続きをしていると、宿の主人が思い出したように言った。
「そういえば、魔女がここへ来たのもそれくらいだったな」
「魔女?」
 男が頷く。恰幅がよく、顎にも肉がついているので、顔を動かすと連動して肉が揺れた。
「ああ。この村から少し離れたところに湿地があるんだが、ちょうどそれくらい前から女が居ついていて、妙な術を使うんで魔女って呼ばれてる」
 彼は「魔女なら何かわかるかもしれないな」と言った。話を聞くと、彼は魔女が十日後の天気まで分かると思っているらしい。俺は頷き、前払いの料金を払った。
 冬の旅は厳しかったが、つらくはなかった。俺は桶いっぱいの湯をもらい体を簡単に拭くと、冷めないうちに毛布にくるまって目をつむった。鼠はチューチュー言いながら俺の服を引っ張ったり、毛布をつついたりして騒がしかったが、無視すると諦めたのか静かになった。
 王都からは何も持ってこなかった。気がかりと言えば買いだめしていたムラサキ豆をはじめとする食糧だが、あの騎士たちがなんとかするだろう。ローラン様も食べ物を粗末にするかたではないので、心配しないことにした。寝ようとすると、決まって思い出すのはローラン様の声だった。旅に行こうと俺を誘う声。もう二度と聞けないのだろうか。考えるとつらくなるので、目を強く瞑った。


 次の日、さっそく魔女の家を訪ねることにした。ローブを着込んで宿を出ると、外は雪が降っていた。獣は裸足なので、雪を歩くのはつらかろうとフードに放り込んでおく。しばらくもぞもぞ暴れていたが、ややするとちょうどよい場所を見つけたのか動かなくなった。
 宿屋の主人に教えてもらった道のりを、湿地に向かって歩を進める。しばらくすると、教えられたとおりにレンガ造りの洋館があるのが見えた。玄関に立ち、ベルを鳴らす。戸が開くのを待っていると、どこからかしゃがれた声が「入りな」と聞こえてきて、錠の落ちる音がした。
 屋敷の中は暖かかった。窓は少なく、雪なのもあり薄暗いが部屋は蠟燭の火で照らされている。入ってすぐのところに大きな暖炉があり、暖炉の前にある椅子に、女が座っていた。俺は目を丸くして「アーシャ」と彼女の名を呼んだ。その燃えるような美しい赤毛を見間違えるわけがなかった。
 アーシャは俺を覚えていなかったのか、怪訝な顔をしていたが「十六年前、赤子に乳をもらった」と説明すると合点がいったようで、表情をほころばせた。俺は彼女に近寄り頭を下げた。
「あの時はありがとう。遅くなったけど、お礼をしに来た。受け取ってほしい」
 胸元から朱色の財嚢を出し、彼女に渡す。彼女は記憶よりやや皴の増えた手で受け取ると、中を見て「まあ、随分な大金じゃないか」と言った。
「十六年も前にただ赤子に乳をのませてやっただけの女に、こんな金を渡すのかい?」
「うん」
 俺は頷いた。
「すごく有難かったから、ずっとお礼がしたいと思っていた。渡せてうれしい」
 アーシャは俺を椅子に座らせると、温めたヤギの乳を飲ませてくれた。大きな砂糖を三つも入れたので、すごく甘い。向き合ってみると、会ったときは若くはつらつとした雰囲気だった彼女は、十六年の時を経て落ち着いた女性になっていた。赤毛を一つに編み込み、ゆったりとした黒のドレスを身にまとっている。俺は彼女に「あなたは魔女なのか?」と聞いた。アーシャがコップから口をはなしておかしそうに笑う。
「わたしが魔女かって? 面と向かって聞かれたのは初めてね。ええ、そうよ。魔女なの」
「魔方陣を描いて、魔物を呼んだりするの?」
 かつて戦った巨大なカエルを思い出しながら聞く。アーシャは弾けるように笑って首を振った。
「まさか! そんなことはしない。私がするのは、薬を作ったり、占ったりすることだけ」
 そうなのか。魔女の作る薬には興味があった。俺が質問すると、彼女は薬に使うと言うヤモリの足や、ムカデの心臓、乾燥させたオオウシガエルの舌を見せてくれた。擂り潰し粉末状にして使うらしい。絶対に飲みたくない。
 アーシャと話すのは楽しかった。時間があっという間に過ぎ、彼女は俺に夕飯をごちそうしてくれた。出てきた豆のスープを、懐かしい気持ちで食べた。彼女の家は居心地が良くて、おまけに俺は特に何の予定もあるわけではなかったので、気づけば一週間も過ぎていた。
 その朝目を覚ますと、いつもは大釜でなにかを煮ているアーシャが、台所で困った顔をしていた。俺はいつも通り顔を洗ってから一階におり、鼠をポケットに放り込んでアーシャに朝の挨拶をした。
「おはよう、アーシャ」
「フキ、おはようさん。ああ、困ったね」
「どうしたの?」
 聞きながら、勝手知ったる他人の家で棚から乾燥ムラサキ豆を出しヤギの乳をかける。ローラン様が忌み嫌う食べ物のうちの一つだが、俺は簡単で気に入っていた。
 アーシャは額に手を当てて首を振ると「いつも宝石を掘りに行く洞窟に、出たんだよ」と言った。
「何が出たの?」
「魔物さ。チオンジー。人を食う、厄介なやつだよ。ああ、困ったね。仕事にならない」
 彼女は大きくため息をついて、椅子に座った。
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