藤枝蕗は逃げている

木村木下

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幽霊の花屋敷

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 十六になったローラン様の口癖は「もう子供じゃない」だった。十六歳と言えば、街では店を本格的に手伝い始めたり、貴族であれば家督を相続できる年齢だ。だが、俺にとってはまだ子供だ。ローラン様はすくすくとお育ちになり、身丈だけで言えば俺とほぼ同じまで大きくなったが、相変わらずムラサキ豆が苦手だし、放っておくといつまでも風呂に入って出てこない。そもそも、ローラン様には手伝う店も、継ぐべき家督もないのだから十六だろうと二十六だろうと子供で良いのでは? という屁理屈は、あのお美しい顔で睨まれるととても言えなかった。
「旦那様と奥様がいらっしゃれば、ローラン様も今頃お家を継いでいらっしゃる立場です」
 そう考えれば、彼が子ども扱いを嫌がるのも納得だった。ローラン様の外套を繕っていた手を止め、さみしい思いで主人の顔を見つめる。彼は暖炉の傍に座り、ちょうど薪を足そうとしていたところだった。何本かの新しい薪を火の中へ放ると、俺の傍へきて椅子に座る。高貴な生まれの方だが、片足を胡坐のように組み、もう片方の足は投げ出すようにしている。俺が育てたからかもしれない。
 ローラン様の手が俺の手をぎゅっと握る。いつの間にか、手は俺と同じほど大きくなっていた。薪割だって洗濯だってご自分でやるので、皮膚は厚く、ざらざらしている。
「ムラサキ豆はお食べにならないけど……」
「食べるさ! フキがわたしを一人前だと認めてくれるならね」
 明るく言って、彼の腕がぎゅっと肩を抱き寄せてくる。固く弾力のある若者の胸に頬があたり、俺は(主人は本当に大きくなったのだ)と思った。考えてみれば、十六年という歳月は確かに長いようだった。俺は今年で三十一になる。
 俺の手から自分の外套を奪い、すいすいと針を動かして素早く繕ってしまうと、ローラン様は「冬が明けたら旅に行こう」と笑った。
「旅?」
「うん。王都以外のところへ行ってもいいだろう。フキもおいで」
 頷く。旅はどれくらいかかるだろう、三日以上かかるなら、家にある食べ物を片付けておかなくてはいけない。この十六年、彼の安全に神経質になるあまり、絶対にひとりで森の外へは出さなかった。ローラン様はお愛想で俺を誘っただけで、おひとりで自由を満喫したいのではないかとも思ったが、絶対についていくと心に決める。嫌がられようと、必ず行く。
 不穏な決意も知らず、ローラン様は「この国の西には海があるのだって。お前は見たことがあるかな」と聞いた。日本では毎年潮干狩りに行っていたので頷こうとして、首を横に振る。海が日本と同じなのか、知らなかった。


 俺が認めようと認めまいと、ローラン様が十六歳になったことは彼の周囲に大きな影響を与えた。一番顕著なのは年頃の娘たちとその親だった。彼らはたとえ今までローラン様を知らなかったとしても、道でみかけるやいなや熱に浮かされたような顔をして良い仲の娘はもういるのか、いないなら自分はどうだ、あるいは自分の娘はどうだと声をかけてくる。ローラン様は一人ひとり丁寧にまだ結婚は考えていないのだと説明しているが、俺はもう求婚お断りの札を掲げて歩きたい気分だった。
 が、彼らの気持ちもわかる。ローラン様はめちゃくちゃに美しかったからだ。もともと愛らしい顔立ちをしていらっしゃったが、十二になるころには道行く人々の目を奪い、十六となった今はすれ違った人間の心という心を奪っている。彼の金髪が風に揺れて、あの青い目が笑みの形に細まるだけで倒れる人間もいる。俺の主人は気軽に笑ってはいけないほど美しかった。
 最近では袖を引かれて橋を渡るのに四半刻も半刻もかかると不便そうな顔をされるが、王都に行くときは必ず着いてきた。彼は人が好きで、特に花屋のマリーや、粉屋のローズ、宝石店のエディと話すのは楽しいようだ。三人とも既に婿を得たり、嫁に行っているが、俺やローラン様をみかけると必ず声をかけてくれる。ローラン様がご自分から声をおかけになる女はこの三人だけだった。
「やあローズ、元気かい? 髪を切ったんだね。すごく綺麗だ」
「ご機嫌ようマリー。ああ、赤ちゃんがいるのに重いものをもったら駄目だろう。貸して」
「エディ、こんにちは。わあ、そのブローチすごく似合ってるよ」
 これは挨拶の一例だが、これだけでいかに俺の主人が優しく、魅力的かわかるだろう。俺にはとても出来ない会話だ。余談だが、俺の教科書に書いてあるような言い回しは母親になった彼女たちに好評で「こどもたちとたくさん話してほしいわ」と言われていた。今年で五つになるマリーの三男はローラン様より俺に魅力を感じている数少ない人間で、俺が来ると必ず抱っこをねだる。こどもは可愛いので好きだ。
「ローラン、あなた商会長のお茶会に招待されたって本当? あの人ったら、もうあなたが自分の婿になったように話していたわよ」
 と教えてくれたのはエディだ。俺はおどろき、勝手な商会長に怒った顔をすべきか、ローラン様の顔を見るべきかわからず、結局主人の顔を見た。ローラン様は少し目を丸くしたものの、すぐに笑みを浮かべて足元にまとわりついているエディの娘たちのうち、一番幼い子を抱えた。
「お茶会には誘われても行かないようにしているんだ。フキの入れてくれるお茶が一番好きだから」
「ろーらん、しゅき」
 ローラン様は突然の告白にも動じなかった。しがみついて離れようとしない女児を母親に引き渡すと、また来ると言って宝石店を出る。俺は持ってきていた花をエディの娘たちの髪に一輪ずつ挿して主人を追いかけた。
 ローラン様と共に街を歩いていると、いつも新しい発見があり、すごく楽しい。彼は露店に足をとめてみたこともない飾りについて店主と話をしたり、食べたことのない果物を買って俺に分けてくれたりした。彼と俺は生計を共にしているはずなのだが、ローラン様が十五になった頃から急に、彼はどこからか驚くほどの金を持ってきたりした。不思議なので観察しているのだが、確かに街の人間は俺からは二エーカーで買う果物をローラン様が売ると十エーカーで買ったりする。
 俺が非常に栄養価が高く、調理が簡単で安価なムラサキ豆を手に取った時だった。何度か話したことのある店の娘が、ローラン様に話しかけた。
「ねえローラン、花屋敷の幽霊のことはもう聞いた?」
「幽霊?」
「うん。夜に行くと、枯れているはずの花が咲いていて、屋敷の中に女の幽霊がいるんですって。ねえ、一緒に行ってみない? きっと面白いわ」
 夜間の外出なんて絶対に駄目だと横から口を挟もうとしたが、すんでのところで彼を子ども扱いするのをやめると言ったことを思い出し、口を噤む。店の娘も鋭い眼光で余計なことを言うなと俺を睨んでいた。
 ローラン様は幽霊という言葉には興味をひかれたようだったが、結局娘の話は断り、俺が買おうとしていたムラサキ豆を半分に減らした。この豆は滋養強壮によく、冬に食べると体が暖かくて良いのに、煮ても蒸してもパサパサする触感が嫌いなのだ。が、本当に健康に良いのでどうしても食べてほしかった。
 ローラン様が幽霊見物に行こうと俺を誘ったのは、その日の夜だった。まだ日が沈み始めたばかりの時間で、俺は思わず主人の美しい顔から窓の外へと視線をうつす。これは根拠のない考えだが、幽霊とは夜に会うより、昼に会った方が良いのではないか?
「あのこが言っていただろう、花が咲くのは夜だけなんだって。昼に見たことがあるけど、枯れている花が全部咲いているとしたらとても綺麗だよ。中には入らずに、花だけ見て帰って来よう」
「でも……」
 豆を煮ながら、俺は渋った。幽霊なんていないと思うが、それとは別にして怖いか怖くないかで言ったら、怖い。万が一幽霊がいたとして、ローラン様をお守りする自信がない。
「大丈夫。もし幽霊が出てきても、わたしがフキを守ってあげる」
 ローラン様はそう言って俺の腰を抱き寄せたが、全く安心できなかった。
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